第4話 Let`s go way out.

 学校での授業を終えて夜の街を一人歩く。等間隔に並ぶ街灯の青白い光が星の光をかき消していた。

 今日は放課後の部活はお休みだった。

「取り寄せていた部品が店に届いたようだからね、受け取りついでにガタが来ていた工具なんかも見繕ってくるから、今日は君も好きにしたまえ」

 とは先輩の談。もっともらしい理由を述べているが、実際は夜の街が苦手な僕の事を気遣っての事だろう。

 長命の存在であるが故の余裕だろうか。何であれ、そういう気遣いが嬉しい反面、まだまだ温かい目を向けられるだけの存在である事がほんの少し悔しかったりもした。

「しかし好きにって言ってもな」

 時刻は十時前。もう十分夜も更けている頃合いだが、先輩と出会ってこっち、授業が終わったら毎日あの部室で見様見真似で機械を弄ったり無駄話に花を咲かせたりしている内に帰路につく頃には日をまたいでいる事なんてざらだったので、この時間一人で何をしていいのか、ぱっと思いつかない。

 寄り道せずに家に帰るという選択肢は無意識のうちに優先度を低くしていた。

 別に家族仲が悪いわけではない。僕が学校に行かないと言い出した時は流石に色々ともめたが、それが正常な親の反応である事は分かっている。

 平均的に凡庸で。

 押しなべて普通で。

 呆れるくらい善良。

 それが僕の両親だった。

 親に憧れを持つのは幼い時だけ、なんて聞くが僕は高校生になった今でも優しさと厳格さを併せ持った両親を尊敬しているし、そうなれるならなりたいとも思っている。

「そうなろうとして、あの結果だったわけだけど」

 知らない間に変な癖でもついたか、それともいつもなら先輩とだらだらと話している時間だからか、今日はやけに独り言が多い。

 それと同時に小腹が若干空いている事にも気づいた。今の学校に通い始めてからは基本休み時間に食べる弁当やサンドイッチが夕食だったが、今日は昼間、せめてもと思って行っている家事に精を出しすぎてつい食事の用意を忘れてしまっていた。

 元々食の細い方ではあるので一食くらい抜いても問題はないのだが、空腹感というものは一度気づいてしまうと中々振り払うのが難しい。

 歩く道の先を見ると、ちょうど煌々と輝く看板が目印のコンビニがある。適当に夜食でも買おうかと入店する。

 適当に店内を歩き回る。壁に再来週の花火大会のポスターが壁に貼ってあった。

「ふむ」

 また独り言。しかし僕の脳内では今そんな事も気にならないほどに高度なシミュレーションが行われていた。

 定時制高校にも夏休みはある。どの道関係なく僕はあの部室に入り浸るだろうが、授業が無いという事はつまり、それ以外の選択肢を取る事も出来るというワケだ。

 そう、例えば先輩と一緒に花火を見にいく、とか。

 脳が高速で回転する。僕は幻視した。先輩がかき氷を小さい口で少しずつ食べる姿を。中々上手くいかない金魚すくいに躍起になる姿を。

 そしてそう、先輩の浴衣姿を!

 そこまで精彩に想像したところで僕の頭は処理落ちを起こした。だがしかし、それに足る結果は算出された。

 明日にでも先輩を誘おうそうしようそうしましょう。

 僕はうきうき気分で明るい店内を再び歩き始める。店員が若干怪訝な目で僕を見ている気がしなくもないが、きっと気のせいだろう。

 いくつか新商品のスイーツが出ていたので、高揚に身を任せてつい手を伸ばしそうになったが、筋トレやランニングといった趣味はなく、最低限の運動を保証してくれる体育の授業も受けていない今の身には毒だろうと理性を総動員し、結局買ったのはサラダ弁当だった。

 マニュアル化された接客を受け、なんとなく癖でこちらもおざなりな会釈を返しつつ、自動ドアの前に立つ。商品を物色しながらも、結局一人で夜を有意義に過ごす方法は思いつかなかった。このまま帰る事を決め、開けた視界に目をやると──。

「あの……北条君、だよね」

 唐突にかけられる声。一瞬脳裏に夜間に出歩く学生という自分の身分が明文化され、連鎖的に補導や注意という言葉が泡のように浮かび、その声の主を見て泡は泡らしくパチンと弾けた。

 茶色がかったポニーテール。くりっとした眼。ガラス越しのコンビニの店内の照明がほのかに上気した頬と、少し荒く息を吸う唇を照らす。ジャージ姿のその少女は恐る恐る言葉を紡いでいく。

「ひ、人違いだったらごめんなさい。けど北条君、だよね。北条昴君。あの、第三中の」

「さ、くらいさん? なんで……」

 記憶が巡る。

 桜井、……駄目だ、下の名前は思い出せない。けれどクラスメイトだった事は覚えている。

 いや、忘れられるはずがない。

 彼女は、僕が滅茶苦茶にしたあの中学三年生時のクラスの、一人なのだから。

「覚えててくれたんだ……。あ、あの私ほら、陸上部だから。夜走るの日課になってて」

「そ、そうなんだ」

 彼女はジャージの裾を握って絞り出すように言葉を発する。独特の空気感に呑まれて、僕もあやふやな相槌しか打てない。

 沈黙が場を満たす。桜井は頭一つ分くらい背の高い僕を見上げては何か言葉を発そうとし、またすぐに俯き、ギュッと目を瞑った後また見上げて……という行為を何度も繰り返している。

 対する僕も似たようなものだ。確か桜井はそのまま市立の高校に進学したはずだ。あのクラスはとりわけその率が高かった覚えがある。僕もその一人、になるはずだった。一クラスに在籍する四十人の関係性に大きな軋轢を生んで、その上無責任にもそこから逃げ出して別の環境に身を置いている今の自分の立場を考えると、当事者に一人である桜井にかけられる言葉はそうそう簡単に浮かんでこなかった。

 ……もう数分も経っただろうか。桜井は首の上下運動をやめ、今はじっとアスファルトを睨んでいる。心なしか震えているようにも見えた。

 おおかた、日課のジョギングの最中に偶然急にいなくなったと思っていた同級生を見て不意に声をかけたものの、特に何か話題もなかったので後悔している、といったところだろうか。

 僕は彼女を救い出すためにも先に別れを告げようと口を開く。

「えと……、それじ「あ、あの北条君!」な、なんでしょう」

 僕は思わず敬語になる。

 発条で弾かれたパチンコ玉みたいに飛び上がるような勢いで突然口を開いた桜井は、自分でも声の大きさに驚いたらしく、また頬を赤らめる。が、今度はそのまま上下運動には移行せず、言葉を続けた。

「ちょ、ちょっと一緒に歩きません、か」

 予想外の言葉に今度こそ僕はフリーズする。

 話す内容が無くて困っていたのではなかったのか。なのになぜ続行を希望するのか。

 桜井の様子を見るとやけに緊張はしているが、どうもいやいやという感じではない。

 数秒考えて、僕は自分の推測がどうも間違っているらしいという事に気づいた。

 僕は改めて桜井に目をやる。理由は分からないが、勇気を出して誘ってくれたらしいという事は何となくわかる。

 断る理由はない。僕はおかしな展開になったな、と思いつつも頷いた。

「じゃあ、ぜひ」

 そう告げると桜井はその名に恥じぬ満開の花のような笑顔を浮かべた。よく分からない状況ではあるが、この笑顔が見られただけでも良しとしよう。

 ……さりとて、そうして歩き出したからといって話題がぽんぽん湧いて出るわけでもなく。

 桜井は笑顔を浮かべたまま前を向き、隣を歩く僕の顔を見、また前を見、と今度は左右に首を動かしていた。

 正直これだけでも十分面白いが、だからといってこのまま歩いてバイバイというのもよく分からないし、なにより桜井の首がお釈迦になりかねない。

 僕は中学生の時の苦い思い出の山と対峙し、話題になりそうな事柄を発掘する。

「桜井さん、高校でも陸上部なんだ。そういえば中学の時も足早かったもんね。体育祭のリレーの時とか、すげーって思ったの覚えてるよ」

「ほ、本当? う、嬉しいけどちょっと恥ずかしいなぁ……」

 彼女の足の速さが鮮烈に記憶に残っているのは事実だ。この小さな体が土ぼこりを立て、何人もごぼう抜きしていく様は圧巻だったとしか言いようがない。

 思い出話を受けて桜井も普段の調子を少しずつ取り戻したのか、今度は彼女から話題を振ってくる。

「北条君はその、今……」

 質問の意味は明白だ。僕はなんでもない事のように返す。

「夜間の定時制高校。流石に学校は行っとけって親がさ」

「そ、そうなんだ。夜間、夜の学校か、凄いねぇ……」

 別に凄くはないんじゃないかな、と思ったが口には出さない。実際自分もその身で体験しなければ中々想像のつかない世界であったのは事実だ。

 そんな具合に僕達は言葉を重ねるごとに少しずつ表情を緩め、若干ぎこちないながらも気心の知れた友人のように話し続けていた。

 けれどそんな時間もいつまでも続くわけでもない。十数メートル先の交差点で僕と桜井は逆方向に行く。名残惜しい、という気持ちを抱いている自分に驚く。それはきっと、桜井が今の僕とは違う世界、昼の世界の住人だからだ。

 桜井は、引け目なく昼の街を歩ける。陽の光を浴び事ができる。それは彼女にとって当然の事で、否、多くの人間にとっての条理である。

 ほんの少しまでは自分のいた世界をこうして感じているから、名残惜しいなんて感情を抱いてしまうんだろう。

 そんな風に自分の胸中について考えを巡らせていると、突然隣に並ぶ桜井が立ち止まった。

「ん?」

 一歩前に出た僕は振り返る。桜井の手はまたジャージの裾を掴んでいる。

 さっきと違うのは、その表情だ。

 出会い頭のどうすればいいのかわからなくて混乱しているようなそれとは違い、今はするべき事が決まっていて、けれどあと一つ踏ん切りをつける要因が足りない、そんな感じ。

 その逡巡は裾を握る拳の力が緩められた事で、断ち切られたとわかった。

「あのね、北条君」

 息を吸う。

「あの二人、仲直りしたよ」

 短い言葉。

 けれどそれだけで桜井は僕に意図が伝わると考えたし。

 事実僕はその言葉を受け止め、噛みしめる必要もなく、正常に把握していた。

 同時に想起される僕の傲慢が引き起こした崩壊の記憶。喉が干上がっていく。心臓の音がやけに響く。

「いや、ううん、仲直りっていうか、完全に前と一緒、ってわけではないけれど……。環境が変わったのもあるのかな、あの時のクラスの皆もそれにあわせて、うん、ちょっとずつだけれど、また新しい関係ができそうになってる」

「……そう」

 そうか。

「そうなんだ」

 僕は息を吐いた。深く、重い息を。

 そのまま今度は空を見上げる。星はやはり家々の明かりや街灯によってよく見えない。光は遠く、空は狭い。行き場を失った感情が息とともに言葉になって漏れ出る。

「じゃあやっぱり、僕がした事は完全に無駄だったね」

「そ、それは違くて!」

 喘鳴のような言葉をかき消すように桜井が叫ぶ。今度は自分の声の大きさに自分で驚いたりもしない。

 これは、彼女が自分の意思で放つ言葉で、声量だった。

「あ、あの時私とか、他に何人か、知らない間にクラスが嫌な雰囲気になってて、真っ二つに分かれてて……この空気をどうにしかしたいのに、それを実行する方法も勇気もなくて、ただ俯いている事しか出来なかった子って何人かいて」

 単語ごとに区切るような話し方は彼女がそれだけ真摯に話してくれている事の証左だった。自分の想いと考えに少しでも近い言葉を口にしようと、彼女は必死に頭を巡らしている。

「ほ、北条君のした事はあの状況の解決には繋がらなかったかもしれないけれど、でも確かにあの時、私達にとって唯一の救いだったんだよ。それは絶対に誰が何と言おうと、北条君がどう思おうと、間違いない事なんだよ」

 僕は相槌も打たず、ただ聞く。

 僕が見ていなかった世界からの言葉を、ただ静かに受け入れる。

 あの時、そんな風に思っている人がいるなんて分からなかった。いや、考えもしなかった。

 何度思い返しても、どれだけ自分の都合のいいように考えてもやっぱり、あの時の僕は傲慢で自分勝手で、偽善者だった。

 それでも。

「だからその分、あの時一緒に動いていたら、また違った事になったかもしれない、ってずっと思い続けて……、あの時ただ見ているだけだった私がこんな事今言うのは凄く卑怯で狡い事だってわかってるけれど、それでも!」

 そうじゃないと、嘘でも思ってくれている人がいた。

「北条君のした事は無駄じゃなかったんだよ」

 その人の言葉で、思いで過去が変わるわけじゃない、未来にだって影響は少ないだろう。

 けれど。

 けれど今だけは、救われた気持ちになっても罰はないと信じたかった。

「ご、ごめんこんなにいっぱい喋っちゃって」

 桜井は我に返ったように顔を今までにないほどに真っ赤に染め上げ、わたわたと手を胸の前で揺れ動かしている。そんな謎の挙動に僕とくすりと笑って答える。

「……、ううん、ありがとう。桜井さん」

 僕も彼女に応えて、少しでも自分からブレない言葉を慎重に口にしていく。

「今君にこうして話してもらって、勝手に救われた気分になるのは、助けられた気分になるのは、それこそ卑怯で狡い事かもしれないけれど」

 言葉に込めた力とは裏腹に、僕は気の抜けたような、自然な笑顔を気づけば浮かべていた。

「けれど、うん。無駄じゃなかったんだな、っていうのは、分かった。だから、ありがとう」

 そう告げて。

 僕と桜井はどちらからともなく、ぺこりと互いに頭を下げて、笑った。

 歩みが再開される。

「北条君はさ、私達の学校に戻る必要、ないと思う。北条君凄く頭良かったし、たぶんもっといい学校、いつでも入れると思うんだ」

 あ、えとそれは来ちゃ駄目とかそういう意味じゃなくて、勿論来てくれるのは凄くもの凄く嬉しいんだけれども! と桜井はまだ何も言っていないのに弁解を始める。すっかりさっきの調子だった。

「私達がいる学校に来たら、きっと北条君は嫌でもあの事を思い出すでしょう? これはその、気遣ってるとかじゃなくてね、勝手に期待しているだけなの」

「期待?」

 突然の言葉に僕は首を傾げる。

「北条君は、優しくて、格好良くて、凄い人だから。私達みたいな重力に引っ張られないで、思いっきり飛んでほしいの」

「それは過大評価しすぎだよ」

 僕の苦笑に、桜井は純粋無垢な笑顔で応えた。

「そう? でも私はそう見えたし、今も見えてるよ。それに、信じるのは自由でしょ?」

「まぁ、それは……」

 なんとなく面映ゆい気持ちになる。あの時の自分を認めてもらえたのは嬉しいが、今の自分を持ち上げられるのはどこかくすぐったい。

「じゃあ私こっちだから」

 気づけば僕達は交差点にたどり着いていた。桜井が指す道の信号は緑。

「あぁうん、……その、ありがとう」

「私こそ。……またね」

 手を振って走り去る桜井は、記憶と違わず、いやあの時以上に速い。それに、まっすぐだ。

 よくは見えないけれど、それでも星に今日のこの予期せぬ出会いに感謝しようと空を見上げて──。

 トン、と。

 不意に背後から音がした。

 僕は音のした方へ反射的に振り返る。真後ろではなく少し上、家の屋根くらいの高さから聞こえたはずだとあたりを見渡しても、人影はおろか鳥の一羽すらとまっていない。

 けれど、それはど事なく聞き覚えのある音だった。

 飛び立つために踏み込むような、そんな──。

「先輩?」

 脳裏に浮かんだ単語をそのまま口にする。

 答え合わせの為の影は、もうどこにもない。

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