第九章 三郷が動く

 直輝の意見に異論は無かった為、真理亜は頷いた。

「そうね。だったらまずは整理してみましょう。今回の事件を起こした犯人達の目的は、まずこの船の乗客を人質に取って身代金を要求すること」

「はい。運営会社の弱みに付け込んで本社へ直接連絡し、警察などの介入を阻止して乗客達が外部と接触できないようにしています。また真理亜さんが先程言われていたように、犯人は少なくとも本社と連絡を取っている内陸部にいる一味と、この船内に潜んでいる者達に別れていると考えられます。仲間同士での連絡は、この船で使われている衛星の回線とは別の方法、例えば無線などを使っている可能性が高いでしょう」

「そうね。互いに通信できなければ、船の内部で誰かがおかしな動きをした際、止めさせるよう警告しなければいけないから」

「もちろん今は隠れている犯人達が、これから銃などを持って表に出てくれば状況は変わります。船内放送が流れた時点で、この船がシージャックされたと全乗員乗客には知られていますから。でも現時点でそう言う気配は無さそうですね」

 換気の為に開け放れた窓からは、気持ち良い風に乗ってざわざわとした乗客達と、それを鎮めながら誘導している乗組員達の声が聞こえてくる。そこから武器を突きつけられる等の切迫した状況は、まだ感じられない。

 四月下旬の千葉周辺における平均気温は、最低が十二度前後、最高が二十度前後だ。ここは海上の為やや気温は低めだろうが、十四時を過ぎた天気の良い今の時刻は、外に出ていても暑すぎず涼しすぎる事もない。

 だがこれ以上時間が経ち、日没を過ぎれば肌寒く感じてくるはずだ。この時期なら十八時半には日が沈むだろう。本来なら横浜へ十六時に着く予定だった。

 しかしシージャックされた今、夜は客室で過ごすことになるだろう。場合によっては閉じ込められた状態が、何日間も続くと覚悟しなければならない。

 現に先程予定に無かった夕食を、部屋にいる方にはそれぞれに配膳し、検査等で公共スペースに待機している乗客達には、その場所で提供するとの放送がされていた。

「そう言われれば、犯人達が未だに隠れているのは何故なんでしょうか。爆弾を持っているのなら、表に出てきて乗客達を脅すこともできますよね」

「必要以上に騒がれ、パニックを起こされても困るからかもしれない。それにこの船には民間の軍事会社に属する、セキュリティ部隊を乗船させているでしょ。そういう人達と犯人達が万が一衝突したら、作戦に支障をきたしてしまう。動くとしたら、そうならない為に一度乗客達を落ち着かせ、各客室へ避難させた方が無難だと考えたのかもしれない」

「船内放送で、PCR検査はそのまま続けられると言っていましたよね。つまり犯人達は、それを阻止するつもりがない。だったらその後、どう動くつもりでしょうか」

「それだけじゃない。城之内さんが感染したのは、犯人達が持つウイルスを使われたようだとも言っていた。誰かを狙って新型コロナに感染させ発症させたのは、意図的にヘリを呼ばせ、爆破することが目的だったのかもしれない。でも何故城之内さんだったのかな」

「それは最上階にいるVIPで高齢者だったから、じゃないですか」

 真理亜は首を傾げた。

「そうね。でも他に誰もいなかったとは思えないのよ。十四階には城之内さん以外にも、高齢者がいたはず。たまたま狙われただけなのかな」

「どういう意味ですか?」

「彼を標的にした理由が他にあるとすれば、犯人達の狙いや彼らの人物像のヒントになるかもしれないと思ったの」

「単にコロナ感染者が出たと乗客達に知らせ、ヘリによる搬送を阻んで船内に閉じ込め、恐怖心をあおるだけでは無かったというのですか」

「だってそう思わない? せっかく危険なウイルスを持ち込んで、感染させたのよ。それだけでも十分な脅迫になるでしょ。助けて欲しければ金を出せ。さもないと開放しない。症状が悪化すれば、船内の医療体制では命に危険が及ぶ確率が高まる。そう脅せば城之内さん個人からだって、多額の金を受け取ることは可能でしょう」

「なるほど。多数のVIPが乗っている船をシージャックし、運営会社から金を奪った上で、さらに金銭要求するという二重の意味で城之内さんを狙ったのかもしれませんね」

「もしかすると保険なのかもしれない。運営会社との交渉が上手くいかず交渉が長引くようなら、最低でも城之内さんから身代金を得て逃げることができるでしょう」

「そうかもしれませんね。あの人がどれだけの資産家なのかは、僕には判りません。でも犯人達に目を付けられたとしたら、相当持っているんでしょうね」

「守秘義務があるからはっきりは言えないけれど、仮想通貨等を含めて直ぐに支払える流動資産はかなりある。犯人達がそれを知っていた可能性は高いと思うの」

「どうしてですか?」

「だって個人が所有するお金を奪うのだから、家や土地とか株式等ばかり持った金持ちなら、現金化するのに時間がかかるでしょ。例えば世界的に有名な資産家のビル・ゲイツだって、多くがマイクロソフト社の株式と言われている。もちろん配当等で受け取る流動資産も相当あるでしょう。でも彼から大量のお金を奪うなら、一旦株式を市場で売買しなければいけなくなる。さすがに犯人の名義に、変更する訳にはいかないからね」

「そんな大量の株が売りに出されたら、何が起こったのかと世間は騒ぐでしょうね」

「土地等の不動産だってそう。一番早いのは銀行等に預けている預貯金、もしくは仮想通貨で支払うことよ。特に仮想通貨なら、複数の匿名口座に振り込ませてそこから行方を判らなくさせる方法も、不可能じゃない」

「NEM通貨の事件がそうでしたね。一部は盗難に遭った通貨だと割り出すことが出来たようですが、多くは不明のままです」

 コインチェック事件とも呼ばれる問題は、二〇一八年一月に起こった。仮想通貨取引所であるコインチェックが外部からのハッキング行為を受け、五八〇億円相当の仮想通貨「NEM」が盗難されたのだ。

 原因は、悪意を持った第三者からコインチェック社員に対して送信されたメール内のリンクを開いたことによる、「マルウェア感染」だったと明らかになっている。

 当時のセキュリティ体制は、常時インターネットから見えるホットウォレットと呼ばれる管理方法を取っていた。よってクラッキングに弱く、その点を突かれたようだ。

 北朝鮮によるハッキング説やロシア系の関与等が囁かれているが、犯人は未だ明らかになっていない。何故なら外部に送金され、さらに別口座へ移転を繰り返された為だ。

 追跡や売買停止を行ったが、NEM財団とコミュニケーションが取れていない一部取引所で交換が行われ、一〇〇億円規模で漏れた事が後に判明している。

 結局顧客に対しての返金補償やセキュリティの再構築が成された為、現在では問題なく運営されている。だが追跡を諦め打ち切ったことで、ダークウェブ上に設置された流出NEM通貨の交換サイトによる換金が加速され、全て完売されたらしい。

「城之内さんは仮想通貨等の流動資産を、かなりお持ちだから狙われたということですか」

「その可能性はある。私もまだ担当になって間もないから、全体像は把握していない。それでもこれまでの経験上、彼ほど流動資産の割合が高い富裕層は余り見かけたことが無いわ。この船には、彼よりずっと多い資産を持つ人達がいるはず。でもそういう人達は、不動産や換金するには手間がかかる資産の割合が高いと思うの。その点が犯人にとって都合が良かったかもしれない。そう考えると、犯人達が表に出て来ない理由も理解できるのよ」

 城之内との個別取引が上手くいけば、運営会社との交渉が難航した場合でも、人質を解放すると言えばいいのだ。ウイルスや爆弾も破棄すると言って本当に海へ投棄してしまえば、証拠は残らないだろう。

 そのまま横浜港へ船が着岸した後、警察等が取り調べしても白を切り通せば逃げおおせることだってできるかもしれない。当然陸にいる仲間は、ただ逃げるだけだ。そうすれば誰も傷つける事なく、捕まらずに大金を手に入れられる。

「でもどうやって、個人の内部情報を手に入れられたんでしょうね」

「それは判らない。あと他にもコロナに関係して、彼が狙われる理由はあるの」

 真理亜はネットでも十分調べられる程度の彼の経歴と、コロナ禍において広がった裏の噂を彼に説明した。そこまでなら守秘義務を破る事にはならないと判断したからだ。

「そう言われると、そんな話がありましたね。ただ僕はあの時期、自分の事で精一杯だったから、余り深く関心を持てずにいたのでよく覚えてませんでした」

「政治や時事問題は、日々の生活に必死な人こそ必要な情報なのに、実態はそういうものよ。だからおかしなことが、平然とまかり通る世の中になっちゃったんだから」

「そういえば真理亜さんだって、以前コロナに感染しましたよね。そんな人だと知りながら、あの人の担当になったんですか」

「相手からの指名だったし、会社の命令だからしょうがないじゃない」

 不本意だった事を告げると、彼はこれまで全く気付かなかったと驚いていた。だがそこから意外な事を言い出した。

「もし城之内さんを狙うことがメインだったなら、シージャックなんて大胆な事件を起こしたのは、単なる陽動作戦なのかもしれません。それなら爆弾だって、実はほんの少し持ち込むだけで済みます。ウイルスも、一人に感染させられる分だけで十分じゃないですか」

 これには真理亜も頷いた。

「そうね。これほど大きな船を沈没させられる爆薬を持ち込むには、さすがにリスクが大きいでしょう。ウイルスだって全体に拡散させるほど持ち込むには、余りにも危険すぎる。それに爆薬はともかくウイルスを拡散させるなんて、どうするつもりなんだろう」

「この船は簡単に感染拡大しないよう、外気を取り入れる通気口等の設備にも、相当なお金をかけていると説明がありましたよね。それに船を爆破するのなら、船内にいる犯人達の命だって、安全だとは言えません」

「それにそこまで大規模なシージャックなら、犯人も相当な人数が乗り込まないと実行できない。でもあなたの推理通りなら、ごく少数の人間が乗り込むだけで犯行は可能になる。さすがプロの小説家ね。そこまでは考え付かなかったわ」

 真理亜が素直に褒めると、彼は顔を赤らめて頭を掻きながら言った。

「いえ、あくまで可能性の一つを挙げたまでです。本当に本格的なシージャックかもしれません。最初に話していた通りなら、運営会社には弱みがあるんですよね。だから相当な額の身代金を支払ってでも、穏便に済ませたいと思っているでしょう。それが例えば数千億規模なら、大きな組織が動いていてもおかしくありませんから」

「そうね。余り楽観的に考えず、最悪の事態を想定して行動した方が、ベターだと思う」

 ここで彼は驚いて目を丸くした。

「え? 考えるのはいいですが、行動するって何ですか」

 ここは敢えて平然とした態度を取った。心中は穏やかでなく、彼との問答を重ねる間にも何度危険を犯すべきか否かで、躊躇したか。彼を巻き込んで良いものか戸惑い、迷った。

 しかし助かる為には、積極的行動に出る方が助かる確率は高い。そう決断した真理亜は、覚悟を決めて答えた。

「もし城之内さんが狙われているのなら、彼の資産を守らなければならない。私はその為に雇われているのだから。顧客の資産保全と管理、運用が仕事だと説明したはずよ」

「いや、それは通常の業務の場合じゃないですか。こんな緊急事態は、想定していないはずです。それに嫌々引き受けた仕事で、命を賭けて顧客のお金を守る必要は無いでしょう」

「誰も命まで賭けるとは、言っていないわよ。経緯はともかく彼に雇われた身としては、本当に資産が狙われているかだけでも確認しないと。その上で雇用主の彼が納得した上でお金を支払うと言うのなら、その指示通りに動くまでよ」

「でも城之内さんは、病室に隔離されていますよね。会いたいまたは話がしたい、と言ってもそう簡単にはいかないでしょう。内線電話さえ、取り次いで貰えないかもしれません」

 彼に考えさせれば、今後の作戦に取り掛かりやすくなるだろうと敢えて誘導した。

「そこよ。犯人達なら、内線で話をする位は出来るでしょう。でも電話だけで彼にお金を要求するつもりかしら。しかも船の通信は遮断されているから、ネットも外部との電話も通じない。そんな状況で、どうすれば彼の口座からお金を動かすことが出来ると思う?」

「そう言われればそうですね。どうするつもりなんでしょう」

「まだ彼が、お金を要求されていると決まった訳じゃない。でもそうだと仮定して、私達は考えて動く必要がある。そうよね」

「はい。そうなると、犯人の視点で想像しなければいけません。僕が城之内さんに近づく、または話をしようとした場合、どうするかですよね」

「そう。例えば資産運用の顧問担当の私が面会しようとしても、本人や医師達の承諾を得られなければ無理でしょうね。これは同室にいた八神さんも同様のはず」

「つまり彼と話が出来るのは、防護服を着た医療関係者に限られます」

「ということは医療関係者であれば、いつでも話をするチャンスがあるってことじゃない」

「え? もしかして犯人は、医療関係者の中に入るってことですか?」

「そう考えた方が、辻褄は合うでしょう。あくまで彼が狙われていると仮定した場合よ」

 少し頭を傾げた彼も、ようやく意味を理解したようだ。

「そうか。医療従事者の中に犯人の一味がいたら、ウイルスを船内に持ち込むことも難しくありませんね。ヘリが飛ばなくなって搬送されなくなれば、当然彼は医務室で隔離される。その時に近づいて、彼を脅すことができます。さすが真理亜さんですね」

「何を言っているの。そこからが問題なのよ。例え彼に近づけたとしても、隔離された状態には変わらない。もし彼にパソコンを持ってこさせるよう指示を出させれば、症状が酷く無いのなら許可は下りるかもしれないでしょう。でも通信が出来ない」

「そういえば新型コロナの感染が広がり始めた頃、患者さんが病室に持ち込んだスマホで自分の症状を動画で録画して、外部へ状況報告をしていましたね。あの頃はどういう病気で、どういう状態になるか余り知られていなかったから、かなり貴重な情報として扱われていました。でも確かにWi―Fⅰが通じている場所で無いと、送れませんよね」

「そう。ただでさえ隔離状態だから、行動範囲は限られるはず。そこに加えて船内全体が、犯人の要求で外部との通信が遮断されているでしょう。ネットさえ通じていれば本人がパソコンを操作して、指定された口座に送金はできると思うけど」

「そうですよね。犯人の要求で一時的に通信できるよう、船長が操作すればできるかもしれませんが、それには危険を伴います」

 そこがネックなのだ。いつ電波が通じるかと待っていて、誰か外部に助けを求めようとしているかもしれない。全乗員乗客から、通信機器を取り上げるというのも無理がある。 

 もちろんこれからの交渉の中で、そうした指示が新たに出される可能性も無いとは言えない。しかし誰が回収するかとなれば、大きな問題だ。

 客室係等に各部屋を回らせたとしても、二台以上持つ人が一台だけ提出すこともあり得る。他に持っていないかまで、徹底的に確認する手間はかけられないはずだ。例え銃を持った犯人達が出てきても、こっそり隠されてしまえば同じだろう。

「身代金をネットで振り込ませるとの前提から、間違っているかもしれない。そこを確認したいわね。城之内さんに会うのは無理でも、なんとか話だけでも出来るといいんだけど」

「真理亜さんは城之内さんが招待した客で、資産管理を任された立場ですよね。お見舞いというか、体調を尋ねる為にも電話で話す事くらいは、許して貰えるかもしれませんよ」

「そうね。一度試してみる価値はあるかも。それに医務室の中に犯人の仲間がいるかどうかも、その対応次第で探れるかもしれない」

「でも気を付けてくださいね。少なくとも仲間は他にもいるはずですから」

 ここで真理亜は、意図的に楽観的な見方を言った。

「判らないわよ。船の爆破やウイルス拡散がフェィクだったら、一人でもできるじゃない」

 しかし彼は反論してきた。

「だって少なくとも医療スタッフは数人、城之内さんをヘリで運ぼうと待機していたはずですよね。そこにヘリが着陸する際、ドローンが尾翼を破壊したと言っていませんでしたか。ということは、医療関係者以外にドローンを操作していた犯人の仲間がいるはずです」

「医療関係者の中に、操作していた人がいたかもしれないでしょう」

「ヘリが着陸しようとしている時に、ドローンを飛ばし尾翼へぶつけ爆破させるなんて、相当な技術が無いとできません。といって皆がいるヘリポートで操作したら、目立つのですぐバレるはずです。だから操作していた人間は、他の階にいたと考える方が妥当でしょう。十四階にいた仲間は、その人間に指示を出していたのではないでしょうか」

 良い推論だと思ったが、真理亜がさらに異論をぶつけた。

「でもドローン自体にカメラを搭載していたら、その場にいなくても技術は必要だろうけど、正確にぶつけることはできるんじゃない?」

 だが彼は怯まなかった。

「できるかもしれませんが、万が一映像が乱れたりするリスクもあります。一発勝負ですし、失敗すれば今回のシージャック自体が成り立ちません。だから絶対に成功させなければならなかったはずです。だとすればその場いる別の仲間が、無線などを通じて補助していたと考える方が自然です。そうなると最低でも指示を飛ばす医療従事者が十四階で一人、操縦者一人が下の階にいたと思われます。さらに操作している所も絶対に見られてはいけないから、その見張りの為にもう一人いたら確実でしょう。だから船内にいる犯人は、最小で三人はいるはずです。もちろん大掛かりなシージャックだとすれば、そんな数ではすまないでしょう。最低でも十数人単位で潜んでいると考えた方が無難だと思います」

「船内を動くとしたら、そこら中に犯人の目があると思っておいた方が良いってことね」

 真理亜の言葉に彼はさらに付け加えた。

「船内には至る所に防犯カメラがあります。そこの部署に犯人の仲間がいたら、それだけで怪しい動きをすれば、見つかるでしょう」

「つまり監視業務をしているセキュリティ部門が、一番怪しいって事? 確か十人体制だと聞いたけど、最悪の場合は全員犯人の仲間かもしれないわね」

「ぞっとしますけど、可能性はありますよ」

「後はこの船の構造も、私達の知らない乗組員達だけが知る仕組みもあるはずよ。もしかするとその辺りに、通信の秘密が隠されているかもしれない」

「なるほど。船全体の通信を遮断しても、ある特定のエリアまたは場所でネットが使えるとなれば、城之内さんとの取引も可能です」

「少しずつ絞れてきたわね。まずは城之内さんが標的になっているかを確認する事。さらに今言ったような、通信手段の有無を探る事ね」

「でも無茶はしないで下さいね。本当にどこで犯人の目が光っているか、判りませんから」

「もちろん防犯カメラ等で監視されていると覚悟して、動きましょう。とはいっても、さすがに個々の部屋の中までは大丈夫だと思うけど」

 さすがに個人のプライバシーがある。犯人達も部屋に隠しカメラの設置までは、していないだろう。万が一ばれてVIP達を怒らせれば、二度と出航は出来なくなる。彼らは通常の人達よりも、そうしたものに敏感なはずだ。よってあまりにも危険が伴う。

「つまり個々の部屋の中だけは、安心できるってことよね」

「でもどうするんですか。医療室に内線電話をかける事までは、出来ると思います。話をさせてくれるかは判りませんが。でもその先彼の資産が狙われていると知っても、船内の通信手段はどう調べればいいのでしょう。さすがに船内を歩き回ることはしませんよね」

 彼の心配を余所に、真理亜は思い切って言った。

「何言っているの。もちろん船内を移動する大義名分が必要だけど、顧客の為または自分達の命を守る為にも、単に座している訳にはいかないわよ」

「え? いや、それはさすがに厳しくないですか」

「あなた、さっき言ったでしょう。こんな貴重な体験をしているなんて、考えてみれば大きなチャンスだって。小説なりノンフィクションとして世に出す事ができれば変われると思うのなら、動かないと」

「それはそうですけど、具体的にどうすればいいんですか?」

 再び怯えだした彼に、真理亜は何でもない事の様に告げた。もう後戻りはできない。

「まず確認よ。外で何が起こっているか。犯人は少数か、それとも大勢か。城之内さんは狙われているのか。シージャックはダミーなのか、そうではないのか」

「一体、どうやって?」

「私に考えがある。もちろんあなたも、いい案があれば出して頂戴。協力してもらうわよ」

 真理亜はまず十四階の部屋で隔離されているはずの八神に、内線電話を掛けた。客室同士での連絡手段は遮断されていない。相手が出れば話が出来る。

 しばらくして、電話口から女性のか細い声が聞こえた。

「はい」

 誰だろうといぶかしんでいるか、または良からぬ連絡だと思ったのだろう。彼女の声は暗く、名前も名乗らない。こちらから切り出すまで待っている様子だ。そこで用件を告げた。

「六階の三郷です。先程この部屋に、防護服を着た看護師達が検査に来ました。感染者は、城之内様だったようですね。八神さんは大丈夫ですか。陰性だと伺いましたが、その後体調に変化はありませんか」

「ああ、三郷さんでしたか」

 ホッとした声に変わった彼女だが、不安気に言った。

「私は元気ですけど、あの人の事が心配です。ヘリで搬送できなかったから、医務室へ運んだと少し前に連絡がありました。今は安定しているようですけど、新型コロナは急に症状が悪化するって聞くじゃないですか。しかも高齢ですし、訳の判らない騒ぎにまで巻き込まれて、本当に大丈夫でしょうか」

 悲観する気持ちを少しでも和らげようと、真理亜は彼女を励ました。

「それは問題ないと思います。この船の医務室は、最先端の医療施設を完備していてコロナ対策も万全だと、乗船前に説明を受けましたよね。それにあの方は、特に大きな持病を抱えていないと聞いています。ただでさえパワフルな方ですから、大丈夫ですよ」

 すると彼女の声が、やや明るくなった。

「そうですよね。医務室の先生にもそう言われたわ。三郷さんが言うように、あの人は殺そうとしたって簡単に死ぬ人じゃないですもんね」

「そうですよ。だから八神さんは、ゆっくりと体を休めてください。無症状の場合だと陽性反応が出にくい場合もあるようですから、無理をなさらないように」

「有難うございます。ああ、私達ばかり気を遣って頂いて申し訳ありません。そちらはいかがですか」

「私達も濃厚接触者として調べられましたが、先程二人共陰性だと知らされました。そのご報告と、八神さんのお体が心配でご連絡をさせて頂きました」

「それはお気遣い有難うございます」

「いえ、城之内様の近況も知れたので、良かったです。ところでご相談があるのですが」

 まずは本題に切り込む前の準備に取り掛かる。彼女は何の疑いもなく聞き返してきた。

「何でしょう?」

「実はこちらで今回の件について、色々考えてみました。そこで何故犯人達に感染させられたのが城之内さんだったのか、疑問を持ったのです」

「どういうことですか?」

「今回の事件を起こした犯人は、新型コロナウイルスを所持しているようですね」

「そういえば、指示に従わなければウイルスを拡散すると言っていましたからそうでしょう。あと爆弾も使用すると脅していましたね。それがどうかしましたか?」

 再び声が曇り出した彼女だったが、真理亜は直輝と推論を立てた内容を簡単に説明し、城之内が個人的に狙われた恐れがあると伝えた。

 当初は余りにも突飛な憶測だと思ったらしく、思った以上に反応は鈍かった。はい、はいと答えてはいたが、緊張感を持っているようには全く感じられなかった。

 その為丁寧に説明し直し、また一番近くにいる彼女が人質にされるかもしれないと少し怖がらせた所、ようやく真剣に考え始めたらしい。

「私はどうしたらいいですか?」

「まず部屋の鍵は内側からロックし、ストッパーもかけてください。そちらは最上級のお部屋ですから、確か二重扉になっていましたよね」

「はい。陰圧室が、ドアの外にあります」

「一番外の扉の鍵の閉開も、中から操作できると聞いています。もし外部から防護服を着た医療室の方等が訪ねてきた場合、陰圧室の外でしばらく待機させてください。簡単に部屋の中には、入らせないよう注意することです」

「それは乗組員に扮した犯人が、私を襲うかもしれないからですか」

「はい。あなたを拘束し、城之内様と同じようにウイルス感染をさせようとするかもしれません。もしくは銃を突きつけるような、暴力行為に及ぶ可能性もあります」

「でも今の状況だと、医療室の人を中に入れず追い出すのは、難しくありませんか。私は何て言えばいいのでしょう」

「まずは絶対に中へ入れず、インターホン越しか電話を通じて会話してください。食事や薬の提供をされた場合でも、陰圧室に置かせて相手が外へ出たと確認しない内は、部屋から出ないように。余程のことが無い限り、部屋の中に入らなければならない事態は、まず起こりません。無理して入ろうとする場合は、怪しいと考えて良いと思います」

「それでも判断に困るような事を言われた場合、どうすればいいですか」

「その場合は一旦電話を切り、私達の部屋にかけて相談して下さい。もし私達が出ない場合、訪ねて来た方の部署の上司に確認するなど、念には念を入れた方が良いでしょう」

「そこまでしなければいけないんですか」

「用心するに越したことはありません。この船は現在非常事態ですから、それを忘れないで下さい。ただ部屋にいれば、まず安心です。中にも鍵がかかる扉は、いくつかありますよね。もしもの時に備え、そういう部屋に逃げ込む準備もしておいた方が良いでしょう」

「判りました。ご忠告頂いて助かります。そこまでは考えてもいなかったので」

「私達も最初はそこまで思い付きませんでした。ただ色々整理している内に、城之内様だけが感染した事に疑問を持っただけです。もちろん単なる杞憂で終わるかもしれません」

「いえ、三郷さんが先程ご説明いただいた様に、念には念を入れておくのは、無駄ではありません。何もなければ、それに越したことはないですから」

 彼女は親身になってくれる真理亜に対し、すっかり気を許してくれたようだ。このやり取りはまず、彼女が犯人側と通じていない事を確認する為だった。

 彼女の演技が女優並みで無ければ、声の調子等からすると本当に何も知らないと考えて良さそうだ。そう結論を下した上で、肝心な話題へと移行した。

「そう言って頂けると助かります。ただでさえ不安な状況なのに、余計な心配をさせてしまうのではないかと気がかりでしたから。ところで話は変わりますが、城之内様が使用していたパソコンやタブレット端末、スマホ等は部屋に置かれたままですか」

「そのはずです。別の部屋で下船準備をしている時、何故か内線電話をどこかへ何度かかけていたなと思っていたら、急に体調を崩されたと言い出したので彼の指示通り医務室へ連絡したのです。そうしたら、コロナに感染している疑いがあると言われました。そこから防護服を着た方達が慌ただしく押しかけ、彼はそのまま運び出されましたから」

「念の為城之内様の部屋に入り、確認して頂くことはできますか」

「少し待ってくださいね」

 しばらく保留音が流れ始めた。恐らく部屋を移動して、ネットと繋がる物が持ち出されていないか確かめているのだろう。この船旅で行動し交わした会話により、城之内がノートパソコンとタブレットとスマホを一台ずつ所持している事は確認している。

 もしかすると部屋には、真理亜が知らない物があるかもしれない。万が一、ネットが繋がる端末を持ち出されていたなら、隔離された病室でも彼が所有する資産を指定する口座へ振り込むことは出来る。そうなれば恐れていた事態が起こる可能性は高い。ただしあくまで、通信可能な状況であることが大前提だ。

 数分程待たされてから、保留音が止んだ。彼女が受話器を取ったらしく、話し出した。

「今探してみましたが、小型のタブレットが一台見つかりません。恐らく三郷さんとのお仕事で使われていたパソコンや大き目のタブレットと、主に使っているスマホはありました。でも彼はもう一台、通話もできる小型のタブレットを持っていたはずです。あまり使っている所を見たことはありませんが、今回の旅行にも持ってきていた記憶があります」

「それは確かですか?」

「間違いないと思います。しかしあんなものを、いつ持ち出したのでしょうか」

 彼女に聞いて正解だった。やはり真理亜に隠していたものがあったらしい。それでも同部屋にいる彼女の目までは、誤魔化せなかったようだ。そこでやや大げさに説明した。

「医務室にいる人達の中に、犯人の仲間がいたのかもしれません。城之内様が部屋から搬送される際、どさくさ紛れに盗んだのでしょう。本人は治療を受けていたはずでしょうから、自らが外へ持ちだそうなんて考えなかったはずです。もしヘリで搬送されると判り、連絡を取る為に必要だと思えば、その後誰かに取って来てもらえばいいだけですからね」

「そういう方はいませんでした。私はずっと部屋にいましたから、間違いありません」

 これで一つ、真理亜達の推論が当たっている確率は高くなった。たまたま彼が念の為にと、自ら服の中にしまい込んだ可能性はわずかに残る。だがそうでない場合、犯人達に脅されて資産を動かす恐れがあった。

 後は実際に実行へ移す場合、どうやって遮断されている通信を復活させるのかを探らなければならない。その為には、事前に考えていた第二の計画を実行する準備が必要だ。

 そこで真理亜は彼女に言った。

「すみません。外部の人間を部屋に入れるなと散々忠告したばかりで恐縮ですが、お願いがあります。二人分の防護服を部屋へ持ってきてもらうよう、連絡して頂くことは可能ですか。出来れば医務室ではなく、客室係かコンシエルジェの方が良いのですが」

 突然の要望に驚いたのだろう。彼女は声を失い沈黙していた。

「もしもし、聞こえていますか?」

 通じていないのかと心配して尋ねると、彼女はしばらく経って口を開いた。

「ああ、すみません。聞こえましたけど、余りに意外なお話だったので、思考が停止してました。防護服を届けて貰うよう依頼する、と言われました?」

「はい、そうです」

「一体どういう意図があってそんな事を? それにルームサービスで、防護服のレンタルは普通無いと思いますけど」

 戸惑う彼女に、真理亜は笑って答えた。

「無いでしょうね。六階にいる私達なら、お渡しできませんと即答されてお終いです。でもあなた方のお泊りになっている部屋は、この船に三五〇ある客室の中で十室しかない、レジエンドスイートです。最もハイレベルの方々しか入ることが許されない為に、十四階へはルームキーを持っている方しかエレベーターも止まりません。そういう方々からの要望なら、余程のことが無い限り断られ無いでしょう」

 特別扱いを受ける資格があると言われ、彼女は気分を良くしたらしい。急に声のトーンが上がった。

「なるほど。そうかもしれませんね。でも防護服を、しかも二人分欲しいと言ったらさすがに理由を聞かれますよね。何て言えばいいんですか」

「万が一に備えて、持っておきたいと言えばいいんですよ。二人分なのは予備でもあり、また城之内様が回復され部屋に戻って来られた場合に備えてと言えば、理解して頂けると思います。後は先方が応じてくれるかですが、即答はしてくれないかもしれませんが」

「そうですよね。今は私達のような濃厚接触者だけでなく、全乗員乗客に対してPCR検査をしていると言っていましたから。廊下等に隔離設備も設置しているようですし、多くの方が防護服を着用しているでしょう。余っているとは思えません」

「もちろんです。ただ全く無いはずはありません。それに着用するのは、限られた方々です。またこの船は感染対策には、過剰な程に力を入れています。ですから防護服も、相当数用意されているはずでしょう。船内での隔離生活が長引いている状態だと難しいと思われますが、今ならまだ大丈夫です。これはレジエンドスイートに宿泊している八神さんしか、まず叶えられない要望だと思います。それなりに相手は渋るでしょうが、そこは特権をフル活用して頂ければ、何とかなるはずです」

「それはそうかもしれませんが、防護服を持って来させてどうするつもりですか」

「もちろん城之内様を守る為です。私達が部屋の外に出るには、防護服が無ければ必ず止められます。しかしそれさえあれば、外を自由に行き来できるでしょう。城之内様がいるだろう十三階の医務室に忍び込むことも、上手くいけば出来るかもしれません」

「忍び込んで、どうするつもりですか」

「万が一、城之内様が脅されてお金を要求されるような事があれば、阻止したいと思います。具体的にどうするかは、もう少し状況を把握してからでないと判りません。ただそれらを把握する為には、外へ出ない事には始まらないのです」

「でも上手くいくか、判りませんよね」

 徐々に渋り始めた彼女を説得する為、真理亜は思い切って弱点を突いた。

「八神さんも城之内様にもしものことがあれば、困りますよね。それにあの方が持っている資産を大量に奪われたとしたら、最悪の場合はこれまでのようなお付き合いも、難しくなるかもしれません。それでも良いのですか」

「そ、それは」

 彼女が動揺した為、さらに畳みかけた。

「もし作戦が成功して城之内様を守ることが出来れば、八神様は功労者です。相当のご褒美を期待できるのではないでしょうか」

 最後の言葉が効いたらしい。彼女はようやく了承してくれた。しかし防護服を受け取れた場合、どうやって渡せばよいのか。ルームキーは無い為、真理亜達が十四階まで取りに行くことはできない。その疑問に、真理亜は何でもないように告げた。

「申し訳ありませんが、八神さんが防護服を着た状態でもう一着を持って、六階まで来て頂けますか。もちろん帰りは直輝に送らせますので」

 彼女がくれば直輝にもう一着を着させ、二人で十四階まで戻ればいい。帰りは彼女の着ていた防護服を持って彼が一人でエレベーターに乗れば、六階に戻ることは可能だ。

 彼女が着ていた分を真理亜が受け取り着用すれば、ようやく二人での外の捜索が始められる。そう説明すると、彼女は難色を示した。帰りは良いとしても、六階までは一人で来なければいけないからだ。

 先程は狙われるかもしれないと、忠告したばかりだからだろう。しかも防護服をもう一着持たなければならない。それに防護服を着た状態で外に出れば、この時間なら誰かに出会う確率は高い。

 各所で乗組員達が隔離設備の設置をしたり、PCR検査の為に各部屋へ走ったり、また陰性と出た人を部屋に誘導したりしているはずだ。よって何故一人で出歩いているのかと、呼び止められる可能性はあった。

 しかも防護服を持った状態だ。考えただけで面倒に思ったのだろう。声が再び曇った。

「それ、本当に私がしないといけないの?」

 あなた以外に誰がするのか、と一喝したいところを真理亜はグッと耐える。その上で彼女に優しい口調で語りかけた。

「八神さんに身の危険が及ぶのは、城之内様が交渉に難色を示したり、抵抗し始めたりした場合です。恐らく今の時点で、そこまでには至っていないでしょう。通信が遮断されている問題も、解消しなければなりません。お願いです。八神さんだけが頼りです。今行動すれば、多くの乗員を誘導する乗組員達に紛れ込めますし、間に合うでしょう。もし失敗すれば城之内様だけでなく、八神さんの身も危なくなります。成功すれば、相当な恩をあの方に売ることが出来る。あなたは防護服を借り六階まで一往復するだけで、後は全てこちらがやります。あなたは部屋でじっとしてさえすれば、大丈夫です」

 必死の説得に、最後は彼女も折れてくれた。やるとなれば早い方が良い。その為一旦電話を切り、客室係へ連絡を入れて城之内の容態を確認するついでに、防護服を持ってくるよう頼んでみると言った。

 受話器を置いて安堵している真理亜に対し、直輝がねぎらいの言葉をかけてくれた。

「お疲れ様です。手こずったようですけど、なんとかやってくれそうで良かったですね」

「まずは第一関門クリアってところかしら。でも問題は、まだまだこれからよ」

「そうですね。何とか無事、防護服を手に入れて八神さんから受け取り、彼女を十四階まで送り届けないといけません。しかもそこから先、どう動くかですよ。先程電話で言われていたように、いきなり十三階の医務室へ向かうつもりですか」

「そこなのよ。小型のタブレットが部屋の外へ持ち出されているようだから、城之内さんとの交渉は既に始まっているかもしれない。だから急ぐ必要があるとは思うけど、彼を訪ねたからといって、すぐ阻止できるとは限らないからね」

「医務室に入れたとしても、犯人の仲間がどれだけいるか全く分かりません。そう考えると十四階と六階を行き来するのは、危険過ぎませんか。ここには防犯カメラが至る所にあります。不審人物と疑われる、もしくは犯人達に知られるとまずいでしょう」

「一種の賭けね。もっと情報が欲しい。だから私達が動けば、相手も何らかの反応を示すはず。通信の謎もまだ解けていない。犯人達は一体どういう手を使って、お金の送金をさせようとしているのか。それとも最初から、そんな計画はないのかもしれないし」

「そうですね。動かなければ何も始まらない。ただ計画はあると思って行動した方が良いと思います。それに外の状況と乗組員の情報がもっと知りたいですね。医務室の中でどれくらい不審人物がいるか。他にも廊下などで隔離説を設置している人達の中に、怪しげな動きをするものがいるか。爆弾はどこに設置されているかも判るといいのですが」

「この船を沈没させるつもりで、船底のどこかに大型の爆弾を設置していたとしたら、例え発見できても、素人の私達ではどうしようもできない。爆発物処理班のような知識や、特殊秘術と装備なんてないからね。外部と連絡が取れて、助けを借りられればいいけれど」

「何とか連絡を取る手段はないでしょうか。その辺りも考えて動かないといけませんね」

「犯人達のたくらみみはどこにあるのか。どういう計画なのか。私達の命を守る為に、何をすればいいのか。船から脱出する道はあるのか。これだけの問題を解決するには、絶対に信頼できる乗組員を見つけて協力を依頼し、内部の情報を得ないと無理な気がする」

「そうかもしれませんが、絶対犯人ではない乗組員をどうやって見つけるかが問題ですよ」

 そう話していると、内線電話が鳴った。真理亜が取ると、相手は八神からだった。

「上手くいったわよ。かなり渋っていたけど、私達がどこの部屋の人間か、判っているのって脅してやった。それとあなたから聞いたように、城之内さんがコロナに感染したのも、犯人に目を付けられたからじゃないか。もしそうなら、大きな責任問題になるとも言ってやったの。そうしたらまだ予備があるので、二着直ぐに用意してお持ちしますだって」

「さすがですね。あと防護服を持ってきた人を、絶対部屋の中に入れないで下さい。手前の減圧式の部屋に置くよう指示すればいいです。取りに行く場合も、彼らが間違いなく外に出たこと確認して下さい。それと直ぐに入って来られないようストッパーを止めるのも、忘れないようにして下さいね」

「判ってるわ。あなたの話を向こうに告げたから、もし犯人の仲間が聞いていた場合、邪魔だと思って狙われるかもしれない。そういうことでしょ」

 彼女は異常に浮かれ、興奮した声を出していた。その為敢えて言わなかったが、まんざら馬鹿ではないらしい。自分の身に及ぶ危険については敏感なようだ。まずは第一関門を突破できた。そこで真理亜は尋ねた。

「城之内様の様子は、どうだと言っていましたか。症状は安定しているのでしょうか」

「今は問題ないそうよ。最初は若干低かった酸素濃度も、呼吸器をつけているせいか正常値に戻っているみたい。咳や息苦しさも収まっているようよ」

「それは良かった。船内の設備は充実しているはずですから、安心ですね」

「そうそう。医務室の状況も聞いてみたの。乗員全員のPCR検査をするって言っていたでしょ。陽性反応が出た人が沢山いたら困るじゃない。それに重症者が何人も出たら、医務室では対応しきれなくなるでしょ。彼が万が一悪化したら命が危ないし。でも今のところ、陽性者は出ていないって」

「やはりそうですか。私達のような濃厚接触者でさえ陰性でしたし、この船は至る所にウイルス感染を防ぐ対策が取られています。だから感染拡大している可能性は低いと思っていましたが、予想通りでした」

「そうなると城之内さんが狙われたという話も、満更的外れではないかもしれないわね。でもどうしてあの人だったんだろう。お金持ちや高齢者だったら、他にもいるのに」

「そこは私達も考えました。ただこの船の乗客を狙うなら、やはり十四階の人でしょう。そうなると最低でも十分の一の確率でしょうから、運が悪かったとしか言えないですね」

 すると彼女は意外なことを言った。

「十分の一じゃないわよ。確かこの階は、五部屋しか使っていないはずだから。念の為に一部屋ずつ空けているって聞いたわ。それに他の部屋の人を全員見た訳じゃないけど、城之内さんより明らかに高齢の人を見かけたし。杖をついていた人や車椅子の人もいたのよ」

「じゃあ狙われる確率は、十分の一じゃなく五分の一より低かったことになりますよね」

「そうだと思う。それにこの階の次にグレードが高い十二階や十階の部屋も、半分しか使われていないって聞いているわよ」

 確かに今回のクルーズ船の旅では、感染対策の一環から三五〇の客室に七五〇名まで収容が可能なところを、三五〇名しか招待していないと言っていた。

 よって四〇〇名の内の多くは、六階から九階までの客室で省いているだろうと勝手に想像していた。実際真理亜達がいる六階は、八十部屋ある内の半分以上が空室だ。恐らく七十五部屋ある七、八階や九階の七十室もそうなっているのだろう。

 だが十部屋しかない十四階や十六部屋と少ない十二階、同じく二十四部屋と少なめの十階までのスイートルームは、ほとんど埋まっているものだと勝手に思っていた。上階へは近づかないようにしていたし、旅の間も誘われず関心も無かったので全く気付かなかった。

 しかし八神によれば、全階の客室の半分を間引いているらしい。ということは想像していたよりも、城之内のような特別招待されたVIPは意外と少ないのかもしれない。

 これは何を意味するのかと考えていたところで、どうやら彼女の部屋に誰かが訪ねてきたらしい。一旦電話は保留にされた。しばらく待っていると、再び彼女は受話器を取って話し出した。

「今、防護服が届いたわよ。あなたに言われた通り、陰圧室に置いて貰ってから外へ出て鍵がかかるのも、ちゃんと確認したわ」

「それでは素早く防護服を部屋に入れて、再び中からロックして下さい。直ぐに移動するのは危険なので、十分程経ってから防護服を着用して外へ出て頂けますか。もう一着は袋か何かに入れ、注意しながら廊下に出て急いでこちらに向かって下さると助かります」

「分かった。他に注意点はある?」

「ルームキーを忘れないことぐらいですね。あと万が一、他の方に会っても目を合さないように。もし話しかけられたら、お客様に呼ばれ急いでいると言って下さい。余計な会話をしないように。上手くいけば、五分以内で来られるでしょう。私の部屋は判りますよね」

「六階の六〇五よね」

「そうです。もし五分経っても到着しなかったら、何か起こったと考え私達がそちらに向かいます。犯人の仲間に捕まると危険ですから。ただし私達は十四階へは行けません。なので少なくとも十四階のエレベーターに乗って、六階のボタンを押すまではお願いします。そうしないと、助けられませんので」

「エレベーターまではそんなに距離が無いから、何とかやってみる」

「お願いします」

「じゃあ、電話を切って十分経ったら部屋を出る。それでいいわね」

「はい。くれぐれも気を付けて」

「切るわよ」

 彼女はそう言って通話を終わらせた。真理亜は咄嗟に時間を見る。首尾よくいけば今から十五分後までに、この部屋に着いたと知らせるベルが鳴るだろう。もししなければ約束通り、急いで彼女の救出に向かわなければならない。

「準備は良いわね。最悪に事態に備え、何か武器を持って外へ出る用意をしておいて」

 後ろを振り返り、直輝に向かって指示する。彼は深く頷いた。ここまでは事前に打ち合わせした流れの通りだ。八神が無事到着すれば、次の段階に移ればいい。

 だがそうならなかった場合、その先どうなるかは全く予想がつかなかった。最悪の場合、犯人グループと戦う覚悟も必要だ。そこで拘束されるか、または殺されることもあり得る。そこまでのリスクを負う必要があるのか、直輝とは何度も話し合った。

 しかし犯人達が運営会社と金銭交渉をしている間は、犯人の仲間達も迂闊うかつな行動に出ないと踏んだのだ。その為動くなら今しかないと最終決断した。それにもう八神は、危ない橋を渡っている。今更後戻りはできない。

 時間が刻々と過ぎて行く。十分が過ぎた。今頃は十四階の廊下を走っているはずだ。後数分の内にドアベルが鳴らなければ、外へ飛び出さなければならない。

 あと二分。時計を睨みながら直輝と目を合わせる。彼の手には、バスルームに置かれていた物干し竿が握られている。洗濯をした場合に部屋干し出来るよう設置されたものだ。

 客室係に依頼すれば、基本的に洗い物は全てサービスでやってくれる。クリーニングなどもそうだ。しかし客の中には、下着等を他人に洗って欲しくない人もいる。そういう場合は、自分で船内に設置されたランドリーの使用が可能だった。

 ちょっとしたものなら洗面所で手洗いして、浴室乾燥機を使えばいい。その際に使うポールが、各部屋に設置されているのだろう。長さは彼の身長よりやや短く、ステンレス製で軽く持ち運びやすい。彼はそれを武器にするつもりのようだ。

 真理亜は催涙スプレーを手にしていた。仕事上、現金等を持ち歩くことは無いけれど、顧客の大事な情報を記載した書類を預かる場合がある。万が一そうしたものを狙い、襲ってくるやからがいないとは限らない。よって防犯用に常時持ち歩く習慣がついていたからだ。

 しかし相手が顔を覆った防護服やゴーグル等を着用していれば、通用しない。よって打撃用にと、ドラム演奏等で使用するスティックを予備として準備していた。これなら軽いし、街中で持ち歩いている際に職務質問されても、銃刀法違反などで捕まる心配がない。

 意外と強度もあり、相手の喉元や鳩尾みぞおちを狙って突けば、結構なダメージを与えられる為に重宝していた。

 予定の時間まで一分を切った。早ければ五分もかからない距離なのに、意外と時間がかかっている。まさか犯人の仲間に捕まったのか。真理亜達の緊張感が高まった。もしそうだとすれば、直ぐにでも助けに行かなければならない。

 意を決した二人はドアの前に立ち、スコープで外に誰もいないことを確認する。時計を再度確認した。時間だ。二人は目を合わせ、用意していた武器を握り直してストッパーを外し、直輝がドアノブに手をかけた。その瞬間ベルが鳴った。

 彼は慌ててスコープを覗き、相手を確認してから振り向いて言った。

「防護服を着ています。八神さんかと」

 真理亜は急いでドアホンを取り、念の為尋ねた。

「どちら様ですか」

「私よ、開けて!」

 防護服のせいかくぐもってはいるが、間違いなく八神の声だ。直輝に目で合図すると、ドアを勢い良く内側に引いた。すると彼女は倒れ込むように中へ入って来た。彼はすぐ他に誰もいないか、廊下に顔を出して左右を見た。

 扉の外に設置された隔離設備の、透明なビニール製の窓から怪しげと思われる人はいなかったのだろう。彼女が開けた設備の扉を閉めた後、部屋のドアを閉じて鍵を掛けた。

 真理亜はその間、彼女を抱き起し抱え込むように部屋の中へと招き入れた。持っていた防護服を受け取った後、彼女が脱ぐ手助けもした。中が暑かったのか、急いで走ったからなのか汗を掻いている。それを持っていたハンカチで拭いながら、彼女を労った。

「お疲れ様でした。ギリギリだったので、心配しましたよ。誰かに話しかけられましたか」

 しかし彼女は乱れた息を整えつつ、首を横に振った。

「違うわよ。何人かとはすれ違ったけど、声はかけられなかった。それより十四階とこの階も至る所に邪魔なものが道を塞いでいたから、通り抜けるのに時間がかかったの。しかもこの部屋のドアの前だけ、また別の囲いが取り付けているじゃない。最後に来て形状が違うから、手間取ったのよ。こうなっているって、最初から教えておいてくれないと」

 失念していた。真理亜達の部屋の外側には、簡易隔離設備が取り付けられたのだった。彼女達の部屋は二重扉で、陰圧式の部屋が元々ついている。その為改めて別の設備を取り付ける必要が無かったのだろう。

 また恐らく彼女が廊下を通る際に塞いでいたのは、船内放送でも言っていた、各ブロックを閉鎖する為の隔離設備装置だ。彼女に聞いた所、廊下全体を壁のように覆う設備は、だいたい片側で四~五部屋程通る毎にあるという。

 そこを行き来するには、いちいちマジックテープで停められた布の扉を開けて一定の空間を通り、その先にある扉を再び開けなければならないそうだ。

 四~五部屋毎となると左右で八~十部屋で、一番部屋数が多いこの六階の廊下でも九から十一ヵ所に設置している計算になる。彼女はここまで五つは通って来たらしい。

 万が一の場合における感染対策も万全を期していると聞いていたが、ここまでとは思わなかった。そこまで飛沫、空気感染予防をしていれば、例えウイルスが船内に蔓延したとしても、感染拡大は最小限に食い止められるだろう。

 しかも彼女によると、十四階はともかく六階も設置が完了しているようだ。一回目の船内放送時からは、既に一時間以上は経っている。一台設置するのにどれだけかかるかは不明だが、恐らく客室のあるエリアはほぼ完了したと見て良いだろう。

 後は基本的に乗組員達だけが出入りする一階から三階や十三階等と、劇場やフィットネスエリアと言った不特定多数の乗員乗客が出入りできる場所を封鎖すれば完了だ。

 犯人との交渉が長引く事もそうだが、乗客に感染者が出た今の状況なら、マニュアル通りに運営されるはずだ。過去の痛ましい過ちを繰り返さないよう、乗客は全員換気設備の整った部屋から出ないよう指示されている。

 食事は全て防護服を着用した客室係達によって、各部屋に提供されると乗船前にも説明を受けた。もちろんPCR検査を経て陰性と判断された乗組員だけが動き、彼達の生活エリアも、万全の感染防止対策を取られるはずだ。

 そこで再び真理亜は考えた。犯人は一体、どんな手を使って爆弾を爆発させ、さらにウイルスを拡散させるつもりなのか。八神の説明通り、相当細かくブロック毎に隔離対策を取っているのなら、一つや二つ破壊した程度では、それ程拡大を恐れる事態にならない。

 それとも廊下を塞ぐ設備を、一気に破壊する方法でもあるのだろうか。そうでもしなければ、脅しにはならない。単に船を沈没させるといえば、それだけで十分なはずだ。わざわざウイルスを同時に拡散すると言ったからには、それなりの手を考えているに違いない。

 それが判れば、逆算して爆弾の設置場所が特定することも可能だ。さらには船に潜む犯人達がどのように逃げだすつもりなのか、その方法のヒントにも繋がる。だがその一方で、真理亜は当初から持っていた疑念が、徐々に現実味を帯びてきたとも感じていた。

 そうした考えにふけっていると、直輝に声をかけられ我に返った。彼は既に八神が持参してくれた防護服を身にまとっている。彼女もまた、一度脱いだ防護服を再度着直していた。

「これから八神さんを十四階までお連れして、また戻ってきます。彼女が防護服を脱ぐ時間等を考えても、往復十分ぐらいで戻って来られると思います。行ってきますね」

「気を付けて。身を護る為とはいえ物干し竿はさすがに目立つから、私の催涙スプレーとドラムスティックの予備を持っていくといいわ」

「はい。お借りします。使わないで済めばいいのですが」

「私もそう願っているわ。できれば今は余り、騒ぎを起こしたくないから」

「判っています。慎重に行ってきます」

「だからって変にオドオドしていると、余計に疑われるわよ。八神さんの話だと、オープンスペースにいた乗客達のPCR検査の結果が出始め、陰性と出た多くの人達が自室へ戻るよう誘導されているようだから。その分、会う人も増えるはず。気を抜かないでね」

「了解です。二人で防護服を着ていますから、その人達に紛れ込めばいいんですね」

「そう。あなたは客室係に成りすまして、陰性と判明したVIPのお客様を部屋に連れて行くだけ。帰りは一人だけど、お客様に呼ばれ部屋に向かっている振りをしなさい」

「やってみます」

 事前に打ち合わせをし、様々なケースのシミュレーションを行ったが、頭で考えるのと実際に行動するのとでは大きく異なる。それでもやらなければならない。彼もその事は、十分理解しているはずだ。

 その為大きく息を吸って吐き、気合を入れ直してから二人で部屋を出て行った。その背中を見送りながら、真理亜は再び時計を見る。十分経っても戻って来なければ、何か非常事態が起こったと考えなければならない。

 だが八神の時と違う点がある。真理亜が助けに向かう予定は無い事だ。それはそうだろう。防護服もない状態で、五十過ぎの非力な女性が駆け付けても役には立たない。逆に足手まといになるだけだ。

 そうなれば直輝、または八神を含めた二人を見捨てることになる。それも覚悟の上の計画だった。直輝が犯人の仲間に捕まれば、隣室の真理亜もただでは済まない。何か企んでいるとみなされ、彼らがここへやってくると覚悟した方が良いだろう。

 携帯は通じないから、連絡も取り合えない。よって万が一の場合は、一人で脱出する必要がある。直輝に渡したものと同じ護身グッズを身に着け、その時が来た場合に備えた。

 逃げる場所は事前に確認し、決めている。それはこの部屋の上にある空室だ。廊下に通じるドアの鍵や、周りを囲む隔離設備の入り口を開けておき、外へ出たと思わせておく。だが本当はベランダから上によじ登り、ガラスを割って中に侵入するつもりだった。

 かなり困難だが、前もって試した際になんとか上がれることは確認済みだ。小柄な真理亜だからこそ出来たのだろう。さすがに先方も、そんな近くに潜んでいるとは気付かないはずだ。それに中老の女性が、そんな手を使い逃走したとは考え難いとの読みからだった。

 窓ガラスは強固だが、ガムテープで空き巣が良く使う方法を使えば、大きな音を立てずにクレセント錠は開けられる。空室に逃げ込めば、そう簡単には見つからないはずだ。

 時間稼ぎにも有効な場所であり、別の階への移動は次の行動を取りやすい。ただこの手は最終手段だ。出来れば使いたくなかった。

 そんなことを考えていると、内線が鳴った。直ぐに受話器を取る。相手は直輝だった。

「無事到着しました。今彼女は防護服を脱いでいます。終わったらそれを持って戻ります」

 時間を見ると、部屋を出てから四分余りしか経っていない。帰りは彼一人だ。この調子なら、もう少し早くここまで来られるだろう。まずは一安心だ。

 八神はこの後、部屋でじっと過ごすだけでいい。真理亜達が具体的にどう動くかは伝えていない為、これ以上関わらずに済む。

 胸を撫で下ろしたけれど、まだ彼が戻ってくるまで油断はできない。その為彼に言った。

「お疲れ様。でも気を付けて。帰りは一人だから、怪しまれやすいわよ」

「大丈夫です。外部にいた乗客達の誘導が、かなり進んでいるようです。今なら人が多くてそれぞれ部屋へ戻る事に必死な分、声を掛けられずに済みそうです」

「そうだといいけど、気を緩めないで。相手は素人じゃないんだから」

「了解です。あっ、今脱ぎ終わったのですぐ向かいます」

「分かった。宜しく」

 時間が惜しいので、手早く話を終わらせ受話器を置く。もう一度時間を見て、彼の到着予定時刻を確認する。五分かかると考え、そこから一分過ぎれば避難する準備に取り掛からなければならない。

 そう自分に言い聞かせながら、ドアの前で彼を待った。二分が過ぎ、三分経った。もうそろそろだろう。早く来て。そう願いながら、ドアスコープを覗き見る。しかしまだ来ない。徐々に緊張が高まる。時間は四分を過ぎた。

 駄目か。扉を開けて廊下へ出たと見せかける為、ドアノブを握る。その時隔離装置の入り口が開く音がして、インターホンが鳴った。スコープには防護服を着た人の姿が見えた。だがそれが直輝かどうかは、良く判らない。

 念の為にドアホンを取った。するとはっきり彼だと判る声がした。

「僕です。無事つきました。開けてください」

「大丈夫だった?」

「その話は中で。今の時間、この階の人は少なくなりましたので、問題ありません」

 そう聞いて安堵した真理亜がドアロックを解除すると、彼は入って来た。急いで鍵を閉め振り返ると、彼は防護服の頭部だけを脱いで言った。

「危なかったです。八神さんの部屋を出てエレベーターに乗ろうとしたら、僕達が使って十四階で停まったままだったはずの箱が、動いていたんですよ」

 まだ呼吸が整わず、ゼイゼイといっている彼に、真理亜はゆっくりと尋ねた

「誰かがどこかへ、移動しようとしていたのね」

「乗客を部屋へ案内しているのかと思っていましたが、違ったようです」

「どうして判ったの?」

「そっちは十三階で停まっていました。嫌な予感がしたので、もう一つのエレベーターのボタンを押して待ちました。すると十三階に止まっていた方が、上に動きだしたんです」

「つまり最上階の十四階を目指していた訳ね」

「はい。十三階は医務室等があるだけで、基本は乗務員しかいない階です。そこから上がって来たのなら、乗客を部屋へ案内しているのではないと思い、僕は急いでエレベーター横にある、大きなオブジェの陰に隠れました」

「そういえばパンフレットで見たわ。最上級エリアだけあって、高そうな装飾品が並んでいたのを覚えている。エレベーターが開いた瞬間の景色は、他の階と全く違うのよね」

「はい。そこで誰が降りてくるのかと思っていたら、防護服を着た人が一人だけ出て来たんです。だから明らかに乗客を誘導しに来たのではないと、はっきり判りました」

「誰だったか、何て判るはずないよね」

「さすがにそこまでは。こちらも見つからないようにしゃがんでいましたし、一人分の足が見えただけです。ただ歩き方からして、男性のような気がしました」

「そう。どこの部屋に向かったかは判る?」

 彼は首を横に振った。

「いいえ。一つ目の隔離装置を通り抜けた所まで見ていましたが、その先までは。丁度待っていたエレベーターが到着したので、早く戻らないと真理亜さんが心配すると思って、急いで降りてきました」

「そう。それで到着がギリギリになったのね」

「はい。あの人が誰で、どの部屋を訪問するか確認しようと一瞬考えましたが、余り遅くなると真理亜さんが上の部屋に逃げてしまうと思ったので」

「本当よ。もう少し遅かったら、そうしようとしていたんだから」

「間に合って良かったです」

 彼は上半身だけ防護服を脱ぎ、椅子に腰かけた。これから少し休んで打ち合わせをした後、予定通り十三階へと向かうつもりだからだろう。

 しかし真理亜は彼が見かけた人物が気になった。十三階から来たのなら、上での用件が済めば再び戻るはずだ。また何の用があったのか、一体誰なのかも知りたい。

 十三階のどの部署の人間かは不明だが、その人物がこれから船内を動き回るのなら、二人の今後の計画に支障をきたす可能性がある。知る方法はないかと考えた時、確か最上階は城之内達の部屋の他、四部屋しか使われていないと八神が言っていた事を思い出す。

 もちろんその内の誰かから、何らかの依頼を受けて呼ばれたとも考えられる。だがそれよりも、医務室の誰かが感染者の城之内と同室だった彼女を訪ねた可能性は高い。

 しかも彼女は我儘を言って、防護服を二着貸し出すよう依頼している。もしかすると部屋で安静にするよう指示されていたのに、防護服を着て出歩かないかと疑われたのかもしれない。体の調子を聞く為だけなら、電話でも済むだろう。

 それにしっかり症状を確認しようと思えば、VIPルームにいる女性一人の元に男一人で向かうのは不自然だ。少なくとも、医師と女性看護師の二人体制で訪ねるのが筋だろう。

 真理亜は自分の考えを直輝にも聞かせ、どう思うか尋ねた。すると彼は言った。

「だったら八神さんに連絡して、誰か来なかったか聞いてみるのはどうでしょう」

「それは簡単で、良いアイデアね」

「来ていないなら、それ以上調べられませんけどね。それに犯人の一味が、彼女を拉致しようとしているかもしれません。その確認の為にも、一度連絡した方が良いでしょう」

「まだあった。私達が無事、部屋に戻った事も知らせないと」

「いけない。すっかり忘れていましたね」

 舌を出して頭を掻く直樹を横目に見ながら、早速内線電話で彼女の部屋を呼び出した。スリーコールした後、彼女が出た。はい、とだけしか言わないのでこちらから名乗る。

「三郷です。直樹は無事戻りました。そちらで何か変わった事はありませんか」

「ああ、良かったわね。こっちは副船長がインターホン越しに、様子を伺いに来たわ。タイミング的に直樹さんとバッタリ会ったんじゃないかと心配していたのよ」

 意外な事を聞き、言葉に詰まったが何とか返答をした。

「エレベーターのところで、上手く隠れたそうよ。多分それが副船長だったのかもしれないですね。向こうは一人でしたか」

「そう。何回か話した事がある。日本人だったから、声もよく覚えていたし間違いないわ」

 真理亜も一度だけ、城之内達といた時挨拶された覚えがある。がっしりとした体格で、確か航海士だけでなくライフセイバーや潜水士の資格も持っていると聞いた記憶があった。

 しかし基本的にVIPへの対応は、主に船長の仕事だ。よってその後は見ていない。そんな彼がどうして今、彼女の部屋を訪ねたのか。そう質問すると答えが返って来た。

「緊急事態だから、船長は本社との連絡があるので手が離せないんだって。だから今後何かあれば、副船長が対応するって事を伝えに来たみたい。後、私は城之内さんの濃厚接触者だったから、体調の事も聞かれたわ。大丈夫だって言っておいたけど。実際そうだし」

「防護服の件は、聞かれませんでしたか」

「聞かれなかった。まだ彼に、報告が上がっていないのかもしれない。それに知っていたとしても、特に確認する必要は無いと思ったんじゃないのかな」

 そうかもしれない。それにVIPに対して、副船長が船長に代わって対応すると言いながら、乗客の様子を確認することは大切な仕事だ。恐らく十四階の他に十二階や十階へも挨拶がてら回る予定なのだろう。

 そう心配することは無い。だが彼はいずれ十三階に戻るだろう。ならばこの部屋を出るのは、もう少し後にした方が良さそうだ。ただ余り遅すぎると、相手の計画がどんどんと先に進んでしまう。

 そうなると阻止が難しくなり、危険も増すかもしれない。悩ましい問題が出てきたと頭を抱えながら、八神との通話を終えた。彼女にはまた何かあれば連絡して貰うように伝えたが、余り期待はできない。

「どうしようか」

 真理亜は直輝に声を掛け、計画の練り直しが必要かを再度話し始めた。

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