夜空に星が流れる時

浅黄幻影

メイドのバルバラ

第1話 バルバラは出し抜けない

 日射しが降り注ぎ、風は涼しく、外を走り回るにはもってこいの日だった。ぼくは友達と待ち合わせ、畑近くの小川で魚釣りをする約束をしていた。

 学校から家の玄関に走り込み、階段を駆け上がって部屋に鞄を投げ捨てたぼくは、また駆け下りて外へ走り出そうとしていた。

 けれど、そんなぼくをバルバラは腕を掴んで捕まえた。

 なんとか引き離そうと踏ん張ってみたけれど、バルバラの方でも今度はぼくの肩まで押さえにかかってきて、いよいよ逃げ出せなくなってしまった。

「いけませんよ、マリウスさん! もう試験まで時間がないんですから」

 そう言ってぼくは二階の部屋に引っ張り上げられ、閉じ込められてしまった。

 二階から外へ抜け出すためには、部屋のドアを抜けて階段を降り、バルバラがいる台所の脇を通り過ぎなければならなかった。ぼくが足音ひとつでも立てようものなら、バルバラはすぐに飛んできて取り押さえるだろう。台所に辿りつく前に、バルバラにはいつも音でバレてしまっていた。

 今頃は友達が小路で待っているだろうと考えると、ぼくはじりじりした思いでいっぱいになってしまった。

「今日は川でたくさん魚を捕まえるはずなのに」


 これまでに、ぼくもいろいろと抜け出す道を考えていた。ドアの蝶番には親方のところから借りてきた油差しを使った。階段では踏むポイントを選ぶことでなんとか床鳴りを抑えたけれど、一歩間違えばすぐにギシ……と言うのでまだまだ危なっかしい。

 そんな風に用意をして、以前にぼくはバルバラの目を盗んで遊びに行こうとした。静かにドアを開け、一歩一歩確かめながら階段を降りた。最後にバルバラの見える台所の脇を通り抜けようとしたとき、ちょうどバルバラは顔の左をぼくに見せていた。バルバラは左目が悪くてまったく見えていない。ぼくはやったと成功を確信して静かに通り抜けて出ていき、バルバラを出し抜いてやった。

 その日は日が暮れるまで友達と心置きなく遊んできて、帰ってからバルバラと、もちろん家族みんなに怒られた。

 けれどバルバラもそれ以来、余計に注意深くなってしまった。このときにやった抜け出しの技も今では通用しない。見えないはずの左目もまるで見えているかのようにぼくを見つけ出すようになって、台所の脇ですぐに捕まってしまうのだ。バルバラには何かしらの特殊な感覚があるらしく、音以外でもぼくの動きを察しているようだった。

 またあるときは、お話で読んで「これは!}と思った、窓から逃げる方法も試してみた。髪の毛では逃げられないけれど、遊びに行けた日に集めてきた蔦を繋ぎ、それで二階から庭まで降りていった。これは大成功したし、帰ってきたときにもバルバラに見つかる前に蔦を回収できた。けれど、これも一回までだった。次にはバルバラがぼくが庭に着地する音に気付いたらしく、すぐに家の前まで回ってぼくをまた部屋に戻した。そしてそれ以来、蔦の作戦は二度と実行されなかった。

 それでもう、ぼくとしては打つ手はなかった。どうしたところで抜け出すこともできない。バルバラの目の光らせようと言ったら、ヘビが獲物を狙っているような、そんな抜け目のないものだった。ぼくはネズミのようなもので、すばしっこく隙を突こうとするのだけれど、ヘビの前では何とも歯が立たないのだ。


 ぼくは待たせている友達のことを考える。きっと、みんなは待ちくたびれているか、もうすぐぼくを諦めて川に行こうかしているはずだ。なんてことだろう、早くしないと手遅れになってしまう!

「試験だって? もう、そんなの今さら考えたって仕方ないじゃないか!」

 ぼくはどうにも我慢できず、見つかっても仕方あるまいと階段の端っこを歩いて出ていくことにした。

 この方法は久しくやっていないとはいうものの、すでに見つかってしまっている技だ。だからぼくは以前よりさらに慎重に、息を殺しながら一歩一歩、ゆっくりと階段を降りた。

「頼むから気付かないでくれ……」

 胸の高鳴りがバルバラに聞こえるかもしれないかというくらい、ぼくは緊張のなかにいた。できればバルバラがこの手を忘れていてくれればと願いながら、台所の脇を靴を脱いだ足でそろりそろりと通り過ぎようとした。

「今日はマリウスさんにタルトを焼いてあげましょうね。タルト、大好きですからねぇ」

 通り過ぎようとしたぼくは、そこで足を止めた。こっそりのぞくと、バルバラはボールと泡立て器を使って何かをカシャカシャやっている様子で、その上、楽しそうに鼻歌交じりだった。

 ぼくはそこで少し考えた。といって、ことばにするようなことは何も考えなかった。ただ、何かが胸の中を通り過ぎていった。もう一度だけ台所に立つバルバラの背中を見た後、ぼくは踵を返してまた階段を上って部屋に戻った。

「今日は仕方ないか」

 なんだか上手い具合にやられた気もしないではなかったけれど、ぼくは机に向かうことにした。



 バルバラは頭がいい。ただのメイドのはずなのに物知りだし、計算は得意だし、余所のメイドたちとは全然違う。余所のメイドたちも生活上の計算は得意だけど、「お得な話」をする店のおやじに騙されていることもあるのだとバルバラは話していた。その場にバルバラがいたときには、計算の嘘、間違いを指摘して、周りのメイドに喝采されているらしかった。

 頭のよさは、単なる日常的なものだけではない。ぼくが学校の課題に悩まされたときは、バルバラに聞くと解き方と答え合わせをしてくれた。もちろん、課題だということは内緒にして、ただ「この問題がわからないんだ」と聞く。バルバラはぼくが遊んでばっかりのときには怒るけれど、本当はとてもやさしいことをぼくは知っている。

 バルバラはメイドとしても優秀だ。料理はとても上手で家族はみんな笑顔になれるし、掃除も洗濯も針仕事も、時間があれば庭の手入れもしている。なのに、ぼくはバルバラがつらそうな顔をするのを見たことがない。もちろん、一息するときくらいは疲れた様子もする。それだって、どこか清々しく空を見上げたり、気持ちよさそうに伸びをするくらいだ。

 おやつの時間、ぼくはバルバラの作ったお菓子を食べることが多い。バルバラは本当に何でもできるのだ。前にいたカトレアばあやもいいメイドだったけど、干しイチジクとかクルミだとかそんなものばっかりで、おやつはいつも残念だった。

 バルバラの作る焼き菓子なら、安い紅茶でも余所とは全然違う。クッキーはサクサクだし、クリームもフワフワだ。

 でも、バルバラは自分では菓子に手をつけない。いつもお茶を飲むばかりだ。それでいてぼくには

「もっと食べていいですよ」

 と、微笑んで勧めてくる。いつものことなのでぼくは遠慮しないで食べるけれど、おやつの時間にはとりわけバルバラがやさしくなってくれて、ぼくはうれしい。

 あるとき、バルバラがタルトを焼いてくれた。生地の上に果実とクリームが乗った焼き菓子が出てくると、ぼくはつばを飲み込むのを我慢できない。きっと聞こえているんだろうなと思いながらも、ぼくは少し慌てて席についた。

 その日のバルバラはずいぶん機嫌がいいらしく、ずっとぼくを見て微笑んでいた。鼻歌交じりどころかときどき本当に歌を口ずさんでいる。

「ねえ、何かいいことでもあったの?」

 ぼくはバルバラに聞いてみた。

「ええ、あるんですよ、これから。これからです。ところで、今日はマリウスさんの好きなだけタルトを食べていいですよ、ご自分で切り分けてみてくださいな」

 ぼくが「本当に?」と聞き返すとバルバラも微笑んで返すので、ぼくは四分の一ほどの大きな一切れを手に入れようと、ナイフを手にして構えた。

 けれど、その直前でバルバラは言った。

「聞いたんですが、最近、数学の課題が出ていたんですね?」

 びくりとしたぼくは、全身が固まってその場で動けなくなった。さっきとは別の意味でつばを飲み込んだ。

「あの問題、私がやり方を教えたものですね?」

「……はい」

 ぼくが恐る恐るバルバラを見ると、まだ微笑んで黙っているのだけれど何かものを言いたそうな顔をしていた。そして、口許までそれが迫っているような気配が漂っていた。

 ぼくは持っていたナイフをゆっくりとお皿に戻した。

「……ちょっと、勉強して来ようかな」

 ぼくがそう言うと、バルバラは「そうですか」と静かに言った。

「では、タルトは夕食の後にしましょうね。いっぱい勉強してくれると私もうれしいですよ」

「うん」と言って階段を上ったぼくは、部屋に籠もって本気で勉強をした。

 バルバラは頭がいいのだ。でも、絶対に心や根性の悪い人ではない。夕食の後で食べたタルトは本当に美味しかったし、みんなが食べるのを見守るバルバラの笑顔は、今度こそ正真正銘のやさしさにあふれていた。


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