第1部 4
笑い声や話し声は聞こえないのに「静か」とは形容しがたい、この場所は。
どこにいても低い唸り声のような音が響いている。壁や足元が震動していることはないが、なにか、体の内側、内臓が震えているように感じることがある。
――これぞまさに「匣(はこ)」だな
中島は、ふと以前読んだ小説を思い出した。
また外ですか、と声をかけてきたのは加藤。所長、中島は加藤の声になんらリアクションせず歩を止めることも緩めることもしない。加藤はすぐに追いついてくる。
廊下の両側に並ぶ研究室では、多くの人間が黙々と作業をしている。
――よくやる。
と中島は思う。
――蟻、か。
などと失礼な例えを思うのは、ここが地下だからかもしれない(という考えも中島はすぐに否定するのだが)。
蟻に助けられている、というより、彼彼女たち「働き蟻」がいなければなにをなすこともできないのだ。
蟻の親分は外に出る、みなには悪いが。
「なにかいいましたか」
「いや」
正面のエレベーター、の手前、右手のドアを開ける、重たいドアには「非常口」とかかれていた。人が逃げる(?)看板のついた。
中島は階段を上がるのが好きだった。健康にもいい。それに。
「昨日の中学生に、また会うんですか、ほんとに」
「ああ」
「渡しちゃってよかったんすですか? 彼らに知れたらうるさいんじゃ」
話もよくできる。これはしかし、時としてマイナスかもしれんが。
「文句の一つもいってくるなら、まともだ」
「……」
加藤は押し黙る。中島は加藤の言葉を待った、あえて。沈黙を作る。息が切れている、ということもあるかもしれないが。
加藤は息の抜けたような声で話す。
「確かに、中学生にどんな効果というか、影響があるかは、興味が、いや、調べておきたいところではありますが、成長に影響などが、人道的にといいますか、倫理的に」
「そんなに心配することはない。『マーク』には、そこまでの強さは、ない」
「しかし、橋の子は、気を失ってしまったんじゃ」
「うむ」
中島は考える。新たに考えることなどないのだが、昨日から散々考えているのだから。
「ほんとに、〝バックドラフト〟が出たんですか、その子に」
返事の代わり、黙って昨日のことを思い出す、加藤にみせるように。
「間違えた、ということはありませんか。『マーク』と『マッド』を」
「それはない」
「……」
「といいたいところだが」
中島が、ドアを引いて開けた、出る、とそこはまた廊下だった。
地下研究施設の上に建つ建物の廊下。薄暗い、そして静か。気味の悪い唸りもない、これこそ静か。
不気味な唸り声の満ちる「黄泉国」から「葦原中国」へと戻ってきた、安堵。カチャンと音がして、オートロックでドアが閉まる。
「確かに、わたしは昨日『マッド』も持っていた。しかし」
「まさか、使ってませんよね」
「まさか」
使ったけど。
「使うわけがあるまい」
二回も。
「『マーク』でバックドラフトなんて、ないですよね。あり得ますか」
「あり得んな」
「……ということは、どういう」
「いずれにしても、わたしの間違いだろう。渡し間違えたか、見間違え、感じ間違えか。もし、渡し間違えであれば、その影響はみなければならん。治療が必要なようであれば、せねばなるまい。放置すれば、それこそ大問題だ」
「ですよね」
静かで薄暗い廊下を進みドアを開けた、一気に温度が上がる、春の日差しが、春の午後の温もりが、鬱陶しいほどに二人を包んだ。
中島は少し俯き、顔に仮面をあてて後頭部でバンドをしめた。銀色の仮面の縁が光っていた。
「その仮面、なんの意味があるんです? 日除け、サングラス代わりですか?」
「面白いな、サングラスのかわりにこんな仮面をする人間がいたら会ってみたいものだ」
「わたしは今会ってますけど」
「童心に帰るがいい。仮面の意味を問うているようでは、同じ『夢』を追うことはできんぞ」
「『夢』は所長一人でみていてください。わたしはその『夢』を実現するための『現実』です」
フッと、中島は、仮面が小さく笑った。幾つかの言葉が口をついて出そうになったが、それらは全て仮面の下に押し隠し。
中島は、いや仮面は、麗かな日の光のもと学食へと向かった。ここは農業大学の構内である。
「今度きみも仮面を被ってみるといい。自分の新たな一面に気付く」
「いや……。気が向いたら」
「まず初めに、人の体について話をしよう。ノートの準備はいいか? 持ってきてないか。持ってきてるのか、二人とも。驚いて仮面が落ちそうになった。イマドキの中学生とは、真面目というかなんというか。まあ、では、話を始めるか」
ガランとした学食。三人は外に近い一番端のテーブルに座っている。光が差し込んで床や机の照り返しが眩しい。
三人。仮面と向き合うリクと、カイ。リクとカイの関係の微妙さがみえて、仮面の下で笑っている。
仮面にはこういうメリットもある。
――ではほかにどんなメリットがあるというのだ。
表情を隠す以外に。
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