煌太郎と秋

 神崎煌太郎はひどく上機嫌だった。本人は少しも気が付いていなかったが。彼の学友である黄金浦柊人はしっかり気が付いていて、若干若気にやけながら彼を女学校の婚約者の元へ送り出した。

 ただ、それはりん子と春乃に会うより前のことであったのだ。

 現在の煌太郎の機嫌は氷点下まで落ちている。原因は他でもない、りん子の後輩の若草春乃だ。

 彼女のせいで煌太郎が自身では気が付かない程楽しみにしていた、りん子と放課後に出掛ける予定は呆気あっけなく崩れ去ったのだから。勿論何の断りも無しにりん子を誘った自分が悪かったことも理解している。ただ、心の何処かではりん子は煌太郎を優先すると信じていたのだった。

 彼女は何時いつも煌太郎を気にしてくれるから。それが当たり前のように錯覚していたのだ、煌太郎は。だからりん子が春乃と共に放課後を過ごすと決めたとき、僅かに落胆した。

 りん子と出掛ける積もりだったので、今更高等学校に戻ってもやることは無い。一層いっその事自分の家に帰ってしまおうか。だが煌太郎の足は自然と高等学校へと向かっていた。


「おや、どうしたんだい神崎。随分と早いお帰りじゃないか」

五月蝿うるさい」


 研究棟にある自らの研究室に入り、机の上に鞄をドサッと音を立てて置く。それだけで柊人は何かを察したのか「怖い怖い」と呟きながらも、興味津々な顔を見せた。


「で?何があったんだい。予定ではりん子ちゃんと幾つか店を見るはずだったろ」

「……取られた」

「取られた??」


 煌太郎はちらりと柊人を見るとそのまま小さく溜め息を吐いた。


「君も知ってるだろ。若草春乃くん。彼女が先約を取っていたんだ」


 柊人はほんの少し考えてから合点がいった表情をする。榊瑠璃羽大切な婚約者の後輩だ。


「成程なぁ。それで神崎はのこのこ帰ってきたという訳か」

「五月蝿い」


 本日二回目の「五月蝿い」である。煌太郎の機嫌は余程のことがなければ直らないだろう。それこそりん子からの何かがなければ。

 先程煌太郎が呟いた。それは一体何を指しているのだろうか。約束か、それとも婚約者りん子か―――。

 残念ながらその真意は柊人にも分からず、彼は苦笑いしながら口を開いた。


「りん子ちゃんの誕生日、もうそろそろだろ?贈り物は用意したかい」


 その言葉だけで柊人の考えを理解した煌太郎は、先程から持ち主の苛つきを表すようにして物凄い速度で机を叩いていた、白く長い人差し指を止める。立ち上がって荷物を持つと颯々さっさと部屋を出ていってしまった。


「おやおや。神崎も遂にりん子ちゃんへの恋心を認めるのかな」


 くすくす笑いながら柊人は帰宅の準備を始める。初々しい煌太郎を眺めていると無性に瑠璃羽に逢いたくなった。まあ、あの煌太郎を初々しい等という可愛らしい言葉で表現して良いか微妙なところではあるが。





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 煌太郎は乗り合い馬車に乗っていた。自分の家の馬車を呼んでも良かったが、少し時間がかかるためめたのだ。

 馬車に揺られながら煌太郎は考える。りん子の誕生日に相応ふさわしい物はなんだろう。本は必須だ。彼女はこういったときには毎回控え目に本を強請ねだる。あとは何が良いだろうか?りん子はあまり高かったり、不必要にゴテゴテと飾り立てられた物を欲しがらないから探すなら大衆向けの店でするべきだ。

 そんなことをつらつらと思考していると馬車が動きを止めた。煌太郎は降りて直ぐに本屋へ足を運ぶ。

 先ず小説のコーナーへ行き、宮嶋七斗みやしまななとの文字を見付ける。りん子が幼い頃から贔屓にしている作家だからこそ、新刊は彼女自身の手で手に入れたいだろう。それにりん子の宮嶋七斗好きは親しい者の間では有名なことなので誰か他の人間と被る可能性もある。煌太郎の中の選択肢から彼の本が消えるのは必然だった。

 次に煌太郎は自分がよく読む書物が並べられている棚の前に立った。りん子の好む物語性が強い物ではなく少し学術的な内容が入ってくる物。彼女が気に入るか分からないが、煌太郎はそれを贈りたかった。何故そうしたかったのかは知らなかったが。

 本屋を出た煌太郎は近場の雑貨屋を覗いた。どうせなら一つだけではなく、煌太郎の気が済むまで贈り物を買ってしまおうとさえ思っていたのだ。何を探す訳でも無く、ただふらふらと店内を見ていると栞が並んでいるのが目に入った。薄い金属板に細かく細工がされている物で、上部にある小さな穴に細いリボンが通っていた。赤、青、若葉色、山吹色等様々な色合いのリボンがある中で煌太郎は紫のリボンが通っている物を選び出す。

 紫はりん子の色だ。秋生まれのりん子の名前は竜胆りんどうから来ている。彼女の家の庭はこの時期沢山の竜胆で溢れかえっているのだ。紫色の絨毯が出来上がる様はそれはそれは壮観だった。きっと彼女も紫のリボンの意味に気が付くだろうと思い、煌太郎は栞を購入した。

 栞は本に挟む物だ。りん子の大好きな本に。本は常に彼女の手の中にあり、その中には常に栞が挟まれている。栞によってりん子は何時いつだって煌太郎の存在を思い出せるのだ。それは煌太郎にとって酷く素晴らしいことの様に感じられた。

 そこまで考えて、煌太郎はふと思った。

 何故?何故自分は先程からりん子に自分を思い出してほしいと、自分を知ってほしいと考える??


 ――貴女の笑顔が見たいのです。


 頭に浮かんだそれは最近弟の奏次郎が矢鱈と読ませてくる恋愛小説の一文。煌太郎が手に取ることはほぼ無い恋愛物を読ませる意図が全く分からなかったが、奏次郎のためならということで渋々読んでいたのだ。

 笑顔が、見たい。

 煌太郎が今まで書物や筆記具、家族への贈り物にしか使ってこなかった金銭を、婚約者のために使うようになったのは夏祭りが終わった辺りからだ。気紛きまぐれに射的で取った簪を、日頃の感謝を含めて隣にいたりん子にあげた。そうしたら彼女がとても綺麗な笑顔を見せたのだ。それはふうわりと空気に溶けるような優しげな笑みだった。

 煌太郎はそれ見たさに何度も何度も物を贈った。だが、あのほどける微笑みを見ることは叶わず、疑問と軽い恐怖を含んだものしか見られなかったため贈る回数は増すばかりだったのだ。りん子の笑顔が見たい。ただその一心で煌太郎は彼女に様々な物を贈っていたのだった。

 あの小説で笑顔が見たいと告白した男はその後何を思ったのだったか。その類いまれな頭脳をってしても興味の無い事を思い出すのには多少の時間がかかった。人気ひとけの無い橋の上から川を眺めながら記憶をさらう。何だったろうか。たしか……。

 ――君が……。

 そう、君が。


「君が……好き……」


 耳に聴こえた声が自分の物だと思い当たるのに随分時間を要した。それを自覚した瞬間、煌太郎の心臓がどくりと一度大きな音を立てる。


 今、に誰を当てはめた?


 煌太郎と彼女は婚約している。だからこれが報われない恋という訳ではない。煌太郎の気持ちが酷く揺れたのは自分が恋をしているという事象に驚いたのだ。

 認めてしまえば簡単なことだった。煌太郎の心が誰かに、執着と言ってもいい程囚われるのはりん子が初めてだったのだから。


「嗚呼、成程。そうか、そういう事だったのか」


 笑いを含んだ声でそう溢す。そうして何もかも合点がいった。

 今日りん子が髪を飾っていた幅広リボン。りん子は煌太郎があげた簪を一度も使ったことがないのだ。勿論煌太郎の知る範囲での話ではあるが。兎に角、婚約者から貰った物ではなくて知らない誰かからの物を身に付ける彼女に本の少しだけ苛ついた。そのリボンが貰った物なのかどうかは何も知らなかったが、そんなことはどうでも良かった。

 それにそうだ、あの猫。りん子が九歳の頃に拾った黒猫。煌太郎はなんとなく彼が嫌いだった。今ではその理由がしっかり分かっている。そもそも彼奴あいつはりん子と同じ秋を冠する名前を持っているのだ。しかもりん子が名付け親。腹立たしいことこの上ない。

 すっきりした煌太郎は数刻前よりも随分と明るい気持ちで顔を上げた。ある意味では春乃に感謝しなくてはならない。この気持ちに気付くことが出来たのだから。


 煌太郎は満たされた気持ちで歩き出した。

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