第1部 17

 太陽が照りつける、グラウンドはたっぷりと乾いている。夏休みを前に、梅雨の明けた町が、世界が、乾いた。

 そんな中を、走った。みんなが、誰もが、走っていた。

「おいおい、どうした! 数値が落ちてるぞ! ばてたのじゃあるまいな、わたしはまだ喉も渇いてないぞ!」

「バケモノが」はぁはぁ。

「人間じゃないね」ふぅふぅ。

『マーク』。

 腸内細菌の働きを高めることによって身体的パフォーマンスを一時的に上げる。効果は劇的というほどではさらさらなく、時間もごく短時間。

 それでも。

「ねぇお願い。一回だけ。誰にもいわないから。大会のときだけでいいの。その後も欲しいなんて絶対いわないから。お願い」

 それを求める人間はいる。

「マークを飲んだ後のほうが遅くなるでは意味がないな! わたしがここで、きみたちの面倒をみている意義を示してみせろ!」

「仮面がぁ」はぁはぁ。

「偽物なんじゃない」ふぅふぅ。

「もういらないとでもいいたいのか! 本物だ!」

 体が溶け落ちるかと思うほどの汗にまみれ、鳥たちのさえずりにのまれそうな子どもたちの擦れた声は、不思議な仮面の元にしっかり届き、雷のような大きな声で子どもたちを震わせる。

「マークで耳までよくなるのかよ」

 汗を振り落とすように、少年たちは再び走り始めた。


 マークは、効果が小さい代わりに体への負担も小さい。中学生など、子どもが飲んでも悪い影響を与えることはない。

 中学生など、体が成長しきらない子どもに継続的に与えることによる影響は、細菌の組成比が理想的なものに近づくことも。

 ――数値の上昇にしめる体力アップ分とマークの効果分、マークを継続的に摂取している影響などがあるのか、切り分けしたいものだが……。

 まだはっきりしない部分も多い。


 武道館に甲高い気合の叫びがこだまする。

「きぇぇぇぃ!」

 マークさえあれば。マークさえあれば。

 希求の思いの強さ、渇望が、少女を狂わせつつある。先輩に対する「純粋な思い」は、いつしか「純粋」が消えて「思い」が「欲望」の塊へといびつに姿を変えている。


 マークさえあれば!


 空調が適度に効いた地下室で。地下の巣穴で白い蟻と黒い蟻が対峙する。

「マッドを服用した後、うちの若い隊員はほとんど必ず体の不調を訴える。これではやはり使い物になりませんよ。戦場で『気持ち悪くて』なんていってられんでしょ」

 飯島の目は、相変わらず爬虫類そのものだ、特に中島たち白衣に向けられる目は。

 ――「戦場」という言葉を使うか。

 蟻のトップがいないと、飯島の蛇蝎っぷりには遠慮がない。

「反動はある、なににでも。走れば息はきれる」

「命に関わるといっている」

「受け入れろといっている」

「なんだと」

「実際、パフォーマンスは向上している、そちらの望む通り」

「あんたち、人をなんだと思ってるんです」

「やめろ、飯島」

 黒い一人が飯島の名前を呼ぶ。中島が、改めて述べる。

「マッドをいくら強化したところで、銃弾より速く走れるようにはならない。銃で撃たれる状況を作らないようにしなければならない」

 飯島は、中島とからみたい。

「あんたたちと政治の話をするつもりは」

「撃たれる前に逃げるか、それとも殺すか」

 静まり返る、「匣」が人々の思惑を吸い込み吐き出す。

「殺すって」

 黒いスーツの中の誰かがそう呟いた。

「あなたたちと政治の話をするつもりなどこちらにもない。興味もない。わたしたちはマッドを作っている。興味があるのはマッドだけだ。若い隊員たちにも、実際興味はない。ただ、服用したあとの体調には興味がある」

 モルモットじゃねんだぞ、誰かが呟いた。

「マッドと同時に、マークという薬のデータも集めている」

「マーク?」

 聴いてない、そんな囁きが漏れた。

「マッドに比べて効果は遥かに小さいが、その分負担も少ない。そちらのデータも集めている、こちらの選んだ被験者を使って。よりデータを集め改良を重ね、いいところを合わせたいと思っている。これからも協力をお願いしたい」

「そのマークというのは」

「詳しいことはまだ話せない」

「ふざけんな、データを渡してもらおうか」

 旅団長の林がいないと、飯島はさながら野良犬といった感じだ、蛇蝎というよりも。

「データはみせる、いずれ、我々の判断で」

「貴様ら」

「時間だ。今日はまたご苦労だった。林旅団長にくれぐれもよろしくと伝えてくれ」

 わざとらしく腕時計に目をやり、中島は加藤に部屋の灯りをつけるよう促し、プレゼンを終わらせた。

 いつものごとく、飯島のひと睨みを受け、受け流し、中島はまたいつもの位置に座り、息をつき、仮面を外す。

 なんとなく、心持がよかった。飯島を怒らせて、一つ溜飲が下がったようだ。

 このままでは近いいつか、ほんとに仮面を被ってプレゼンをするようになりそうだと、中島は仮面をつけた自分を想像して一人、笑顔を浮かべた。


 中学の武道館で女の子が吠えた、城山で仮面と二人の男が叫んでいた。

 彼らを静かにみつめる男がいた。

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