第2話 バルバラが来た日のこと

 ぼくは窓から夜空を見上げていた。星の輝きは今夜もきれいだったけれど、少しずつ位置がずれていく様子がぼくに季節の移り変わりを教えてくれていた。

「もう夏も終わっちゃうのか」

 ぼくは今年の夏を振り返ってみた。友達とは小麦畑を果てまで走ったし、森の館への探検も大きく進んだ。バルバラには何度となく捕まって、机のとなりに立たれて勉強まで指導されたけれど、そのためか成績はマシなものになった。

「バルバラが来てからは、なんだか毎日が楽しいな」


 ぼくはバルバラがやってきた日のことを思い出した。それまでうちにいたカトレアばあやが高齢になって新しいメイドが来るという話から始まった。ぼくはカトレアばあやがお気に入りだったけれど、「新しいメイド」という響きに日常の大転換を感じてしまい、その一大イベントに気分が昂ぶってしまった。

 新しい人が来るという日、ぼくは朝から待ち遠しかった。この話が決まってからずっと、毎日のようにどんな人がやってくるのか楽しみにしていた。誰が来るにしても、ぼくにとって知らない世界が待っているのだろうと、心躍らせていた。

「もしかしたら異国の人で赤毛かもしれない、若い人だろか? あるいは老婆だろうか? ああ、気になるなあ」

 楽しみは取っておきなさいと言って、父も母もぼくには内緒にしていた。それで朝に来るかと思って学校に行く時間ギリギリまで待っていて、結局は全速力で走っていくことになった。昼休みにはまた全速力で帰ってきて、けれどまだメイドがやってきていないことに落胆しながら昼のパンとスープを口にした。午後の授業も心はそぞろで、そわそわして先生に教鞭で頭を叩かれもした。

 やっと授業も終わって学校から家に帰り、玄関に飛び込んだ。すると、もうすでに新しいメイドが来ていた。メイドは栗色の長い髪をした人で、背はうちの誰よりも高かった。彼女はちょうど今、カトレアばあやにこの家での流儀を習っているところだった。

「おかえりなさい、坊ちゃん」

 ばあやがぼくに気付いて声をかけた。メイドも振り返って、おかえりなさいと微笑んだ。でも、彼女の左目はひどい有り様だった。目の先はどこか全然違うところを見ているし、焼けて茶色い皮膚が広がっていた。ぼくはぎょっとせずにはいられなかった。

 けれどどうしてか、傷のない反対の目の目付きと澄んだ声に懐かしいほどの親しみを感じた。それで見た目の怖さとは別に、全体として「きれいでやさしそうな人」という印象を感じた。

「こんにちは、新しく来たバルバラです。マリウスさんですね。これからよろしくお願いします」

 そう言って笑いかけた。今度はもうバルバラの微笑みにすっかりうれしくなって、ぼくもつい笑顔になって「よろしくね!」と返した。

 バルバラはカトレアどころか、母さんよりも若かった。でもこども染みたところはまったくなくて、母さんより何歳か若いくらいだろうと思われた。

 ぼくはバルバラのことが知りたくなって、質問をした。

 どこから、どうやって来たのか、得意な料理は何か、家族は、家のことは誰の紹介なのか、それから、それから……。もっと聞きたいことはあるはずだったけれど、いったい何を聞いていいのか、聞いているうちにわからなくなってしまった。

 それで、少し慌てているぼくを見たバルバラは「今度はマリウスさんのことも教えてください」と、ぼくにも質問をしてきた。好きなことだったり、学校のことだったり、友達のこと、勉強のこと、好きな女の子はいるか……なんてことも聞いてきた。女の子のことは言えなかったけれど、他のことは正直に答えた。

 ぼくとバルバラはしばらく楽しく話をした。けれど、バルバラと面と向かって話していると、ぼくはどうしてもバルバラの左目を気にしないではいられなかった。どこを見ているかわからない左目はやはり怖かった。それで、言っていいのか悪いのか、でも素通りするのも空々しいんじゃないかと思い、バルバラの目について聞いた。

 バルバラは頷いて、これは昔、事故に遭ったのだと言った。

「十年くらい前ですね、事故で視力を失って以来、これなんですよ。もう少しで顔の半分もなくなるかという事故で、だから、生きているのも不思議なくらいだってお医者さんには言われました。右目は見えますから、こうしてマリウスさんのお顔を見られるのはうれしいことです」

 バルバラはそう語ってくれた。死ぬほどの事故だと聞いて尻込みしたぼくは、それ以上の詳しいことは聞けなかった。けれど、それを聞いてバルバラを大事にしようと強く思った。

 左目の不自由な、いくらか華奢なバルバラをメイドとして迎えたぼくは、そんな風にいたわりの心を感じていた。バルバラは気のやさしいメイドなのだから、と。

 そう、次の朝までは――。


 翌朝、ぼくは朝早くにバルバラにたたき起こされた。

「はいはい! マリウスさん、起きてください!」

 それは一回だけ「おはようございます」とやさしく言った後だった。起きようとしないぼくをバルバラはベッドからひっくり返す勢いで布団から引き剥がした。いつもより一時間も早い早朝で、ぼくは眠気眼で「ええー……」と情けない声を出した。

「マリウスさん、これからはもう遅刻はさせませんからね!」

 そう宣言して、それから毎日朝早くに起こされることになった。

 バルバラをか弱いメイドだと思い込んでいたぼくは、なんだか騙された気になった。バルバラはとても元気で、力強く、頭も切れる。料理も上手だし、針仕事も得意。うちにはいないけれど、もしかしたら馬の世話だってできるかもしれない。

 父も母もバルバラを重宝していて、すぐに頼りにするようになった。

 ぼくもバルバラのことは気に入っている。一緒にいて楽しい。ただ、ちょっとだけ口うるさいとは思う。特にこの早起きの習慣づけだけは身につかないし、きっと身につかないだろうと思う。

 ところで、ぼくが早起きできない理由は毎晩、カーテンをそっと少しだけ開いて星の瞬きを見ているせいだ。

 今もぼくは空を眺めながら、何度も聞いた星の物語を思い出す。

 ――ひとりの人が生まれたとき、どこかに新しい星ができて、死ぬときにはその星が消えてなくなる。

 自分の星がどれだろうかと考えるのは怖かったけれど、つい見つめてしまう。そして消えてしまう星はないだろうかと、心配になってあちこちに目をやる。

 それから夜空に浮かぶ星座を指で辿ったり、昨日と違う形の月を見ていると、やがて本当にまぶたが重くなって、くらっとする。それでぼくは本当に寝る気になってベッドの中に入っていく。


「マリウスさん、そろそろ寝る時間ですよ」

 バルバラが部屋に入ってきて、机の上のランプを手にした。ぼくは星を見るつもりでいるので、部屋は暗い方がおあつらえ向きだ。抗わずにバルバラの言葉にいつも従う。

「明日も元気に遊ぶためには、しっかり寝ないといけませんよ。では、おやすみなさい」

 真っ暗になった部屋のなかでぼくはじっとしていた。やがてバルバラの足音が聞こえなくなると、カーテンをゆっくりと開けて空を見た。星は今夜もきれいで、吸い込まれるような黒く青い夜空のなかで輝いていた。

「バルバラの星もあの中にあるんだろうな」

 ぼくはバルバラの星を探してみようとした。

 ――どんな大きさ、どんな色、どんな輝きだろう?

 バルバラの顔を思い浮かべながら夜遅くまで起きていたけれど、いつの間にか自分でも知らないうちにベッドの中で眠っていた。

 そして夜更かしのせいで、朝にはまたバルバラに怒られたのだ。


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