第5話 Spaced out.
桜井との邂逅の次の日、僕はいつものように授業を終えて部室へ向かう。
暗がりの廊下、その途中にある部室のドアの前には先輩が立っていた。
「あれ先輩、なんで外に」
鍵をなくしたのだろうか。けれど先輩の顔に焦りはない。僕の声には反応せず、伏し目がちに廊下の床を見つめている。
そうだ、先輩に聞こうとしていた事があった。
「先輩、昨晩の事なんですけれど……」
「今日は満月だそうだ」
僕の声に被せるように先輩は口を開く。一瞬ひるむ僕に目をやり、意に介さずに先輩は続ける。
「どうだい、屋上で月見と洒落込むのは」
声の軽さと対照的に、じっとこちらを見つめる黒曜石のような瞳に遊びの気配はない。僕はなんとなく居住まいを正して、良いですね、と言葉を返した。
軋む鉄扉を越えて僕達は屋上に出る。夏の只中と言っても、今日は風が強いのもあって流石に昼間に比べれば幾分か涼しい。
僕達は無言のまま落下防止の鉄柵にもたれかかり、思い思いのものを見る。
月をじっと見つめる先輩、僕はその横顔から目が離せない。
屋上で先輩とこうしていると、初めて会った日の事を思い出す。あの時に比べると色んな事が変わった。
それは勿論、俯瞰で見れば大した事ではなくて、僕の心中を構成する要素が一つ二つ切り替わっただけだ。
けれど、変わったからこそ思える事がある。見えるようになったものがある。
その変化を大切にしていきたい。
それと同時に、変わらないものの尊さも痛切する。
そう、例えば先輩を美しいと思うこの心とか。
黙して白い盆のような天蓋を眺める先輩は、たとえ着ているのがいつもの黒のセーラー服であっても絵画の中のお姫様が飛び出してきたかのように壮麗で、心を奪われる。
一目見ただけで、先輩が僕の思考の大半を一挙に支配する。自分でもよっぽどだなと思うが、こればかりはもう仕方がないと諦めがついている。
ただ月を見上げるその仕草が、僕の中では何よりも重く、大切で。
いや、違う。目の前の彼女にならって正確に記述するなら、
月を見上げる先輩が、奔放に笑う先輩が、その白い指を油で汚しながらロケットを弄る先輩が、僕には何よりも──。
「ねえ、昴くん」
不意に顔を向けられて、僕は先輩と目が合ってしまった。
「おや、月を見ていなかったのかい」
先輩に見惚れていました、なんて馬鹿正直に言えるわけもなく、僕はいやぁはは……、と下手な誤魔化し方をする。おかしな挙動をする僕を先輩はからかうように笑う。
「まったくよそ見とは感心しないな。これがきっと、二人で見る最後の月だっていうのに」
「ごめんなさいせんぱ、……は」
口が動きを止める。今鼓膜が捉えた音を脳が正確に解釈しようとして、弾き出される結論が受け入れられず停止、改めて意味を理解しようと回転する。
「さ、最後って」
何言ってるんですか先輩、まで言い切る事ができず、声にならないか細い息を吐いただけに終わった。
こちらに向き直った先輩の瞳を縋るように見つめる。そこに冗談や悪戯っけは見当たらない。どれだけ求めてどれだけ探しても、どこにも。
「言葉通りの意味だ。私と君が一緒に月を見るのも、夜を過ごすのも、……果てを目指すのも、これが最後だ。君は私を先輩と呼んでくれたが、結局先輩らしい事は何も出来なかったな」
そんなまるで。
別れの言葉のような。
「お別れだ、北条昴君。月並みだが、今までありがとう」
先輩はごく自然な調子でそう告げた。
「い、意味が分かりません。何で急にそんな、っていうかお別れってどうして、いや、ちゃんと説明、説明してくださいよ……」
そんなの、受け入れられるはずがない。
膝が震える。視界の端が陰る。絶えず吹く風が針のように肌を刺す。
それらの感覚が今この時を現実だと示し、現実であるがゆえに全身がそれを拒んでいる。
「人を糧としなければ生きられないような私とは、陽の光がなければ輝けないような月とは違う。君は自ら輝ける星だ。その光を私のような影で覆い隠してはいけないという事だよ」
対照的に先輩はいつも通りだ。不自然なほどに、自然体でいる。
「突然何を、と思うかい? けれどね、これは遠回りの結果なんだ。星の光に見惚れてしまって、長く見続けようと遠回りした結果」
言葉を失っている僕に先輩は笑いかける。
「けれどせっかくだ、最後にもう少しだけ、回り道をしようか」
そう言い終わるより先に先輩の体がふわりと宙に浮く。長いスカートは傘のように開き、僕の視界を塞ぐ。次に開けた時には、先輩は細い鉄柵の上に両足を置いて立っていた。
風に揺られるその立ち姿はひどく不安定で、絶妙なバランスでその軽業が為されている事が見て取れる。焦る僕をよそに先輩はそのまま屋上を囲う柵の上を歩き始めた。
「吸血鬼の死というものは何も突然訪れるものじゃない。予兆はあるのさ。人が老いと共にその機能を低下させるように、吸血鬼は長く生きるほどに自分が自分であると自信を得られなくなる。いや、より正確に言えば吸うほどに、かな」
胸板の前で先輩の靴がコトリと音を立てる。頭上にある先輩の顔がどんな表情を浮かべているのか、僕には見る事ができない。
「人の心の熱というのは、混じりっけのないエネルギーではなくその人間が秘める情動、その奔流の輻射熱のようなものなんだ。わかりやすく言い換えるとね、私達は吸血と共にその人間のパーソナリティも得ているのさ。それは一度や二度程度では何の影響も及ぼさない。しかし澱のように積み重なれば、それは自己という大木を根本から腐らせる虫の一噛みとなる。揺らぎ始めた吸血鬼はなんとか自分という存在を確定させようと行動原理、存在理由を求め、それに誠心する。それは個体によって様々だが、私の見てきたものでいえば古今東西あらゆる書物を読もうとする者や理想の一枚を描き上げようとする者、あるいは──、そう、宇宙を目指そうとする者、とかね」
「え」
沈黙を守っていた僕は思わず声を漏らす。
それは半ば語られている内容に対して、そしてもう半分は、それを語る先輩の声が、かすかにふるえている事に気づいたから。
「私は君に謝罪しなければならない。君の眼には私はどう映っていたかな。自由で、奔放で、夢に価値があると信じ、果てに想いを馳せる。そんな浪漫に恋焦がれた吸血鬼として見えていたのならば、それはすべて嘘だ。私は私であるが為に、一縷の望みをかけて火中に身を躍らせる虫のように、憧憬に縛られて狭い世界で生きる、愚か者だったのさ」
──頼む。
僕は張り裂けんばかりに叫びそうになるのを必死で押しとどめる。その代わり、胸の中でねだるように、願うように一つの言葉がこだまする。
──頼むから。
先輩が今語っているのはすべて事実なのかもしれない。すべて本心なのかもしれない。
けれど、それでも。
頼むから、そんな自分を串刺しにするような言葉を使わないでくれ、自分を切り刻むような思いを込めないでくれ。
「最初はね、君に全てを話すつもりはなかったんだ。君が何も見えなくなっていて、失っていて、
僕の胸中の慟哭を知ってか知らずか、先輩の声の調子は少し沈む。後ろで組まれた手に力が入っているのが分かる。
「君が私に向けている感情は知っているよ。それだって、吸血鬼という種のうちの一個体である私が、私の意思など無視してとにかく生きながらえる為に君の思考を想像して、君の血を効率よく吸えるようにする為に取り続けた行動の結果でしかない。けれど、君のその優しさは、純粋さは誰の手によるものでもない。ただ無垢すぎたんだよ、君は。それはもっとしかるべき人間の為に捧げるものだ。私のような、吸血鬼のような汚れた存在には過ぎたものだよ」
そう言って、先輩は鉄柵の上でくるりと華麗にターンして俺を見下ろした。
「私のような崩壊する星の断末魔、ブラックホールに君が巻き込まれる必要はないのさ。言っただろう。君は自ら輝ける。この先他者の光が君を苛む事があっても、きっとそれに負けずに在れるはずだ」
それは致命的な決別の言葉。別れを告げる断裂の音。
僕は先輩の手を無理にでも掴むために一歩を踏み出そうとして、その寸前で動きを止める。僕がそうすれば、先輩はきっと逃げるようにこの鉄柵の上から飛び降りるだろう。
その後地上に身を打ち付ける音が響くのか、音もなく先輩は遠く離れた暗闇に消えてしまうのかは分からない。
決まっているのは、そうなればもう先輩とは会えなくなる事。
だから僕は、行動ではなく言葉で先輩を引き留めなければならない。分かたれた一本の鎖のもう片方を、思いで繋ぎ留めなければならない。
「何、勝手な事言ってるんですか」
一度口を開けば、あとは濁流のようにあふれだした。思考よりも言葉が先行する。今はそれでいい、きっとそれが何よりも純粋な“僕”のものだから。
「先輩は何も分かってないです、何も僕の事を想像できてないです! 僕は先輩の想像よりも何倍も何十倍も先輩の事が好きなんだ!」
今まで聞いた事のないような僕の大声に先輩は思わず目を丸くする。僕だってこんなに声を張り上げたのは生まれて初めてだ。別に意図して大声を出しているわけじゃない。ただ、解き放たれた僕の思いはこうとしか出力できないだけだった。
「確かに先輩は僕よりずっと長生きで、賢くて、綺麗で、だから僕の事を気づけば手玉にとってしまう事だってきっとあるんでしょうけれど、でも! 僕が好きなのは先輩だけれど、それは先輩が持ってる夢とかその行動原理? とか、それのおかげでふとした時見るようになった月や星の優しい輝きとか、宇宙への期待とか、そういうのも含めた上での先輩なんです! 先輩が自分の事を好きになるようにしていたとしても、僕はそれ以上に先輩と、先輩のおかげで知ったすべてが好きなんです!」
僕は一息にまくしたてる。けれどまだ止まらない。止めちゃいけない。
「ひょっとしたらこの感情だって全部そうなるように仕向けられた事だって先輩は言うのかもしれないけれど、それならそうだって構いません。でも僕は、勝手にそう信じます」
だって。
「信じるのは、自由でしょう」
そう言い放った僕は視界が暗く陰っているのに遅まきながら気づく。それが酸欠によるものだと次の瞬間気づいて、僕はむさぼるように息を吸った。途中から息を音に変換するのに精いっぱいで先輩の顔を見れていなかった。
荒く肩を上下させながらも僕は先輩の顔を見上げる。
一瞬、それが本当に先輩かどうか分からなかった。
だって先輩の肌はいつも、百合の花よりも、足跡のない新雪よりも白くて、艶やかで、輝いている。
だって先輩の眼はいつも、夜の端を少し貰い受けたように世界中のあらゆる色を混ぜたように濃い黒色で、澄んでいて、深い。
だって先輩の唇はいつも、清流のように涼やかで、曇り一つない刃のように結ばれていて、鮮やかだ。
なのに。
今の先輩の肌はその胸のリボンよりも赤く、薔薇よりも紅く、血よりも朱い。雪を当ててみれば即座に溶かしてしまう程に熱を発している。
今の先輩の眼にいつもの平静はなく、あらん限りの感情がないまぜになって渦を巻き、瞳孔は一瞬おきに別の方向を向く。
今の先輩の唇に鋭さなんてものは皆無で、縫い目が甘くて綿が漏れているぬいぐるみのようにその端はふにゃふにゃと揺れ動いている。
状況を把握するのに数瞬の時間を要したが、なるほど、これはつまり。
先輩は、照れている。
可愛い。
可愛すぎる。
理性なんか第三宇宙速度で放り投げてそのまま先輩を抱きしめたくなるほどに可愛い。あぁ、後ろで結ばれていた手が胸の前で揺れ動いていて、そんな仕草も一等可愛い。あ、今唇の端から「ふみゅう」って声が漏れ出た、何それ可愛さ一等星か。
駄目だ、そういう場面じゃないと分かっているのに思考が全て先輩可愛いで結ばれてしまう。
「ふふ、これは確かに想像以上だ。君はもう少し……恥ずかしがり屋だと思っていたからね」
先輩が平静を取り戻すのには数分を必要とした。まだ頬は朱に染まっているが、それでも何とか口調だけはいつも通りに戻っている。少し惜しい。
「ええ、そうですよ、普段ならこんな事言えません。先輩だから言えるんです。絶対に伝えなきゃいけない人だから、言えたんです」
僕はただ思っている事を伝えただけだったが、先輩にとっては追い打ちとして機能したらしい。頬の赤色は濃さを取り戻し、先輩はまたうつむいてしまった。可愛い。
「私だから、か。」
うつむいたまま、先輩はぽつりと呟く。僕は頷いた。
「他の誰にだって……、僕は言えませんよ。先輩以上に好きな人なんて、いませんから」
そう言うと先輩は遂に決壊してしまったのか、それまで仕草までで何とかとどめていた感情をわぁーっ、と声で発露した。
「分かったよ。そんなに何度も言わなくていい……、くく、何世紀も生きてきたがね、こんなにも、うん、こんなにも名状し難い気持ちになったのは初めてだ。君は勿論知らないだろうがね、これまで生きてきた中でこうして人間と話すのなんて、君が初めてなんだよ」
思い切り吐き出して多少落ち着いたのか、先輩は改めて僕を見下ろす。負けじと見上げる僕の眼を見て、先輩は観念したようにくすりと笑った。
「本能的に求めていたのかもね。朽ちゆく心体を保つための縁、錨のような存在を。だが、うん。私も少しくらいは抗ってみようか」
そう言って先輩は鉄柵から飛び降りる。いや、その優雅さをきちんと描写するなら、舞い降りた、が正解か。
それに合わせて僕の目線は下がり、いつも通りの高さになる。なんとなく安心するが、先輩は少し不満げだった。
「そういえば同じ目線の高さにはなった事がないね」
ちょいちょいと先輩が下を指さす、僕はその行為の意図を察して、少し身をかがめて先輩と目線の高さを合わせる。
「うん、これで良し」
満足したように先輩は頷いて、そのまま僕に向かって一歩踏み出す。そのままもう一歩、さらにもう一歩。なぜかまた色味の増した頬が近づく。目線が同じだからか、先輩の顔がいつも以上によく見える。いや、見えすぎじゃないか? だってこんな、唇が近く大きく見えるわけ──。
「眼は閉じてくれよ」
瞬間、熱。
唇を起点に広がる温度はありとあらゆる感情を同時に引き起こし、出力が間に合わずにただ体をこわばらせる。
自分と先輩以外の全てが世界から消失したような感覚。この世の熱量は今僕と先輩が触れ合う一点に集中している。
永劫にも刹那にも感じる宇宙創成のような接触は息ができなくなった僕が離れた事で終わった。
あまりの情報量に視界が明滅する。対照的に先輩は全く動じず、直立したまま。
「想像した事もなかったよ、自分が唇をこんな風に使うなんて」
温度を確かめるように、先輩は唇を指先で触れる。
「不思議だ、血を吸わなくても君の考えてる事がわかる、思いの熱が伝わるんだ……、それにこっちの方が、ずっとあたたかい」
今度は僕がわぁーっ、と声をあげたくなる。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
脳が処理装置としての機能を果たしていない。先輩を見習って平静を保とうとするが、無理だ。
「先輩っ」
僕は少し遅れて全身を満たし始めた熱を排出するために声を上げる。それに対して先輩は、どこまでも静かだった。指は唇から離され、今は自分を抱きしめるように腕を組んでいる、
まるで、今得た熱をほんの少したりとも逃がしてしまわないように。
「ありがとう。最後に、抱いて生きる熱をくれて」
「え」
風が一際強くなる。前髪が視界にかかり、先輩が良く見えない。
「さようなら、北条昴くん」
雲が風で動く。月光がほんの一瞬遮られ、先輩の姿が陰る。
雲が流れた時には、先輩はもうどこにもいなかった。
「えー、ぇ?」
かすれた声しか漏れ出ない。
僕はよろよろと先輩が立っていた場所へ近づく。何もない場所でこけた。受け身も取らずに打ち付けられた体は恐らく鈍い痛みを訴えているんだろうが、意識はそれを関知しない。
立ち上がる事もせずに這いずるように先輩の残滓を求めて屋上の床を叩く。感じるのはただ無機質な冷たさだけ。
「……そうだ、部室、部室だ」
混乱する脳がようやく部分的に機能を復旧し始めた。先輩を追わなきゃと震える足に何とか力を込めて立ち上がる。先輩、先輩と口の中で何度も念じるようにつぶやき続ける、その行為がかろうじて俺を崩れさせないでいてくれた。
屋上のドアを叩くように開け、階段を二段飛ばしで駆け降りる。はたからすれば転げ落ちているのと見分けがつかなかったろう。
人の気配のしない廊下を走り、またこける。今度はすぐに立ち上がり、部室の前へ駆け込む。
しびれる指先がドアの取っ手を掴む。一瞬息を整えようかと思ったが、先輩はその一瞬でまた別のところに行ってしまうかもしれない。僕は息苦しさと体の節々の痛みを無視してドアを開く。
「……嘘だろ」
部室の中には何もなかった。
あれだけ散らばっていたガラクタも。
先輩のおすすめが詰め込まれていた本棚の中身も。
僕達が作り上げていたロケットも。
全て、影も形もなかった。
唯一残されていた備え付けのちゃぶ台の上では、部室の鍵が鈍く輝いている。
「あう、うううぁぁぉぉおああ、ああ、ああああ」
叫びながら僕は部室を飛び出した。
あれだけ忌避していた夜の街を駆けずり回り、先輩の原付で走った山道を越え、誰もいない高台でむさぼるように呼吸をした。
靴はボロボロ、中の足は皮膚が剥けて血だらけになっていた。力の入り切らない足は途中何度も崩れ落ちて、その度に全身を地面に叩きつけた。水も取らずに走り続けた僕の体は意識を保つのもやっとで、それでも僕は先輩の影を求めて走り続けた。
けれど。
先輩はどこにもいなかった。いたという痕跡すら残していなかった。
唯一、僕の唇にともされた熱だけが、先輩が確かにいた事を示している。
「先輩の、嘘つき」
いつか、先輩が宇宙の彼方へと飛び立つ姿を見届けると言ったのに。
あのロケットが完成するまでは僕の前から消えないと言っていたのに。
太陽と地球の間に挟まれた新月のように、先輩はもう、この空の下のどこにも見えない。
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