第二章 S県警の動き
S県警刑事課警部補の
途中から特別捜査本部へと格上げされた際、中警察署の刑事課から応援として参加し、松ヶ根とペアを組むことになった
「どこかで見た覚えが、う~、ある数字なんだが」
頭を抱え込む松ヶ根に、吉良が尋ねた。
「このD940やD957と言う数字ですか」
「ああ。でも最近じゃない。一年、いやもっと前の気がする」
ちなみに、途中でう~と入るのは彼の口癖だ。ただし決して被疑者や上司達の前では口にしない。気を許した相手の前、つまり吉良のような後輩で以前にペアを組んだ経験があり、かつ上手く調子を合わせられる仲でなければ、聞けない言葉だった。
久しぶりに彼と組んだ吉良は、この口癖を聞くと嬉しくなる。何故なら彼は県警刑事課の中でもエースと呼ばれる男だ。とはいっても大きな長所と短所があった。長所はサヴァン症候群による、特殊能力を持った点だ。人並外れた記憶力と読唇術が、彼の武器だった。
例えば聞き取った話や見た映像等は、全て覚えているという。彼の頭の中には、録音可能な音声レコーダーとビデオカメラが備わっていると言っていい。はるか昔の事でも思い出して口にし、見て来たばかりのように詳細な事まで説明できるのだ。
刑事課の前は、指名手配された容疑者らの顔や容姿を写真で記憶し、雑踏の中から捜し出す“見当たり捜査”の専従班に属していた。そこでは短期間で、顕著な実績を挙げたらしい。一年足らずの間に、九人の指名手配犯や容疑者を発見したとの噂を耳にしている。
しかしその分短所もあった。それは極端に人付き合いが不得手な点だ。といって全ての人とではない。彼は自閉症スペクトラムという精神障害で、臨機応変な対人関係が苦手だった。自分のやり方や関心、ペースの維持を最優先させる本能的志向の強い点が特徴だ。
それでも日常生活は、問題なく送れている。周囲の同僚達は、融通が効かずこだわりが強く、異性の相手が不得意なやや変わった人と評価している者が大半だろう。
しかしかつては、結婚していたことがある。ただ現在は離婚している為、そうした障害が影響したのかもしれない。だがそれと引き換えに、特殊な能力も得ているのだ。
またこの障害は言葉を用いたコミュニケーションにおいて、いくつかの特徴があった。人によっては話し言葉が遅れたり、“おうむ返し”が多かったり、話す時の抑揚が異常だったりするらしい。彼の場合は、う~、という言葉が会話の中に入る点がそれにあたる。
彼は十年前に本部の刑事課に異動してからも特殊能力を遺憾なく発揮し、次々と難事件を解決へと導き、刑事課のエースと呼ばれるようになった。
本来なら既に警部補で四十四歳という年齢とキャリアや実績を考慮すれば、刑事課の係長クラスの管理職になっていてもおかしくない。だが彼の特殊性から、他の刑事達を取りまとめたりする能力には、やや難があるからだろう。また第一線にいた方が彼の力をより発揮できる為、未だ一兵卒として働き続けている。
そのおかげで吉良は彼と組み、色んな事を学ばせて貰った。初めてコンビになったのは約一年半前に起こった、ある殺人事件の時だ。一部には気難しいと敬遠されていた彼だが、何故か吉良とは最初から相性が良かった。
その事を本部も把握していたのだろう。あれから大きな事件が起こり、所轄の中警察所との合同捜査になった場合、吉良は松ヶ根と組むケースが多くなった。実際いくつかの難事件を解決し、実績も伴ってきたからだろう。
だから本部の上層部も、今回の事件は松ヶ根に期待を寄せているとひしひし伝わって来た。けれど既に五人の被害者が出たというのに、未だほとんど手掛かりが掴めていない。
吉良は焦っていた。注目されているのは松ヶ根だが、コンビである事に変わりはない。よって成果が出ないのは、自分のせいだと思われてないかと不安に駆られていたからだ。
しかも今回に限り、珍しく彼は苦しんでいた。人並外れた記憶力が、なかなか発揮できないでいたからだろう。どこかで見た覚えがあるはずなのに、どうしてもそれが思い出せないらしい。数年前の容疑者の靴下の色まで覚えている人がそう言うのだから驚きだ。
数字とアルファベットの件はマスコミに流していない為、模倣犯であるはずがない。よって殺人の手口も併せ、連続殺人事件との見解は崩れていなかった。その重要な手掛かりの繋がりを、彼はまだ見いだせないでいたのだ。
被害者同士で共通する点は、現在見つかっていない。住所はS県が三名、東京二十三区内が二名。人間関係の接点もありそうでなかった。本部は当初無差別殺人の可能性も考えたが、アルファベットと数字が残されていた為、連続殺人と断定しての捜査が始まった。
犯人は何らかの意図があって、殺人を犯しているはずだ。単なる狂気的連続殺人だとは思えない。必ず被害者に共通点があると思われた。それは松ヶ根も感じている。しかしそれが何なのかが、どうしても解明できなかった。
共通点が明らかになれば、殺人を犯した動機も分かるはずだ。そこから犯人に繋がる手掛かりが掴める。本部としては地道な地取り捜査を行いながらも、松ヶ根がアルファベットと数字の謎を解く事を待っていた。
最初の事件から約一カ月が過ぎた四月半ばのある日、吉良達は外で昼食を食べていた。これまで何度も繰り返し行ってきた、被害者の人間関係を洗う直す為に関係者と会っている途中だ。この後も既に三度は尋ねている相手の勤務している会社へ出向く予定だった。
けれどさすがに皆、口を揃えて言った。
「もう何度も、何人もの警察の方に同じ話をしましたよ」
それでも思い出した事、言いそびれたまたは忘れていた点は無いかとしつこく尋ねた。嫌がる相手を宥め、内心ではうんざりしつつ同じ話を何度も聞いて回っていたのだ。
その途中でお腹を満たす為に、適当な定食屋を見つけて二人は中に入った。その店はもう珍しくなった、客と客の間にビニールの間仕切りが一部残っていた。
それを見て吉良は言った。
「もうあれから二年経つんですね。最初の頃は店自体が閉まっていましたし、開いても入って食事することに躊躇していた気がします。テイクアウトなんかが流行ったり、こういう仕切りも至る所にあったりして面倒でしたよ。最近は余り見なくなりましたけど」
「新型コロナが流行し出した時か。あの当時は厄介だった。容疑者達と話をするのも一苦労だったからな。ソーシャルディスタンスだとかいって、近くで話をするのも断られ、捕まえて連行する時も、罹ってないことを祈るしかなかったよ」
「今では年二回のワクチン接種で、ほぼ感染する可能性は無くなったから、ああいう間仕切りもしなくて済むようになりましたからね。それでも完全ではないので、時々忘れた頃に感染者が出たってニュースを、ポツポツと聞きますけど」
吉良は頼んだ生姜焼きを口に運びながらそういうと、野菜炒めを注文した松ヶ根は箸でニラともやし、キャベツを掴みながら言った。
「ワクチンが出回るまでの地獄だった時期を考えれば、今は天国だろう。最初の一年は第一波が収まったと思ったら、第二波、第三波ときて第四波さらに第五派と次々に増えたからな。最終的には全国で百九十万人以上の感染者が出たし、このS県だけでも八万人を超えただろう」
口の中でシャキシャキと野菜を
「どうしました? 何か変なものでも入ってました?」
いわゆる町の定食屋で、コロナ禍の厳しい時代を乗り越えられたのが不思議な程古い店だった為、何か異物が混入していたのかと思ったがそうでは無かったようだ。
「いやコロナといえば、う~、あの人も感染したんだったよな」
固有名詞が出なかったが、吉良にはピンときた。一昨年の冬に資産家が殺害された事件の重要参考人だった
しかも結果的には彼女が握っていた重要な秘密の開示により、事件は解決出来たのだ。
それだけではない。松ヶ根と二人でそれぞれが持つ情報を出し合い、事件の真相について推理し、それまでの見立てを見直した上で共通の結論に至った。
それが後に全て当たっていたと判明した。松ヶ根の洞察力が優れている事は十分理解していたが、彼女の推理力は勝るとも劣らなかったとの印象が残っている。その上解決後様々な要因も重なり世間が大騒ぎした事もあって、彼女と交流を持つようになったのだ。
しかも一流の大学を卒業し、プライベートバンカー(以下PB)やファイナンシャルプランナー(以下FP)等数々の金融関係の資格を持つ頭脳派の彼女の知恵や専門的知識を、時折借りることがあった。
もちろん一般市民に事件の情報を漏らすなど、決して許されない。バレれば最悪の場合、懲戒免職処分を食らう。だが以前の事件で知った彼女の口の堅さと強い正義感、人間性を加味した上で信頼していたからこそできる事だった。
「そう聞いています。ワクチンが出始めた頃で、まだ摂取する前に顧客から無理やり誘われて、嫌々行った接客付きの飲食店で感染したようですね」
「予防対策も不十分だったから、危ない予感はしていたらしいな。けれど断れ切れなかったのが悔やまれると、あの時は二人で愚痴を聞かされたのを覚えているよ」
「コロナ患者だと見舞いに行けませんし、退院後も待機期間があったので電話でしか話してませんけどね。結局あの店はその後二十名近く出して、クラスターに認定されましたよ」
「あれでも五十過ぎだからな。重症化しなくて良かったよ」
彼女の容貌が三十代前半、または二十代後半でも通じる程の童顔という異形の持ち主だから言うのだろう。年上好みの吉良でさえ、初めて会った時は引く程驚いたものだ。
「それでも割と長く入院していましたし、限りなく中症に近い軽症で相当辛い目に遭ったと、珍しく弱気になっていましたからね」
「そうだな。後遺症が残らなかっただけでもマシだったと思うしかない。お前はあれから、彼女に会ったり話したりはしたか」
吉良は首を振った。
「いいえ。半年ほど前でしたっけ。松ヶ根さんと一緒に、三郷さんが退院してから電話で話を聞いた後、一度彼女の会社の前を通った時に見かけたくらいです。何かありましたか」
彼は少し口籠りながら、呟くように小声で言った。
「いや、彼女だったら例の謎の件をどう考えるかと思ってな」
周囲に客はおらず聞かれる心配は無さそうだったが、当然小声で答えた。
「数字とアルファベットの件ですか」
彼は黙って頷いた為、念の為に尋ねた。
「電話してみますか。もちろん警察内だけの重要機密ですけど」
「具体的に言わなければ、問題ないだろう。そういう組み合わせを聞いて、何か心当たりがあるか聞く位だったらいいんじゃないか」
D957、D952とは口にせず、アルファベットと三桁の数字の組み合わせとだけ伝えろと彼は言っているのだろう。こういう場合、自分ではなくまず吉良にかけさせる。といって何かあった場合の責任は自分が取るつもりらしく、必ず途中で替わるのだ。
残りの肉とご飯を急いで口にかき込んで頬張り、店の外へ出てスマホ取り出す。店のお代は彼が払ってくれるだろう。後で食べ終わってから追いかけてくるはずだ。
途中でコール音が変わり、なかなか出ないと思ったところでようやく相手が出た。
「はい、三郷です。吉良さん、何かありましたか」
番号登録されているのだろう。自分だとすぐ判ったようだが、いつもより声が遠く聞こえる。電波状態が悪い所にいるのかもしれないと思い尋ねた。
「お忙し所済みません。お時間頂いてもいいですか。今どちらにいらっしゃいます?」
「ごめんなさい。今仕事で海外にいるの。急ぎじゃなかったら、パソコンの方へメールで要件を送ってもらった方が、料金もかからなくて済むと思う」
「あ、じゃあそうします」
海外へ通話した場合、国によっては受信した側にも高額の料金がかかると聞いたことがあった。その為慌てて電話を切る。彼女のメールアドレスは知っている為、一度署に戻ってからパソコンで連絡を取った方がいい。そう思っていた時に、松ヶ根が外へ出てきた。
「どうだった? 繋がらないか?」
彼に電話の内容を告げると、顔を顰めた。
「署のパソコンを使う訳にはいかない。内部情報を漏らした形跡が残る」
「そうですね。じゃあ、私の家に行きましょう」
「いや、お前は家族で住んでいるだろう。奥さんと二人の子供もいる。平日の昼間にいきなり戻ってきて、メールを送信したりしたら怪しまれる。俺の家へ行こう」
彼は独身で一人暮らしだ。パソコンを使っていても、人の目を気にする必要がない。かつては結婚していたが、訳あって離婚し子供もいなかった。それに万が一問題が起こっても、自分一人で責任が取れると考えたのだろう。
それでも彼の指示に従った方が理に適う。その為二人は車に乗って彼のマンションへと移動した。部屋に入り早速パソコンを立ち上げる。その間に言い忘れていた事を伝えた。
「お昼、ごちそうさまでした」
「ああ、あれくらいなら問題ない。それより仕事で海外なんて、あの人も忙しい人だ」
「資産家を相手にする仕事とはいえ、海外出張するなんて今まで聞いた事がありませんよ」
彼女は株式会社プレミアムアドバイザー(以下PA社)という会社で、主として最低一億以上の資産を持つ富裕層を相手に、資産保全や運用等を任されている。
だが以前起こった事件で何度も事情聴取をし、彼女の過去を含めた身辺調査は徹底的に行ってきた為、業務実態は把握しているつもりだ。
「そういえばそうだな。海外の口座に資金があるだけなら、ネットで管理すれば済むだろうから出張など必要ない。ということは海外の会社で事業をしたり、別荘のような固定資産を持っていたりする顧客が相手なのだろう。まあその辺りの事は、守秘義務があると口を割らないから、聞いても無駄だ」
確かにかつて、そう言い張る彼女に翻弄された事を思い出す。
「そうでした。それに知りたいのは謎についてですから、彼女の仕事は関係ありませんし」
そう言っている間に彼はメールを開き、具体的な点は伏せつつ、アルファベットと数字について何か心当たりがあるかと書き込んだ。するとしばらくして、返信が来た。
― 私が今月の五日から船へ乗る前に騒がれていた件でしょう。概要は把握していますし、関心があったのでその後の経過もネットで閲覧しました。苦戦しているようですね ―
彼女が住む県内では三件起こっていた為、知っていてもおかしくはない。だがその事件と直ぐに結び付けた勘の良さに驚く。しかし松ヶ根は舌打ちをし、続けて打った。
― そっちが何故船上なのかは探らない。だから判る点のみ、教えてくれればいい ー
「これはまずいでしょう。助言を求めているのですから、
「あっちが、う~、余計な詮索をするからだ」
言い分は分かるが、今年三十五になる吉良より向こうは十八も上で、彼より年配だ。異性への対応を苦手としているとはいえ、これは厳しすぎるだろうと思っていたら案の定、彼女の返信はとても冷たいものだった。
― 了解。昔と違ってコロナ感染後の後遺症か、疲れやすいので休ませて頂きます ー
「ほら、怒っちゃったじゃないですか。早く謝った方がいいですよ」
しかし彼は黙ったまま、固まっていた。こっちも気分を害してしまったのなら面倒だ。声を掛けるにしても、最悪の場合は吉良に対して
すると突然彼は顔を上げた。
「今回の被害者達の中で、かつてコロナに感染した経験があると言っていた奴がいただろ」
いきなりの問いに戸惑った吉良だが、記憶を呼び起こしながら答えた。
「確かにそういう話を聞いた覚えはあります。けど食堂でも話していたじゃないですか。このS県だけで四万人近くも感染者が出ましたし、東京はもっとです。コロナの流行が始まって二年経ちますから、五人共が患者だったとしてもあり得ないことではないでしょう」
「いや、アルファベットと数字だ。コロナが流行し始めた時、感染者に番号をつけクラスター毎にアルファベットを振り分けていた。あれはコロナ感染者に付けられた番号かもしれない。皆Dだったのは、恐らく被害者が全員同じクラスターの中にいた可能性がある」
そこで吉良も気が付いた。もちろん名前は伏せられていたが、感染経路を把握する為にどういう形で繋がっているか等の情報が、県のHPに張り付いていた事を思い出す。
「もしそうだとすれば、Dだとかなり初期ですね。今はZでも足りなくなって、BAとかBB等二重でアルファベットを使っていまから」
「どこかで見た事があったのに、ずっと思い出せなかったのはその為だ。しかも被害者の住所は県をまたいでいる。それに直近だとEHとかEI、数字も十二万台と六桁になっていたから、頭の中で繋がらなかったんだ」
「それが当たっているかは、県庁や保健所で管理している感染者リストと照らし合わせれば判ります。一般開示していませんが、感染者の名前や住所、その他の詳しい個人情報も載っているはずでしょう。でもよく思い出されましたね」
吉良が褒めると、彼は苦笑いをしながら言った。
「三郷さんからのヒントがあったからだよ。後遺症なんてないはずなのに、あんな事を書いたのは何故かと考えた。彼女もコロナに感染したことがあり、しかもクラスターの一人だ。恐らく自分の番号がどのように振り分けられていたか、覚えていたのだろう」
「あの素っ気ない返事は、そう言う事だったんですね」
「彼女があの程度で、俺達が危険を冒して伝えた事を完全無視するはずがない。あれは彼女なりの気遣いだったんじゃないかな。他人が見ても何の件か判らないだろう」
「なるほど。さすがですね。しかもあれだけでも、松ヶ根さんなら気付くと信じていたのでしょう。お礼のメールを送った方がいいんじゃないですか」
「ああ。とにかく被害者と一致するか、確認しよう。本部に連絡だ。至急リストを取り寄せて貰うよう、上から依頼をかけた方が早い」
吉良は急いでスマホを取り出し、本部に松ヶ根の推論を告げた。ここまで全く手掛かりを掴めていなかったからだろう。彼らは歓喜し、直ぐに取り寄せると言って電話を切った。
その間に松ヶ根は三郷当てに返信していた。
― 判ったよ。返信無用。お大事に ―
だが彼女から、― 有難う。そちらもお仕事頑張って ー とメールが送られてきた。ヒントに気付いたと知り、律儀にエールを送ってくれたようだ。その事に感謝しながら二人は部屋を出て、急いで本部へと向かった。
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