第3話 石を投げられる
あるとき、バルバラが頭から血を流して帰ってきたことがあった。額に大きな傷があり、そこから血がだらだらと流れ、いつも着ている白いエプロンに血の赤い斑点がバラバラとついていた。顔も真っ青になっていて、いつもの笑顔が消えていた。
家にはぼくも母もいて、そこへそんな風にバルバラが帰ってきたのだから大騒ぎになった。
「まあ! いったいどうしたの?」
母はバルバラを座らせて濡れたタオルで傷をやさしく拭いた。どうやら出血は最初だけらしく、もうほとんど止まっていた。けれど、傷は小さくはなかった。
「いえ、ちょっと転んだだけです。足下が見えなかったものですから」
「災難だったねえ。顔は大事にしないといけないよ」
次第にバルバラの頬の色は戻ってきたけれど、すっかり疲れ切っている様子だった。ぼくはそばにいたけれど、その様子があまりに悲痛でほとんど声を出すことができず、ただ心配な目で見つめることしかできなかった。
最後になってやっと、
「まだ痛む? 大丈夫」
と一言、ぼくは口にした。痛いし、大丈夫でも何でもないことはわかっていたけれど、とにかく声をかけずにはいられなかった。
バルバラは弱々しく微笑んで、
「まだちょっと痛みますが、でも大丈夫ですよ」
と言った。
バルバラの体調は夕方にはすっかり元に戻ったけれど、その日は一日、バルバラの傷のことばかり考えてしまった。もうこんなことが起こらないように、ぼくは夜になるとすぐに星にお願いをした。
しかしその夜、もう少し時間が経ってからのこと、ぼくは寝ている途中で目が覚めた。階下から話し声がするのを聞いた。いつもなら聞こえないはずだし、聞こえても気にならないはずだった。それなのに、その夜は聞き耳を立てた。
「バルバラ、あなた……本当は……」
父と母、そしてバルバラが昼間のことについて話をしているらしかった。ぼくは気になって仕様がなくなり、蝋が塗ってある静かに開くドアを開けて階下の声を聞いた。
「ええ、これは言った方がいいかと思います。街で石を投げられました。相手の声からするに、男の子だったと思います」
「なんてことだ、いったいどこの悪ガキが。バルバラ、その子はどんなだった?」
「いえ、それが見えなかったもので。すぐに頭を押さえましたし、私の見えないところにいたようだったので」
父の唸る声が聞こえた。
「警察に届けるか、これは度が過ぎる」
「そうですよ、人に石を投げるなんて、こんな大事になって!」
けれど、バルバラはそれを止めた。
「いえ、これは内密にしましょう。私も世間から少し距離を置かれてますし、これ以上何かあると尚更、居づらくなってしまいます。もちろん御当家にも迷惑が……」
「しかしだね……」
それからはしばらく互いに譲らない調子で話をしていたが、最後には警察には届けないことになったようだ。深夜の大人たちの話し合いはそのあたりで終わりになり、ぼくも静かにベッドに戻った。
バルバラを襲ったやつのことがぼくは憎らしくて仕方なかった。おそらく学校にいる誰かだとぼくは思った。けれど犯人がわからないでは仕返しのしようもなく、怒りの矛先を向けるところがわからず、ムカムカとするばかりだった。
翌日、まだ怒りの収まらないぼくはバルバラのことを考えながら学校へ行き、周囲を睨みつけながら何か手がかりがないかと探った。でも、みんなは横一列に長椅子に座っては近所とおしゃべりをしていたし、授業でも先生の冗談に笑ったりしていて、普段どおりだった。ひとりで厳めしくしていてもどうにもならず、何だか空回りをしていて、やるせない気持ちだった。
帰り道、バルバラに石を投げつけた犯人のことを考えながらつまらない気分で歩いていると、道の端で数人のクラスメイトがこちらを見てニヤニヤしているのに気付いた。最初は何かと思ったけれど、それがすぐバルバラに関することだと気付いたぼくは、彼らのところへいって「石を投げたのはおまえらか」と聞いた。
「ああ、気色悪い化け物を退治してやったのさ」
相手のリーダーと思われる少年が悪びれずに言った。
少しばかり収まっていた怒りが腹の底から蘇ってきた。相手の小馬鹿にする態度にぼくはついに怒り心頭に発して、足下の石を拾い上げ、次の瞬間にはそれでその男の子を殴りつけていた。
ぼくは思い切り一撃、それからもう一度、と殴りつけた。相手の頭から、バルバラと同じように血が流れた。勢いよく吹き出したので、ぼくの手にもべったりと血がついた。
クラスメイトたちの顔が真っ青になった。殴られた子は額を押さえて泣き出すし、息を荒くしたぼくは冷や汗をかいていた。やがて大人たちが集まってきて、ぼくは捕まってしまった。町役場で働く父が血相を変えて飛んできて、相手の子の様子を気遣いながら、合間にぼくは父に激しく怒られた。
それからそのまま、ぼくは父に相手の家に連れていかれ、叱られ、謝った。父は終始、頭を下げて謝り、それがぼくに自分のやったことの罪の重さを教えた。相手には出血はあったものの、それほど深い傷でもなかったということでそれで終わったけれど、父を平身低頭に謝らせてしまったことは心からいけなかったと思った。
けれど、バルバラのことでは相手は怒られることさえなかった。バルバラの話は出なかったのだ。
「どうしてバルバラのことを言わなかったの?」
ぼくは帰り道、父に聞いた。
「バルバラのことを出したところで、どうにもならないんだよ」
「そんなことあるもんか、あいつが悪いんだから!」
父はぼくが強く言ったにもかかわらず、しばらく黙ったままだった。口を開いたのはほとんど家に着くところだった。
「いいかい、マリウス。バルバラに石を投げたことはいけないことだ、許せない。だけど、おまえがあの子を殴ったこともいけないことだ」
「でも、バルバラが殴られて黙ってはいられなかったんだ」
父は「わかるよ」と頷いた。
「でも、誰であっても、どんな理由でも相手を傷つけてはいけない。人を傷つけて言い理由なんて、この世にあるものか。もしそう思うなら、あそこの家の悪ガキと一緒だ。バルバラも決して望んではないだろう」
そうだ、とぼくは気付いた。
(バルバラにはどんな顔をしたらいいのだろう、ぼくが人を殴ったなんて知ったらなんて思われるんだろう)
心細くなりながら家のドアを開けると、母とバルバラははっと、心配そうな顔をしてこちらを見た。それでぼくはまた叱られるものと思ったけれど、バルバラは泣いてぼくを見つめた。
「まったく、なんてことをするんです!」
それから、ぼくはバルバラの胸に押し込められた。バルバラの手があまりに強くぼくを抱きしめ涙が顔にまで流れてくるので、さっきからずっと抱え込んでいた怒りや不安でぼくも泣き出してしまった。ぼくは怒られることはなかったけれど、自分のしたことがバカなことだったのだと強く悟った。
その夜、ぼくは眠れないでいた。昼のことが原因で寝られないのは当然だったけれど、その夜もまた、階下で父と母とバルバラが話していたからだ。
でも、ぼくは昨日のようにドアを開けて聞きに行こうとは思わなかった。ぼくのことで迷惑をかけてそのことを話しているのはわかっていた。聞くだけ悲しくなるだけだった。けれど、その夜はなぜか音がよく聞こえてきてしまい、ぼくは聞く気もないのに自然に耳にしてしまった。
「私のせいでこんなことになって……」
バルバラの声だった。
「……この顔で表を歩く……迷惑に……メイドはもう……」
(あっ)
ぼくはもう少しで声に出してそういうところだった。バルバラのことばで、ぼくが一番迷惑をかけたのがバルバラだったのがわかったのだ。
階下の音をもっと聞こうとドアを開けると、今度ははっきりと大人たちの声が聞こえた。
「バルバラ、あなたはここにいなくちゃいけませんよ。せっかく、こうやってうちに来られるようになったんですから、それは大事にしないと」
「そうだ、せっかくマリウスもきみのことを気に入っているんだ。それなのに、やめて帰ってしまうなんて」
「ですが……」
ぼくは居ても立ってもいられなくなり、下まで走って降りた。台所で話していた三人のところに駆けつけて、ぼくは「バルバラをやめさせないで!」と声を上げた。これには母も父も驚いたし、バルバラははっとして口に手を当てていた。
「おまえ、聞いていたのか」
父はずいぶん慌てた様子だった。ぼくは再度、訴えた。
「バルバラをやめさせないでよ! みんなバルバラのことが好きでしょう? 昼のことはぼくが悪かったんだ。もうバルバラに迷惑をかけるようなことはしないから!」
大人たちは顔を合わせて少し笑った。ぼくはなぜ笑っているのかわからなかったけど、次のバルバラのことばでそれを理解した。
「わかりました、やめませんよ。マリウスさんのそのことばで安心しました。私のせいでマリウスさんが世間に非難されるようなことがないか、不安だったんです。でも、私も決意しました。旦那様と話していたんですが、私もきちんと被害届を出すことにします。私に石を投げた『どこの誰かもわからない相手』を、探してもらうように言います。マリウスさんの方はもう謝って済んでいますから大丈夫ですよ。私の方は届けを出すことで、そのどこかの誰かも、もうおなじことはしないでしょうから」
父も母もそれがいいと言った。
いつの間にか泣いていたぼくはバルバラを抱きしめて、ごめんなさいと言った。
「マリウスさんの気持ちはわかりますし、とてもうれしいですが、もう殴ったりなんてしないでくださいね」
それでぼくはもう誰も殴らないと誓って、話は終わった。三人と話し終わったぼくは部屋にも戻り、それからぐっすりと眠った。
バルバラの被害届が出されると、あいつらは萎縮したように大人しくなった。父の言ったように、おなじことを繰り返してしまうと、次には捕まって正式に罰を受けると理解したからだ。ぼくは彼らの態度に満足したし、バルバラは傷が治って以前のように町を歩けるようになり、万事、解決したのだ。
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