柊人と婚約者

 黄金浦柊人が榊瑠璃羽と出会ったのはもう随分と前の事である。

 十六、七年前則ち二人が産まれた時期から一緒にいたので、柊人自身はその瞬間を覚えていない。恐らくというか確実に瑠璃羽の方もそうであろう。

 お互いに三人目の子どもであり、家格もそう変わらないことに加え、二人の仲がとても良かったので両家の父親が丁度良い、という理由だけで婚約させたのだ。その事について柊人と瑠璃羽が不満を抱いているかと言われればそうでは無い。

 いや、柊人の方はそうでは無いと自信を持って言えるが瑠璃羽の方はどうか柊人は知らない。まあでも嫌いな奴に泣きついたりはしないか、と柊人は一人考える。


「落ち着いたかい、瑠璃羽」

「ひっく……うん、御免なさいシュウ」


 珍しく、と言ったら普段の瑠璃羽に怒られるが本当に珍しくしおらしい婚約者に柊人は目を見張る。よっぽど落ち込んでいるのだろう。


「一体何があったんだい?」

「……りん子さんに……酷いこと言ったの」


 東堂りん子。柊人の学友である神崎煌太郎の婚約者だ。十二歳の瑠璃羽が女学校で出会い今に至るまで崇拝し続けている女性でもある。


「酷いことって?」

「言ったっていうか、怒鳴っちゃったの。りん子さん、きっと驚いたわ。そして私のことなんか嫌いになってしまわれたのよ!」

「はいはいどうどう落ち着いて」


 先刻から瑠璃羽の涙が止まらない。序でに柊人の焦りも止まらない。こんなに泣き喚く瑠璃羽は幼い頃、瑠璃羽の兄が当時彼女の一番お気に入りだった玩具を悪戯で隠してしまった時以来だ。

 そのときの瑠璃羽は凄かった。蛇口の壊れた水道の様に後から後から涙が目から溢れでるものだから、柊人は瑠璃羽の身体中の水分が無くなって干からびてしまうのでは、と本気で心配したものだった。

 成長するにつれて瑠璃羽が涙を見せることは少なくなっていたのだが、りん子が絡むと瑠璃羽の中の何かが振り切れるようで、最近は感情を露にすることが増えていた。それを自分が出来なかったことに少しだけ苛立ちを覚えるが、それだけりん子という存在が凄いものだということも柊人はしっかり理解している。

 無愛想が服を着て歩いている様な人間だ、神崎煌太郎りん子の婚約者は。その煌太郎の僅かな表情の変化から正しく彼の感情を読み取り、そのうえで常にの行動をする。煌太郎がりん子に対して失望せず長い間婚約者という関係に収まっているのは、りん子のそういうところが心地好いからだろうと柊人は推測している。

 とは言え、当の煌太郎はその心地好さを全く理解していないようであるが。あれは間違いなくだと中学校、高等学校と約5年間を共にしてきた柊人は自信を持って答えられる。


「それで、どうして怒鳴ってしまったんだい?瑠璃羽は意味も無く怒ったりしないだろ」

「ん……、りん子さんがあんまりにも神崎様と春乃さんの恋を応援するから」

「ああ……」


 それは柊人も不思議に思っていた事だ。りん子は何故か自分の婚約者と友人を恋仲にしようとする。それだけでも異常な事なのに、婚約している本人が煌太郎との幸せを望んでいない様にさえ見えるのだ。


「兎に角、明日女学校に行ったらりん子さんに謝ろうと思うの。もしりん子さんと絶交なんてことになったら私、生きていけないわ。川に身投げする!」

「それは困るなぁ。僕を置いていくのかい?」

「五月蝿いわね。シュウも道連れよ」


 その言葉に、瑠璃羽の頭を撫でていた柊人の右手が動きを止める。


「何。撫でててよ」

「あ、ああ御免。少し驚いて」


 婚約者の命令おねだりの通り手の動きを再開させながら柊人の頭は混乱していた。

 道連れ。それはつまり所謂心中ということだろうか。いや瑠璃羽にそういった意図が無くとも柊人は嬉しかった。

 どちらかが置いていくことはないのだ。同じ時間に同じ場所で命を散らすのだから。その相手に柊人を選んだという事が、瑠璃羽の中に確かに自分が存在していると言われた様でとても安心したのだった。


「驚いたって何よ……私だってシュウのこと大事に思ってるんだからね」

「それは勿論知ってるよ。幼馴染みだからね」

「違うわよ。婚約者だからでしょ」


 瑠璃羽の耳がほんのり紅くなっている。俯く彼女の表情は柊人からは見えなかった。


「え」

「……いくら幼馴染みでも嫌いな人と婚約なんてしない」


 それはそうだ。柊人だって瑠璃羽が好きだから婚約を提案された時頷いたのだから。当時の柊人は可愛らしいうえに段々綺麗になってきていた瑠璃羽を誰にも奪われまいという一心で、少々強引に婚約を取り付けたものだから今の今まで瑠璃羽の婚約への気持ちを知らないでいたのだ。


「……ふふ、なんだ瑠璃羽ってば僕の事そんなに好きだったの?」

「う、あ、う、五月蝿い!!!もうシュウなんて知らない!!」






 ▼







 ▼





「今日は矢鱈と機嫌が良いな。何かあったのか」


 高等学校で煌太郎に会った瞬間にそう言われ、柊人は心配になった。もしかして駄々漏れだったのだろうか。自分は結構感情を出さない方なのだが。それとも煌太郎がそういうことに気が付きやすいたちなのだろうか。大いに有り得る。


「瑠璃羽……僕の婚約者がね、昨日物凄く可愛い事言ってきたものだから」

「成る程……?ああそうだ、先日は俺の婚約者が黄金浦の婚約者殿と喧嘩したそうだが」

「その事なら問題無いよ。きっと今頃仲直りしているさ」


 すると煌太郎の表情が僅かに安堵の色を見せる。


「それなら良かった。彼女、泣いていたから」

「りん子ちゃんが?珍しいね」


 瑠璃羽もそうだがりん子が泣く、という印象が柊人にはあまり無い。二人とも珍しい事をしていたということだ。

 それにしても、煌太郎の顔だ。柊人がりん子の名前を出した時に少しだけ、ほんの少しだけ顔を歪めた。この感じなら誰かが教えてやれば気が付きそうだが。


「神崎は自分の事には本当に疎いな」

「何がだ」


 柊人は瑠璃羽の計画を応援してはいるが、特に介入しようとは思っていないので、あえて何かを言う事はしなかった。


「まあ、頑張りたまえ」

「?? ああ」



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