第2話 I`ll take you higher.

 神崎天音、吸血鬼。年齢不詳。この学校の科学部唯一の部員であり部長の肩書を持つ。

「唯一じゃない、いまは君がいるだろうに」

 山と積まれたガラクタの向こう側から不服そうな声が聞こえてくる。ぴょこんと山の頂上から顔を見せた先輩はむー、とこちらを睨んでいる。僕は素知らぬ顔で団扇で自分を扇ぎ続ける。ニュースでは今日から梅雨入りだそうで、道理でじめっとした暑さが空気を支配している。

 この部屋にエアコンなんていう贅沢品は存在せず、僕は手が痛くならない程度に力加減を調節しながら団扇を動かす。

「とは言いますけどね、先輩。実際僕がここにきてやっている事と言えば先輩の話し相手になって、たまに荷物を運んだりするだけですよ」

「私としてはそれで十分なんだけどな」

 そう言いながら先輩は小休止とばかりに手に持っていた工具をおいてこちらへ歩いてくる。科学部に割り当てられた六畳一間の狭い部室は足の踏み場もないほどに散らかっていた。

 僕のように団扇で扇いでもいないのに先輩は汗一つかいていない。ん、と催促の声を受けて買ってきておいた缶コーヒーを手渡す。んく、んく、と両手で持って飲む先輩の姿は黒のセーター服の上から白衣を着たという奇怪なものだった。が、以前まではセーラー服を着たまま機械いじりをしていたのだ。同じ服を何着も持っているからかまわないという先輩に流石にそれはないと唱え続け、とうとう自腹を切って通販で買った白衣を渡してようやく納得してくれたという聞くも涙語るも涙の苦労話が背景には存在するのだ。

 僕は思わずため息を吐く。あの日、屋上で初めて出会った時の神秘的で妖艶な美しさはどこへやら。今目の前にいるのは、僕が一年生と知るや否や、私は一応最上級生としてこの学校に在籍しているんだから先輩と呼ぶように、と事あるごとに命じてくるカフェインと機械いじり中毒の手のかかるお姫様だった。

「なんやかんや言いつつも、お姫様なんて呼んでくれるんだね。君は」

 ガラクタの絨毯を何とか退けて確保した生存圏に置かれたちゃぶ台はこの部屋唯一の人間らしい空間だった。先輩はその上に腰掛けながら意地悪気に笑う。

「だから心を読まないでください。それに「ちゃぶ台の上に座るのは行儀が悪い、かな?」……むぅ」

 打って変わって今度はこちらが声に不満の色を滲ませる。先輩はくっくっと笑いながら立ち上がり、ちゃぶ台を挟んで僕の反対側に座りなおした。

「なら私も言わせてもらうけれど、これは別に心を読んでいるわけではないと前にも教えただろうに」

「……精度の高い想像、なんでしょう」

「覚えてもらえているようで何より」

 そう言って彼女は缶コーヒーの最期の一口を飲み終えた。

 先輩曰く、吸血鬼という種族は不老不死を達成した存在なのだそうだ。

 映画や漫画に出てくる吸血鬼のように定期的に人を襲って血を吸い、眷属を増やさなければその体は朽ちてしまうというのは人類の勝手な妄想が混じっており、実際は肉体の維持だけなら血を吸う必要はない。

 そう、肉体の維持だけならば。

「君だって経験があるだろう? 眼前の人物が一体何を考えているか、次にどんな行動をとるか。無意識下でそんな予測、想像をした事は」

 先輩は飲み終えた缶コーヒーの縁をくわえてプラプラと上下させる。

「その想像は君が蓄積してきた様々な情報や経験を根拠にして行われる。この人は以前あの時こんな行動をとったから、今はこういう風に動くだろう。この人はこういう風に動く人だから、自分がこんな事をしたらこんな風に考えるだろう、といった具合にね。ならば極論、人間が取りうるあらゆる状況におけるあらゆる行動をパターン化して把握してしまえば、どうだろうか。その人物を目にしただけで、その後どんな行動をとるか、何を喋るか、それに対し自分が返答したならばそれによって次にどう動くか、全てが想像可能となる。いや想像の為のシナプスの発火すら不要だ。だってそれはもう既に自明の事象なんだから」

 それはすなわち究極の条件反射だ。思考を必要としないほどに肉体に強く刷り込まれた本能的な動き。それがあらゆる条件に適応されるようになる。

「もちろん、こんなものは絵空事だ。人の短い一生では星の数ほどあるパターンを網羅する事は出来ないし、たとえ出来たとしてもその脳の容量では保有する情報を処理しきれない。そう」

「人ならば。けれど先輩たち吸血鬼は違う、でしょう」

 僕は先輩の言葉を先取りする。が、先輩は不服そうに頬を膨らませず、むしろ愉快そうに微笑んでいた。僕のささやかな反抗も先輩には想像できていたのだろう。

「その通り。さっきも言ったように吸血鬼の肉体はほぼ不滅だ。日光や銀の杭、にんにくといった弱点さえ避ければ半永久的に活動可能な疑似完全生物でもある」

 そう語る先輩の顔は、話す内容の壮大さに比べて誇らしさなんてものは少しも浮かんでいなかった。

 その表情を無理にでも明文化するなら、それは、そう。

 寂寥。

「ゆえに吸血鬼は人とは違う時間尺度を持って生きる。それこそ、人の身では絵空事で終わる話が実現可能となるほどにね。長く生き、色んな存在と出会い、色んな事を経験して……。次第に思考せずとも生きていけるほどに、パターンを網羅する。自分が自分である事を極めすぎてしまうのさ」

 それはすなわち、想像力との離別を意味する。

「吸血鬼がなぜ、鏡に映らないように進化したか考えた事があるかい」

 白い手で包まれた缶コーヒーの蓋に先輩の顔は映らない。夜闇を隔てる部室の窓にも。

 僕の眼だけが、先輩の姿を映している。

「耐えられないからさ。鏡に映った自分の空っぽ加減に」

 先輩は自嘲気味に笑った。

「長く生きすぎた吸血鬼はやがて何も思わなくなる。何を見ても聞いてもそれらはすべて過去に得たデータの派生でしかなく、思考よりも早く肉体がその状況に適した行動をとる。ある意味合理性の化身さ。それこそ完全生物かもしれない。けれどね、どれだけ肉体が究極に至ろうが、精神はその域に達していないんだ。何も思わず、感じず、機械のようにしか動かなくなった自分という存在を、知性体の最奥、魂は受け止めきれないんだよ」

 結局はね、と先輩は手首を振る。最適なスナップで投擲された缶コーヒーは壁に当たり、本棚の角で跳ね返った末、見事にゴミ箱の中へと到着した。僕はおざなりな拍手を送っておく。

 どれだけ人知を超えた身体能力を誇ろうと、例え四トントラックに轢かれても十数秒あれば復活できるような再生能力を兼ね備えていても。

 精神だけは、逸脱しきる事は出来なかったのだ。

「精神の破綻は肉体のそれと同義だ。自分の在り方を受け止められず、生きる気力を無くした吸血鬼は自らの体を崩壊させる。不老不死不滅の吸血鬼という種にとっての寿命がそれだ。そしてその終末を知った古の吸血鬼──まぁ正しくはまだこの呼称が普及するのはこの後なのだがね──は何とかして精神の崩壊、感情の喪失を食い止める方法を探った。そして得た答えこそが、吸血行為なのさ」

 僕はあの日、先輩と初めて出会った時の事を思い出す。人間の首に歯を立て、皮膚を食い破り、その血を取り込む。

 どん詰まりの種である吸血鬼が得た、唯一の生存戦略。

「血というのはあくまでも媒介だ。我々が欲するのは何よりも人間が保有する感情、心の熱。想像する力を失い、夜露に濡れた鉄のように冷たくなっていく心を動かす温もりを与えるには、他の生物から頂くしか方法はなかったのさ」

「それで一つ気になっていたんですけど」

 僕ははい、と手を挙げる。なんだね昴くん、と先輩はありもしない眼鏡をクイッと直す仕草をした。スルーする。

「吸血鬼は実際は心の熱を吸い取るだけなんですよね。なら、よくフィクションとかであるみたいに血を吸われた人間も眷属として吸血鬼になるっていうのは完全なデマなんですか?」

「ふむ、良い質問だね昴くん。十ポイントあげよう」

 百ポイントたまろうが千ポイントたまろうが別に何か貰えるわけでもない価値不明の謎のポイントを僕はありがたく頂戴する。せめてさっきまで先輩が飲んでいた、俺が買ってきた缶コーヒー代くらいには換金できてもいいんじゃないかと思うが、先輩はケチなので笑って流されるだけだろう。僕にだってこれくらいの予測は出来るのである。

「単刀直入に言うとデマではない。が、滅多に起こる事象でもない。さっきも言ったように吸血行為による心の熱量の補完は吸血鬼にとっての生存戦略だ。だがこれはあくまでも対症療法であって原因療法ではない。いずれ来る心の凍結を後回しにしているに過ぎないんだよ。どれだけ人の血を吸おうが、やがてその瞬間は訪れる。多くの吸血鬼は死期を悟った段階で吸血行為をやめ、静かに死ぬ事を選ぶ。が、稀に死に何としてでも抗おうとして、必要以上に人間の血を、熱を吸う吸血鬼がいる」

 先輩は醜いものを目にしたように顔をしかめながら話を続ける。

「基本、吸血の際はその瞬間の感情と、あとは半日程度なんとなくやる気が出なくなる、くらいの心の熱量を吸うのに留めておくのがセオリーだ。が、見境がなくなった吸血鬼は心の熱量だけではなく、その大元、心の原動力である火にまで手を出してしまう。そうなればおしまいだ。非吸血者は想像力、可能性に馳せる想いを失い、それを補うために肉体の進化というギフトを得る。まぁたまにそれを望む人間もいるがね」

 両者ともにどうしようもない愚か者さ、と先輩は結論づけた、

「さっきも言ったように吸血鬼というのはどん詰まりの種族だ。肉体の完全性を謳っておきながらその実、人間無しでは生き永らえる事も出来ず、そのデッドエンドの特性上人間のように後世に何かを遺すという事ができない。同胞の未来に使う熱量のリソースがあるなら、自分の為に費やそうと皆が考えるからね」

「で、先輩なりのその問題の解決策がそれですか」

 僕は先輩がこもっていたガラクタの山の向こう側に目をやる。その通り、と先輩は目を輝かせて立ち上がった。白衣の裾をパタパタとはためかせながらガラクタの山をかき分け、その奥に鎮座する物体をちゃぶ台からでも見えるようにする。

 それはぱっと見たまま表現するなら、銀色の巨大な鉛筆だった。

 僕の率直なイメージを“想像”したのか、先輩がむーと睨んでくる。どうどうと僕はなだめる。きしゃーと吠えられた。野生に還るのはやめてほしい。

 しかし実際のところこの銀色の物体の製作には僕も微力ながら関わっているので、これがただのオブジェでない事は分かっている。天井すれすれの大きさだが、メインの素材はアルミニウム合金なので見た目ほどの重量はない。とはいえこの機体の重さは完成品の一割程度で、この後回路や燃料を積み込むから結局相当の重さにはなるのだけれど。

 そう、こいつはロケットだった。

 屋上で先輩と出会ったあの日、興が乗ったと楽しげに笑う彼女に手をひかれて連れ込まれた科学部の教室で僕はこのロケットを見せられ、君にも作るのを協力してほしいと告げられたのだ。

「ロケットって個人で作れるものなんですね……」

「最初はベタにペットボトルロケットから、試作と思考錯誤を繰り返してノウハウを培ってきたのさ。勿論無人ロケットに限るがね。アメリカなんかじゃ市販のキットのようなものまで出回っているそうだ。ま、私達にはそんなものを買う伝手もお金もないわけだが」

 このロケットの製作費用は科学部の部費から捻出されている。嘘だ、全プッシュされている。出所不明の先輩のポケットマネーも費やされている為、部室で飲み食いするお菓子や飲み物はすべて僕が自腹で用意している。流石におかしいだろうと白衣の件を納得させて調子づいていた僕は再び異議申し立てを行ったが、今度は原稿用紙十枚にもわたる反対意見を朗々と述べられて完膚なきまでに負けた。この申し立ての内容でなぜ負けたのか分からないくらい圧倒的に負けた。先輩の鮮やかな自己弁護の手腕を味わった今思えば、白衣の件も実は僕の金で用意させるのが目的だったのではと怖い妄想が脳裏に浮かんだ。

 冷たい汗が背中をつたう。

 ……考えないようにしよう。

「今はまだ無人ロケットでの実験を重ねるほかないが、私はいつか自らの手で作り上げたロケットで月へ、未知の惑星へ、太陽系の外へと旅立ってみせるよ。宇宙はいまだ人外未知の世界だ。心の熱を吸う必要なんてないほどに可能性に満ちた、いまだ経験した事のない事象の宝庫だろうからね。犬や猿だってカンマーラインを越えたんだ。吸血鬼が越えられない道理はないだろう」

 楽しげに語る先輩の横顔を僕はじっと見つめる。

 初めて出会ったあの日、満月の美しさを、空を見上げるという行為がどれだけ当たり前で、どれだけ素晴らしいものなのかを教えてくれた先輩に抱いた、月の女神のような神秘的な印象はもうどこにもないけれど。

 自らの夢を恥ずかしげもなく、眼を輝かせて力いっぱいに語る、そんなちょっと幼くて、けれど太陽の光なんかよりも明るい今の先輩の方が、僕は──。

「惜しむらくは、この先NASAが乗組員の資格に吸血鬼可と書き加えてくれない限り、私の宇宙への旅路は完全非公式なものとなってしまう事だな」

 先輩の演説はまだまだ続いていた。僕は頭に浮かんでいた考えを振り払う。先輩がロケットに夢中でよかった。

 僕が抱くこの思いだけは、先輩に見透かされるんじゃなく、自分の言葉で伝えたかったから。

「ちゃんと僕が見ときますよ」

 僕の言葉に先輩はふむ? と虚を突かれたような表情を浮かべた。僕はそんなあどけない表情に何を感じたか一切顔の動きに出ないよう精一杯制御しながら言葉を続ける。

「だから、先輩の記念すべき打ち上げ、僕が見ときますから。それでちゃんと吸血鬼伝説に書き加えときます。中には一人で宇宙まで行ってみせるのもいるって」

 先輩はその言葉の意味を数瞬かけて咀嚼した後、高らかに笑った。それが僕を馬鹿にしたものでない事くらい分かっている。分かっているけれど、少し恥ずかしい。

「いやすまない、そうか、私もまだまだ死には遠そうだ。全く想像もつかないような言葉だったから」

 先輩は腕を組み、自信に満ちた表情で僕を見下ろす。

「だがそれでは不十分だ。記録は正確に、だよ、昴くん。正しくは、一人の人間と一人の吸血鬼の力によって、だ。だが、あぁそうか、そうなるとはるか彼方へ飛び立つ私の姿を見上げる君の感情を味わえない事だけが唯一の心残りだね」

 そう晴れやかに言う先輩の顔を見て、僕はついに悟られないように表情を抑えるのが無理だと即時判断し、缶コーヒーのお代わりを買いに行ってきますと部室を飛び出した。

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