聖女は魔人の村に帰りたい
ななつき
第1章 おわりとはじまり
第1話 魔人の出現
ドっと何かが噴き出す音と共に地響きがした。同時に普段の雨より細かい水が少女リゼットの体を濡らす。リゼットは、丸みのある栗色の髪を揺らしながら音のした後方へ振り返った。
――見つけた。
リゼットの頭に声が響いた。そして視界とは別の景色が直接叩き込まれる。膜がはったようにぼやけているが、周りに水と青く光る花があるのだけはわかった。
「な、に……」
頭の痛みにこめかみへ手を当てたところで、謎の景色は消えた。
それが何だったのか考える前に、リゼットは目の前の異変に意識を奪われた。
稲穂の向こう側に立ち並ぶクリーム色の建物たち。そのさらに向こう側に水の柱があった。しばらくバシャバシャとオレンジの屋根や建物の合間に見える赤く色づいた木々を濡らしたかと思うと、何もなかったかのようにそれは消え去った。
水滴が落ちる小さな音だけが残り、リゼットは息をのんだ。
次の瞬間。
「うがああああああああ!」
青からオレンジへと移り変わろうとしている空に叫び声が広がった。それは一つではなく。何度も何度も。そして長く響いた。
「なに……?」
リゼットは濡れた服の胸元をぎゅっと握り締め、辺りの様子をうかがった。そして、さらなる異変に気が付く。
じわじわと草花が生えだし、裸になっていた木々が青々とした葉を見せはじめていたのである。
「聖水……?」
まけば緑に包まれる水など、リゼットは聖水以外で聞いたことがなかった。しかし、聖水は貴重な物だ。このように大量な聖水が噴き出すなど信じられるものでもない。右足を上げたり左足を上げたりして、足元から芽吹く異変にうろたえることしかできなかった。
少しして緑の成長が止まったことで、ようやくリゼットは顔を上げた。
建物自体は異変がなかった。ポタポタと水滴が落ちる以外は、いつも通りの建物が並んでいる。距離がある上、建物に目隠しされているために人々の様子はわからない。
次は後ろを見た。建物が立ち並んでいる方が小高くなっているために遠くまでよく見える。見渡す限りの稲穂が揺れるのに合わせて水滴がきらめいていた。穂が垂れ下がっており、そろそろ刈り取りの時期なのだと感じさせる。この稲穂たちの間には、たまに思い出したように建物がある。稲穂たちを区切る道は本来茶色い土と石が転がっているだけだったが、今は緑のカーペットを敷いたようになっている。
呆然とその様子を見ていたリゼットは、木の陰から何かが現れたのを見つけた。
それは今にも倒れそうなほどゆらゆらとした動きでリゼットの方へ向かって歩いてくる。逆光でどのような姿をしているのか詳細にはわからないからこその不気味さに、リゼットは思わず1歩後ずさった。
逃げる。その選択肢を浮かべられるほどの余裕はない。バクバクと鳴り響く心臓を押さえるように一層強く服を握り締め、怪しい影の主をただ見つめることしかできずにいた。
近づく影は徐々にその正体を現していく。
リゼットに向かって延ばされた手。それは黒くゴツゴツしていた。人間の服を着てはいるが、破けている程に体が膨れている。全身が黒く所々ただれていて、目は赤く髪が白い。そして、頬に大きな傷があった。
リゼットは、そのような姿の存在を知っていた。知っていたが、見たのははじめてだった。実在するとは聞いていた。新聞で読んだこともある。写真も見た。学校でも習った。だが、自分の人生で関わることになるとはまったく思っていなかった。
近づいてくるそれは、魔人だった。
――神の力が宿る聖水は大地に恵みを与え、善なる者に力を与える。そして、神に見捨てられし罪ある者の正体を暴くだろう。罪ある者は人ではない。神に
聖書に書かれている一文をリゼットは思い出していた。
聖書通りなら、目の前にいる魔人は罪のある者だということだ。けれど、それを信じることがリゼットにはできなくなっていた。
「クリストフおじさん……」
その魔人の顔は、黒く硬化していても見覚えのあるものだった。
学校へ行くとき、帰るとき、声をかけてくれる隣の家のおじさんの顔だ。頬の傷は、幼い頃に農具を倒して付いたものだとリゼットはかつて教えてもらった。目の横にたくさんしわを作って笑う人で、リゼットが学校帰りに泣いていたとき、心配して頭をなでてくれた。優しい人だった。
リゼットは信じられず、何を口に出せばいいのか、何をすればいいのか、何も浮かばなかった。頭の中は真っ白だ。
「リゼット!!!」
そう名を呼ばれてはじめて父親が近くまで来ていることに気が付いた。
リゼットの父、クレールは走る勢いのまま魔人を蹴り飛ばす。
「がはっ」
魔人はそのまま倒れ込み、うずくまる。
その様子をチラリとも見ず、クレールはかがみこむとリゼットに向かって手を広げた。
「パパ!」
その姿にリゼットは心底安心し、スカートがまくれ上がるのも気にせずクレールの腕に飛び込んだ。
「無事で良かった」
クレールは、ぎゅっとリゼットを抱きしめた。その瞬間だった。
「うぐっ!?」
クレールの手が、頬が、黒に染まっていく。小刻みに震えるのに合わせるかのように、色はどんどん浸食していく。
「パパ……?」
クレールの胸の中にいるリゼットには、何が起きているのかがわからない。父親の体が震え、息が荒くなっていくのが伝わってくるのみだった。
リゼットは、強くなってきた抱きしめる力に痛みを覚え、顔を歪めた。
「ねえ、どうしたの? パパ? ねえ、パパ?」
返事はない。
代わりに、痛みが消えた。クレールは震える手をゆっくりと開き、リゼットの肩に手を置くと手を伸ばし距離をとった。
そこではじめてリゼットはクレールの黒く染まった顔を見た。リゼットとおそろいだったはずの茶色い髪も白に染まっている。赤い瞳は苦しそうに細められている。
「っ!」
リゼットは、緑色の瞳が落ちそうなほど目を見開いた。
「リ、ゼット……逃げなさい……」
そっと、リゼットの肩が押される。よろよろと、押された速度を維持したままリゼットは後ろへ足を動かした。
クレールはリゼットを見つめたま地面に両膝左肘の順につき、右手で土をえぐった。その姿に何か声をかけたいと思いながらも、リゼットは首を横に振る。そこからさらに3歩ほど後ずさったところで、横で倒れていた魔人が起き上がろうとしているのが視界に入り、ついに後ろを振り返って駆けだそうとした。
しかし、立ち並ぶ建物の隙間からも別の魔人が近づいてきているのが見えてしまった。1人ではない。何人なのかもわからない。力なく歩いている者が多いが、確かな足取りで近づいてきている者もいる。
リゼットは、顔を後ろに向けると改めて自分の父親が地面へ沈む姿を緑色の瞳に映した。その姿を閉じ込めるように両目をぎゅっと強くつむると、次に目を開いた瞬間には右手に広がる稲穂の海へ飛び込んでいた。
稲をかき分け、葉が腕と頬に細長い傷を刻むのも気にせず、走る。転びそうになっても止まらない。ただひたすらに走る。しばらくして呼吸音がひゅうひゅうと嫌な音を立てはじめたが、それでも止まらなかった。
いくつの稲穂の海を越えた頃だろうか。川が見えた。村の境界を流れる川だ。これを越えれば村の外だ。
この頃にはリゼットの足は重くなり走れなくなっていた。
それでも必死に足を動かし、橋までたどり着く。
橋に手を置き、荒く息を吐きながら後ろを振り返ると、稲穂が風以外で揺れるのが確認できる。魔人は変わらずリゼットに近づいてきていた。ただ、魔人は走ってはいないのか、明確に姿が確認できる距離にいる様子はなかった。
しかし、すでにリゼットの体力は限界だった。足がガクガクと震え、これ以上走れない。歩くことすらも怪しい状態だ。
リゼットは、震える足を必死に動かしながら、橋を支えにして川の方へ下りていく。そして、橋の下に潜り込んだ。リゼットがまだ子どもで小柄だったからできたことだ。膝を抱えて座り込む程度の幅と高さしかない空間で、スカートはじんわりと湿った土と川の水で水分を含んでいく。
快適とはほど遠い空間だったが、伸び切った草でリゼットを隠してはくれた。
「パパ……ママ……」
すぐ怒る上の兄。それを困ったように見る下の兄。優しく勉強を教えてくれる姉に、上の兄に泣かされればリゼットを慰め兄を
もう誰にも会えないのだろうか。そんな予感に耐えるように、リゼットはぎゅっと膝を抱きしめた。
しばらくそうしていると少しずつ呼吸が整っていき、リゼットのまばたきが緩慢な動きになっていく。目を閉じている時間の方が長くなっていき、そして、開かなくなった。
◇
次にリゼットが目を開いたとき、辺りは暗くなっていた。目を開いたのは叫び声と銃の音が響いたからだ。
リゼットには何が起きているのかわからず、息を潜めながら耳を澄ませた。
発砲音とうめき声がしばらく続く。それらが消えると、ガツガツと橋の上を歩く音と会話が聞こえてきた。
「随分と多いな……」
「ああ。村人全員を裁判にかけろなんてどういうことかと思ったが……」
バチャッと水を蹴飛ばす音。
「この調子が続くなら、村人全員が魔人で処刑対象とかありえ」
会話をかき消すように銃声が鳴り響き、うめき声の後に水が叩き落ちる音がした。
「ムダ口を叩いていないで警戒しろ。まだまだ魔人はいるんだぞ。それに、変異していない村人に聞かれたらどうする気だ?」
低く這うような声に、びくっとリゼットの体が跳ねる。まさに、その村人がリゼットである。ここにいるのがバレてしまうと殺されるのではという予感に心が占められ、体が震えだした。息も荒くなっていく。
「「申し訳ありません」」
カッと足をそろえる音が響く。
「以降気を付けるように。行くぞ」
「「はい」」
少し速い速度の足音が複数響いた後、扉を開けて閉める音がした。続いて鳴ったエンジン音は水が跳ねる音と共に頭上を走り、そして遠ざかっていった。
静寂が訪れ、少ししてからリゼットは体の力を緩める。
少なくとも、あの男たちが魔人を倒したのは間違いない。この辺りは安全になっただろうと橋の下から這い出るためにリゼットは足に力を入れた。
「あ……」
リゼット自身が思っていた以上に、彼女の筋力は落ちていた。
ずるっと滑った足が川に引きずり込まれる。水流に逆らえる程の力もない。大きな声を上げる間もなく、ドポンと音を立ててリゼットは川に吸い込まれていった。
端から見て溺れているのだと気付けないほど静かに、リゼットは流されて見えなくなった。
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