第八章 梅野の行動

 船内放送を終えたビリングに対し、日頃から彼の事なかれ主義を嫌っていた副船長の梅野うめの健吾けんごは異議を唱えた。

「本社の指示通り、客の命を優先してテロリスト達の要求通り停船し、PCR検査が済み次第乗客全員を客室へ誘導する行動は良いとしましょう。ですが乗組員達に、犯人の捜索をさせない点については納得がいきません」

 だがビリングも負けてはいなかった。強い口調で反論した。

「しょうがないだろう。乗客の安全を確保しつつ、万が一に備えてウイルスの拡散を防がなければならない。隔離装置を設置するだけでも、相当な労力と時間がかかる。それらを優先する為に、余計な仕事を増やすのは混乱を招くと判断した結果だ」

「そうはいっても乗組員全員が、誘導や設置をする訳ではないでしょう。機関部の面々まで駆り出すおつもりですか。違いますよね。甲板部にいる航海士や操舵手達も、停船したからと言って、持ち場を離れる事は出来ません」

「そんなことは判っている。だが船内の安全管理も甲板部の職務だ。彼らが乗客の誘導を手伝うのは当然だ。機関部もたずさわっているのは、エンジン関連だけじゃない。客船の電気関係や空調関係、冷熱機器類も彼らの守備範囲だ。客室からの要望があれば、修理等の為に飛んでいかなければならない。乗客の多くは、感染拡大に不安を持っている。そうなるとちょっとした空調の不具合でも、心配になって呼びつけられるはずだ。そうした混乱が起こった場合に備える体制づくりを、今は第一に考えなければならない」

「もちろん本来業務が、乗客のケアに繋がる者達はそれで構いません。ホテル部門や調理部門、レストラン部門の一部従業員もそうでしょう。今後どれだけ長期戦になるか判りませんから、部屋で待機する乗客達に食事を提供しなければなりませんからね。バー部門等にいるウエイター等の手も、借りる必要はあるでしょう」

 しかし梅野の話を遮り、ビリングは言葉を被せた。

「船内の食材、資材や消耗品類の在庫管理または発注や納入作業を行うプロビジョン部門、それにハウス・キーピング部門も忙しくなる。システムの維持管理を行う部門だって、何があるか判らない緊急事態だ。持ち場を離れることはできない。それだけの乗組員達が、船内を動き回る事になるんだぞ」

 それでも言い足りない部分を付け加えながら、反論を続けた。

「医務室の医師や看護師達もPCR検査や今後の感染状況に応じて、待機しなければならない。それは理解しています。しかしショーや船内のイベント業務等を行う、エンターテイメント部門やショップ部門はどうでしょう。経理や出納担当のアカウンタントや、寄港地でのツアーの手配、進行をするツアー部門にいる人員は、手が空いています」

「彼らにも乗客の誘導等を手伝って貰う。先程、各部門の長にはそう指示した」

「百歩譲って、彼らの力も借りる必要があるとしましょう。ですが忘れてはいませんか。この船にはセキュリティ部門の精鋭達がいるじゃないですか」

 船内で不測の事態が起こった際、行動するのが彼らだ。その為通常は、乗客の前へ顔を出す機会はない。

 二つの民間会社から呼んだ五名ずつをシャッフルして二チームに別れさせ、普段はそれぞれ五階と十三階にある待機室で、防犯カメラによる監視業務をしていた。

 場合によっては清掃係や客室係に扮装し、船の中を巡回するケースもあると聞く。これはさすがに言い返せないだろうと思っていたが、その思惑は外れた。

「彼らは鍛え上げられた部隊だ。それこそ隔離設備の設置等の力仕事を手伝って貰えば、迅速にこなすだろう。防護服を着させれば、乗客達に顔や装備を見られる心配もない」

 突拍子もない船長の提案に、梅野の声は思わず裏返った。

「彼らにも防護服を着させるつもりですか。彼らの能力は、そうした無駄な労力を期待して、高い金を払い雇った訳ではないでしょう。ヘリの尾翼が破壊された際、その場に居合わせた医師からドローンを飛ばした人物を探し出し、爆発した原因調査をするよう依頼があったはずです。それはどうなっているのですか」

「あの時既に、本社から脅迫電話が入っていると連絡は受けていた。だからインマルサットを停止したんだ。ただ早急に呼び出し、同様の指示は出したよ」

 梅野は驚いた。彼らを全く動かすつもりが無い訳ではなさそうだ。そこで質問した。

「その結果、どうだったのですか?」

「破壊されたドローンと尾翼の残骸等から、液体爆弾の可能性が高いとの報告を受けている。今はその成分の分析をしているはずだ」

 一口に液体爆弾と言っても、いくつかの種類があるという。ニトロメタンとエチレジアミンを配合させたPLXや、硝酸アンモニウムとヒトラジンを混入させたアストロライト、BTTNと言った化合物等があるらしい。

 前者二つの場合は常温で保管できるだけでなく、別々に分けている間は高い安全性を保てるそうだ。よって船内等にも持ち込みやすく、二つを混ぜた段階で大きな爆発威力を持つ特徴があるという。

 そこまで調べていたのかと意外に思ったが、肝心な事が判っていない。

「何者かが爆薬を持ち込んだのですね。ドローンを飛ばした人間は見つかりましたか?」

 前のめりになって聞く梅野のテンションとは違い、リビングは肩を落とし俯(うつむ)いていた。しかしその理由が彼の発した次の言葉を耳にして、ようやく理解できたのだ。

「それらしき人物は、発見された。ただしセキュリティ部門のメンバーが駆け付けた時には、既に彼は死んでいたと聞いている」

 余りの意外な回答に、梅野は再度聞き直した。

「今、何と言いました?」

 彼はそのまま続きを説明してくれた。

「正確にいうと、首を絞められ殺されていた。彼の指紋が着いたドローンのコントローラが、かたわららにあったという。恐らく操作していたのは、彼に間違いないそうだ。ちなみにその人物は、調理部門に所属する料理人だった。しかも彼は十一階のレストランにいた。そこは十六室しかない十二階や、十四階のレジエンドスイートに宿泊しているお客様が良く使う場所だ。感染した城之内様に、何度も食事を提供している関係者の一人だったことも分かっている」

「なんですって! 乗組員が犯人だったというのですか?」

 その可能性が高いと覚悟はしていた。だが仲間を信じたかった梅野は、乗員の中にいるのではないかと、僅かな望みを持っていた。しかしそれは見事に裏切られたようだ。

「正確にいえば、犯人の仲間の一人だったと思われる。しかしヘリを飛べなくさせる作戦を成功させた時点で、他の仲間に口を封じられたのだろう。そう考えるとウイルスを料理に仕込み、城之内様を感染させたのも彼だった可能性が高い」

「いずれ犯行に加担していると怪しまれる前に、仲間の手で消されたという事ですか」

「恐らく。ただ彼は、利用されただけかもしれない。つまりテロリスト達が、他にも潜んでいることを意味する。しかも乗組員の中にいる確率が高いと思われる」

「どうしてですか?」

「同じ乗組員であれば、乗船している間に様々な打ち合わせが自然にできる。乗客となら、そうはいかない。特に彼は調理部門という裏方に属していたからな」

 梅野は頷かざるを得なかった。彼の説明には説得力がある。乗客に出す食事を作る者達なら、料理長でもない限り外部の人間と接する機会はまずない。

 交代制を取っているが、ルームサービスを含め二十四時間いつでも料理を提供できるよう、待機しているはずだ。仕込みはもちろん、皿洗いやプロビジョン部から食材を受け取ったり、足りない物を注文したりと言った雑用もかなり多い。

 同じ部門でも、レストランは十階と十二階に二つずつと四階のスペシャリティレストランの五つに別れている。その他にバーやカフェ、ラウンジにおいても食事は提供される為、そこで働く者もいるので仕事場もばらばらだ。

 つまり同じ部門の者同士でさえ、接触するチャンスは限られる。そうした状況を考慮すれば、船長の推測は間違っていない。彼はさらに説明を続けた。

「その報告を受けた後、本社から具体的に船がシージャックされ、身代金を要求されているとの連絡があった。だからこそ、うかつに動く事は危険だと私は判断したんだ」

 それでも梅野は反論を試みた。

「しかしセキュリティ部門の人間だけでも、目立たないよう捜査することは可能でしょう。彼らはその道のプロです。使わない手は無いと思うのですが」

 だがリビングは首を横に振り、ささやくように話し出した。

「彼らからも要望はあった。ドローンを操縦していた者の死体は、十三階の霊安室にある冷蔵施設へ運ばせた。しかしその先はそれぞれの待機所に留まるよう、指示している。表向きはウイルスの感染拡大に備える事と、防犯カメラの監視に集中する為だと伝えたが、本音は違う。何故なら彼らの中で、犯人に通じる者がいないとは限らないからだ」

 梅野のも同じく小声で言った。

「彼らを疑っているんですか?」

「彼らだけじゃない。乗組員の中で、どれだけの人数がどの部門に潜んでいるのか、見当がつかないからだ。よって乗客の誘導やPCRの検査、隔離装置の設置等といった必要最低限の行動だけをするよう、言い渡した。下手に動かれて、これ以上余計な事をされては困るだろう。例えば爆弾を各所に設置されでもしたら、どうしようもない」

「犯人達の行動を限定する為だった、というのですか」

「そうだ。現に危機意識が高い彼らは、既に自分達以外の乗組員達の中に敵がいると警戒し、チーム毎でまとまって動きたいと言い出した。だからこれまで混合編成だったチームを、元の雇われた会社ごとのメンバーで十三階と五階に別れ、集まっている」

「それを許可したのですか」

「リーダーのハリスから、強く要求された。止むを得ないだろう。例え私が駄目だと言っても、この緊急事態だ。言う事を聞くような空気では無かったからな」

 そう説明する彼に、梅野は疑問を投げかけた。

「確かに言われる通りかもしれません。例え別れても、両方の待機室では船内全体の監視ができます。双方で注視すれば、互いの行動や他の乗組員を含めた不審な動きを見張ることは、可能かもしれません。しかし爆弾は既に設置済みと考えた方が自然ではないでしょうか。爆破すると脅しておいて、その後に準備するとは思えませんが」

「この船を沈めることが目的なら、船底部分のどこかに爆薬を仕掛けておけばいい。だが犯人は、ヘリの尾翼を破壊した以上の威力を持つ爆弾を、船内で使うとしか言っていない。しかも同時にコロナウイルスを拡散させる、と脅してきた。その意味が解るか」

 梅野が首を横に振ると、彼は言った。

「今まさに、船内ではブロック毎に隔離装置を設置している。これは本社を通じ、脅迫電話があったと連絡を受ける前から行っていた作業だ。城之内様の感染が確認された為に、事前のマニュアルに沿って皆が動き出した。そうだろ」

「そうですね。でもそれが何か」

「その途中で犯人からの要求があり、船内における通信機能を遮断し、船を止めた。だが彼らは隔離装置の設置に関して、止めろとは言わなかった。もし本気でコロナウイルスを船内に拡散させるつもりなら、彼らにとっては邪魔なはずだ。それなのに、今もなお設置し続ける彼らの行動を阻止しないのは何故だ」

 これにも答えられなかった。矛盾することは否定できない。黙っていると、彼はその理由に対する推測を話し始めた。

「設置が進めば、乗客はとりあえずパニックを起こさずに済む。誘導している乗組員達も、安全だからと伝えられる。犯人達にとっては大勢の乗客が混乱を起こし、想定外のハプニングが起こる事態は避けたい。私はそう思った。人数も多くただでさえ単なる富裕層ばかりではないから、何をしでかすか判らない。自分の国へ連絡し、軍隊を動かせと言い出す者がいたっておかしくないだろう」

「なるほど。いくら犯人達がウイルスを拡散すると言っても、設置が進み部屋に閉じこもって居さえすれば、安全だと思わせられます。船内には乗員乗客が九〇〇人近くもいるので、騒がず大人しくして欲しいと思うのが、犯人達の心理でしょうから」

「そうだ。銃を突きつける等して脅すなら、また話は違ってくる。だが彼らは今の所、そういう行動を取っていない。だから設置を許しているのだと思う」

「でも彼らが本気で拡散するつもりなら、脅しの効果はかなり薄まります。第一犯人は、一体どういう手を使ってウイルスをまき散らそうとしているのでしょう。この船における感染拡大についての対策は、相当なものです」

「そこは私も判らない。乗組員の中に犯人の一人がいた事から、船内の装備はかなり周到に調べていると思った方が良いだろう。相手の意図が不明だからこそ、油断は禁物だ」

「だから怪しまれる動きはするな、と言っていたのですね」

「そうだ。爆弾は沈没させる為ではなく、ブロック閉鎖する設備や殺菌装置の破壊に使うのかもしれない。もし乗客達が不審な動きをするか、交渉が行き詰まったりした場合、そうすることでウイルスを船内で感染拡大するとの脅しが本気だと、アピールできる」

 彼の推論には説得力があった。二年前の忌まわしい事件の記憶がある限り、乗客達にとっては船を沈めるとの脅迫以上に効果があるだろう。身代金の要求についても、船を爆破してしまったらそれで終わりだ。

 しかし交渉を進める過程で小規模の爆破を行われれば、相当な衝撃を受けるに違いない。じわじわと迫りくる恐怖を味わう方が、恐ろしいからだ。さらには話し合いが長引けば長引くほど、犯人側が有利になる。

 感染者が一人出た事は、全乗員の知る所だ。現在行っている検査でどれほど広まっているか、明日未明には判明する。もし城之内一人だと分かれば、皆安心するに違いない。

 だがその後ウイルスがいつかばらまかれると考えれば、それは脅威でしかない。ましてや爆破によって隔離設備等が破壊されたなら、感染リスクは高まる。乗客のストレスが増し、体調不良を訴える者が多数出れば、犯人側にとって交渉は有利になるだろう。

 今回の旅は特別なものだから、本社が警察など外部の力を借りたくないと判断したのは、理解できる。

 コロナ禍以前の世界における大型クルーズ船の市場は、拡大の一途を辿っていた。だがその中でも中国だけは別だ。急速な経済発展で富裕層が増えたと言われる中国人達によって、日本を含め世界中のインバウンド効果は大きいと言われていた。

 その為中国市場でも、大型クルーズ船の多くが参入していた。実際二〇一七年の中国発クルーズ船利用の出入国数は、延べ約五〇〇万人と前年比八%で成長していた。しかも過去十年間における利用者の増加率は、四十%から五十%を推移していたのだ。

 しかし二〇一八年に入ると、その増加率は大幅に低下すると同時に、外資系の豪華クルーズ船は中国市場から撤退し始めたのだ。

 まず二〇一七年の初頭、中国市場で三年間運営したプリンセス・クルーズ社のサファイア・プリンセス号が、シンガポールやヨーロッパへの航路に変更された。後に有名となったダイヤモンド・プリンセス号と、同型同時期建造の姉妹船のプレミアムクラスだ。

 その後も二〇一八年には、同じプレミアムクラスのシェンシープリンセスを一時期中国大陸から撤退し、オーストラリアに移すと発表。同年九月には、同じく運営会社が米国のロイヤル・カリビアン社のマリナー・オブ・ザ・シーズは、北米市場に派遣された。ちなみにこの船は、スタンダードクラスだ。

 さらに同年七月にノルウェージャン・クルーズライン社のノルウェージャン・ジョイが二〇一九年四月に中国市場を去り、アラスカ航路で就航するとの発表は衝撃だった。

 何故ならこの船は最大収容人数が四九三〇名という、中国人乗客に合わせて造った新型豪華クルーズ船として知られていたからだ。しかも初航海から、僅か一年しか経ていない段階での公表だった。

 ただし同社によるとこの決定は市場戦略調整の一環であり、中国発クルーズ市場に対する長期的な開発戦略への影響はないと表明している。その言葉通り二〇二〇年には、最大収容人数二〇一八名の新しいクルーズ船を、中国市場に送り出すと告知した。

 注目する点は、戦略調整の理由として欧米人乗客の船内での消費力を上げたことだ。調査によると中国人の乗客の八十五%は巡航中の船内で全く消費せず、十二%が船内の免税店やカジノ施設でお金を落とし、バーや高級レストランを訪れるのは僅か三%しかいないとの数値が出た為だろう。

 そうした傾向が、中国発クルーズ船市場の苦境を反映していたのかもしれない。ただ市場は、飽和段階に達していないとの分析もあった。当時の段階での利用者数増加率の減少及び外資系運営会社の撤退は、正常な戦略調整と見られていた。

 各外資系クルーズ船会社は大型クルーズ船を中国市場から撤退させたが、新たな中型クルーズ船を就航させる企画を発表していた。それは市場に失望したのではなく、実態に合った戦略への変換であるあかしだ。

 また中国政府も二〇二二年を目処に、現在のクルーズ船母港を寄港地にもなるように企画し始めていた。つまりクルーズ船におけるインバウンド・アウトバウンド観光を共に発展させようと、国が動きだしたのだ。

 そこに来てのコロナ禍が、中国のみならず世界の市場を大きく変化させた。よってそれ以前に建てていた経営戦略などは、全く通用しなくなっている。それなのに中国資本が入ったクルーズ船の運営会社が新規で参入するなんて、無謀としか考えられない。

 だが本社はそれを決定した。そこには政治的な思惑など、様々な裏事情があるようだ。その為失敗は絶対に許されない、と聞かされていた。よって選りすぐりの富裕層達を招いた今回の船旅において、乗客の身の安全確保を第一に考えることは当然だった。

 乗組員の中に犯人の仲間がいる確率は、船長の推測通り高い。だがセキュリティ部門を動かし、潜伏する犯人の捜索や爆弾の在処を探し出す事は難しくなった。悪くすれば相手側に悟られ、乗客や無関係な乗組員達に危害が及んでしまうからだ。

 梅野は彼の見解に理解を示した上で、敢えてもう一度尋ねた。

「とはいえ我々は手をこまねいたままで、本当に良いのでしょうか。万が一相手が船を爆破し自分達も死ぬ覚悟のテロリストだとしたら、それは絶対に阻止しなければいけません。実際犯人は、仲間の口を封じるという残虐な手段を取った奴らです」

「それは否定できない。だからといって私達が今できることは乗客の皆様を安心させ、それぞれの部屋に戻って頂くことだ。無事その任務を果たしたら事態が収拾するまで、あの悪夢の事件のような事が起こらないよう、万全の体制を組む。そうしてできるだけ皆様にストレスを感じさせないよう、過ごして頂けるよう心を砕くことしかない」

「犯人との交渉は本社に全て任せ、船内における捜査は行わないのですね」

「そうだ。船内で何か起こった場合の警察権は、私にある。今は他の事を優先させ、調理部門の人間を殺した犯人の捜査も含め、今回のシージャックについてはしばらく静観しよう。それが私の判断だ」

 あくまでこの船におけるトップは彼だ。梅野はこれ以上の反論は止めることにした。

「了解しました。それでは私は副船長として、何をすれば宜しいですか」

「私は本社からの連絡を受け、それに対応しなければならない。よって君にはこれまで同様、運航業務についての権限を全て任せる。とはいっても停船している今の状況では、甲板部の一等航海士達や機関長がいれば十分だ。強いて言えば、私が日頃行っているVIP達との社交だろう。この緊急事態でどんな要望やクレームが出るか予想がつかない」

「今の時点なら原則現場にいるホテル部門や、ヘルプに出ているエンターテイメント部門等の責任者が対応してくれるでしょう。それでも治まらず、船長を呼んで欲しいと言った場合に、私が対応すれば宜しいですか」

「そうしてくれ。犯人側から本社に要求があり、何らかの新たな動きがあった場合は、その都度知らせる。ただ現場への指示などは、私から直接する。その方が早いからな」

「承知しました。それではまず十四階と十二階、それと十階へも移動し、出来るようであれば各部屋のお客様の様子を見て参ります」

「そうして貰えると助かる。その三つの階の部屋には、この船でも特別な方達をお招きしているからな。本来なら私が顔を出すべきだが、今はここを離れられない」

「そう言った説明は、私から皆様にお伝えしますのでご安心ください。こんな状況だけに、ご理解頂けると思いますよ」

「そうだと助かるのだが、中には我儘な人もいるからね。対応にはくれぐれも気を付けてくれ。もちろん防護服を着用していくんだぞ」

「承知しております。それでは早速、行って参ります」

 梅野はそう言って船長室を出た。しかし頭の中では別の事を考えていた。彼の判断が船長としては正しいと理解できる。それでも個人的には、どうしても素直に受け取ることが出来なかった。それは梅野が船乗りになった理由が、影響しているからだろう。

 梅野の祖父や父親も船乗りだった。といっても祖父は漁師で小さな漁船を持っていた程度だ。しかし父が乗っていたのは主に貨物船だった。しかも船長を務めており、世界中を移動していた。

 その為に顔を会わす機会は、年に数日あればいい方だった。それでも梅野は帰りを待つ母による父の話を聞き、尊敬もしていたし憧れを持っていた。

 だが梅野が高校三年で航海士を目指せる大学への入学を目指し、受験勉強に励んでいた時の事だ。ソマリア沖を航海していた父の乗る貨物船が海賊に襲われ、命を失った。

 一九九一年以降、内線が激しくなったソマリアには中央政府が存在せず、治安が悪化していた。それに伴い海賊行為が多発し始め、父はその犠牲となったのだ。

 その為母は航海士になる事は良いけれど、危険を伴う貨物船への乗ることを嫌った。だからクルーズ船等の旅客船の航海士になった時は、大変喜んでくれたものだ。

 とはいっても、世界中を航海することには変わりない。決して襲われる危険が無いとも言えなかった。だから梅野は常に万が一に備え、航海士以外にも潜水士やライフセイバー、機関士の資格までも取得し、日々体を鍛えてきたのだ。

 母を悲しませぬ為にも、決して父のようにはならない。それ以上に海賊への憎悪は増し続け、現在に至る。だからこそ初めて遭遇した危機ではあったが、これは父に対する弔いと考えていた。また乗員乗客を誰一人傷つけず守る、絶好の機会とも捉えていた。

 乗客や乗務員等の内部情報を把握しているのは、船長に次いで自分しかいない。今の状態だと外部の警察や特殊部隊に連絡が取れたとしても、船内に侵入することは危険だ。

 それならば内部にいる自分が外部と連絡を取れた時、犯人達に気付かれず上手く誘導する方法を考えなければならない。欲を言えば一人では心許ない為、信頼できる仲間を増やしたいところだ。

 そこで知恵を出し合い、犯人達の本当の目的は何なのか、メンバーはどれだけいるのかを想像し、爆弾はどこに設置又は保管されているのか等を確認したかった。と言って今は船長も含め、誰もが疑わしい状況だ。

 そこで梅野は別室に行き、顧客名簿と乗務員名簿、船内地図や機械室を含めたデータをUSBに取り込み、こっそり外へ持ち出すことにした。部下に指示を出し、防護服を用意させている間にそうした用意を行った。

 小型のタブレットとUSBは、防護服を着こむ際に服の中へと忍び込ませればいい。そうしてまずは十四階へと向かう事にしたのだ。

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