第五章 新たな事件
彼女がそこまで答えた時、松ヶ根の携帯が震えた。と同時に吉良の携帯にも連絡が入った。恐らく何かの緊急連絡が入ったと思われる。その為二人は席を立った。
「すみません。少々お待ちください」
黙って頷いた彼女を残し、ドアを開けてリビングを出た二人は電話に出た。すると思いもかけない報告が、捜査本部から入った。なんと長谷卓也が、兵頭日香里を階段から突き飛ばしたらしい。
「怪我は?」
「尾行していた捜査員が咄嗟に飛び込んだおかげか、擦り傷程度で済んだらしい」
二人にはそれぞれ、行動観察していた刑事がついていたからだろう。毎日ではないが尾行を続けている途中で、卓也の様子がおかしいと気付いたようだ。そこで何かするつもりだと警戒していた所、日香里が通う大学に向かっていることが判ったという。
そこで彼女についている捜査員に連絡を取ると、徐々に二人の距離が近づいていた事が明らかになった。その為両方面で注意を払っていたところ、大学近くの駅を降りる階段で接触するかもしれないと、捜査員は万が一に備え準備していたらしい。
おかげで彼女は、大怪我を負うことも無かった。しかし卓也の取った行動は殺人未遂に当たる。少なくとも傷害罪は成立する為、その場で現行犯逮捕されたらしい。身柄は本部のある中警察署に送られたようだ。
一方の日香里は念の為近くの病院に運ばれ、治療を受けているという。その後捜査員から事情を聞く段取りのようだ。そこまで聞いた吉良は、今回の事件の犯人が長谷卓也である可能性が高いと感じた。
本部もそう考えているらしい。しかし今の所取り調べに対し、日香里に対する殺意があったと認めたものの、久宗氏殺害に関してはあくまで否認しているという。そこで松ヶ根は尋ねた。
「彼女を襲った動機は、何だと言っているのですか」
「それは彼女がいなければ、一久が亡くなった後に子供達が受け取る相続分が増える。そう考えたからだと主張しているようだ」
吉良は思い出す。以前三郷の事情聴取をしていた際に、被害者の死後における財産分与がどう変わったかについて話した。あの時確か被害者の資産が百億と仮定すれば、一久の死後、約三十四億余りの遺産は孫達で分け合うことになると言った。
しかしもし兵頭日香里がいなければ、長谷の子供達の取り分は約十七億の半分ではなく、約三十四億を二人で分け合うことになる。受取額が倍になり増える額も十億円以上となれば、殺害動機としては十分成り立つ。
だが刑事達の目の前で計画が失敗した為、日香里への殺人未遂は認めざるを得なかったに違いない。ただ久宗殺害に関してはまだ証拠が無いと踏んで、否認しているのだろう。
本部からはそれを踏まえた上で、カードキーの所有者と彼との繋がりを探れと指示が飛んだ。卓也が実行犯なら、三郷達は共犯者である確率が高い。とすればどうして彼に協力をしたのか、その動機や関連を調べろということだった。同じ指示内容を、別々の携帯電話で受けた二人は答えた。
「了解しました」
「了解です」
電話を切った後再びリビングへと戻り、二人が席につくや否や松ヶ根が口を開いた。
「今本部から、連絡がありました」
事の経緯を説明し始めると、彼女の表情が変わった。日香里の怪我の具合と卓也の供述について話し終わったところで、彼が尋ねた。
「本人は否認していますが、これで長谷卓也が久宗氏を殺害した実行犯の可能性が出てきました。あなたは彼にカードキーを渡しましたか」
彼女は首を横に振った。動揺しているようで声が出ないのかもしれない。だが彼女は疑われている事よりも、起こった事実に驚いているようだった。
「あなたでなければ、他の二人が長谷卓也にカードを渡したのかもしれません。長谷卓也との接点について、何か心当たりがありますか」
これにも彼女は黙って首を振った。そうしながら、何かを考えているように思えた。彼もそれを感じ取ったのだろう。吉良が持った同じ疑問について質問した。
「何を考えていらっしゃるのでしょう。とても驚いているようですが、それは長谷卓也が久宗氏を殺した犯人かもしれないからですか」
ようやく彼女は、沈黙を破った。先程までとは目の色が変わっている。
「いいえ、違います。それより長谷さんが、日香里さんを殺そうとしたのは本当ですか」
「間違いありません。複数の刑事達が見ていますし、彼自身も認めています」
「動機は彼の子供達が受け取るだろう遺産分を増やそうとした、とおっしゃいましたね。以前私との話の中でも、吉良さんは久宗氏が一久氏より早く亡くなった場合について、百億円と言う仮定の金額で計算されていました。同じ話を長谷さんにされましたか」
吉良は松ヶ根と視線を合わし、彼がその質問に答えた。
「長谷卓也の事情聴取は、私達ではない捜査員が担当しています。しかし吉良と同様の話は、しているでしょう。あの推測については、捜査本部の捜査員全員が共通して持っていたことです。今回の事件での殺害動機は、遺産相続に絡んでいる確率が高いと考えられていました。そこであらゆる可能性を探る上で、どういう差が生じるのかを把握することも大切な事でしたからね」
すると彼女は苦悩した面持ちで、頭を抱えながら言った。
「私は大変な誤解をしていました。今回の事件は、お通夜での口論がきっかけかもしれません。私達はとんでもない事をしてしまいました。そんなことをしても彼らが遺産を手にすることなど出来ないと、あの場ではっきりさせておくべきだったのです」
吉良は彼女の言葉の意味が理解できなかった。彼も同様だったらしく質問した。
「彼らが遺産を手に出来ないとは、どういう意味ですか。他に遺書があるとでも?」
顔を上げた彼女は、睨むような目つきで答えた。
「吉宗氏が殺害されるまで、彼らは九竜家の遺産が手に入るなんて考えてもいなかったはずです。少なくとも長谷さんは、覚悟していたでしょう。しかし事情聴取を受ける内、将来子供達に多額の遺産が入る可能性に気付いた。またあのお通夜で、吉宗氏が特別な遺言書を残さなかったと知り、代襲相続できるかもしれないと思ったのでしょう。だから長谷さんは、子供達の為に恐ろしい事を考えたのかもしれません。しかも実行しようとした」
「久宗氏の殺害と、今回の事件とは関係が無いというのですか」
「久宗氏を殺しても、彼らには遺産が入らないよう遺言書を残していたのですよ。破棄したと知ったのはお通夜の日です。それなのにわざわざ殺そうとはしないでしょう」
これに彼は反論した。
「いえこのままでは遺産が手に入らない為、彼が邪魔だと思ったのかもしれません。久宗氏が一久氏より先に死ねば、未知留さん達の代襲相続分は遺留できると考えたのでは?」
だが彼女は首を激しく横に振った。
「彼が実行犯だとすれば、久宗氏をあの場へ呼び出さなければなりません。けれど久宗氏は安易な誘いに乗る程、愚かな方ではありません。没交渉となっていた長谷さんから、夜の遅い時間帯でしかも良く知らない建物に呼び出すなんて至難の業です。だから私は、実行犯が別にいると思っていました。日香里さんの件は、発作的に起こした事でしょう」
「もしかして、それが保険会社の沼田や杉浦だと疑っていたのですか」
「はい。相原所長からカードキーを受け取り、彼らが呼び出したとしたら犯行は可能かもしれない。だから警察が沼田達と長谷さん、もしくは兵頭さんや一久氏との繋がりを掴んでいないか期待していました。しかし違うようですね。私の推理は間違っていたようです」
「そうとは限りません。けれど長谷卓也が何らかの手を使って、部屋に招き入れることに成功したとも考えられます」
「だとすれば、間違いなく久宗氏は警戒したはずです。そうなると体格からして、敵うはずがありません。隙をついたと仮定しても、余りに無理がありませんか。いくつかのもしもが重ならなければ、今回の殺人計画は成功しなかったことになります」
確かに彼女の言う通り久宗氏の殺害を企んだとしても、いくつかの壁を越えなければならない。カードキーを手に入れる事もそうだ。長谷が実行犯だったなら三人の内の誰かの弱みを握っているか、またはお金を払うことを条件に協力させる方法が一番納得できる。
ただ三人との接点は、今の所全く見つかっていない。三郷の場合、お金で動くとは考えにくかった。寺内なら夫の病気により経済状況が悪化しつつあったことから、協力をすることもあり得なくはない。
しかし彼女の夫と娘については、事件時のアリバイ証明はできていないものの、事件とは無関係と思われる別の疑いが浮上していた。よって別の課に引き継いで捜査が行われているそうだ。
また実を言うと、相原の経済事情を調べていた班から奇妙なお金の流れを発見したとの報告は受けていた。そこからさらに掘り下げ捜査してみると、彼は顧客の資産運用に失敗し、その事が公になることを恐れて密かに損失補填していた事が判明している。
幸い彼の個人資産運用が順調だった為、その利益を原資に穴埋めしていたことまでは突き止めていた。しかもそれだけでは不十分だと思ったのか、先程話していた保険会社の面々と手を組み、手数料のキックバックを不正に受けている可能性もほぼ明らかになっている。
彼女の説明通り、法人の生命保険の手数料はかなり高額のようだ。それを社内留保する為に、PA社は保険代理店を買収したという。しかしそれだと単に会社の収益となり、扱った社員に直接手に入ることは無い。成功報酬としてせいぜい数%入る程度だ。
そこで相原は顧客に紹介した保険を自社で契約せず、沼田を通して別代理店に紹介する手を使っていたのだ。そうして本来受け取るべき手数料を代理店から戻し入れさせ、個人的に懐へ入れていた形跡が見つかった。
つまり彼は金銭を欲していたことにより、共犯者である可能性も高まっていた。よって相原や沼田達が、どの程度三郷に対するトラブルを抱えていたかを聞き出そうとしていたのだ。ちなみに久宗が殺された時間帯、沼田や杉浦には確実なアリバイは無かった。けれど長谷や兵頭達と連絡を取り合っていた形跡は、まだ見つかっていない。
しかしお金が手に入るとしても、あくまで一久氏の死亡後だ。高齢でかつて脳梗塞を患ったとはいえ、今は健康を取り戻している。先日のお通夜での剣幕からも、元気である事は誰の目にも明らかだ。さらには相続放棄などされてしまえば、完全に無駄骨になる。
一方多額とはいえ、できれば早期に金を手に入れたい寺内や相原がいつ入るか判らない報酬を期待し殺人に加担するかと考えた時、一久氏が依頼した場合を除けば疑問が残るとの見解も本部では上がっていた。
それでも相原には三郷に対する妬みが強く、保険会社の社員達からも強く恨まれていたとの別の動機がある。彼女に疑いを向くよう仕向けた、または彼女の顧客を殺害することにより信用を失墜させようと企み決行した、という意見も出ていた。
そこで吉良は実行犯の動機を推測した時、どうなるかを推測してみた。長谷はもちろん、誰であってもお金を直ぐ手にすることは出来ない。けれども彼の場合、二人の子供達には自分の運転ミスにより大切な母親を奪ったという後ろめたさがある。二十年経った今でもわだかまりがあり、疎遠となっていた。
だからこそ子供達の為に、せめてお金を残そうと計画したとしてもおかしくはない。実際そう考えた彼は、取り分を増やそうと兵頭日香里を殺そうとしたのだ。といって久宗氏を殺害したのも彼かといえば、いくつか引っかかる点が残る。
三郷が語った推理は道理に合っていた。しかも日香里を殺害しようとした方法とは、明らかに異なっている。久宗氏殺害現場でもやや無計画さが感じられたが、階段を突き落とすやり方とは次元が違い過ぎた。
松ヶ根もそう感じていたはずだ。それでも質問を続けた。
「ではあくまで長谷卓也は、久宗氏の殺害と関わっていない。そうおっしゃるのですね」
「疑わしいとは思っていましたが、今回の事件を起こしたことでよりはっきりしました。真犯人なら、こんなに早いタイミングで階段から突き落とす方法は取らないでしょう。もっと綿密な計画を立てて行うに違いありません。それに殺すなら一久氏が先のはずです」
「あなたは以前、長谷さんとは久宗氏から話を聞いて名前を知っているだけで、お会いしたこともないとおっしゃっていました。つまりお通夜で会ったのが初めてでしたね」
「はい。智明さんや未知留さんとも、あの時初めてご挨拶しました」
「接点は全くない。間違いありませんか」
彼女は強く頷いた。
「ありません。以前携帯電話や私用のパソコンを提出しましたし、固定電話の通話記録も出したでしょう。それでも接点が無かったと、そちらでも把握されているはずです」
「会社で貸与されている携帯も、既に任意でご提出いただいており確認済みで返却もしています。ですが会社のパソコンは顧客の個人情報などが多数ある為、提出は出来ないと断られています。ただそういったものを使わず連絡を取る方法は、他にもありますからね」
「会社のノートパソコンは、さすがに無理だと思いますよ。令状が無いと、会社も許可を出さないでしょう。それに先程おっしゃったようにそれらを見ただけで、無実を証明できるとは限りません。連絡だけなら、公衆電話等を使えばできます。また漫画喫茶などにあるようなパソコンを通じて、SNS上で匿名のやり取りをすることも可能でしょう。まあそういう行動も、地取りっていうんでしたっけ。既に色んなところで聞き込みをしたりして確認をしているはずです。それでも見つからないから、私達が所有する物の任意提出を前回求めた。違いますか」
「その通りです」
「松方弁護士は職務上の問題があり、任意の提出を拒否されている。ただその他の方は既に提出していて、繋がりがある証拠は発見されていない。そうではありませんか」
「その通りです」
「それならこれまでの私達の考え方自体が、間違っていたのです。私が提出したSDカードを見れば、意味が判るはずです。ですからなるべく早く、犯人を掴まえてください」
彼女の主張が正しいと判断し、吉良達は預かったSDカードの中身を確認する為、一旦彼女の部屋を出て捜査本部へと向かった。まずは彼女アリバイを証明する証拠を確認し、実行犯でない事を明らかにしなければならない。
それが済めば、彼女の言う一久氏と一緒に写っていた人物は誰かを確認し、事件との関連を探る捜査が必要だ。他の重要参考人からも今回の件を受け、担当しているそれぞれの捜査員が改めて長谷との繋がりを確認していた。
もちろん今回の逮捕で長谷卓也の所持品は家宅捜索により、強制的に全て調べる事ができる。思った通り本部に戻ると、長谷家から押収されたものが大量に運ばれていた。これから鑑識や科捜研が、それらの分析を始めるようだ。中身が明らかになれば、久宗氏殺害との関係も徐々に見えてくるだろう。
相原や寺内も吉良達の担当だが、応援部隊が代わりに話を聞いてくれた。三郷を含めた彼らの行動確認をする為に、別の捜査員が交代で張り付いていたからだ。しかしこれまでと同じく繋がりが見つかっておらず、新たな証言も得られなかったという。
事件から二週間経ってかなりの情報は集まったが、捜査自体は停滞していた。それが長谷の行動でようやく突破口が開け始めた事により、本部の上層部達の機嫌は良さそうだ。
しばらくは押収した物の情報分析に時間がかかる。その為吉良達を含めた一部の捜査員達は、一時待機することとなった。久しぶりに自宅へ帰り休んだ後、吉良は翌日の夕方に捜査本部へと向かった。既に松ヶ根がいた為、慌てて駆け寄った。
「遅くなりました。何か動きがありましたか」
「あったぞ。だが俺達の方は、う~、そう慌てる必要は無い。長谷卓也の取り調べも、進捗は無いそうだ。押収したものから、PA社の三人との繋がりはまだ出ていないと聞いている。他の連中も同じだ。沼田や杉浦の方とも、決定的な証拠が見つからない」
「相変わらず、久宗殺しに関しては否認ですか」
「ああ。このままなら、三郷が言っていた通りになりそうだ」
「通夜の騒ぎで聞いた、遺言の破棄がきっかけになった話ですね。嫌われた子供らに良い顔がしたい為、兵頭日香里を殺そうと思っただけという事でしょうか」
「本人も発作的にそう考え、行動したと証言している。それより三郷が提出したSDカードに写っていた映像が、大きな問題になりそうだ」
吉良はその時初めて中身を見た。そこで絶句した。
「彼女自身と、一久ともう一人いますね。これは衝撃映像ですよ」
「分析結果だと、細工した形跡は発見されていない。つまり彼女のアリバイは完全に証明された。しかし問題なのは、一久と一緒にいる人物だ」
「これって、」
「そうだ。一久が提出した映像には、わざと助手席が写らないよう角度を調整されていた。そこから考えても、あの夜の密会を隠したかった意味が理解できる」
三郷が隠そうとしたのも、当然だろう。依頼主の九竜家にとっては、とんでもないスキャンダルだ。警察に見せたくなかったのも頷ける。
「一久から既に任意提出して貰ったスマホからも、一緒にいた人物と接触した形跡が見つかったようだ。ご丁寧に削除されている部分も多かったようだが、データの復元で明らかになっている。だが三郷からの情報が無ければ、一致させることは困難だっただろう。別件で動いていた捜査員が持つ情報と擦り合わせて、ようやく判明したんだからな」
「そっちの容疑で、引っ張るってことですか」
「九竜家担当の捜査員は、そのつもりらしい」
「でもこっちは、殺人事件の捜査本部ですよ」
「関係ないとは言いきれない。忘れたか。犯行時刻は、十時半から後ろに一時間程ずれているかもしれない、との報告があっただろう」
失念していた。一久にアリバイがあるのは、十時半過ぎまでだ。つまりその後の行動は家に帰ったというだけで、それを証明する人や映像などは今の所見つかっていない。
「ということは、一久が女と一緒にいたというアリバイ工作をして、その後息子を呼び出して殺したってことでしょうか」
「それは分からん。あくまで彼は一人でいたと主張し、その証拠を残している。う~、アリバイ工作なら、後でバレたら厄介になる計画など立てないだろう」
「そうですね。一久にしてみれば、あの日のことなんて絶対に知られたくなかったはずです。そんな時に人を殺す真似なんか、普通はしません。でも一人で無かったことは、偶然三郷が近くの駐車場にいたからこそ、明らかになっただけです。彼女の車のドライブレコーダーがあの現場を捉えていなければ、判らなかったかもしれません」
「だが捜査本部は、一緒にいた女からカードキーを受け取り、息子を殺して莫大な遺産を受け取るよう仕組んだのではないか、と考えているようだ」
「なるほど。彼女なら手に入れることは可能ですね。えっ? でもそうなると、そっちが犯人ってこともありえませんか。いや、それはさすがに無理筋でしょうか」
しかし吉良がふと思いついた馬鹿な考えを、彼は否定しなかった。
「そうでもないぞ。そっちもアリバイがないからな。前に現場の状況が計画的な部分もありながら、ロックを掛けなかった事など、アンバランスな気がすると言っていただろう。もしこっちが実行犯だとしたら、しっくりこないか。被害者も相手が彼女なら、油断して刺されたのも頷ける。しかも現場ではゲソ痕が残らないよう、フットカバーを使っている。一久に頼んで手に入れたのかもしれない」
「一久が共犯で、しかも利用されたかもしれないってことですか」
「そう考えれば、あの電波時計の謎も解ける。彼なら手に入れることは容易い。事前に狂わせて置き、犯行後に壊して現場に残した。彼女が実行犯だとすれば、相当なタマだぞ」
「動機はなんでしょうか」
「金だろう。一久が莫大な資産を手に入れることで、自分に流れるよう仕組んだのかもしれない。どちらにしても二人を任意で引っ張り取り調べれば、ある程度判るはずだ。しかし下手をすると、難航するかもしれない。なんせ相手が相手だけにな」
まず一久を署に連行し、吉良は隣室で聴取の様子を伺うことにした。松ヶ根は任意同行されてきた、もう一人の状況を確認すると言って出て行った。
部屋には九竜家担当班の捜査員が一人同席していたが、聞き取り自体は専門の聴取官が行うようだ。そのやり取りをマジックミラー越しに見ている捜査員は、他にも複数いた。
取調官が質問を始めた。
「あなたは久宗氏が殺されたと思われる時間、管理物件の旧米蔵にいたと証言している。ですがこちらで詳しく調べる内に、犯行時刻は当初言っていた十時半まででなく、それ以降だった可能性が出てきました。あなたはその時間、何をしていましたか」
彼は俯いたまま答えた。
「そのまま家に帰っただけだ」
「本来ならその様子は、ドライブレコーダーに写っているはずですよね。しかしあなたから提出して頂いたものを確認すると、蔵から出た後の映像は残っていません」
彼は慌てて顔を上げた。
「それは前にも言っただろ。角度を調整しようと触ったはずみで、切ってしまったらしいと。私だって指摘されるまで、全く気付かなかったんだ」
「犯行時刻が伸びたと思われる時間だけ、何故かアリバイが無いのは不自然ですね。しかも家に帰るまでの道中、あなたの車はどこの防犯カメラにも映っていない」
再び視線を逸らしながら、呟くように彼は言った。
「たまたまだろう。あの辺りはカメラが少ない地域だからな」
しかし取調官は容赦しない。ここから一気に畳みかけた。
「そうでしょうか。九竜家は事件現場を含む、一帯の大地主だ。会社が管理する物件も、多数ある。確か会社には保守管理部門もあり、自治体や警備会社等と連携した委員会に属しているそうですね。つまり町のどこに防犯カメラが存在するか、知りえる立場にあった。元社長のあなたなら、どの道を通ればカメラに映らないで済むか把握していたのではないですか。現に四カ月程前、あなたが管理部門に赴いていることも判っています。ここ数年の間、あなたはほとんど会社に顔を出すことが無かったと聞いています。だから驚いたのでよく覚えていると、様々な人から同様の証言が得られました。正直にお答えください」
問い詰められた彼は、明らかに目が泳いでいた。
「確かに見た覚えはある。だがそれは単に、今の街の管理体制がどうなっているか、興味を持ったからだ。最近はリハビリのおかげもあって、車で外へ出かける機会も多くなった。それだけだ。勝手な憶測をしないでもらいたい。第一私を疑っているようだが、息子を殺して何の得をするって言うんだ」
「多額の遺産が入ります」
「馬鹿な。元々私が持っていたものを、息子夫婦に引き継いだんだぞ」
「殺してまで奪う必要がないとでも?」
「当然だ。過去の教訓を生かし、長い時間をかけてきたんだ。今更それを手にしようなんて、考える訳がない。金なら十分持っている。私はもう八十三だ。この期に及んで何十億の資産を所有して何になる」
「それは事件があった日の夜、一緒にいた人物と関係があるのではないですか。彼女に貢ぐ為、またはお金を要求されていたのではありませんか」
この追及はさすがに効いたらしく、言葉を失ったようだ。すぐ様否定しなかった様子を見ると、どちらかまたは両方当たっているのかもしれない。だが彼は認めなかった。
「そんなことはない」
ここで取調官は、別方向から責め始めた。
「あなたの行為は、犯罪に当たると理解していますか」
すると青い顔をした彼は俯いてしまい、そのまま黙った。
「どうされました? 回答を拒否されても無駄です。黙秘しても、あなたの罪は変わりません。それどころか反省の色がないと判断され、かえって重くなる。ただ久宗氏の事件は別です。今お話していただければ、今後の裁判で情状酌量の余地はあるかもしれません」
だが彼は顔を上げて怒鳴った。
「私は殺していない。大事な一人息子を殺すわけないだろう。私は既に二人の娘を失っている。妻も亡くなった。あいつは九竜家を支える、唯一の人間だったんだぞ」
「しかし久宗夫妻は、代々受け継いできた土地を含め、会社の売却を計画していた。あなたはその事を知っていましたね」
「相談を受けた事は確かだ。久宗達には子供がいないので、後継者も存在しない。私は高齢で持病もある。だから会社の事は既に任せていたし、好きにすればいいと言ったんだ」
取調官がさらに追い込む。
「あなたは自分の死後、会社が売却されると想定していた。しかし久宗氏の考えは違った。還暦になった事を機に会社を整理し、豊かな老後を迎える為の準備に入っていた。その事に、反対していたのではありませんか」
「違う。私はあいつがそんなに早く売却を考えているなんて、知らなかったんだ」
「本当ですか。それを知ったあなたは、久宗氏と揉めた。違いますか」
「そんなことはない」
「最近二人が言い争いをしていたと聞きました。何の件で口論していたのでしょう」
この情報は、家政婦と三郷の二人による聴取で得ていた為、間違いない。ただし家政婦はその内容を全く知らなかった。それに対し三郷はその理由を、夜中に車を出していた件についてだと推測していた。取調官はその事を踏まえて、わざと鎌をかけているようだ。
「それは、」
言葉に詰まる彼に対し、取調官はここぞとばかりに詰め寄った。
「息子さんと意見が食い違い、また現在関係を持っている人物に対して、お金を貢ぐことが必要となった。だからあなたは久宗氏を殺したのでしょう」
「違う。そんな恐ろしい事を、私ができるはずがない」
「あなたでないなら、別の人間に協力した?」
「協力なんかしていない」
「事件現場から、九竜コーポレーションが使用しているフットカバーの繊維と同様の物が検出されています。あなたが実行犯に渡したものではありませんか」
ようやく誤魔化しきれないと観念したのか、彼の声が徐々に小さくなっていった。
「いやそれは、」
あの態度からすれば、彼は実行犯ではなく共犯者、または協力させられた可能性が高い。
「あと被害者が嵌めていた電波時計は、事前に狂わされていた可能性があります。その為には、前もって時計を盗み出さなければなりません。あなたならそれができる。時間をずらすか、またはずらす前の物を実行犯に渡したのは、あなたじゃありませんか」
「私はそんな細工などしていない」
「だったらフットカバーと電波時計を、実行犯に渡したことは認めますね」
そこでやっと彼は頷き、認めたのだった。
「彼女が実行犯なのかは知らない。しかし、渡した事は確かだ」
「それはいつですか」
「あの事件が起こる、二週間ほど前だ」
「その時もあの蔵で、密会していたのですか」
「ああ」
「彼女と初めて会ったのは、いつ頃ですか」
「半年程前だ」
「どういうきっかけで? 惚けても無駄ですよ。あなたから押収した携帯電話等から、様々な情報は既に入手しています」
「出会い系サイトを通じて、知り合った」
「最初から、肉体関係を結んだのですか」
これには大きく首を横に振った。
「違う。単純に話をしていただけだ。パパ活と呼ぶ行為らしい。本当にそれだけだ」
この件について取調官は穏やかに話しを進めていた。どうやら緩急をつけているようだ。
「そういうサイトで会ったのは、彼女以外に何人いましたか」
「三人程と会った。彼女達ともただ話をしただけだ」
「つまり深い関係になったのは、事件当夜にいた人物とだけですか」
「違う。ただ最近は、彼女としか会っていない。私には孫が三人いるがその内の二人とは、早くから疎遠になった。唯一可愛がることが出来たのは、日香里だけだ。それが寂しかったから、ついああいうサイトを利用するようになった。ただそれだけのことだ」
「出会い系サイトを始めたのは、それがきっかけですか」
「そうだ。最初はただ単に、若い子と話をする機会が欲しかっただけなんだ」
ここから取調官の口調が変わった。
「それがいつから、淫らな関係にまで発展したのですか」
一久は大きな声を出し、強く否定した。
「そんなことはしていない」
「肉体関係は無かった。そう言い張るのですね」
「当然だ。これ以上同じ事を聞くなら黙秘する」
どうやら女といた事は認めながらも、その点は否定し続けるつもりらしい。
「では質問を変えましょう。当初は数人の女性と出会って話相手になってもらった見返りに、お金を払っていた。そこであなたはその中の一人と親しくなり、会社が管理する物件の中で、夜な夜な会っていた。あの蔵を使ったのは、防犯カメラが故障していたからですね。わざと壊して直さず、見回りの為と称して密会に使っていた」
彼は不承不承頷いた。
「そうだ。社内の人間達に見られて、変に誤解されては困ると思ったからな」
「そうでしょうね。その為にあの周辺の防犯カメラの位置も、事前に確認していた」
彼はその質問には答えなかった。しかし吉良が見た様子からだと、図星だったらしい。明らかに動揺を隠せずにいたからだ。取調官は構わず質問を続けた。
「それでは、あの事件の夜の事をお伺いします。八時半過ぎに蔵へ入ったあなた達は、そこで二時間ほど時間を過ごした。その後はどうしましたか」
「彼女を車で送り、降ろした後にそのまま帰った」
「彼女をどこで降ろしましたか。家の近くですか」
「いや違う。それだと誰かに見られる恐れがあると言われていたので、彼女の家とは逆方向の場所で降ろした」
「それはどこですか」
少し間があった後、彼は重い口を開いた。
「久宗が殺されたビルの近くだ」
「その女性と会った後は、必ずそこで降ろすことになっていたのですか」
「初めての時は、もう少し離れた場所だった。あの現場よりはもっと手前だったと思う」
「いつから、あの事務所近くで降ろすようになったのですか」
「二カ月ほど前からだ」
「なる程。その時おかしいとは思いませんでしたか」
「思った事はある。だが少しでも家から遠い方が良いと言うので、言う通りにしただけだ」
質問がどんどん核心に近づく。
「なるほど。そこへ降ろすよう指示したのは彼女だった。防犯カメラの位置を確認した後からですね。確か久宗氏と口論をしていたのも、二か月ほど前だと聞きました。つまり彼女は少なくとも二か月前から、久宗氏を殺害する計画を立てていた可能性があります」
「それは、」
「もしかすると、その頃久宗氏に彼女との関係を知られてしまったのではないですか」
その推測は当たっていたらしい。盛んに瞬きをし始め、彼の貧乏揺すりが止まなくなった。答えないことに業を煮やした取調官は、詰め寄った。
「そうなのですね。正直に答えてください」
「ああ。そうだ。家政婦から聞いたんだな。あいつは時々夜になると、車で出かける私に注意してきた。最初は高齢者ドライバーの事故が多いから、運転免許証を返納しろという話だった。私が脳梗塞で麻痺が残ったこともあり、心配してくれたのだと思う。だがリハビリのおかげで、かなり元気になった。出会い系サイトを始めたのは、脳の活性化に役立つという理由もあった。だから私はあいつの忠告を聞かなかったんだ」
「それでどうなりましたか」
「頑なな私の態度を不審に思ったのだろう。ある時こっそり尾行していたらしい。そこで私の行動がばれ、止めるように厳しく咎められた。けれどもうその頃の私には、彼女と会わない選択肢など無かった」
「それは何故ですか。脅されていたからですか」
「そうじゃない。私なりに、彼女の事を助けたかったからだ。経済的に問題を抱えている事を打ち明けられ、援助すると持ち掛けたのは私からだよ」
「だからといってそんな関係が許される訳がない。久宗氏もそう言ったのではないですか」
一久は急に開き直った態度を取り始めた。
「言ったよ。だが私は聞かなかった。これは苦学生に対する、返済不要の奨学金みたいなものだと反論した。しかしあいつは納得せず、こっちで手を打つと言い出しやがった」
「手を打つ、と言ったのですか」
「そうだ。どうやら直接連絡を取ったらしい。関係を止めるよう、説得したようだ」
「弁護士等に相談したりせず、久宗氏が一人で解決しようとしていたのですか」
「そうらしい」
「なるほど。だから彼女は久宗氏が邪魔になり、排除しようと考えたのかもしれませんね。そこであなたを使い、フットカバーや久宗氏の電波時計を手に入れた。あなたと一緒にいることで、事件当夜のアリバイ工作も行ったのでしょう」
すると彼は再び、思いだしたかのように怯えだした。
「本当に彼女が久宗を殺したのか? 私には信じられない。あの子がそんな事をするなんて。何か証拠でもあるのか」
「何故そう思われるのですか。彼女から何か聞かれたのですか」
「いいや。私があの事件が起こってから彼女とは連絡を取っていない。だから話もしていない。でもあの子が久宗を殺すなんてそんな無茶苦茶な、」
「あり得ないとお思いですか。事件現場に入る為のカードキーは、彼女なら手に入れられる。彼女にはあなたと別れた後のアリバイも無い。状況証拠は十分に揃っています」
「あの子は何と言っているんだ。既に取り調べをしているのだろう」
取調官はその質問に対し、冷たく突き放した
「もちろん話を聞いている最中です。ただ内容はお伝え出来ません。あなたが全てを話さない限り、久宗氏殺害における共犯の疑いは晴れませんよ」
「私は知らない。もし彼女がやったのなら、やむを得ない事情があったんだろう。私が息子を殺すなんて、そんな事を考える訳がない」
一久の反論に首を振り、厳しく問い質した。
「事件当夜、彼女と待ち合わせをしたのはどこですか」
「それは帰りに降ろした場所の近くだ」
「事件現場近くですね。つまり彼女は八時半より前から、あの事務所の中に入ることが出来た。事前準備が可能だったことも、これで分かりました」
「事前準備というのは何だ」
真剣な表情で尋ねた所を見ると、彼は犯行の詳細について本当に知らないのかもしれない。取調官はそのまま説明を続けた。
「アリバイ工作に必要なことです」
「そんなことを、彼女ができるとは思えない」
強く否定する彼に対し、取調官は追及の手を緩めなかった。
「では誰なら犯行が可能だと思いますか」
ここぞとばかりに一久は強気に出た。
「確かカードキーを持っている人物の中で、PA社の三郷という女性にはアリバイが無いと聞いたぞ。彼女じゃないのか」
だが取調官がさらりといなした。
「残念ながら彼女には確固たるアリバイがある事が、最近になって判りました。しかも彼女は、今までその証拠となる物を隠していたのです。事件当夜、あなた達二人が蔵に入る様子をドライブレコーダーで捉えていたからでしょう。彼女はあなた達の名誉を守る為に、これまで黙っていたのです。そんな人を犯人呼ばわりするなど、失礼だとは思いませんか」
彼はなんとなく予測していたのだろう。部屋の天井を見上げながら最後の抵抗を試みた。
「やっぱりあの女は知っていたのか。しかし彼女が他の人間に、カードキーを渡した可能性だってあるだろう。そう、卓也がいるじゃないか。日香里を殺そうとしたぐらいだ。金に目が眩み、久宗を殺したんじゃないのか」
しかし取調官は首を横に振った。
「何を言っているのですか。だったらどうしてあなたがこっそりと手に入れた久宗氏の電波時計が、現場に落ちていたのですか。先程あなたは、あの日の夜にいた人物に渡したと言ったばかりでしょう。つまり彼女が実行犯であり、現場にいた証拠です」
これには一久も、黙るしかなかった。信じたくはないのだろうが、ようやくそれが真実であることを理解し始めたようだ。深く項垂れている所を見ると、彼は利用されていただけなのかもしれない。
フットカバーや電波時計を渡したのは、脅されていたからだろう。久宗氏の忠告を聞かなかったのも、そうした理由からだと思われる。しかもその相手がカードキーの持ち主の一人である寺内の娘、菜月だったからここまで
まだ十二歳で小学六年生である彼女と一久はパパ活から発展し、やがて肉体関係を持ったようだ。相手が十二歳となれば、既婚者を除く十八歳未満の男女との“淫行”や“淫らな性行為”等を規制する、青少年保護育成条例違反では済まない。
日本の刑法では「性的同意年齢」は十三歳からだ。それを下回る女性と関係を持てば、強姦罪が適用される。そうした事が世に出れば、地元の名士である九竜家の名は地に落ちてしまう。九竜コーポレーションも多大な影響を受けるに違いない。
寺内家では経済的な問題を抱えており、有名私立学校に通っている彼女は、いずれ学校を辞めなければならない恐れがあった。また別件もあってそうした事態を避ける為、彼女自身が出会い系サイトでお金を稼ごうと思ったのだろう。
そんな中で一久と出会った。今は引退した身だが、九竜家の一員には変わりない。その事を知り、チャンスとばかり不幸な身の上話を聞かせて同情を引いたのかもしれない。
取調官は、一久が観念したと思ったようだ。まずは確実に立件できるだろう、菜月との関係について再び問い始めた。
「それではもう一度伺います。寺内菜月と初めて会ったのは、いつですか」
おそらく強姦罪を視野に入れて逮捕し、起訴内容を固めるはずだ。その後で久宗氏殺害についてどこまで関与していたか、じっくり時間をかけ殺人の共犯として再逮捕できるかを判断するに違いない。
吉良はそう考え、これ以上は二人の関係についての話が長くなると判断した。その後も、新しい事実が出てくるとは思えない。その為席を外し松ヶ根がいる部屋に行き、こちらの取り調べ内容の報告がてら、彼女の聴取がどのように進んでいるかを確認することにした。
吉良が部屋に入ると、松ヶ根しかいなかった。マジックミラー越しには、菜月の姿が見える。正面に座り取り調べを行っているのは、女性の捜査員だ。吉良が以前いた生活安全部に所属するベテランをあてがったらしい。
相手が小学生の女の子という事もあり、慎重を期したのだろう。売春行為だけでも厄介なのに、殺人の疑いがあるとなれば当然だった。
しかし彼女の証言は、今回の事件解決においてかなり重要なものになる。よって何を語るか、多くの捜査員が固唾を飲んで聞いているものだと想像していた。それなのに松ヶ根一人だけだったことに、吉良は拍子抜けをした。
「向こうはどうだった」
彼が取調室から目を離さずに訪ねてきたので、吉良は書き残したメモを見ながら重要事項はもちろん、細かい点も漏らさないよう説明した。時折頷きながら黙って聞いていた彼は、話が終わると言った。
「そうか。別室では、母親が事情を聞かれている。娘の夜遊びについては、事件当夜長電話していたママ友も気づいていたが、パパ活までしていたとは想像していなかったらしく、相当ショックを受けているそうだ。ママ友の永山とその娘も呼んで事情聴取しているよ。永山も最近離婚が成立したことで、経済的な不安を抱えていたらしい」
「売春に関して、彼女は認めましたか」
「永山の娘は認めたが、菜月はあくまでパパ活止まりだったと主張している。こっちのタマはすごいぞ。お前の話からすると、一久は利用されていたとの見方だったな。おそらくそうだろう。アリバイ工作も小学生にしては見事だが、それだけじゃない。被害者の下半身のパンツが脱がされていたが、あれも彼女の細工に違いない。それが何故だか判った」
「どういう意味ですか」
「彼女は被害者に襲われたと証言している。だから逃げ回った。捕まったら犯されると恐れた。だから事務所にたまたまあった千枚通しとハサミで、覆い被さってきた相手を刺したんだとさ。あくまで正当防衛だった、と主張している」
余りの想定外の供述に、吉良は取り調べ中の彼女を二度見した。
「正当防衛、ですか。でも殺したことは認めたんですね」
「だが密室状態での正当防衛となれば、あの年齢だ。無罪放免の可能性もある」
「いやいや、それは無理がないですか。アリバイトリックの件もありますよね」
「そんな事は知らないと、一貫して否認している。あの事務所に行ったのも、被害者から呼び出されたからだそうだ。事務所に入るカードキーを、母親の財布から盗み出した事は認めた。しかしそれも被害者による指示だったと言い張っている」
吉良は開いた口が塞がらないほど呆れた。
「本当ですか」
「ああ。一応あのビルへの入り方は以前母親が通っていたから、多少の操作方法は知っていたらしい。だがロックの仕方等は覚えていなかったようで、被害者を刺した後怖くなり逃げたそうだ」
「だったら何故現場にゲソ痕が残らないよう、フットカバーなんか履いていたんですか。辻褄が合いません。一久は彼女に言われて渡したと、供述しています」
「一久から貰ったことは認めていた。しかしそれは一久が以前使っているのを見て、何となく欲しいとねだっただけらしい。現場に履いて行ったのも、あの事務所はほとんど使われていなくて埃っぽいだろうから、汚れるのが嫌だと思って用意したそうだ」
「だったら電波時計の件は、何て言ってるんですか」
「あれも一久が一度は勝手にくれたらしいが、ごつすぎて似合わないからあの日の夜本人に返したと主張している。時間が狂っていたかどうかなんて、知らないそうだ」
彼に言ってもしょうがないことだが、口に出さずにはいられなかった。
「滅茶苦茶ですね。滅多刺しにしておきながら、そんな言い訳は通らないでしょう」
「だが彼女の言い分を、嘘だと証明するのは難しい。一久の話と違っている点も、あっちは高齢だから忘れているだけだと言い張っている。そう言われてしまうと、どっちが嘘をついているかと考えた時、十二歳の子にお金を払っていた人物の証言の方が、信用に欠けると判断されかねない」
淡々と説明しながらも、肩を掻く仕草が激しくなっていた。かなりイラついている証拠だ。聞いていた吉良は、怒り以上に背筋が寒くなる思いをしていた。こっちのタマがすごいと言ったのは、そういう意味だったらしい。確かに恐ろしい子に違いなかった。
彼女はまだ認めていないが、売春をしていたことは間違いないだろう。十二歳なのに自らの意志でそうした行為をしただけでなく、八十三歳の老人を手玉に取った。しかもアリバイ工作を施し、計画殺人までやり遂げている。
しかも彼女の携帯の中身を確認したところ、事件当夜に一久と待ち合わせして蔵を出るまでの二時間の内の一部、たわいない話をして一緒にいる映像が残っていたそうだ。
捜査の手が及んだ場合に備え、用意していたのかもしれない。三郷から映像を提供されなくても、二人の関係はいずれ明らかになっていたことを意味していた。
「そこまで計算していたってことですか」
「おそらくな。追いつめられた場合、正当防衛だったと主張する工作までしていたんだ」
「ここまでくると、
「有名私立の学校に入学できた位だ。両親とも高学歴だし、元々頭は良いのだろう。今回の事件が計画的である一方、稚拙な部分も見られる。彼女が犯人なら、全て理にかなう」
「被害者に呼び出された理由は、何と言ってますか」
「一久が供述しているように、二人の関係がばれた為らしい。だが二人の関係を解消する代わりに、被害者は自分と関係を持つよう脅してきたと供述している。嘘と真実を織り交ぜた、
それで今は彼しかいない理由が分かった。確かにざっと説明されただけの吉良でさえ、苛立ったくらいだ。実際目にした者にとっては、時折涙を浮かべて捜査員の質問に答えるあざとい姿が、あたかもテレビドラマで下手な子役の演技を見ているように感じたのだろう。
迫真の演技ならともかく、百戦錬磨の捜査員達からすれば明らかに嘘だと分かる
取調室ではこれまで質問した内容を、何度も繰り返し確認している。だが表情をころころと変えながら話している菜月に対し、ベテラン取調官の顔が強張っているように見えた。通常なら、取り調べを受ける側が疲労するものだ。しかし今は立場が逆転している。
これまで多くの少年少女の話を聞いてきた経験豊富な彼女でさえも、初めて味わった状況だからだろう。得体の知れない化け物と対峙しているような、引き攣った表情を浮かべている。そんな二人のやり取りを眺めながら、吉良は尋ねた。
「彼女はまだ十二歳で、少年法の刑事責任年齢に達していませんよね。少年院送致は出来るかもしれませんが、これからどうなるんでしょうか」
「それは一久が売春行為を認めた場合だ。だが殺人は、このままだと難しいかもしれない」
「そんな馬鹿な事ってありませんよ」
「明白な証拠が必要だ。事件当夜着ていた服等が発見されれば、決め手になる。被害者は何度も刺されていた。彼女は必死だったからというが、相当の返り血を浴びたはずだ」
しかし今彼女の家を家宅捜査しているが、残念ながら発見されていないらしい。盗まれたと思われる携帯と財布も見つかっていないようだ。そこで吉良は尋ねた。
「本人はそれについて、何と証言しているんですか」
「返り血を浴びた点は認めた。現場の給湯室で洗い、置いてあった洗剤で掃除もしたとの供述も、鑑識の報告と一致している。だがどんな服を着ていたか尋ねても答えない。最初から不思議だったんだ。あれだけ現場で走り回った形跡があるのに、加害者らしき毛髪が一本も落ちていなかった。そんなことは通常あり得ない」
「指紋が出なかったのは、時期から考えても手袋を嵌めていたとすれば当然でしょう。でも逃げ回ったのなら、汗とか毛が落ちていないのは不自然です」
「だから彼女は最初からそうしたものが落ちないよう、全身を覆った合羽のようなものを身に着けていたのではないかと思っている」
彼の推理に、吉良は頷いた。
「最初から殺す計画をしていたのなら、十分考えられます」
「彼女は給湯室である程度流し終わってから、現場を出てそれらを脱いだに違いない。家にないなら、現場までの間のどこかへ隠したか処分したはずだ」
「捨てたなら見つかるのでは? 燃やすか埋めるかする時間は無かったはずでしょう」
「あらかじめ穴を掘っていれば、埋めることはできる。服をどうしたとの質問には、覚えていないの一点張りだ。携帯や財布についても、知らないと言い張っている。つまりそれらの物証が手に入れば、立件できるかもしれない。だから今は鑑識が中心となって、現場から彼女の家までの間を捜索している」
恐らく捜査員も応援に駆けつけているはずだ。ここに人がいないのは、その為だったのかもしれない。彼女の腹立たしい姿を見ているよりマシだと思ってもおかしくなかった。
しかし吉良はペアの松ヶ根がここにいる限り、共にいた方が良いと判断し話しかけた。
「携帯は呼び出された形跡が見つからない為に盗んで、どこかへ捨てたのかもしれませんね。財布も入っていたお金に目が眩んだのでしょう。ただそれ等が見つかってもせいぜい、少年院送致が限度ってことですよね」
「今の刑法ではそうなる。それでも正当防衛で無罪放免させるよりかはマシだ」
そんな会話をしていた時、若い捜査員の一人が部屋に入って来た。二人がいることを確認した彼が言った。
「こちらでしたか。お二人に会って話がしたいと、三郷真理亜が本部に来ています」
「彼女が? 分かった。どこで待たせている?」
「一階の待合室です。どこか別の部屋に案内しますか」
「できれば、じっくり話が出来る会議室があれば良い。わざわざ向こうから来たんだから、何か重要な話があるのだろう」
「今なら二階の会議室が空いていたと思います。そこで良ければ、お二人がお待ちいただいている間に、私が部屋まで連れてきます」
「よし、頼んだ」
会議室が空いていることを確認した後、彼は下へ降りていった。吉良達は部屋に入り、話がしやすいように場所づくりをした後、腰を降ろして彼女が来るのを待った。
そうしている間に部屋の扉をノックする音と、先程の捜査員の声が聞こえた。
「三郷さんをお連れしました」
「入って貰ってくれ」
松ヶ根の指示に従い彼は扉を開けた。その後ろに、彼女の姿が見えた。俯き加減だったが、これまでと違って気落ちしているかのようだ。もしかすると、もう一人の人格で現れたのかもしれない。
二人は立ち上がり、彼女を迎え入れた。案内してくれた捜査員は頭を下げ、そのまま去った。松ヶ根が彼女に声を掛けた。
「わざわざ来て頂いて、申し訳ありません。どうぞ椅子におかけください」
吉良がドア側で、窓際に席を取った彼との間に彼女を座らせた。二人も腰を下ろし、少し間を置いてから彼は言った。
「私達に何か話があるようですが、どういったことでしょう」
彼女は顔を上げて言った。
「一久氏と菜月ちゃんが、取り調べを受けていると伺いました。久宗氏を殺害したのは、彼女だったのですか。一久氏はその共犯だったのですか」
吉良と目を合わせた彼は、首を振った。
「現在取り調べ中で、お答え出来ません。それよりあなたは話すべきことがあるのでは?」
単に事件の情報を聞きに来ただけなら、帰って貰うしかない。だが彼女は未だ何かを隠している。彼は当初からそれが、事件解決の鍵になると言っていた。よってその事を口にしない限り、こちらから現在の状況は教えないとの態度を見せたのだろう。
その意味を理解したのか、彼女は口を開いた。
「以前は認めませんでしたが、私は解離性同一性障害を患っております。そう一口で言っても症状は様々ですが、私の場合はいわゆる二重人格です。そうなった原因もご指摘されたように、二つの大きな精神的ダメージを受けたからだろうと、精神科医の先生より診断を受けております。今まであなた方と主にお話していたのは、主人格の三郷です。今はもう一人の私ですが、判りやすいように“マリア”とでも呼んで頂ければ結構です」
やはりそうだったのか。松ヶ根が気付いてからそうなのだろうとは思っていたものの、実際に本人の口から認める証言が出た事に戸惑った。しかも第二の人格が話をしているとの告白にも驚く、吉良の勘は当たっていたらしい。
しかし彼は、動じずに対応した。
「正直にお話頂いて、有難うございます。ではマリアさんにお伺いします。あなたと三郷さんとの間では、意思の疎通ができていますか」
「はい。今こうして話している間も、三郷の意識はあります。よって二人の記憶は互いに共有しており、もう一人が知らない間に勝手な行動をすることなど、未だかつてありません。もちろん今回の事件も、私達が関係していない事は、既に証明されていると思います」
「どう言う意味でしょう」
「先日提出したSDカードで、アリバイが証明された私が久宗氏を殺すことは出来ません。さらに今回菜月ちゃんが事情聴取を受けている事で、彼女が寺内さんのカードキーを使ったことは明らかでしょう。それとも彼女は否認しているのですか」
一瞬躊躇していた彼だが、先程と同様に首を振った。
「現在取り調べ中の内容に関して、お話することは出来ません」
彼女は少し落胆したように見えたが、直ぐに気を取り直したのか話し出した。
「私がいけないのです。アリバイ証明になるSDカードの提出をしないよう三郷を説得したから、重要参考人となり刑事さん達の手を煩わせてしまいました。申し訳ございません」
「あなたが寺内菜月を庇おうと、SDカードの提出を遅らせたのですね。決して一久が写っていたからだけでは無かった」
「はい。当初は菜月ちゃんが一久氏と良からぬ関係にあると、二人を見た瞬間から気付いていました。それが公になることを私は恐れたのです。三郷は九竜家の名誉を守る為と事件にも関係ないと判断し、同意してくれました。しかし犯行時間が一時間遅れる可能性があると聞いてから、あの二人の行動がおかしいと思いました。彼らが蔵から出た後向かった先は、彼女の家と反対にある事務所の方向でした。そこでもしかすると、事件に関係しているのではと疑い始めました。でもまさか彼女がと思ったのも事実です」
「そうですか。しかし何故今になって、二重人格の事を告白しようとされたのですか」
「菜月ちゃん達が捕まったと聞き、隠し事をしている場合では無いと気付きました。事件解決の為には、私が知り得る全てを話す必要があります。信じて頂けますか」
「もちろんです。三郷さんは何かを隠していましたが、寺内さんの件以外嘘はついていなかったはずです。同様に今のマリアさんも、そのようには思えません。お前はどうだ」
急に振られたが、強く頷いた。また演技する必要もないと考え、口調を元に戻した。
「嘘なら後で直ぐばれます。頭の良い三郷さんが、そんな事をするはずがありません。マリアさんの話も筋が通っています。寺内が苦労して産んだ菜月だから、庇ったのですね」
チャラ語を話さない吉良に一瞬戸惑っていた彼女だが、静かに首を縦に振った。
「はい。子供を産めなかった私は、彼女を守りたいと思いました」
三郷が不妊治療している際、寺内と会っていた過去について嘘をついた理由がこれで理解できた。さらに何故顧客を殺したと疑われることまでしたのかが、ようやく腑に落ちた。
そこで松ヶ根が質問をした。
「ちなみに今は、三郷さんに戻られていますよね」
言われてみれば、顔付きがまた変わっている。当たっていたようで、彼女は頷いた。
「はい。マリアが人前で表に出ることは、まずありません。私が余程追い詰められていると心配して、出てきたのでしょう。彼女は、私の過去のトラウマが生み出した人格です。そうした経緯から考えれば、ご理解いただきやすいかもしれません」
「失礼ですが、いつからマリアさんが現れるようになったのですか」
「離婚する、しないで前の夫と揉めていた頃からのようです。当初私は気づいていませんでした。しかし後に会社でのトラブル等が原因で体調を崩し、精神科に罹ってしばらく経ってから、解離性同一障害があると医師から指摘を受け初めて知りました」
「お話の中では仕事に支障が無く、意思の疎通も出来ていると言いましたね。別人格になると記憶が無い場合が多いようですが、あなた達は違うようだ」
「はい。私達の場合は過去の記憶が抜け落ちたり、異常行動を起こしたりすることはありませんでした。中には知覚の一部を感じなくなったり、感情が麻痺したりする方もいらっしゃるようですね。そうした症状が深刻で、日常生活に支障をきたす状態を解離性障害と言うようですが、厳密にいえば私の場合は当て嵌まりません。医師によればこういう解離現象は、軽くて一時的なものであれば健康な人にも現れることがあると伺いました」
「あなたの場合は私達が以前見たように、お茶の入れ方が変わるといった日常的な変化がある程度ということでしょうか」
「はい。遡ればもう二十年近くになります。その間で判ったことは、彼女が現れると何故か家庭的になり、料理などが上手くなるようです。本来の私の苦手としていたことでした」
これも医師による見解らしいが、主となる人格は知的で明るく正義感が強いけれど家庭的でないという。一方の人格は、どちらかといえば暗く物静かだけれど料理等が得意で、他人に細やかな気遣いができるタイプだと指摘されたそうだ。
真逆に近い人格が表に出るのは、心理的ストレスを強く感じた場合和らげる為の自己防衛本能が働くからだろう。そうして彼女は乱れた心を安定させてきたらしい。
しかしいつ症状が悪い方に変化する可能性も無いとは言えないので、クリニックに通い定期観察しているそうだ。
「今の所は問題ないのですね」
「はい。ですから再就職もでき、今まで大きなトラブルを起こさずに済んでいます。それにかかりつけの医師以外で、別人格に気づかれた事もあなたが初めてです」
「このことは、敏子夫人も知らないのですね」
彼の質問に、彼女は意外にも首を振った。
「いいえ。九竜夫妻には、自分から説明しました。こういう仕事をしていると、かなりプライベートな部分に踏み込まざるを得ないことが多々あります。そうした話題になった際、打ち明けた方が良いと考えお話ししました。ただこの十年の間で、あの方々が初めてです」
話を聞きながら、そんなことがあるのかと動揺しつつ吉良は納得もしていた。するとその点について彼は言及した。
「そんな特殊事情まで話せる間柄だったのですね。信頼が厚かった理由も理解できました」
「必要なら通っているクリニックから、診断書を取り寄せましょうか」
「いえ疑いが晴れていない以前なら頂いたでしょうが、もう結構です」
「という事は、やはり菜月ちゃんが寺内さんのカードキーを使ったと、認めたのですね」
もういいだろうと判断した彼は頷いた。
「はい。ですからあなたや相原さんが実行犯で無い事はもちろん、共犯の線も消えました」
「実行犯は彼女ですね。一久氏は、利用されただけではありませんか」
「何故そう思われるのですか」
「以前もお話ししましたが、一久氏が実行犯である訳がありません。そうなると、菜月ちゃんが実行犯だった可能性が残ります。小学生が相手なら、さすがの久宗氏でも油断したでしょう。それに彼女なら、家庭の事情でお金が必要だった。よって動機もあります。一久氏と関係を持ち、
「私達も同じです。しかし殺害は認めましたが、故意ではなく正当防衛だと主張している」
三郷は目を丸くして言った。
「もしかして、久宗氏に襲われたとでも?」
「はい。確かに被害者のパンツは下げられていました。しかしそれは彼女による偽装工作だと、私達は睨んでいます」
彼女の口調が、今までになく強くなった。
「久宗氏が女性を、しかも菜月ちゃんのような子を襲う訳がありません。断言できます」
「以前も久宗氏の女性関係を聞いた時、絶対あり得ないと言いましたね。何か根拠でも?」
彼女は一瞬言葉に詰まった。それでも悩んだ末に打ち明けようと口を開いた。
「久宗氏と敏子夫人の間に子供がいないことは、ご存知ですよね」
「もちろん。色々な取り組みをされた結果、断念したと聞いています」
「私も経験しているから判りますが、不妊治療はとても辛いものです。それは女性だけに限りません。男性にもかなりの精神的な負荷が掛かります。協力的だった久宗氏もそうだったのでしょう。ある時期からそうした機能が失われたと聞いています」
吉良達は意外な告白に唖然とした。司法解剖や国内における被害者の健康状態を調べた結果からは、そのような事実など見つかっていない。
「それはED、つまり性的行為ができない状態だったと言うのですか」
「はい。精子を何度も採取しながらも失敗に終わった。それがEDに繋がったのでしょう」
「だから女性を襲うどころか、子供に手を出す真似等しないと断言されていたのですね」
「はい。当時の診断書も残っています」
彼女は持っていたバックから、それを出した。どうやらアメリカの病院で出されたものらしい。どうりで日本の警察が調べても判らなかったはずだ。しかも彼女は事件が起こり九竜家へ駆け付けた際、こっそり隠したと白状した。
けれど松ヶ根は悔しそうに言った。
「これは彼女の主張を覆す証拠の一つにはなる。だが決定的なものとまではいえない。やはり犯行時に着ていた服や、持ち去った携帯と財布の行方を探さない限り、彼女の計画的犯行だったことを立証するのは難しいでしょう」
「彼女や一久氏は、何と言っているのですか」
本来ならこれまでと同じく、答えられないと首を振る所だ。しかし何か考えがあったのだろう。吉良が報告した取り調べと、自身が見た菜月の様子を説明し始めた。しばらく黙って聞いていた彼女だったが、聞き終わると思いもかけないことを言い出した。
「菜月ちゃんが妊娠している、ということは無いでしょうか。またはしていなくても妊娠したと、一久氏に告げていたのかもしれません。それを聞いて、久宗氏は一人で何とかしようとしていたのではないでしょうか。もし一久氏と関係を持っていただけなら、私が知る久宗氏ならば九竜家の名が汚れようと企業価値が下がろうと、公にすることを覚悟したはずです。松方弁護士を通じ、しかるべき対処をしていたでしょう。それをしなかったのは、子供が絡んでいたとしか思えません。それなら久宗氏の取った行動が、腑に落ちます」
「被害者は、そういう方だった?」
「はい。外聞を気にして、下手な隠蔽工作をする人ではありませんでした」
そこで彼は強く頷き、吉良に指示を出した。
「早速両方の取調官に耳打ちし、確認してくれないか。その前に一応本部の上層部には、今の話を報告しておいてくれ。もしそうだったなら、状況が変わってくる」
「了解しました」
部屋を出た吉良は、まず上司を掴まえ、彼の指示通り報告した。その後取調室へと走り、それぞれの被疑者に質問するように伝えた。
その後一久の様子がどうなるかを、隣室で待機し確認した。すると明らかに動揺を見せていた。しかし肉体関係を認めていない彼は、あくまで否定した。一方の菜月も同様で、妊娠などしていないし、そんな事を言う訳ないと答えていた。
念の為、別室にいた彼女の母親にその件を尋ねた。すると確かに今年の初め頃、初潮は迎えていると認めたが、最近生理用品を使ったばかりだという。よって妊娠してはいないはず、と証言した。
松ヶ根達のいる部屋に戻りその事を告げると、彼らは満足げに頷いた。
「一久が動揺していたなら子供ができたと嘘をつき、強請った可能性は高いな」
「寺内菜月に関しては、一応病院で検査するそうです。元々性行為をしていたかどうか、調べる予定だったと言っていました」
「そうだろうな。それよりお前がいない間に、衝撃の事実を彼女から教えられたぞ」
「何ですか」
席に座った吉良がそこで耳にしたことは、本当に突拍子もない事だった。本来ならすぐには信用できない情報だ。しかし先程見せた久宗氏の診断書の他に、その証拠となる書類が机上にあった。これも同じく彼女が隠し持っていたらしい。
内容は同じく英語で書かれていたので詳細は理解できなかったものの、間違いなく彼女の証言が嘘でないことは、同封されていた画像診断を見れば分かった。そうなるとこれまで抱えていたいくつかの謎が、一気に解ける。
この事を信用させる為に、二重人格の件から告白したのかと再度納得した。さらに吉良がいない間それぞれが持つ情報を出し合い、今回の事件の真相について話し合ったようだ。
そこで事件についての推理を見直した上で、一つの共通した結論に至ったらしい。それを聞かされ、恐らくそれで間違いないだろうと確信を持った。松ヶ根の洞察力が優れている事は十分理解していたが、彼女の推理力はそれに勝るとも劣らなかったからだ。
「申し訳ありません。もっと早く皆さんにお知らせしていれば、このような事件は起こらなかったでしょう。少なくとも長谷さんが、日香里さんを殺そうとはしなかったはずです。ただ敏子夫人が無事帰国されるまでは油断できないと、久宗氏が判断されました。当然です。万が一の事があれば、全て計画は白紙または大きく違ったものになっていたでしょう」
松ヶ根は深く頷いた。
「裏目に出た事は、とても残念です。しかし奥様が帰国されるまで公にしないと決めた判断が、間違っていたとも思えません。悪いのは九竜家の財産を狙った、浅ましい奴らです」
「この話も本部に伝えていいですか」
吉良が思わず尋ねた所、彼女は強く頷いた。
「敏子夫人が帰国できる日程は未定です。ただこうなった以上、今取調べを受けている二人には伝えた方が良いでしょう。これは奥様から承諾を得ました。またこれ以上長谷さんのような行動を取る方が出ないよう、これから九竜家の関係者にも説明するつもりです」
「あの二人も今回の話を聞けば良からぬ計画を諦め、自供し始めるかもしれない。少なくとも一久は話すだろう。彼が正直に証言すれば、寺内菜月の態度も変わる可能性が出てくる。駄目だったら現場から彼女の家の間を徹底的に洗い、物証を発見するしか手は無い」
彼女との話を終えた吉良達は、直ぐに本部へ向かい報告をした。上層部達もにわかには信じられないと、驚きを見せていた。だが確かな証拠がある。しかもこの情報を聴取中の二人に告げれば、何らかの進展が見られるはずとの松ヶ根の見解は受け入れられた。
しかもお前達で更なる自白を引き出してこいと、現在担当している取調官に代わるよう指示を受けたのだ。それだけ重要な情報を入手したと評価されたらしい。しっかり手柄に繋がる役目を授かったと言える。
吉良にとっては有難い事だった。松ヶ根と組んでいたからこそ、得られたチャンスだ。三郷が二重人格者であると見破った事や、これまでの彼女を追及する手法が鋭かっただけではない。おそらく彼の過去における経験が彼女の共感を呼び信頼を得たからこそ、手に入れることが出来たのだろう。
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