第三章 三郷達の対応
「やっと日本へ帰ってきたと思ったら、とんでもないことが起こったわね」
早めにレストランでの昼食を終え、部屋に戻った所で放送を聞いた真理亜はぼやいた。長い船旅の間、気づけば資料や寄港先で購入した物が至る所に散乱している。それらをこれから片付け、港に着くまではベッドに横たわり休憩しようと考えていたから尚更だ。
その言葉を聞き、部屋のソファに腰かけていた
「本当ですよ。横浜まであともう少しなのに。このタイミングで感染者が出たってことは、途中寄港したマニラかシンガポールで下船した時、ウイルスを拾ったのかもしれませんね」
コロナ禍以降におけるクルーズ船の一般的な対応は、乗船時の乗客のスクリーニングだ。まず事前に「健康に関する質問票」を記入した上で、検温や消毒をしてマスクの着用も義務付けられる。船内の医療室で二十四時間対応する医師や看護師等のスタッフが面談し、状況によっては乗船拒否も辞さないと謳っていた。
またレストランを含め、船内の至る所に消毒液が置かれている。乗組員達は定期的に不特定多数の人が触れる場所を中心に、清掃や消毒を徹底していた。また万が一の為の応急処置や公衆衛生の実践に関する訓練を、全乗組員が受けているそうだ。
さらに密閉、密集、密接の三密を避ける為、ソーシャルディスタンスを配慮した行動を取るよう乗組員は心掛け、乗客達にもそう促していた。
だが自分や他人の身を守る為とはいえ、余りにも窮屈だ。折角の非日常を味わおうと決して安くない費用を支払っているのに、行動を制限される船旅など誰も望まない。しかもかつての惨劇の記憶が残って居る為、その程度の対策では一度離れた客足は戻らなかった。
その為二〇一八年度には世界で二六〇〇万人、総売上高四六六億ドルの市場を持っていた世界のクルーズ船業界は様変わりした。
二〇二〇年には三二〇〇万人に達し、総売上高も日本円で七兆円規模になると予想されていたけれど、現実には多くが運航停止を余儀なくされたからだ。年々上昇していた利用者は激減し、いくつかの船会社が廃業、または撤退せざるを得なくなった。
真っ先に打撃を受けたのは、一泊約一万円と手頃なカジュアルクラスや、一泊約三万円以上するプレミアムクラスだ。ちなみに新型コロナウイルスの感染者を出し、世界的にも有名になったあのダイヤモンド・プリンセス号はプレミアムである。
これらのカテゴリーは大量の乗客を収容することにより、低料金でも贅沢な時間を味わえるプランとして人気を博していた。だからこそ再開に向けて様々な衛生管理対策の徹底を強いられても、かけられる予算に限りがある。またコロナ感染者を出したクルーズ船のイメージも根強く残ったからだろう。業績が戻る事は無かった。
そんな中で何とか生き残り運航を続けられたのは、客単価の高いラグジュアリークラスだった。六万トン弱と小型だが、それでも十四階建てのクルーズ船は巨大ホテルがそのまま動いているように見える。
お客様とほぼ同数に近い乗員がいる為に行き届いたサービスが提供でき、また質の高い食事や客室が魅力だ。もちろん一泊当たりの単価は五万円以上と高い。だが客数をより減らせば、感染リスクは低くなる。
また船内の劇場やカジノ等のサービスを提供する公共スペースを一層広く保ち、万全な換気をしておけば問題ないとされたからだろう。ハイレベルのクルーズ船では、過去の悲劇を教訓とし、かなりの費用をかけて万全な対応を取ってきたのだ。
感染予防策を取れば取る程、コストがかかる。その為単価が低くして客を多く招き採算を取るカジュアルやプレミアムクラスでは、対策費や人件費を考慮すれば限界があった。
その点ラグジュアリーは、そもそも快適に過ごせればお金はいくら払ってもいいと考える富裕層がターゲットだ。よって新たな設備の導入や、船内システムの大幅な変更を徹底的に行うことが出来たのだろう。
乗船するまでは正直不安だと言っていた直輝も、この船の
もちろん全ての乗員乗客はワクチン接種をしているが、万全とは言えない。その為発症せず体内にウイルスを抱えた状態で船に戻れば、スクリーニングに引っかかる事もないだろう。船内での紫外線による殺菌効果も、当然人体の中までは及ばない。
「そうね。横浜を出向して十七日目だから、乗船前では無いと思う。感染して発症するまで、平均で五日から六日と言われているから四日前に出港したマニラか、七日前に寄ったシンガポール辺りで感染した可能性は高いと思う。でも潜伏期間は最大十四日間だから、その前のベトナムのニチャンか上海だってあり得るわよ」
「そんな以前から感染していたとなれば、至る所にウイルスが付着しているかもしれませんね。クルー達が定期的に消毒や紫外線機器で殺菌しているでしょうが、その前に接触感染してしまった可能性もあるでしょう」
「それは否定できないわね。ただこの船の衛生管理を考えれば、大規模な感染拡大にまでは至っていないでしょう。それに発症の三日前から感染力が増しだすから、今日症状が出たという情報が本当なら、尚更感染者は限定されるはずよ」
「船内放送では、これから全員にPCR検査を受けさせると言っていましたね。この部屋にも防護服を着た乗務員が来るんでしょうか」
「もちろんよ。でもそれはいつになるかは判らないわ。少なくとも感染者の三日前からの行動確認をして、濃厚接触者やそれに準じる人を特定するのが先でしょう。その人達の検査が優先されるから、私達はかなり後になるんじゃないかな。ここは六階だから、最上階の人なら、接触した可能性は低いでしょう」
「そういえば、感染者は十四階の客だと言ってましたね。上の方にいる人は、レストランも十一階か十階にある四つの内のどれかを使うか、ルームサービスを利用するでしょう」
「私達は主に、四階から六階のレストランやカフェダイニングが多かったからね。上のレストランは二回ほど誘われて行ったけど」
「そうでした。下とは全く雰囲気が違いましたし、料理は当然美味しかったですよ。だけど叔母(おば)さん、じゃなかった真理亜さんと一緒でも、窮屈な気がするから止めたんですよね」
直輝は真理亜の五歳年上の兄、三郷
だが旅が終わりに差し掛かった今になっても、慣れないのだろう。それもしょうがない。 両親の事があり、二人の面倒を看ている兄夫婦とも長い間疎遠だった。だから甥の直樹と会うのは二十数年振りだ。しかもその時彼はまだ三歳だったから、覚えているはずがない。
そんな彼と長旅を共にするとは、ほんの一カ月前まで想像すらしていなかった。けれど時が過ぎるにつれ、意外にも二人の距離は思っていたより縮まった気がする。これもまた運命の巡り会わせなのかもしれない。
そんな思いを頭の中で描きながら、真理亜は彼の言葉に頷いた。
「今回のクルーズは、ラグジュアリーの中でも特別だから。乗客も相当なセレブばかりで、私達のようなレベルの人間がノンビリできるのは、下の階の一部か部屋の中だけでしょ」
「いや僕のような、デビューしたばかりで売れていない新人作家はそうだけど、真理亜さんは違うでしょう。年収は二、三千万あって、会社でもトップクラスの営業マンじゃない。個人資産だって億は下らないはずだと、親父から聞いた事があるよ」
確かに彼の指摘通りだ。今の会社に勤務して十三年目の今では、高い営業能力と資産運用実績を上げた成果で、給与もそれなりに得ている。
また前職の保険会社でも高収入だったし、五年という短い結婚生活を経たが子供もおらず、長い独身生活を送って来た。だから今無職になっても、贅沢をしなければ死ぬまで暮らせる程度の資産は保有している。だが首を横に振って言った。
「何言ってるの。今回まともに料金を支払ったら、最下級のこの部屋でさえ一泊二十万はくだらないって言ったでしょ。十六泊十七日だから三二〇万以上するのよ。城之内さんがいる最上階の部屋だと、一泊二〇〇万以上するんだから。他の部屋のスイートだって、決して安くない。こんな所に集まっている客は、私が仕事でターゲットにしている超富裕層の中でも上位にランクインする人達ばかり。私なんて比べ物にならないわよ。顧客の城之内さんの招待じゃなければ、自分では絶対に乗ろうなんて思わなかったでしょうね」
「僕なんてもっとだよ。でもご
大手広告代理店の関連会社役員で元経産省の官僚だった城之内は、PA社が扱う全顧客でトップテンに入る資産家だ。しかし真理亜が担当し始めたのは、ほんの三カ月前だった。
何故なら最近まで担当していた社員が、不慮の事故に遭って亡くなったからだ。轢き逃げに会い、相手はその後自損事故で死亡した。その為PA本社で後任の検討をしていた所、城之内本人から逆指名されたのである。
S県をエリアとする真理亜にとって、東京在住の彼は本来管轄外だ。しかし重要得意先の意向に、本社も逆らえなかったのだろう。同じ関東圏で移動時間も一時間かからないことから、特例で真理亜の担当となったのだ。
何故彼が別のエリア担当を名指ししたのか尋ねた所、一昨年に起こったある事件を耳にしたからだと教えられた。真理亜の顧客が殺され、後に全国でも騒がれた
その事をPA社の役員から知らされた時には、正直断りたかった。何故なら彼は、余り世間的にも評判が良くなかったからだ。七十五歳と高齢ながら、複数の愛人を囲っているだの、陰では違法な資産運用を行っているとの噂まであった。
実際二十八歳と若い陽菜乃という銀座のクラブのチーママと、この船の同部屋で宿泊している。ただ城之内は妻には先立たれているので、現在独身だ。よって不倫ではなく自由恋愛なので、表向き問題はない。
けれど真理亜の仕事は資産管理や運用を行うだけでなく、顧客の将来設計やリタイヤメントプラン、遺産相続と多岐に渡る。また最も神経を使うお金を扱うのだ。その為相手の懐に深く入り込み、多くの情報を得る必要があった。
だからこそ顧客とは単なる仕事としての付き合いでなく、絶対的な信頼関係を築かなければならないと考えている。会社が求める利益優先ではなく、あくまで顧客の希望に沿う事を第一にしてきた。
もちろん法に背く手段は駄目だ。あくまで合法的でなければ、単なる犯罪者になってしまう。顧客の将来を真剣に想い、互いに信用し合わなければ成り立たない仕事だというのが、真理亜のモットーだった。
そうした視点から城之内とそれ程の関係になれるかと問われれば、首を傾げざるを得ない。何故なら最初の前提として、信頼が置ける人とは思えなかったからだ。独身とはいえ複数の女性を側に置く他にも、怪しげな風評まである。
けれど本社の意向には逆らえず、嫌々ながらも担当することとなった。それにあくまで耳にしていたのは噂であり、真相は違う可能性だってある。人の
そんな城之内の誘いでこのクルージングに参加したのには、色々な事情があった。
まず真理亜は前任者が持っていた、顧客の重要な秘密事項等のデータを引き継いだ。リスク管理上、PA社では会社から貸与しているパソコンでのみ、顧客の資産管理や運用等の個人情報等を残すことが許されていた。
しかも担当者しか知らない暗証番号でロックをかけ、退社時には特別な金庫に預けなければならない。中身もペーパーでは保存せず、外部への持ち出しも禁止だ。データのバックアップも、同じく暗証番号をかけて管理していた。
つまり担当者以外は部署の上司でさえ中身を知れない程、厳密なセキュリティを徹底している。顧客の多くは保有資産が最低一億は超える富裕層の為、情報管理に神経を使うのは当然だ。
しかし今回の様に担当者が事故や病気で急死した場合、別の担当者が引き継がなければならないケースも起こり得る。その為のバックアップ体制は取られていた。
具体的には顧客の了承を得た上で本社のセキュリティ管理部署により、個々の担当が登録している暗証番号の解除を行う。そうして後任者にそれまで得た情報や途中経緯、提案途中の計画書等の閲覧が可能となる。
もちろんこうした処置は、あくまで特殊な場合に限られ、それなりに時間もかかると聞いていた。 PA社での勤務が十二年余りの真理亜も、今回が初めての経験だ。よって本社でもごく限られた人達の立会いの下、慎重にロック解除をして中身の閲覧を行った。
城之内がPA社の顧客になったのは五年前からで、前任者は当初から担当していたようだ。また全顧客中有数の資産家だった分、詳細かつ膨大な量のデータが保存されていた。
それを見て判明したが、彼はアジアを中心に世界各地で会社等を設立させて資産を分散し、運用もかなり複雑で多岐に渡っていた。その件も含め後任担当者になる旨の挨拶を済ませてから二度目の打ち合わせの際、確認の為に告げると彼は言ったのだ。
「そうなんだよ。ただデータで見るだけでは、良く判らないだろう。資産評価を正確に把握するには、君達も実際に現物を視察して間違いないか確認するんじゃないかな」
「はい。帳簿上とは異なるケースが、当然起こり得ます。特に海外資産ともなれば、その国における税制等と適正に即しているか。または事務所の登記簿通りなのか、単なるペーパーカンパニーなのかも、実際にこの目で見なければ完全な把握は困難です」
「そうだろう。パナマやバミューダ諸島など、タックスヘイブンを利用したペーパーカンパニーや特殊口座があることは、データや前任者のメモを見れば判るはずだ。もちろん合法の範囲内だけどね。ただ実際に現地へ行って、確認しなければ把握できない物件が多くあるのも間違いない。特にアジアを中心とした会社等がそうだ。これは運用管理主の私でさえ、定期的にチエックしなければ危険なものがある。現地の経済状況や法律の改定だけでなく、高成長中の国ならではの特殊事情も加味しなければならない」
彼の言う通り、事前に聞いていた違法な資産運用をしていた形跡は、データを読み解く限りその時点では発見できていなかった。だが万全なセキュリティを排しているとはいえ、あくまで会社所有のパソコンに残っていたものだ。
前任者が亡くなってから、遺族の了解を得た上で念の為に個人所有しているパソコンの中や、保存されていたUSBや残された書類等も調べたらしい。だがそこから顧客情報が発見されなかったという。
それでも違法な取引に担当者が加担していたなら、別の形で残されて居るはずだ。おそらくそれは、顧客の元で管理されているに違いない。もしそうだとすれば、真理亜は同じ
今回の担当変更を機に、あくまで合法的な資産運用と管理しか扱わない関係へと、修正する必要がある。その旨について本社役員とは、担当の引き継ぎを打診された際、その条件なら了承すると断りを入れ、同意を得ていた。
そうした経緯もあり、真理亜は慎重に話を進めた。
「そういう場合は、どうされるのですか?」
「ネット電話で、現地の社員や役人達と定期的に直接会話をしている。だがやはり人間がやることだ。実際に会って目で見て話し、確認しなければならない。そうしないと例えば問題が起こっているのに、隠蔽されてしまう恐れがある。または危険が迫っていると察知できず大損害を受ける場合もあれば、大きな投資のチャンスの芽を掴む事だってあるんだ」
「それは理解できます。飛行機を使って抜き打ちで資産保有している国に行き、チエックするのですか。それは私が行っても良いのでしょうか」
前任者の出張履歴を調べた所、それらしき記録が残っていた。またメモによると単独の時もあれば、顧客のお供として行動した形跡もあった為に、そう質問したのだ。
「そういう事をお願いするケースもあるだろう。だがまず直近は上海とニチャン、シンガポールとマニラに行き、それぞれの国の会社の社員や役人と会う仕事をお願いしたい」
「ニチャンはベトナムでしたね。どのような段取りをお考えですか。前任者のデータによれば、二年前は飛行機での移動に同行しているようですが」
まだ会話を交わした時間も少なく、信頼関係も築けていない状況だ。しかも彼は女癖が悪い。これは噂でなく本当だった事は、まだ二回目の会合にも関わらず既に確信していた。
何故なら彼の周辺には
といって自分は既に五十を過ぎている。だからそうした対象から、外されている思っていた。だがそうでもないことが判ったのだ。
これまでの同僚の営業マンからも、成績が良いのは高齢者男性の多い富裕層から好かれる外見だから、と嫉妬され続けてきた。年配から見れば、若いだけで信用が減少する。
その点顧客と年齢が近い利点もあり、ギャップが大きい顔と長年の経験による話術があれば、スケベな爺さん達を手玉に取るのは簡単だと散々陰口を叩かれてきた。
現に初めての挨拶をした際、さすがに触られはしなかったが、城之内は真理亜の体を頭からつま先まで、舐めるような視線を往復させて言ったのだ。
「噂以上の
セクハラまがいの発言を受け、今後二人きりになる時等は注意しなければ、と肝に銘じた。そこに来て、資産状況の確認という名の旅行に同伴させる
すると彼は何でもないことの様に、さらりと口にした。
「同行はして貰うが、私もいい年だ。移動だけで疲れてしまう。飛行機での移動も悪くはない。だが仕事絡みだから、折角の海外でも気楽に観光する訳にもいかないだろう。相手から誘われれば、接待で飲みに行くこともある。それでは体を休ませるのも一苦労だ」
何を言い出すのかと不安に思いつつ、首を傾げながら尋ねた。
「それではどういった計画で、今おっしゃられた四か国を回られるおつもりですか」
彼はニヤリと笑い、答えた。
「今回はここ最近活発になって来た、ワーケーションを考えている。丁度いいタイミングで、新しいクルーズ船での旅行プランに参加して欲しいと招待を受けていてね」
説明を聞くと、上海に拠点を持つ取引先の一つが、イギリスの会社と運営会社を共同出資で設立し、クルーズ市場への参入が決まったという。それもこれまでに無い程の
直ぐにそれが、ハイリスクだと感じた。その為思わず問い詰めるような口調で質問した。
「まさかその運営会社に出資する約束等は、されていませんよね」
引き継ぎを受けた中に、そのような運用情報は記されていない。もし把握している外に、そうしたハイリスクハイリターンな投資をしていたら危険だ。
運用アドバイザーとして、まず止めるよう忠告すべきである。それでも顧客がどうしてもというのなら万が一に備えて、いくつかのリスク低減プランを提案しなければならない。
けれども彼は首を横に振った。
「さすがにそんな危ない橋は渡らないよ。もちろん計画が持ち上がった際、打診はあった。だが今回は見合わせると断った。その後にコロナ騒ぎが起こったから、私の判断は間違っていなかったと確信したよ。もちろん君の前任者も、止めた方が良いと言っていたしね」
そう聞いて色んな点で安心した。まず彼は資産運用に関して慎重であり、市場を把握する情報収集能力を備え、それなりの判断が出来る人物だと判った。
引き継ぎでもそういう顧客だとの記載はあったが、自分の目で確かめなければ信用はできない。もしその情報が誤っていれば、今後相当な苦労を覚悟しなければならないからだ。
ただ懸念事項は一つ減ったが、更なる疑問が浮上した為尋ねた。
「出資者でないのに招待されたのですか。それに何故わざわざクルーズ船で移動するのですか。飛行機と比べれば、はるかに時間がかかります。しかも効率的だとは思えませんが」
「そこは色んな付き合いがあって、相手の顔を立てる為だ。実を言うと今回の旅は、本格始動する前のお披露目なんだよ。だから実際の料金より、大幅に安い値段で乗船が出来る」
「ちなみに一泊おいくらするんですか」
そこで耳にした、驚くべき値段に目を丸くした。これまで最高と言われるクラスでも、一二〇万円程度と聞いていたから尚更だ。コロナ問題により、最新鋭の機器を搭載して万全の衛生管理やサービスの徹底をしている為らしいが、それでも高すぎる。
韓国で起こったセウォル号の事故で起こった教訓を背景に、船のバランスを取る為に必要なバラスト水やバラストタンクの充実を図る等、船の建造自体にもかなり気を配った設計をしているという。
加えて船内はもちろん、寄港地における一定のツアーも料金に含まれる。よってそれ以上の支払いは、せいぜいツアー外での飲み食いや、寄港地で買う土産代くらいのようだ。
「それにしても高額ではないですか。航路はアジアですよね」
「ああ。横浜から出て、上海、ニチャン、シンガポール、マニラを回る。私が所有するアジアの資産は他にもあり、そこだけではない。だが招待された船の行き先全てにある。だから船旅を楽しみつつ、寄港地で現地の会社や役人達と会食も兼ねた視察や資産、経済状況の確認、今後の設計プランの見直しをするつもりだ」
「それでワーケーション、とおっしゃったのですね」
「そうだ。働きながら休暇も取る。ワーク&バケーションだよ。コロナ禍以降、我が国が散々勧めてきたじゃないか。なかなか定着はしていないが、私ぐらいのクラスが率先してやらなければ、誰も後に続かないだろう」
「そうかもしれませんね」
頷きながらも、真理亜は新たな問題点について質問した。
「城之内様に私も同行して、投資政策書の作成に必要な情報を収集するということですか」
真理亜も持つFPの資格者が作成するのは、家業や事業の診断書や提案書等になる。だが資産運用だけではなく、事業の拡大や会社全体の資産保全について提案するのがPBの仕事だ。様々な角度から情報を集めて分析し、顧客が求められ納得できるものを提示しなければならない。その時に顧客へ渡すのが、投資政策書と呼ばれるものだ。
「今回は是非、そうして欲しい」
真理亜達のようなアドバイザーの給与は成果連動型で、顧客による成功報酬を会社が受け取り、その額に比例して支払われる。その為に単発ではなく、城之内のように年間契約し更新してくれる顧客の場合、一定の手数料や顧問料は保証されていた、
それでも成果が出ない又は少なければ、支払われる額は期待できない。またかかった調査費用等は、余程高額にならない場合を除けば担当者が支払うと決まっている。それを後でまとめて請求するのだ。よって一時的には自腹を切ることになる。
つまり今回の旅費を自己負担するとなれば、いくらなのかが問題だ。高額なら顧客に負担してもらわなければならない。そこで恐る恐る尋ねた。
「同行費用はおいくらですか。まさか城之内様と同じクラスの部屋ではありませんよね」
同部屋はあり得ないとのニュアンスを込めたが、彼は心配いらないとばかりに笑った。
「費用は心配しなくていい。ただ私と違い、最下級の部屋になるだろう。招待とはいえ、参加者全員を無料とまではいかないからね」
その時に値段を教えられ、余りに高額過ぎると固辞したが、彼は首を横に振って言った。
「実際に支払う値段は私の分も併せ、正規の値段ではない。だが余り内幕はばらしたくないから、敢えて言わないでおく。ただこういう機会は滅多にない。時間はかかるが今回だけ特別だ。申し訳ないが付き合って欲しい」
顧客からの依頼となれば、簡単には断れない。それに同部屋で無い事も判った。だがまだ不安要素がある為即答しかねていると、彼は重ねて想定外の事を口にした。
「ちなみに私の部屋は最上階の一四階で、君は六階の部屋を与えられる予定だ。仕事上で用があれば、携帯や船内の内線電話で連絡は取り合える。どこかのラウンジかレストランで落ち合えばいい。今回はワーケーションだから、当然プライベートな時間は邪魔しないつもりだ。招待も各部屋二名ずつ充てられている。私は馴染みのクラブの女性と行く。君も誰か一人誘えばいい。もちろんその費用もこちらで持つ。日程は再来月の四月五日十三時横浜発で、二十一日十六時着だ。今からその間の予定を、私の為に開けておいて欲しい。他の顧客の仕事もあるだろう。だが船内ではネットも通じている。急ぎで無ければ、旅をしながら他の顧客の仕事もできるはずだ」
確かに日本を離れれば、直接面談はできなくなる。だがコロナ禍以降、リモートで打ち合わせを済ませるケースが多くなった。
それに通常セキュリティの問題で、顧客情報の入ったパソコンは外へ持ち出せない。だが顧客と同行する場合、特例で認められると聞く。申請を行えば、間違いなく通るだろう。
それに時間もまだあるので、事前準備期間は十分だ。上手く調整すれば、突発的な問題が起こらない限り、他から依頼されている仕事をこなすことは可能かもしれない。
このような依頼は初めてだが、滅多にないケースであり経験しておくのも良いと思い始めた。また最下級で部屋が狭いとはいえ、城之内によれば真理亜達は部屋が別々らしい。
最初は一人でとも考えた。だが女性同伴とはいえ、船という閉鎖空間で十数日間も共にするのだ。
けれど誰にするかと考えた時、一人も心当たりがなかった。普通に会社勤めしている者なら、年度初めの四月初旬から十七日間も時間が取れる人などまずいない。例え専業主婦でも、長期間留守して許される家庭を探すのは至難の業だ。
そうなると退職し時間を持て余している人かフリーランスのような、家を離れても仕事ができる人でないとまず難しい。
さらには万が一の場合に備え、ボディガードの役目を果たしてくれれば尚更適任だ。しかし男性となれば、別室とはいえ誤解を生じかねない。そうした条件に当てはまる者はいないかと一応探してはみたものの、居るはずが無いと真理亜はほぼ諦めていた。
そんな時にひょっこりと現れたのが直輝だ。複雑な事情を抱え疎遠になっていたが、奇妙な縁で同行することになった彼とようやく打ち解けることができた。そうして旅の終わりを迎え、別れを惜しむ気持ちが湧いていたところでこの騒ぎだ。
けれど感染者が十四階の客なら、自分達が濃厚接触者である確率はかなり低い。そう話しながら、大事な事を忘れていたと気付く。城之内がいる部屋は、まさしく十四階だ。
四日前、最後の寄港地であるマニラに朝九時に到着。下船して当地にある投資先の様子を確認した後、フィリピン政府の要人とランチを兼ねて面会した。現在の経済状況や今後の見通し、新たな政策は打ち出されるか等の情報収集を行った。
出航は翌日の朝だった為、その日の夜もマニラのレストランで城之内と共に、関係者と夕食を取りながらリサーチを続け、遅くに船へ戻ってからバーで最終打ち合わせをした。
しかしそれが今回の旅における仕事の締めくくりで、翌日からは二人とも完全なプライベートの時間に入った。もちろん真理亜は主に部屋でキーボードを打ちながら、訪問した四か国における投資政策書をまとめていた。
それでも提出期限は日本へ到着してから一週間後に、との猶予を頂いていた。その為比較的余裕があったので、最後の船旅を直輝と二人で満喫していた。だからか城之内の事が、完全に頭から離れていたのだ。
「僕達は主に四階から六階までにあるラウンジや劇場、ブティックやカジノ、レストランに行くことが多かったでしょう。後はフィットネスクラブくらいかな」
「そうね」
直樹の話に生返事をしても、気にせず話は続いた。
「十四階の人なら大勢が集まるシアターなんかに顔を出さないでしょうし、十一階はこの船で一番見晴らしが良いラウンジもあります。カードルームや図書館、五階より豪勢なプールやプールバーまであって、十二階はジョギングトラックやパットゴルフ場、スウィング練習場、テニスコートも完備してますから、僕達となんて接点はまずないでしょう」
通常ならそうだ。しかし寄港する度に合流し、船内でも共に近距離で食事や打ち合わせを行ってきた顧客がいなければ、という条件が付く。だから真理亜は言った。
「感染者が城之内さんや八神さんで無ければ、だけどね」
それを聞いて彼の顔色が変わった。同じく存在を忘れていたらしく途端に慌てだした。
「それはまずいですよ。もしそうだとしたら、間違いなく僕や真理亜さんは濃厚接触者に該当するじゃないですか。あの二人とは何回か食事もしましたし、長話もしました。なにより真理亜さんと僕は、こうやってよく一緒にいます。PCR検査をする優先順位は、接客した乗組員や同じフロアの人達より、先かもしれませんね」
「まずあのお二人が無事なのか、電話で確認した方がよさそうね」
そう言って備え付けの電話に近づいた所、突然呼び出し音が先に鳴り出した。思わず二人は目を合わせる。嫌な予感がする中、真理亜は恐る恐る受話器を取った。すると相手は流暢な日本語で四階の医務室から来た看護師の岸本だと名乗り、質問を浴びせて来た。
その声と同時に、ガチャガチャと何かを設置しているらしき音もする。同じタイミングでドアの向こう側から、僅かに聞こえてきた。
「三郷真理亜様様のお部屋で間違いはありませんか」
「はい、そうです」
「先程の船内放送は、お聞きになられましたか」
「はい。丁度この部屋にいたので、隣室の甥と二人で聞きました」
「直樹様はそちらにいらっしゃったのですね。先程お部屋にかけたのですが、出られなかったものですから。今のお話なら放送後、外へは出ていらっしゃいませんね」
「出ていません」
「それでは結構です。ちなみにお体の調子はいかがですか。熱があったり、
「ありません。もしかして放送されていた感染者は、城之内様か八神さんなのですか」
すると危惧していた答えが返って来た。
「城之内様です。そこで行動経路や濃厚接触者の確認をしたところ、三郷様達がいるとお聞きしましたので、取り急ぎ参りました」
直樹が言っていた通りの事態が起こったらしい。船内放送があってまださほど時間は経っていない。この速さで医務室の看護師が来たことが、それを物語っている。
真理亜は心配になって尋ねた。
「城之内様のご容態はいかがですか。八神さんも感染しているのですか」
「容態はそれほど酷くありません。ただご高齢なので、早めにヘリで搬送した方が良いと判断されたようです。八神様は現在簡易検査で陰性と出ましたが、より正確を期す為に、PCR検査と肺のCTを取って診断待ちだと聞いています」
どうやら彼女は医師と一緒に彼の部屋を訪問し、直接二人の様子を診たと言う。だが濃厚接触者が日本人ならば岸本が適任だということで、別の看護師に代わってこちらに来たらしい。まだ重症化していないと聞き、安心した所でもう一つ質問した。
「これから私達はどうしていればよろしいですか」
すると彼女は言った。
「そのまましばらくお待ち頂けますか。現在お客様の部屋の前に、他の部屋や廊下と隔離する装置を取り付けております。それが終わり次第私達がドアをノックしますので、それを確認してから中へ入れて頂けますか。取り急ぎPCR検査を致します。その後は検査結果が出てこちらの指示があるまで、引き続き外へは出ず部屋で待機して頂きます。もうすぐですので、一旦電話を切りますが宜しいでしょうか。詳しい話は入室後に致します」
「分かりました。ではお待ちしております」
そう答えて相手の声が途絶えたのを確認してから、受話器を置く。その後横で不安そうにしていた直輝に、今聞いたばかりの話を伝える、彼はやはりそうかと溜息をついた。
「僕達も感染しているでしょうか。最初は不安もあったけど、船内の衛生管理は万全だったし、皆ワクチン接種をしているから大丈夫だと安心していたのに」
「やはりコロナを完全に防ぐというのは、まだ難しいみたいね。でも船内は当然だけど、寄港先でも人と会う時や食事中は、アクリル板を設置したりフェイスシールドやマスクも付けたりして、先方も含めかなり気を付けていたのにショックだわ」
そうこうしていると、扉が叩かれた。窓を開けて十分換気はしているが、念の為に二人共マスクを嵌め、彼がドアを開ける。すると中には防護服を着た四人が入って来たのだ。
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