煌太郎と秋
神崎煌太郎はひどく上機嫌だった。本人は少しも気が付いていなかったが。彼の学友である黄金浦柊人はしっかり気が付いていて、若干
ただ、それはりん子と春乃に会うより前のことであったのだ。
現在の煌太郎の機嫌は氷点下まで落ちている。原因は他でもない、りん子の後輩の若草春乃だ。
彼女のせいで煌太郎が自身では気が付かない程楽しみにしていた、りん子と放課後に出掛ける予定は
彼女は
りん子と出掛ける積もりだったので、今更高等学校に戻ってもやることは無い。
「おや、どうしたんだい神崎。随分と早いお帰りじゃないか」
「
研究棟にある自らの研究室に入り、机の上に鞄をドサッと音を立てて置く。それだけで柊人は何かを察したのか「怖い怖い」と呟きながらも、興味津々な顔を見せた。
「で?何があったんだい。予定ではりん子ちゃんと幾つか店を見るはずだったろ」
「……取られた」
「取られた??」
煌太郎はちらりと柊人を見るとそのまま小さく溜め息を吐いた。
「君も知ってるだろ。若草春乃くん。彼女が先約を取っていたんだ」
柊人は
「成程なぁ。それで神崎はのこのこ帰ってきたという訳か」
「五月蝿い」
本日二回目の「五月蝿い」である。煌太郎の機嫌は余程のことがなければ直らないだろう。それこそりん子からの何かがなければ。
先程煌太郎が呟いた取られた。それは一体何を指しているのだろうか。約束か、それとも
残念ながらその真意は柊人にも分からず、彼は苦笑いしながら口を開いた。
「りん子ちゃんの誕生日、もうそろそろだろ?贈り物は用意したかい」
その言葉だけで柊人の考えを理解した煌太郎は、先程から持ち主の苛つきを表すようにして物凄い速度で机を叩いていた、白く長い人差し指を止める。立ち上がって荷物を持つと
「おやおや。神崎も遂にりん子ちゃんへの恋心を認めるのかな」
くすくす笑いながら柊人は帰宅の準備を始める。初々しい煌太郎を眺めていると無性に瑠璃羽に逢いたくなった。まあ、あの煌太郎を初々しい等という可愛らしい言葉で表現して良いか微妙なところではあるが。
▼
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煌太郎は乗り合い馬車に乗っていた。自分の家の馬車を呼んでも良かったが、少し時間がかかるため
馬車に揺られながら煌太郎は考える。りん子の誕生日に
そんなことをつらつらと思考していると馬車が動きを止めた。煌太郎は降りて直ぐに本屋へ足を運ぶ。
先ず小説のコーナーへ行き、
次に煌太郎は自分がよく読む書物が並べられている棚の前に立った。りん子の好む物語性が強い物ではなく少し学術的な内容が入ってくる物。彼女が気に入るか分からないが、煌太郎はそれを贈りたかった。何故そうしたかったのかは知らなかったが。
本屋を出た煌太郎は近場の雑貨屋を覗いた。どうせなら一つだけではなく、煌太郎の気が済むまで贈り物を買ってしまおうとさえ思っていたのだ。何を探す訳でも無く、ただふらふらと店内を見ていると栞が並んでいるのが目に入った。薄い金属板に細かく細工がされている物で、上部にある小さな穴に細いリボンが通っていた。赤、青、若葉色、山吹色等様々な色合いのリボンがある中で煌太郎は紫のリボンが通っている物を選び出す。
紫はりん子の色だ。秋生まれのりん子の名前は
栞は本に挟む物だ。りん子の大好きな本に。本は常に彼女の手の中にあり、その中には常に栞が挟まれている。栞によってりん子は
そこまで考えて、煌太郎はふと思った。
何故?何故自分は先程からりん子に自分を思い出してほしいと、自分を知ってほしいと考える??
――貴女の笑顔が見たいのです。
頭に浮かんだそれは最近弟の奏次郎が矢鱈と読ませてくる恋愛小説の一文。煌太郎が手に取ることは
笑顔が、見たい。
煌太郎が今まで書物や筆記具、家族への贈り物にしか使ってこなかった金銭を、婚約者のために使うようになったのは夏祭りが終わった辺りからだ。
煌太郎はそれ見たさに何度も何度も物を贈った。だが、あの
あの小説で笑顔が見たいと告白した男はその後何を思ったのだったか。その類い
――君が……。
そう、君が。
「君が……好き……」
耳に聴こえた声が自分の物だと思い当たるのに随分時間を要した。それを自覚した瞬間、煌太郎の心臓がどくりと一度大きな音を立てる。
今、君に誰を当てはめた?
煌太郎と彼女は婚約している。だからこれが報われない恋という訳ではない。煌太郎の気持ちが酷く揺れたのは自分が恋をしているという事象に驚いたのだ。
認めてしまえば簡単なことだった。煌太郎の心が誰かに、執着と言ってもいい程囚われるのはりん子が初めてだったのだから。
「嗚呼、成程。そうか、そういう事だったのか」
笑いを含んだ声でそう溢す。そうして何もかも合点がいった。
今日りん子が髪を飾っていた幅広リボン。りん子は煌太郎があげた簪を一度も使ったことがないのだ。勿論煌太郎の知る範囲での話ではあるが。兎に角、婚約者から貰った物ではなくて知らない誰かからの物を身に付ける彼女に本の少しだけ苛ついた。そのリボンが貰った物なのかどうかは何も知らなかったが、そんなことはどうでも良かった。
それにそうだ、あの猫。りん子が九歳の頃に拾った黒猫。煌太郎はなんとなく彼が嫌いだった。今ではその理由がしっかり分かっている。そもそも
すっきりした煌太郎は数刻前よりも随分と明るい気持ちで顔を上げた。ある意味では春乃に感謝しなくてはならない。この気持ちに気付くことが出来たのだから。
煌太郎は満たされた気持ちで歩き出した。
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