LAY YOUR HANDS ON ME

茂木英世

第1話 Fly out to your heart.

 天の光がすべて星というならば。

 あの日見た光はきっと地上唯一の星だろう。

 自らの輝きで道を照らしてくれたその星を。

 自らの熱で火を灯してくれたその星を。

 自らの在り方で空の広さを教えてくれたその星を。

 僕はずっと、胸に秘め続ける。



 なんとなく。

 結局のところ人様に説明する時に出てくる言葉はこれだけだ。

 ある日突然、なんとなく学校に行くのが嫌になって。

 なんとなく、明日という言葉に夢や希望を感じられなくなって。

 なんとなく、何も思わずに生きる事が正解なんだろうなと思った。

 実際はそう僕が思うようになった契機であったりは確かに存在するのだろうけれど、そんなもの一々説明していられない。だから僕は今の境遇を説明する時にはこの便利な五文字を多用する。

 実際それで大体の人は受け入れてくれた。納得も理解もしていないんだろうけれど、それ以上追及したところで意味も意義もないという事だけを察知して、皆勝手に引き下がってくれる。

 唯一親だけは、それならせめてと定時制高校への転入を勧めてくれた。実際家で一人で何もせずにいるのは早期に苦痛に感じ始めていたので、その気遣いはとても助かるものだった。

 親はそれまでと同じように昼間に通う事を勧めたが、結局自分の判断で夜間に通う事にした。特に何か理由があったわけじゃないけれど、強いて言うなら引け目だろうか。多くの人が選ぶ道から抜け出したのに、そんな人達と同じように太陽の下で生活する事への、勝手な気後れ。

 この新しい境遇というものも最初は大人と一緒に勉強したり、そもそも夜に学校にいるという特殊な状況が新鮮で色々と刺激的だったけれど、少しすれば本質的には普通の学校と何も変わらない事に気づいた。

 普通に勉強して。普通に部活動もあって。普通に人がいて。普通に関係性がある。

 よくよく考えれば当然だ。ここは普通にいる為の場所だ。逸脱しすぎない為の場所だ。

 愚かにも僕はその事に遅れて気づいて、本当に勝手だけれど、なんだ、と諦めまじりに呟いたりもした。

 社会という大枠の中に存在する時点である程度の規範が存在するのは当然で、それを理解していない自分の方が馬鹿で幼稚なんだよと結論づけて。

 それでもなぜか、最後にもう少しだけと僕は逸脱を求めた。

 授業開始を示すチャイムを聞きながら、足は教室とは反対の方向に進む。人生初のサボタージュにドキドキしたり、気づけば冒険気分が滲み出て薄く笑ったりしながら、とりあえず思い浮かんだ場所に向かう事にした。

 なるべく足音を立てないようにして廊下を歩く。目的の場所に続く階段は暗い。電球のスイッチを入れようかと思ったけれど、ばれるのを防ぐために携帯のライトで足元を照らしながら一段一段上っていく。

 最上段を上り終えた俺の目の前には鉄製の重そうな扉。屋上に続くその扉のドアノブを俺は期待せずに捻ってみる。

 ガチリ、と。予想よりもはるかに軽い力でドアは前に開いた。吹き寄せる初夏の風が前髪を揺らす。僕は取っ手を握る汗ばんだ手に力を入れる。

 向こう側から引っ張られるようにドアは開き、次第に大きくなっていく隙間から屋上の光景が露わになる。

 そこには黒衣に身を包んだ誰かが立っていた。

 最初それは目の錯覚だと思った。空を一面に埋め尽くす夜闇が蜃気楼のように揺らいでいるのだと。そんな思いはもう一度目を凝らしてみれば簡単に砕け散った。

 真っ黒なローブのように見えたそれはセーラー服だった。スカートは今どき見ないような長さで足首まですっぽりと覆い隠している。その人物は僕に背を向けており、短く切られた鴉の濡れ羽色の髪の下から見える首筋の肌はまるで冬の空に浮かぶ満月のように白く、輝いてすら見えた。

 どうしてここに人が。その言葉が僕の口から吐き出される事はついぞなかった。

 僕の意識はそんな問いをはるか彼方に放棄して、そこに立つセーラー服の人物に釘付けになっていたからだ。

 開ききったドアがギッと金属のこすれる音を立てる。そこで初めて彼女は僕に気づいた。

 振り替えるのにあわせてスカートが翻る。野暮ったい印象の受ける真っ黒なセーラー服が、彼女が身に纏って動けばそのまま舞踏会に着ていけるドレスのように振る舞った。

 襟元につけられた真っ赤なリボンが風に揺れる。けれど僕の眼はただ一点を見つめていた。

 こちらに向けられた顔は暗闇の中でなお輝く白磁。切れ長の瞳が僕を視界に入れてわずかに揺れ動く。

 一夜を共にできるならば魂だって惜しくないと思えるような、耽美な顔立ち。けれど、ああ、そんな悪魔との契約を思わせるような連想をしたのはきっと僕の視線の先に映るもののせいだ。

 白い肌の中で浮かぶ、桜をんで吸い上げたような艶やかな色の唇に散った真っ赤な斑点。唇の端からは一筋の紅の線が顎の先へとつたっていた。

 彼女の足元の陰に今更気づく。それは人だった。冷たい屋上に目を閉じて静かに横たわったその男の顔は見覚えがある。そう、確か同じクラスの、工事現場でバイトしながら通う、いつか女手一つで育ててくれた母親に恩返ししたいと語っていた、どこにでもいる平凡で優しい男だったはずだ。

「今は授業中のはずだけれど……、なんて、私が言っても説得力はないね」

 硬直していた体がその声を受けて活動を再開する。一切の自覚なく息を止めていた事に気づき、むさぼるように呼吸する。

「そう怯えないで、ってこれも説得力皆無か。んーちゃんと鍵かけてなかった私の落ち度だし、一日二人は気が進まないし……」

 影を纏って生きる幽姫のような印象が、鈴のなるような声が連なるとともにかき消えていく。彼女は髪を掻きながら何か思案するようにぶつぶつと呟きはじめた。

 かろうじて落ち着きを取り戻した僕はその間改めてこの状況を把握しなおす。この暗闇にようやく目も慣れてきた。

 倒れたままの男の胸はこの距離でも上下しているのが分かる。とりあえず命に別状がないとわかって安堵の息を吐くよりも先に、シャツの襟もとが乱れている事が気になった。月明かりがちょうど当たってよく見える。妙に気になって目を凝らして、ようやく気づいた。

 日中のバイトでよく日に焼けた肌に開いた、小さな二つの穴と、そこからわずかに滲んだ血。

 異常な事態に直面して正常に働いていない頭が、それでもぼんやりと目にした事実を繋げていく。

 歯を立てて噛んだ跡のような、血のにじんだ小さな二つの穴。口元をつたう紅の線。

 まるで、まるで──。

「君はここの生徒かい?」

 不意に言葉が投げかけられる。

 僕は問いの意味を把握するのに数秒、その問いに答えて自分に害がないと信じるのにまた数秒をかけてから、こくりと微かに頷いた。

「ふむ、そうか」

「あ、あんたは」

 コミュニケーションが成立したと理解した瞬間、思わず声が漏れる。いらぬ刺激を与えたのではと後悔するより早く、彼女は笑って答えを返していた。

「私かい? 私はね、吸血鬼なんだ」

 さらっと。平然と。それが当たり前であるかのように。

 彼女は超常の存在の名前を口にした。

「そ、……っか」

 そして僕は、自分でも拍子抜けなくらいに静かに、それを受け入れた。

「おや、信じるのかい?」

「え、嘘なの」

「いや本当だけれど」

「なら……」

 僕は固い唾を飲む。ごくりという音が屋上中に広がったように思えるほど、自分の体内に響いた、

「信じるよ」

 本当はどう反応するべきなのだろう。

 嘘だ、吸血鬼なんているはずがない! と力強く反論するべきなのか。

 はいはい、そういう冗談は良いから、とさらっと受け流すべきなのか。

 普通は恐らくこの二択のどちらかか、それに近しいものを選ぶのだろう。

 けれどなぜか、僕はそのどちらも選ぶ気にならなかった。

 明確な理由はない。どうしてと問われてもはっきりと返答する事は出来ない。

 ただ、なんとなく。

 俺は彼女の言葉を信じたいと思ったんだ。

「ふむ、信じてくれるとはね」

 それまでは興味なさげに揺れ動いていた眼が、今はしっかりと俺に向けられている。

「ではそのお礼に、ちょっとだけプレゼントというかきっかけ作りというか」

 胸の赤いリボンの先を指先で弄りながら、彼女はなにやらよく分からない事を呟いていた。なんとなく上機嫌なように見えるのは気のせいだろうか。

「今日の月は?」

「え」

 今日の月? 一体何の事、と思考するよりも早く彼女が視界から消える。

 と思えば次の瞬間、彼女は目の前にいた。驚きの声をあげるよりも早く視界が急速に流れていく。自分は今倒れているのだと気づいた時には、受け身も取れず思いっきり体を床に叩きつけた後だった。

「っ」

 衝撃で息が詰まる。何しやがると思わず不平を漏らすよりも早く、眼がそれをとらえていた。

 女性は身をかがめて俺の顔を見下ろしてくる。月の光を背に受けた彼女の体の輪郭は淡く輝いていて、それがどうしようもなく綺麗だと僕は感じた。

「今日の月は分かったかい?」

「……満月……」

 ──空なんて、見上げたのはいつぶりだろうか。

 きっとそれも、なんとなくだったのだろう。

太陽と月と星が空にあれば問題はなくて、日々を過ごすのに問題がない以上それらは間違いなくそこにある。あるならばそれで良いと。わざわざ見上げる事なんてしなくていいと、なんとなく、思っていたんだ。

 月光を背にして見下ろす顔はよく見れば僕と大して変わらない年頃のソレだった。記憶よりもずっと大きな白亜の円を中心にして螺旋状に広がる星と雲が視界を埋め尽くす。

 視界がにじむ。それが涙だと理解するのに数秒かかった。ただ月を見ただけで涙を流している自分がどうしようも恥ずかしくなって、強く目元を拭う。

 顔が熱い。それが羞恥心だけからくるものではない事は分かっていた。

 久しぶりに。本当に久しぶりに心から何かを感じた事による熱だと、分かっていた。

 せめて嗚咽だけは漏らさないようにする。それは意地というよりプライドだった。女性の見ている前で心の底から泣くのは、きっと後でもう二度と顔を合わせられなくなるくらい恥ずかしくなる。

 それは、嫌だった。

 まだ出会って数分で。人ひとり倒れていて、口から血を滴らせながら、あまつさえ自分の事を吸血鬼と名乗る常識の範囲外の存在だったけれども、それでも。

 俺はこの人ともう一度会いたい。今この瞬間だけで終わりたくない。

「見上げないと損だよ、空は。この世界で唯一平等にあらゆる存在に与えられているもの。あらゆるものに拒まれて否定されて信じられなくなっても、空だけは君と共にあるんだから」

 僕は何も言えずに、それでもちゃんと聞いている事を示すために頷く。

「私は天音。神崎天音だ。君は?」

 そんな僕の心の中の願いを聞いていたように、彼女は、否、神崎天音は胸に手を当てて名乗った。

 僕はもう一度ごしごしと目をこする。呼吸を落ち着けて、足に力を入れて立ち上がる。せめて、この瞬間だけは彼女と対等でいたかった。

「昴。北条昴……です」

 耐え切れずに敬語になった自己紹介を聞いて彼女は薄く笑った。

 

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