海と海月と月の咒法

涌井悠久

海と海月と月の咒法

  人は何かを好きになったり何かを頼りにしていないとまともに生きていけない。

 ある人は煙草をくゆらせ、ある人はアルコールに溺れる。人によって様々だ。

 私もまた、その『何か』に頼らざるを得なかった。

 私はそれを手に入れたらまずじっくりと鑑賞する。そして味を確かめ、最後に飾る。

 そう。『死体』だ。私は死体がないとまともに生きてられない。

 死体嗜好ネクロフィリアなんかじゃない。あれは死体に性的興奮を覚えるらしいが、私は違う。

 例えば、学校の帰り道でアイスを買う習慣があるとする。別にその学生はアイスに性的興奮を覚える訳じゃないだろう。単にアイスを食べるのが好きで、それを買っているうちに習慣となっているだけだ。

 私もそれと同じだ。死体が好きだから人を殺し、味わい、その死体を持ち帰る。これは私の習慣なのだ。

 今まで手に入れた死体は全て使われなくなった商店の中に保存してある。腐敗してようが関係ない。死体は死体だ。私は平等に愛する。それぞれ違うポーズをさせて、衣装の着飾りや化粧なんかもさせている。

 タイトルは『海月くらげの四肢展覧会』。海月のように、白い四肢を存分に見せつける死体にぴったりの題だ。

 この商店すべてが死体で埋まって初めて、私の展覧会は完成するのだ。今までの死体も全てリストアップしてある。もちろん名前も、年齢も、身長も、家族構成も、住所も。昨日まででもう48体手に入れた。

 そして今日もまた私は適した死体を探していた。しかしなかなか良いものが見当たらず、探索は夜まで続いた。

 崖際の曲線をなぞる道を歩いていた時だった。一人の女性が断崖の端に立っているのが見えた。

 月明かりの奇麗な、濁りのない黒が広がる夜だった。その女性は月のスポットライトを浴びながら、目眩めくるめくような光を乱反射する波間を見つめていた。揺れる純白のワンピースが闇によく映える。

 私はそれを見たときに、思わず声を出してしまった。私の感性から言わせれば彼女は逸材だったのだ。

 カフェでたまたま心地の良いクラシックを聴いた時の感覚に似てる。その時、私は思わず店員さんに曲名を尋ねてしまうほどだった。作曲者不明の『グリーンスリーブス』。あれから私は、死体を愛でる時はいつもその曲を流すようにしている。

 彼女の名前も尋ねてみたい。彼女を知りたい。理解したい。死体への愛撫はまずその死体の理解から始まるのだ。

「突然すみません、お名前は?」

「おや、こんばんは。私に興味があるのかな?」

「ええ。勿論です。貴女の月桂げっけいのようなワンピースも夜に溶け込む黒い髪も、全てが奇麗です」

「はは…君、まるで芸術家みたいな口ぶりだね。少し気に入ったよ。特別に私の名前くらいは教えてあげる。私の名前は迅瀬ときせ凪沙なぎさ

「迅瀬凪沙…」

 なんて、甘美な名前だろう。私は頭の中で何度もその名前を反芻した。凪沙、凪沙、凪沙、凪沙…。

「それで、そういう君は?」

「私の名前、ですか?」

「私だって君をもっと知りたい。君とは深い、深い関係になれそうだから」

 なぜか私は顔を紅潮させてしまった。そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。私はずっと人を見定め、どんな死体になるか想像し、理解して選定する側だった。こうして理解されるのは初めての経験だった。

「自分を知ってもらうのは恥ずかしくない。コミュニケーションにおいては、お互いに自己開示して初めて理解したと言えるんだ。一方的な自己開示は『知識を得た』に過ぎない。傲慢な理解だよ」

「そう、なんですか…?」

 じゃあ、私はずっと一方的に知って、思いを汲み取ったふりをしていたのか。私が愛でていたのは、空っぽのむくろだったのか。

「うん。君、相当の悩みがあるようだね。この際名前はいいや。君の悩みを聞かせて欲しい」

「…実は私――」

 私は自分の習慣を全て話した――もちろん、凪沙さんの死体を欲しがっていることも。これも全て凪沙さんの理解のため。

「…そうか」

 彼女はそれだけ言うと、空のように黒い海の方を向き、一つ深呼吸をした。

「呪われてるんだ、君」

 自分でも薄々勘づいていた。私はきっと『死体を好きになる呪い』にかかっている。誰にかけられたのかはどうでもいい。大事なのはどう『呪い』と向き合うかだ。

「つくづく嫌になるね。『呪い』ってのは」

「私は幸せですよ」

「そうだろうね。幸せそうな君を見れて私も幸せさ。でも同時に、私が幸せに感じてしまうことがとても嫌だ。私は君に惹かれている。惹かれているが故に

 そう言うと、凪沙はこちらを振り向いた。その目には一粒の涙が、月光を浴びて白金のように輝いていた。

「君は逃れられない。私の『呪い』は、『心を寄せた人と心中する呪い』」

 そう言うや否や、凪沙は私の手を取り引っ張った。不意を突かれて反抗する隙さえなかった。

 二人は月明かりに照らされた崖から頭を下にして落下していく。両手を取り合い、月から垂れた涙の如く、重力と『呪い』に身を任せ落ちていく。

 ああ。もう遅かったか。まだ死体を眺めていたかったな。欲をかかずに、今日は諦めて別の日に死体を探せば良かった。

 …でも、これも悪くないかもしれない。これで私は、初めて正しく理解できた死体を手に入れられるんだ。

 あ。そういえば、私と凪沙さんを合わせたらちょうど50体だ。キリがいい。

 うん。むしろその方が良いな。私自身も、私が好きな死体になれるんだ。たくさん愛でてあげよう。未完成の展覧会と隠された遺作なんてのも悪くない。

 偉大な芸術家だ、私は。

 二人は水面を貫き、深い、深い暗闇の底へと落ちて行った。

 海からはぼやけた月が見える。月は海に何を見る?

 月は――月はきっと海月を見る。

 そうだ。凪沙は海月だ。

 私――若月わかづきけいにとって、彼女は海月なのだ。

 なんだ。私の展覧会はもう完成間近じゃないか。

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