第1部 5

 中学生に講義をする仮面。

 という「自分」を思うと、少し顔がにやけてくる。強いて強張らせる必要はない。

 では、始めよう。

「人間の遺伝子は二万数千個といわれている。この数は、植物の稲よりはるかに少なく、ミジンコの遺伝子が三万一千といわれるから、それよりも全然少ない、海にすむウニと殆ど数が同じでなおかつその七〇%が共通している、という。そもそも遺伝子とは、狭義においては、タンパク質の一次構造に対応するメッセンジャーRNAの情報を含む核酸分子上の特定の領域を指し」

 ……。

「かつては、DNAではなく、ここでいうDNAとは巷でよくきく『○○のDNA』ではなくデオキシリボ核酸のことであるが、かつてはこのDNAではなく、アミノ酸を経て作られるタンパク質こそが遺伝物質であると考えられていた時代もあった」

 ……。

 ガラスを通して外の音が聞こえてくる。

 鳥たちの短く甲高い鳴き声はガラスに遮られながらも中まで届くが、こちらの手は届かない、みえるのに。

 みえはするが「窓ガラスで区切られた内側にいる」という安心感はどうだろう。

 外からの脅威は遮断し「暖かさ」は減ずることなくあるいはより暖かい、この内側という安心感、そして優越感といったら。

 仮面の落ち着きを孕んだ声音が耳に届く、ときに離れていく、まぶたと一緒に頭も落ちる。昼寝にはもってこいの環境。

「五から二〇マイクロミリメートル程度の細胞核の中に、一マイクロメートルとは〇.〇〇一ミリメートルだ、この小さな細胞核の中に伸ばすと全長が二メートルにもなるゲノムが入っている。想像できるか? ゲノムの折りたたまれた様というのがヒルベルト曲線と呼ばれるフラクタル構造で、二メートルの紐を一ミリよりもはるかに小さな入れ物につめながらからまりあう場所が一つもない。これはもう芸術いや奇跡といってもよく感動すら覚えるが、そういう言い方をするなら地球という星、生命の誕生、生命そのものがそもそも奇跡だともいえるが、まあいい、このフラクタルという言葉はマンデルブロという数学者が」

 ……。

 外の日差しが黄色味を帯びてきているようだった。影が伸び、机や仮面が眩しさを増しているように感じるのは、太陽が低くなっている証拠であろう。

 眩しくなっているのではなく、影が強さを増している、影が仮面をのみこんでいく、影が「僕ら」をのみこんで……。

 春休み最後の一日が、暮れていく。

「少し話がそれてしまったが」

 少し!?

「そろそろ本題に入ろう」

 二人の

「え」「え」

 が重なった。お互いがお互いの顔をみた、お互いの視線がぶつかり重なった。示し合わせたように小さく息をはき、ノートに向かう。

 もちろん、二人のノートは白いまま。


「人間は、ミジンコや稲よりも少ない遺伝子数にもかかわらずなぜ人間なのか。一つには」

 一つの遺伝子から一つのタンパク質が作られるわけではないということ。

 スプライシングという働きによって一つの遺伝子から複数のタンパク質が作られることによる。

「さて、ここからがほんとの本題だ。テストに出るからよく覚えておくように」

 テスト?

「真面目に受け取らなくてもいい」

 子どもというのはこういうところがやりづらい。

「また遺伝子の数の話だが、人間を、生きて生活している人間を作っている遺伝子はその二万数千個だけではない。リクやカイ、わたしもだが、わたしたちが生きているというとき、わたしたちの体は四〇〇万を越える遺伝子を抱えている。人間の細胞はおよそ一〇兆といわれ、しかし我々生きた人間が抱える細胞は一〇〇兆だ」

 人間を生かしている人間じゃないものとは。

「微生物。我々は『マイクロバイオーム』と呼ぶ」

 マイクロバイーム。二人の中学生がノートに書くのを、仮面は黙って待った。

 人間の表面のいたるところに微生物は棲息している。

 人の表面は微生物に覆われている。

「表面」とは「皮膚の上」だけではない。

 口や鼻から食道、胃、腸など、即ち外から入ってきたものと触れる場所が「表面」である。

 皮膚には常在菌がおり、腸の中にも腸内細菌がいる。

 およそ生き物など寄り付きそうにない胃にさえ微生物はいる。他の部位に比べて僅かではあるが。

 彼らは、皮膚においてはバリアーの役目を果たし、腸においては食物から効率よく栄養を摂取するのを助けてくれる。

 彼らの存在なくして、人は人たりえない。人と微生物は、ともに進化の道を歩んできた。

「肥満とマイクロバイオームの関係というのもよくいわれる。聞いたことは、あるか」

 リクは首を横に振り、カイは首を横にも縦にも振らない。

 マウスの実験では、高脂肪食、つまり太りやすい食事を与えて肥満したマウスのマイクロバイオームを普通のマウスに移植してみると、マイクロバイオームを移植していないマウスと比較して、双方に与える食事は同じでもマイクロバイオームを移植したマウスのほうが脂肪の増加量が多くなる。

 マイクロバイオームが体に影響を与えていると考えるいい例だ。

「大腸は、人の臓器の中で最も病気の種類が多いとされている。どの細菌が悪玉でどの細菌が善玉か、ということではない。大事なことは、細菌の組成比、バランス。さらには多様性」

 病気の治療で飲む抗生物質は、病気の原因となる微生物を退治するが、そうでない微生物にもダメージを与える。

 治したかった病気は治るが、無関係な微生物までいなくなってしまい、マイクロバイオームの組成比が変化すると別のリスクに見舞われる。

 マイクロバイオームと健康は密接に係わり合い、複雑に絡まり合っている。

「そこで、我々は考えた。頗る健康で非常に運動能力の高い人間がいる。彼のマイクロバイオームを手に入れることができれば、もしかしたら我々もその彼のように健康で運動神経抜群の人間になれるのではないか」

 もちろん、ことはそう簡単ではない。

 彼のマイクロバイオームを移植したことにより、即ちバランスが崩れて健康を損なってしまえば元も子もない。

 体質的に、遺伝子的に合う合わないということもあるかもしれない。まだまだわからないことは多い。

「挑戦や失敗を恐れていては科学の進歩はない。進化とは自然選択であり、自然淘汰だ。要するに『数打ちゃ当たる』。まず、やってみる、そうだろう」

 仮面の視線は、果たしてどこを指している。リクとカイにはわからない。

 気味が悪い。不安。

 だからこそ、話に入り込みすぎない。冷静に、話の表面を聞くことができる。

 仮面が右手に持っているものがそれだとすぐに二人は理解した。それがあれだと、あれがこれかと、すぐ理解した。

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