第2部 9
早朝五時過ぎ。東の空の薄明かりはまだ街の底には届かない。
闇の中、金髪オールバックの若い男が踏み込んだこの場所は、およそこの男が訪れるとは思われないような場所だった。
偏見、先入観。実際男にも緊張感があった。
罪悪感が露になる場所。そういう意味では、外見は関係ないのだが。
蔵町太観寺。鳥たちの声を新鮮に(いつもと違って)聞きつつ、男は本堂へと続く道を逸れた。
なんとなく足音を忍ばせて、敷地の端にある建物の前、そこはかつて僧堂だった場所だが、「すいません」と擦れるような(寝起きドッキリのような)声で訪いを入れて戸を静かに叩く、事前に連絡は入れてある、起きて待ってるからこいと返信もあった。
中から応答があったか、「失礼します」と弱々しい声でいって中に入った。
ガタイのいい男の威圧感に身を竦めつつ(確か年下)座る、自然と正座になる、さらに小さくなる、テーブルを挟んで向かいに座る眼鏡の男が、
「手短に頼む、眠いので」
文庫を閉じて下に置いた、真下は欠伸を噛み殺す。
男が真下に語って曰く、
「店の女の子が客とトラブりそうだから助けて欲しい」
ということだった。
アヤちゃんという女の子で、二〇歳。入って半年ほど。店の中で人気は上位ということで、指名も多いのだが、
「ちょっと、やりすぎちゃったみたいで」
同伴出勤やアフターなどを度々繰り返し、男がアヤちゃんに入れあげてしまった、しつこく体の関係などを迫り、中には結婚を迫るものまでおり、いい加減アヤちゃんも「もう店に入れないで欲しい」と訴え始めている、という。
だいぶ貢がせてもいるらしく……。
「中には?」
「はい、面倒なのが三人いるみたいで」
「出禁にしちまえばいんじゃねぇか」
当然店としてそれも考え、多少匂わせた。
男たちはここ二週間ほど店にはきていないが、アヤちゃんにラインやメール、ときに着信などあるという。ほとんど返事はしていないが。
「無視し続けりゃ諦めるんじゃねぇか」
「それが、本人が『外でつけられてる』ていってまして」
人気がある子で辞めてもらっては困る、彼女の言葉をないがしろにはできない。
事実として、ストーカーを甘くみることはできない、というか、ほんとに危ないかどうかの見極めは難しい、要は警察が対応してくれるかどうかのラインが……。
実はオーナーからも話は聞いていた。
この金髪男が萎縮しながらテーブルの前まできた理由は、書類、履歴書などを真下にみせるためだった。
それと携帯番号、メアド、SNSのアカウントなど、ガッツリモロの個人情報を真下に渡すためだった。
目的を果たして、金髪男は太観寺を引き上げていった、ついさっきまでとうってかわり、新鮮さを足蹴にするような足取り、ギャンブルで負けた後のようなくすんだ顔つきで、寺の敷地を出ていった、うっすら明るくなった街の底を。
それが犯行の一週間ほど前のこと。
「いいんですか、離れますけど」
「シモさん、いいんすか」
タクヤがいった通り、犯行の日、時間を真下たちは事前に知っていた。
事実、あいつは並じゃない、あいつの居場所は真下にしかわからない、真下のスマホにしか入っていない、あいつが自分で作った、特別なアプリでしか。
この夜、男は浴びるように酒を飲んでいた。
数日前、仕事で重大なミスを犯した。
ボスの怒りは凄まじく、殴られもしたし蹴られもした。「死ね!」といわれた。
その場面をみていた仲間たちが、男を飲みに誘ってくれた。
「忘れろ、切り替えろ。次にミスをしなけりゃだいじょぶだって」
みんなで慰めてくれた。ほんとに死のうかとも思った。涙が出るほど嬉しかった。
「飲んで忘れろ!」
「おおっし、今日は飲むぞ!」
最高の仲間たちだ。仲間のために、命をかける。
……。
男の正体がないのを確認すると、男たちは動かない男を腹ばいにして寝かせる、顔から腰下あたりまで水につかるように。
市内を流れる川のほとりである。
繁華街からもそれほど離れてはいないが、高低差はかなりある。目撃者はいないだろう。
上からみえにくい場所を選んでいる。黒系の服装を着用して、万事ぬかりはない。
鈍く手足をばたつかせ最後にピクンと痙攣してみせると、男は静かになった。死んだ。
頭を抑えていた手を放し、サッと一振りして水滴を払った。
その様を、男たちがみていたのはほんの僅かな時間。もちろん誰も音を発することはない。
男たちは静かに、重たい闇の中を闇のように動き、その場を後にした。
ナイフ男事件の決着が一応ついた、タクヤたち交番勤務組が交番に戻っている、彼らを再び無線指令が襲う。
ここから西、和田橋の下の烏川の川べりで死体発見の報、近くにいる動ける隊員はすぐさま現場に急行せよ。
「了解。斉藤、いくぞ」
「やれやれ」
不謹慎であろう、が、タクヤにしてもその気持ちを漸く押し止めたに過ぎない、恐らく一人だったらいっていただろう、斉藤が口に出したからタクヤは出さずに済んだ。
今夜は寝れそうにない。
現場に機動捜査隊(キソウ)が到着したときには既に誰もいなかったという。
タクヤたちが現場についたときは規制線が張られ、鑑識なども入っており現場はできあがっていた。
タクヤのその直観にはなんの根拠もない、強いていうならタイミング。
別れてからこの場所を通るまでちょうどそのくらいの時間だろう、という感覚、だけ。
川に上半身を沈めるようにうつ伏せているこの男を見下ろす三人または四人の姿がはっきり浮かんでいた、電話をしながらこの場から離れる眼鏡とゴツイと影薄と、若(も)しくはプラス「?」マークの四人目と。面倒を避けたのか。
あいつらかどうかはわからないが、通報者についても調べているだろうが、もしヤツラなら、きっと電波をつかむことはできないだろう……。
つかんだ。
ポケットのスマホの震えに気付く、みると、真下からだった。
少し離れて、現場に背中を向けて小さくなる。
「なんだ」
「川っすか」
「そうだよ。みつけたの」おまえらだろ、いう前に。
「マーカーっすよ、そいつ」
「なに?」
……。電話はそれで切れた。
「マーカーの臭い。それはずばり体臭だ」
マークを飲むことによって活性化されるのは腸内細菌だけではない。
体表面にいる細菌も活性化される。活性化された細菌は汗などを普段よりも活発に分解するようになる、その分臭いが強くなるのだという。
「すなわち、マーク或いはマーカーに特有の臭いということではなく、その人の体臭が強くなるのだ」
タクヤが中島からこんな話を聞き、人を小馬鹿にしたような笑みをみることになるのはこれより少し後のことである。
額の辺りに鬱血の痕のようなものがみられる。
転んだのか、あるいは、殴られた、それとも、頭を上から抑え付けられたか。
転んだにしては手や足には傷などはない。
現場でみる限り、額のアザ以外には外傷は見当たらない。
財布が残っている。中には現金数千円と免許証、カード。物取りの犯行ではなさそうだ。
喧嘩とも思えない。
免許証によると、男は県内出身者だがT崎市ではない、酔っ払った末に運悪く川にはまって亡くなったという可能性も否定はできないが。
ともかく司法解剖に回そう、そんな結論に向かっていた。
「この男のDNAを、こないだ窃盗団からはぎとったマスクに残っていたDNAと照合してもらいたいんですが」
制服警官が刑事たちの会話に口を挟んだ。
「ああ、あんた、柳町の山田か」
「山田?」
「その、影のマスクをはぎとったってヤツさ」
視線を集めて、タクヤがいった。
「なんとなく、こんな顔だったような気がしなくもない」
「チッ、いい加減だな、それでもほんとに警察官かよ。だいじょぶか、おい」
刑事に対する憧れ、タクヤがそれを胸に抱くことは、ない。
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