第3話 Drive me so crazy.
慣れない振動が腰を揺らす。
僕は先輩の運転する原付の後部に座っていた。先輩はいつも通りの黒のセーラー服。長いスカートは危険ではないのか、ミニスカートとかの方がいいのではないかと言ったけれど、慣れているからと一蹴された。「君ね、嘘を上手くなれとは言わないがもう少し本音を隠す練習をした方がいいぞ。なんというかまぁ、年相応の欲が見え見えだ」とため息交じりの忠告を添えて。
くねくねとした山道に他に車の影はない。段々と見下ろすようになっていく夜の街は人工の輝きで満ちていた。
ロケット作りの合間にたまに僕と先輩はこうしてふらふらと出かける。最初の方は順当に夜の街へ繰り出したりもしていたが、僕があまり気乗りしていない事に気づいた後は郊外であったり、あまり人が集まらないところに足を運んでいる。「私もどちらかという自分だけの穴場探しとかね、そういう事の方が好きなタイプなのさ」と先輩はひらひらと手を振って答えてくれた。
かなり年季の入った原付だが、僕と先輩二人を乗せて難なく山道を走っている。昔は趣味全開の大型二輪を乗り回していたらしいが、若気の至りだよ、と初めて後ろに乗せてもらった時に先輩は言っていた。
「何より目立つしね」
というのは初めての単車に緊張していた僕の前でヘルメットを被ろうとしていた先輩の談。
「やっぱり目立つと危ないものなんですか? その、吸血鬼狩りとか」
「いや、単純に不老がバレるのが面倒だからかな。私達は肉体を維持する力と意志さえ足りていれば髪の毛すら伸びないほどに不変の存在だ。ある程度偽装はしているが、それでもあまりに注目されると流石に違和感に気づくのが出てくる。そうなるとそのコミュニティでは中々生活しづらくなるからね。なるべく衆目の中心には近寄らないようにしている」
それに、と先輩は続けた。
「吸血鬼狩り、ヴァンパイアハンターなんてのは今となっては遺物だよ。というかそもそも吸血鬼の個体数自体が減少傾向だからね。一応存在はするだろうが、それでも吸血鬼専門の祓魔師というのはもう東欧くらいにしかいないんじゃないかな? 少なくともこんな極東の島国に常駐してるやつはいないと思うな」
その日、もう人の気配のしない深夜の学校の駐車場で僕達は喋っていた。月光は校舎にさえぎられて届かないはずなのに、先輩の体だけが淡く銀色に輝いているように感じたのを覚えている。
「吸血鬼退治というのは基本的にハイリスクローリターンだ。直射日光や銀の杭、聖別を受けた何かしらによるものでない限り、基本的に吸血鬼は外部からの干渉では死なない上に、長く生きた個体であればあるほど機械みたいに物事を判断するから簡単に祓魔師側の索敵に気付いて姿を隠す。千日手なんだよ、いわば」
酷く現実から乖離した事柄を彼女は淡々と口にしていた。
部室での自堕落な姿を見ていると、時折実は吸血鬼というのは質の悪い冗談だったんじゃないかと思う時もあるけれど、それでも、異なる世界、異なる論理、異なる現実について語る時に放たれる、丑三つ時に浮かぶ三日月の如き妖気を目の当たりにすると、僕はとてもそんな風には思えなくなるのだった。
「昔はそれでもやっきになって草の根かき分けて見つけ出しては殺していたりもしたそうだがね、現代では自然消滅を待つのがセオリーと判断されたようだ。逸話のように毎晩人の血を吸って眷属を増やすわけでもないし、放っておいても構わないだろう、とね。完全に暴走してやたらめったら転化させまくる個体が出た時くらいだよ、彼らが仕事をするのは。単純な危険度だけで言えば人狼とかの方が高いし、基本的に私達は放任されてる。人間でいう保護観察処分みたいなものかな?」
途方もつかないような話を聞いて呆けている僕を見て、先輩は薄く笑った。
「イメージと違ったかな。がっかりさせちゃったかい?」
「いえ別に……、どちらかと言うと少し安心しました」
「安心?」
「そういうのに巻き込まれたりして先輩が急にいなくなったりしない、って分かったので」
夏の夜にしては涼しい風が吹いた。同時に、辺りを支配していた異界の空気が急速に晴れる感覚。
「──当然さ、君と二人でロケットを打ち上げるその時まで私はどこにも行かないよ」
先輩はどこか落ち着かない様子で、ヘルメットのバイザーを下げた。
──と、そんな事を思い出していると。
「昴くん、きちんと手を回しておきなよ。この時間に病院に連れ込むのは面倒だ」
「あ、はい……、分かってます」
不意に前を向いたまま放たれた先輩の忠告で現実に引き戻された僕は曖昧に頷く。先輩の声は走行中の原付の上でも風に流されずによく聞こえた。
手を回す。
先輩の愛車に二人乗りさせてもらうのはもう数回目だが、こればっかりはどうにもならない。初めての時はその事実を受け止めきれず激しく狼狽し、先輩に本気で理解不能とあきれた目を向けられたくらいだ。
手を回す。どこに? 腰に。誰の? 先輩の。
……いやこれを平然と受け入れろという方が無茶だろう。
科学部での自堕落ぶりを目にして以降先輩に関する評価は急落し続け、今現在では手のかかる子供というおよそ自分の何倍も生きている生命には不釣り合いなレッテルを貼っているが、とはいえそれはそれ。あの日スポットライトのように月光を受けて輝いていた、人では到底至れない怪しさと美しさを漂わせるその美貌とプロポーションはいまだ健在。むしろ交流を深めるほどに、黒のセーラー服が夜闇に溶け込んで輪郭のはっきりと見る事ができなかったあの日以上にはっきりと、ルネサンス期の彫像もかくやと言うべきその黄金比を目のあたりにしてしまっているのである。
月はかつてより美と死と愛の象徴とされるが、それをそっくりそのまま人型に落とし込んで作られた体に密着し、その腰に手を回すなんて、正気では耐えられるはずもない。
脳内ではそんな文句がつらつらと光より早く綴られるが、もちろん先輩に面と向かって言えるはずもなく。あれよあれよと流されて先輩の走らせる原付の後部に座った時はせめてもの反抗として、控えめに回した腕から伝わってくる、もはやトレードマークと化した黒のセーラー服とその奥の何かこう柔らかくてほのかに暖かいものの感触から全力で意識を逸らし続けている。
目の前を見れば白いヘルメットで覆われた先輩の頭部。あぁほら、吸血鬼なのにヘルメットしてるなんてなんかシュールだね、道交法とかちゃんと守ってるの偉いねー、と僕は至極健全な思考を展開して迫りくる煩悩を退ける。ヘルメットもちゃんとバイク用のやつで、絹糸のように滑らかで細やかな黒髪もヘルメットの中に纏めているから百合みたいに白いうなじがよく見えて、あぁなんだか香水とかじゃ絶対に醸し出せないような良い匂いがして、ってだから去れ煩悩!
「む、君さっきから何を一人で騒いでいるんだい」
「せ、先輩! 急に振り向かないで! 前向いて! えと、ほら危ないから!」
僕は慌てて先輩に前を向くよう促す。危ないからという訴えは本音の半分。もう半分は先輩なら俺の考えなんて簡単に見通せてしまうんじゃないかと思ったからだ。
なんでもいいが急に暴れ出したりしないでくれよー、と軽く忠告して先輩は向き直る。僕はほっと一息ついた。
いい加減自分も原付の免許を取ろう。
先輩と二人乗りをする度に胸中に湧く思いを、僕は今日も新たにする。
そんな決意は、降車した後、腕に残った摩訶不思議で素敵なぬくもりの名残惜しさですぐに砕け散るのもいつもの事だった。
山の高台にある小さな公園には今日も誰もいない。数年前、隣の山に展望台や宿まで兼ね備えたデートスポットとしても評判の広場が作られてからは人が流れ、道の状態も悪く、ベンチくらいしか置いていないこの公園は閑散としている、と以前先輩に教えてもらったのを思い出す。と同時に、デートスポット、デートという単語が独立して、先輩の声で脳内でリフレインする。
では、ではではこのお出かけは先輩的にはデートに該当するんでしょうかしちゃったりするんですかどうなんでしょうか──。
と、そのまま放置していれば過負荷で脳がオーバーヒートしそうだったので僕は強制的に思考を断ち切る。熱暴走一歩手前の頭を夜風で冷やそうと、僕は錆びついた柵の前に立って地上を見下ろした。
ここからは僕達の暮らす街がよく見えた。
幾星霜の時を超えてなお、プロメテウスの火は形を変えて今も文明を灯し続けている。群青の夜の帷をかき消す、星空のような生活の輝き。天の川のような街並みはくらくらするほど人間的で、排他的だ。
せっかく人の匂いと音から離れて自然を享受できる場所に来たのに、空にではなく人工の空間に星の言葉を使っている自分に気づいて少し笑った。
「霊長たる人類を臆面もなく評せるほど長くは生きていないがね、それでも人という種は特異だ」
僕の隣で柵にもたれかかる先輩は、夜の街ではなく空を見上げていた。月は上弦。さっきまで原付に乗っていたとは思えない幽美な立ち姿。胸の奥、魂すらも見通せそうな程に黒い先輩の瞳は、いったいこの果てのない空をどこまで捉えているのだろうか。
「好み、願い、欲する。嫌い、拒み、絶やす。背反した事象とは言え、その原動力が思う事であるのは共通している。その力がここまで文明を発展させ、夜から恐怖すらも奪った。それに比べて生きるほどに想像力を失う吸血鬼という種は、淘汰されてしかるべき存在なのかもしれないね」
先輩は、僕の目の前にいる吸血鬼はそう言って、くく、と笑った。
彼女は時折、世間話でもするかのように“終わり”を口にする。普段はそれを受けて僕が縁起でもないと顔をしかめ、冗談だよと先輩が一笑に付す。
けれどなぜか、今日この時に限って僕は口を開いていた。
「良い事ばっかりじゃありませんよ、想像力豊かなのも」
「──ほう」
都市の喧騒から離れた静かな空間に、先輩の声ともつかないような息が嫌に響く。
その瞳には好奇の色。どうも、珍しい僕の反論は彼女の気を惹いたらしい。
「その口ぶりだと、蘊蓄や経験の一つ二つありそうじゃないか、昴くん」
「そんな大したものじゃありませんよ……、ただの気の沈む思い出話です」
そう、その程度の事だ。人間なら誰しもが持つ青春の苦い思い出。言い切ってしまえばその程度の事。
卒業を間近に控えた中学校のある教室の中でいざこざを起こしている二つの派閥があって、一人の少年はただ皆と笑いあって別れたくて、きっと何か一つきっかけがあれば元に戻れるはずだと信じて。
そしてその少年は皆の事を考えた。二つのグループはいったい何が原因で反発しあっているのか。それぞれに属する一人一人のクラスメイトはその状態についてどう考えているのか。誰と誰がその二つのグループの中心核で、その二人をどうすれば仲直りさせられるのか。
そんな事をつらつらと考え続けて、頭を悩ませて、勝手に心を痛めて、そしてようやく、こうすれば皆前までのように仲良くなれる、笑って卒業できると思いついたアイデアを実践して。
もう完全に修復不可能なほどにクラスの繋がりを破綻させる事件のきっかけを作った。
「つまりはただのKYだった、って事です。きっとね、何もしないのが正解だったんですよ、あれは。適当に放置しておけば、勝手に時間がヒビを埋めて、卒業式の日にはそれこそ以前のようにクラス一同笑顔で集合写真でも撮っていたはずなんです」
街の光が目に染みたのか、熱に浮かされたように僕は話を続けた。
「けれどね、そいつ一人が全部台無しにしたんです。正義漢を気取って、自分ならできるなんて根拠のない自信に溺れて、引っ掻き回したそいつが。分かりもしない、受け止めきれもしないくせに人の心の中を勝手に想像して、見当違いな答えを見つけ出して喜んでた馬鹿一人が」
話しながら泣くかな、と思っていたけれど不思議と涙は出なかった。だからといって今こうして吐き出せて清々している、なんて言うつもりはない。そんな事を口にできるほど腐っているつもりはない。
ただ、期待はしていたかもしれない。
僕のこの陳腐な懺悔も、薄っぺらい後悔も、先輩ならこの無窮の空のようにすべて吸い上げてくれるんじゃないか、って。
そんな願いを勝手に抱いているどこまでも他力本願な自分に思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
「それなのにもうどうしようもない状態になったと分かった時は、一丁前に泣いて悲しんで寝込んで、……学校に行くのも嫌になったりね。本当面倒くさいやつですよ」
先輩は何も言わず、ただ空を見つめている。
「だからもう、何も考えないようにしようと思ったんです。他人の事も、自分の事も。身近な事も、遠くの事も。今日の事も明日の事もその先の事も、夢の事も」
「対極だね」
何となのかは言わず、僕の独白を聞き終えた先輩はただそう一言呟いた。
「そう、ですね」
「なのに拒まないのか」
「はい。──その分、よく見えましたから」
近すぎる存在は、その一部分しか視界に収まり切れないけれど。
対極の存在は、距離があるゆえにその全体像を知る事ができる。
だからこそ、三十八万四千四百㎞先の月に地球人が憧れたように、僕は先輩から目が離せなくなったのかもしれない。
「そうかい」
先輩は同情も慰めも寄り添いもしない。きっと、それが僕が心の奥底で求めている反応だと分かっているから。
僕はその優しさに笑みを浮かべる以外の返し方を知らなかった。
「ここでは少し、人の光が強すぎるね」
だから、続く先輩の言葉は完全に予想外だった。僕は目を白黒させる。
くく、と今度は先輩は悪戯を思い付いた子供のように笑った。背からもたれかかっていた先輩は反動を利用して勢いよく体を柵から離す。こちらへ向き直った先輩は有無を言わさず僕の手を掴んだ。
「色々と話してもらったお礼だ。まだ人が掴めていない夜の領域へ、ほんの少しだけ招待しようか」
「え──」
「口は閉じておいた方がいい。舌を噛むよ」
漏れ出た僕の息が音を成すより早く、先輩は手を繋いだまま勢いよく一歩を踏み出した。
次の一歩は柵の上に、さらにその次は宙空へ。
先輩、と制止の声は間に合わず、次の瞬間僕達の体は柵を超え、地上へと飛び出していた。
体全体が感じる烈風。五臓六腑が浮き上がるような感覚。次に来るであろう重力の負荷を予期して思わず目を閉じ、耐えようとして──。
「な」
身構えていた落下の感覚はいつまで経っても来ない。いや、これはむしろ。
「と、飛んでる……⁉」
「ふふ、そういえばようやく吸血鬼らしい権能を見せてあげられたね」
この地球上のあらゆる物体に干渉するはずの万有引力の法則も、今日この瞬間この地点だけは非番だったのか。
僕と先輩の体は夜空に浮かび上がり、今もなお上昇していた。
「人の輝きも少しは遠ざかったかな」
眼下の街並みはどんどん小さくなっていく。事もなげに笑う先輩が月を背にする。
銀色の半円の天体は重なった薄い雲すらも淡く輝かせる。
空が澄んだ湖面であり、その中になんの抵抗もなく沈んでいくような感覚。空に落ちていく錯覚が停滞していた心を動かし始める。
黒のセーラーの背中から翼が広がっているように見えたのは錯覚か。空に踊る夜の化身は、星明りで頬を染めたように眩いばかりの笑顔を浮かべていた。
「ああ、星空ってやつは本当に不思議だ。冷たくて遠くて暗い部分の方が多いのに、それでもこんなに可能性に満ち溢れているなんて」
──こんな宝箱を目にして、憧れない方がおかしいじゃないか。
「私に昼の住人の理は分からないがね、それでも思う事は間違いじゃないはずだよ。たとえどれだけ誤っていようと、歪んでいようと、間違いであるはずがないんだ。たとえその時はそう感じても、残留し、伝播した思いはきっと誰かにとっての北極星となる。何万光年、何億光年と離れた星の光をもって宇宙の広さを知るようにね」
……僕はつくづく馬鹿だ。
先輩ならすべて拭い去ってくれるんじゃないか? まったく、なんて世迷言。
先輩はただ、飛び続けているだけだ。翔び続けているだけだ。駆け続けているだけだ。
その軌跡は道標でも何でもない。その航海の先に正解があると確約されているわけでもない。
ただ我武者羅に果てを目指す。その行為がどれだけ途方もない事で、どれだけ尊い事か。
だから、僕は今ここで涙を流しちゃいけない。滲んだ視界では駄目なんだ。
僕は先輩を見つめる。嗚咽が漏れそうなのを誤魔化す為に、とにかく思いついた言葉を口にした。
「ずいぶん、高くまで来ましたね」
「なぁにまだまだ」
謳うように先輩は夢を口にする。
「今作っているロケットだって高度五十㎞までは到達させるんだ。私がいずれ旗を立てる宇宙の果てに比べればスタートラインにも立っていないよ」
先輩が挑むように睨む地平線の彼方を僕も見つめる。
その先に、空を真っ二つに裂く一条の軌跡が見えたような気がした。
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