第22話 今が歪んで行き止まり
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ!
背後から声をかけられた瞬間、俺は一目散に駆け出していた。
いつ背後に回られた?
というか、何なんだよ!
何かを俺に問いかけているみたいだけど、全然意味が分からない。
恐怖で止まりそうになる足を無理やり動かして、必死に走り続ける。
その間も、暗闇から恐ろしい不審者が現れるのではないかと気が気ではなかった。
……このまま、やみくもに走り続けていては駄目だ。
どこかで隠れて休憩しないと、すぐに限界が来てしまう。
恐怖から目を逸らす様に、俺は必死で周囲を見渡しながら走った。
しかし、隠れられる場所は一向に見つからず、同じような道が続くばかりだ。
切れかけた街灯に照らされ、独り夜道に足音を響かせる。
心細くて、怖かった。
……くそっ、もう限界だ。
「はあっはぁっは、はあっ」
息を切らす。
曲がり角の陰に、半ば転ぶようにして座り込む。
今にも吐いてしまいそうだが、俺は無理やり口を押えて我慢した。
絶対に音を出す訳にはいかない。
「…………」
じっとりとした、嫌な時間が流れる。
バクバクと激しく蠢く心臓とは対照的に、周囲は恐ろしいほどに静かだった。
暗闇に紛れようと、できる限り小さく縮こまる。
「…………っ!」
長い静寂で少しだけ気が緩みそうになった瞬間、俺の耳は酷く小さな音を捕えた。
何か、金属で地面を擦るような音。
最初、頭に浮かんだのは金属バットだった。
金属バットを引きずりながら歩く不審者の姿。そんな妄想が頭を過る。
そうなると、もう駄目だった。
恐怖と疲労で、足を一センチも動かせない。
どこかへ行ってくれと願いながら、小さく小さく蹲る。
しかし、その音はゆっくりとこちらへ近づいて来きた。
先ほどまで、ほとんど聞き取れないくらいだった金属を引きずる音が、今ではもう十メートルも離れていない。
俺はひたすらに怯え、息を殺していた。
じわり、じわりと音は近づいて来る。
もう数メートルも無い。
今にもその角から、不審者が現れるかもしれない。
じっと、街灯に照らされた曲がり角を見つめる。
音がハッキリと聞こえた。
角から人影が現れる。
不審者の顔は逆光で見えない。
人影は、まるで狙いを定めるかのようにゆっくりと長い棒を振り上げる。
ヤバイ、そう思った瞬間。
背後から低い声がした。
「なりみ、ねれもすか?」
「……っぅ!」
何故、背後から? そう思う間もなく、人影は棒を振り下ろした。
咄嗟に目を瞑る。
風切り音が鳴る。
何かの潰れる音がした。
酷く、生々しい音だった。
…………痛みは、無い。
ゆっくりと目を開ける。
「……香菜ちゃん?」
「大丈夫か? お兄ちゃん。何でこんな時間に出歩いてる?」
そう言って俺の瞳を覗き込む香菜ちゃんの手には、随分と長いバールが握られていた。
……あの金属を引きずる音は、香菜ちゃんだったのか。
まったく、あんなに怖かったというのに蓋を開けてみれば現実なんてこんなものか。
「はぁ~、香菜ちゃんか。良かった……」
俺は大きく溜息を吐いた後で、はたと気がついた。
背後から聞こえてきた謎の声は、香菜ちゃんのものではない。
それに俺が不審者から逃げている時は、金属を引きずる音なんてしなかった。
そもそも香菜ちゃんは何故、こんな時間にバールを持ってうろついている?
そして何より……俺の背後で、香菜ちゃんは何を叩き潰した?
まさか、ね?
頭に過った最悪の可能性を否定するように、ゆっくりと首を後ろへ回す。
「お兄ちゃん、たぶん今は大丈夫だと思うけど、念のため後ろは見ない方が良いぞ」
「な、なんで?」
俺は首を少しだけ回した状態で、恐る恐る聞き返す。
「そいつ、怪談の化け物なんだ。フリムキ様っていって、声をかけられて振り向いたら裏世界? 異世界? みたいな所に連れていかれるらしい」
「ぇ……こわ」
「分かったら、後ろは見ないようにしながら横にどいて。そいつ、殺すから」
これで説明は終わりだと言わんばかりに、香菜ちゃんはバールを振り上げる。
「……え、殺すの?」
「殺すよ」
その目は、口調は、酷く淡々としていた。
きっと香菜ちゃんは、もう何度も同じような事をしているのだろう。
そして俺には、そんな香菜ちゃんが恐ろしかった。
「あ、あのさ、俺も、その、フリムキ様、見たいんだけど」
香菜ちゃんは、振り上げたバールをゆっくりと下す。
「……たぶん見ても問題は無いけど、出来ればお兄ちゃんには見て欲しくない。化け物に、関わって欲しくないんだ」
「いや、でも……後ろで潰れた肉っぽい音の正体くらいは見ておきたくて」
だってそれが、本当に怪談の化け物である保証など何も無い。
俺は、香菜ちゃんの言葉を少しも信じていなかった。
そんな自分が嫌になる。だが、信じられないものは信じられない。
香菜ちゃんに後ろを見るなと言われるほど、不信感が高まっていく。
香菜ちゃんは目を伏せる。
「それで、もし後ろにいたのが化け物じゃなくて人間だったら、お兄ちゃんは何をするつもりだ? バールを持ってる私を相手に、何をする?」
「……どうするかは、事情を見て、聴いて、知ってからから考えるかな」
俺の答えになっていない答えを聞いて、香菜ちゃんは逡巡するように目を泳がせた。
「今日、怖い思いしたんだろ? それでも見るのか? 関わるのか? このまま帰って、全部忘れて終わりじゃ、駄目か?」
「それは……」
香菜ちゃんの今にも泣きだしそうな目を見て、俺は思わず口ごもる。
しかし、それでも俺は幼馴染が殺人鬼かもしれないという状況を見過ごせない……殺人鬼とは関わりたくないという、酷く利己的な理由で。
「香菜ちゃん。俺が化け物と関わるかどうかも、まずは事情を知ってから考えたいんだ」
俺の返答に、香菜ちゃんは小さく溜息を吐いた。
「はあ……いいよ、見ればいい」
香菜ちゃんはバールを地面について、気怠げにもたれかかる。
俺はそんな様子を後目に、ゆっくりと後ろを振り向いた。
無様に転がるのは、頭の潰れた人型の物体。
「っ! これ、やっぱり」
人に見え———
ずぶずぶと、人型のソレが黒く淀みながら地面に染み込んでいく。
「……言ったろ? 化け物だって。ソイツは弱い怪談だから、朝が近づくと消えるんだ」
背後で、香菜ちゃんが溜息交じりにそんな事を言う。
「これ……死んだの?」
「いや、もっとグチャグチャにしないと死なない。また、明日の夜にでもこの町のどこかを徘徊する筈だ」
「そっか……ごめん、化け物退治、邪魔しちゃって」
「別に良い。それより、お兄ちゃんが無事で良かった」
そう言いながら、香菜ちゃんは俺にコップを差し出してくる。
「ほら、飲め。魔法瓶に入れてたから、あったかいぞ?」
コーンスープだ。
俺はそっとコップに口をつけ、ゆっくりと飲み込んだ。
「……温かい」
一つ、息を吐く。
そこでようやく、緊張の糸が切れた気がした。
目元に涙が滲む。
そんな俺を見て、香菜ちゃんはそっと俺の隣に腰掛けた。
「お兄ちゃんは、そんなに無理しないでくれ。あの肉の化け物の事も、私がちゃんとするからさ」
「……うん」
無理をしないで、なんて……俺は無理などしていない。
それどころか自分の問題に巻き込んで、香菜ちゃんに無理をさせている。
でも俺は、香菜ちゃんの方こそ無理をしないで、とは言えなかった。
香菜ちゃんの助けが無いと、俺には府川さんの事をどうしようも無かったから……。
「お兄ちゃんは、妹や元カレの事を調べてくれ。それで充分、役に立ってるからさ」
香菜ちゃんの優しい言葉に、ただ頷き返す事しかできない自分が情けなかった。
きっと香菜ちゃんは勘違いをしている。俺が府川さんの調査の為に、深夜に出歩いていたのだと。
現実は、ただの気晴らしで現実逃避だというのに……。
俺は、ぬるくなったコーンスープを飲み干し、自分の膝を見つめる。
今も、俺の膝からは血が滲んでいた。
それが化け物から逃げている時にできた傷である事を思い出し、思わず身震いする。
俺は今日、化け物に関わるとはどういう事かを思い知った。
……いっそ、俺の後ろで倒れていたのが人間だった方が良かった。思わず、そんな考えが頭を過る。
でも、そう思わずにはいられないのだ。
だって今は、化け物と呼ばれる存在がこんなにも恐ろしい。
そして俺は、その『化け物』に府川さんも含まれていると気づいてしまった……。
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