第三章 騒動

 約束通り、吉良達は月曜日の午前中には相原達の事務所に行き、関係者からスマホやノートパソコンなどを受け取った。それらを分析に回している間、新たな証言や情報を得る為、三郷達三人以外のPA社社員と接触することにした。

 その中でも吉良はチャラ男のキャラを生かし、三十五歳と年齢が近く同じ妻子持ちの八条はちじょう慎二しんじと打ち解けることができた。彼は相原や三郷と同じく、PA社の中でもPB資格を持つ社員である。

 そこで社内における二人の様子について尋ねると、興味深い話が聞けた。

「三郷さんは事務所内だけでなく、エリアの中でもトップクラスの成績を上げていますから、相原さんにとっては面白くなかったでしょうね。まあ、それは私達も同じですけど」

「それってどういう意味っすか」

「だって十年のキャリアがあるとはいえ、中途採用ですからね。しかも四十を過ぎてですよ。俺とか相原所長のような生え抜きの社員からすれば、立場が無いでしょ。実際エリアの上層部からは、彼女を見習ってもっと成績を上げろと言われています。でも俺らはあんな武器、持ってないですからね」

「武器って、あの外見の事っすか」

「そうですよ。俺達が相手をする顧客は、富裕層ですからね。若い人もいますけど、圧倒的に多いのは高年齢層です。だから若い社員というだけで、信用が落ちます。その点彼女は、顧客と年齢が近いという利点もあるでしょ。それにあの顔と話術がありますからね。スケベな爺さん達を手玉に取るのは、簡単なのでしょう」

 相原が彼女をうとましく思っていると感じていたが、どうやら彼だけではないらしい。つまり彼女をおとしいれようと考えている人間は、この会社の中だけでも相当数いることになる。それならば相原や寺内からカードキーを盗むか預かるかして、犯行に及んだかもしれない。

 その為さらに尋ねた。

「社員さんの中で、三郷さんを特に嫌っているとしたら誰っすかね。あっ、もちろんこれもオフレコっす。誰にも喋んないっすから」

 すると意外な答えが返ってきた。

「今一番嫌っているとしたら、社員じゃなくて保険会社の人かもしれないですね」

「どうしてっすか」

「所長を始め、彼女と仲のいい社員なんかいないと思いますよ。でもあの成績があるからこそ、エリアの中でこの部署全体が高く評価されているのも事実です。目の上のたんこぶではありますけど、恩恵も受けていますからね。痛しかゆしって感じですよ」

「彼女は保険会社の人と、何かあったんすか」

「これは相原所長ともぶつかる所ですけど、彼女はあくまで顧客第一主義を貫いていますからね。特定の保険会社の商品を販売することは、頑なに反対しています。それだけではないでしょうが、特に彼女が以前勤めていた会社の人とは、なるべく接しないようにしていました。それが面白くなかったのか、かなり揉めていたようです。腹を立てた彼女は、彼らに出入り禁止を申し渡したとも聞きました」

「それはなんという人っすか」

「担当者は杉浦すぎうらで、その上の沼田ぬまたという支社長です」

 彼女の前職の会社に属する人のようだが、これで彼女をおとしめようとする人物が増えた。これについては他の社員からも同様の話が聞けた為、間違いはなさそうだ。また捜査範囲が広がってしまったと頭を抱えながらも、さらに尋ねた。

「相原さんや寺内さんは、三郷さんの様に他人から恨まれるようなことはないっすか」

「所長と揉めていたのは、三郷さんが一番でしょう。確かに成績至上主義だから厳しいし、上の顔を異常に気にしているから面倒くさい人ですけど、上司ってだいたいあんなもんでしょ。このご時世ですし、表立って酷いパワハラをすることもありませんでしたから。ただ裏で所長の悪口を言う社員はいますが、彼女はそういう事を絶対口にしない人でしたね」

「そうっすか。寺内さんは?」

「俺はあんまり接する機会が無いので、よく知らないですね。所長は別でしょうけど、三郷さんも含めてPB資格保有者は、保険部門と業務内容が全く違いますからね」

 彼の口調からすると、寺内の属する旧保険代理店側の社員達とは、一線をかくしているようだった。これは保険部門の社員からも同様で、互いに見えない壁を築いているらしい。それ以上の新たな情報は得られなかった為、吉良達は別の角度から捜査し直すことにした。

 保険会社の社員については他の捜査員の手を借り、アリバイなどの証明や揉めた経緯などの裏付けをすることとなった。後に判ったが、二人共犯行時刻と思われる時間には帰宅していたようで、それを裏付ける人間は身内しかいなかったらしい。

 といっても被害者を殺すだけの動機までは、発見できなかった。三郷を恨んでいることは明らかになったが、その為に彼女の顧客を殺すかどうかとなると、疑問が残る。また彼らのどちらかが犯行に及んだとしても、カードキーを手に入れなければならない。

 彼らと最も繋がりがあるのは相原だ。しかし出入り禁止等についてやり取りしていたらしき形跡はあったものの、犯行に繋がる決定的な証拠までは掴めずにいた。また九竜家周辺や会社関係を洗っている捜査員からも、今の時点で目ぼしい報告は得られていない。

 行き詰った時は、現場百回と良く言われる。それにならって吉良達も事件のあったビルへと向かった。中に入っているテナントへの聞き込みは、他の班で行っている。それでも聞き漏らしたことはないかと、あの日の夜の最終退出者に話を聞きに行った。

 十二時に退社したという四階の税理士事務所の所長は、当日の夜駐車場に車が止めてあった気がすると既に証言している。それは後に被害者が乗っていたものと明らかになった。だから灯りは見えなかったが、誰か仕事で残っているのだろうと所長は思ったらしい。

 事件現場となった事務所は、エレベーターもない古い四階建てビルの一階だ。三階は事務機器の販売会社の事務所で二階は空室になっている。かつて一階の保険事務所が開いていた時、会議室や応接などに使っていたらしいが、今は借りていないからだという。

 この建物は近い内、新しいビルへの建て替え計画があった。そこで取り壊しが始まれば、PA社としては倉庫にある書類をどこか別のトランクルームなどへ移すことも検討中だったと聞いている。

 改めて被害者が倒れていた部屋も覗いたけれど、特に目新しいものはない。だがやはりここに立つと、何故この場所が犯行現場になったのかとの疑問が湧いた。ここでなければならなかった理由が必ずあるはずだ。吉良達はそう話し合いながら、ビルを後にした。

 後日、相原達三人のスマホやパソコンの分析結果報告を受けたが、結局長谷家の面々と繋がっていた形跡を見つけることはできなかったと知らされたのだった。



 PA社の相原所長から支社宛に電話がかかって来た為、沼田は周囲に聞かれないよう小声で会話を交わした。話が終わり、受話器を置いてから席にいた杉浦を呼んだ。

「ちょっと応接室へ来てくれないか」

 彼は表情を見て、何の件か察したらしい。何も言わず黙って後をついて来た。二人で部屋に入り、ソファに腰を下ろした沼田は言った。

「相原所長から先程連絡があった。例の件で警察が動いているから、早めにこれが欲しいと要求している。どうだ。出来そうか」

 人差し指と親指を使って丸を作ると、彼は眉間に皺を寄せて答えた。

「前倒しで欲しいってことですか。一応相談はしてみますが、担当者の一存だけでは難しいでしょう。支社長からも、口添えをお願いして頂けると助かります」

「もちろん俺からも電話で言っておく。だが面と向かってでないと、細かい事は話せないだろう。そこを君に頼みたい」

「本来は先方に入ってからでないと税金の問題もあるので無理でしょうが、それ程多い額で無ければ何とかなるかもしれません。とりあえず、どれくらい欲しいのでしょうか」

「少なくとも、これだけらしい」

 指を一本立てた沼田に彼は再び表情を歪め、念の為にと聞き返してきた。

「百、じゃないですよね?」

「当たり前だ。桁が違う」

 深い溜息を吐いた彼は、絞り出すように言った。

「何とか先方に交渉して見ます。支社長からの念押しも、お願いします」

「当然だ。ここで所長に恩を売っておけば、今後の取引にも大きく影響する。君も俺もまだしばらくこの部署にいるだろう。今の内に成績を上げておけば、次の昇進は固い。だが失敗は許されないぞ。九竜コーポレーションの契約だって、久宗氏の分は支払いで済むから営業成績に関わってこないが、まだ他が残っている。あっちも何とか引き延ばせ」

「事件が解決されるまでは、動かせないと思います。捜査が長引けば何とかなるでしょう」

「そう、これは大きなチャンスだ。乗り切れば、明るい未来が待っている。そう信じろ」

「信じていいんですね。支社長の昇進は部店長以上の評価で決まりますが、私の評価は支社長次第ですから」

「期待通りの成果を出せば、もちろん引き上げてやるさ。だから頼んだぞ」

「分かりました」

 二人はソファから腰を上げ部屋を出た。席に戻ると沼田は早速、例の件を進めるべく受話器を手に取った。こちらの様子を不安げな顔をした杉浦がじっと見ていた。先程は彼に発破をかけたが、この案件をしくじれないのは自分も同じだ。その為深く息を吸い、コール音を聞きながら相手が出るのをじっと待った。



 警察による司法解剖等が行われたことで、遺体の返却には数日程かかった。よって事件発生から一週間後の金曜日の夜、九竜コーポレーションの社葬として通夜が開かれた。

 そこには吉良達も含めた捜査員の面々が、目立たぬようそこかしこで弔問客達の表情を見渡していた。交わされる会話等に耳を傾け、少しでも事件に繋がる重要な情報を拾い上げられないか探る為だ。

 というのもこの場所には、現在挙がっている重要参考人全員が揃っていた。相原所長を始め三郷や寺内もいる。他にもPA社の社員が数名いた。九竜家の関係者だと、一久はもちろん兵頭部長や家政婦の稲川、会計監査役の由利ゆりや顧問弁護士の松方達だ。

 さらに縁遠くなったと言われている、九竜家の長女の夫だった長谷卓也や息子の智明や娘の未知留までも参列している。同じく被害者の姪に当たる兵頭日香里の姿もあった。

 ただその中で異様だったのは、最大の遺産相続人で本来なら喪主を務めるはずの敏子夫人がいなかった点だろう。事前に帰国しないとは聞いていたものの、本当に欠席するとは驚きだった。

 まだコロナの感染が収まっていないとはいえ、戻ることは可能なはずだ。しかも被害者の妻であり、現在は社長死亡による手続きも済んで新社長となったにも関わらず、である。

 その為喪主は父親の一久が勤め、補助として松方と兵頭、由利の三人が付き添う形を取っていた。コロナ禍であるにも関わらず、地元でも相当な名士が亡くなったからだろう。葬儀場は大勢の人達で溢れ返っていた。

 それを見越してか、数百名は入るだろうと思われる大きな会場が確保されたようだ。また翌日の土曜日のお昼に告別式が開かれ、火葬される手筈となっている。

 幸い雨は降っていないが、曇りで月や星が隠れていた。真っ暗闇の中で黒い喪服を着た大勢の老若男女がうごめく様子は、ある種不気味な光景だ。しかしその分捜査員達にとって、目立ち難く紛れやすかったと言える。

 吉良は松ヶ根と共に、固まって参列している相原達三人の様子を伺い続けていた。彼らの担当ではあるものの、今夜や明日は余程緊急事態が起こらない限り、事情聴取できる状況ではない。

 もちろん松方や由利など会社関係の人物を洗う班や、相続に関わる兵頭部長と娘の日香里を担当する刑事、長谷家の三名をあてがわれた者達もいる。彼らもそれぞれ一挙手一投足に注目しているだろう。

「関係者達の会話が聞こえる場所まで、近づけませんかね。人が多すぎます」

 思わず漏れた吉良の呟きが聞こえたらしい。隣にいた松ヶ根に、小声で叱られた。

「馬鹿言うな。奴らは関係者の中でも前列に並んでいる。顔バレしている俺達が、う~、あんなところまで行ける訳ないだろう。見つかって追い出されても文句は言えないんだぞ」

「それは判っています。でももどかしくないですか。こんな離れた所から様子を見ていたからって、何も情報が得られません」

「お前は黙って、周囲の話に耳を傾けて置け。俺があの三人を見ているから、邪魔するな」

 ようやく吉良は、彼の意図が理解できた。

読唇どくしん術ですね。口の動きだけで、何を話しているか分かるっていう。これだけ距離があっても読み取れますか。すごいですね」

 彼はそれ以上話すつもりはないらしく、無視したまま相原達を凝視していた。

 聞くところによると、松ヶ根は特殊な能力を持っているらしい。自閉症スペクトラムという舌の噛みそうな名前の精神障害を持つ一方、サヴァン症候群によってそうした力を備えているという。

 自閉症スペクトラムとは臨機応変な対人関係が苦手で、自分のやり方や関心、ペースの維持を最優先させたいという、本能的志向が強いことを特徴とする発達障害の一種だ。

「やや変わった人」程度で済み、問題なく日常生活を送れる人も少なくないらしい。彼がその中の一人なのだろう。イメージとしては融通が効かなかったり、少しだけこだわりが強かったりするというもののようだ。

 また言葉を用いたコミュニケーションにおいて、いくつかの特徴があるという。話し言葉が遅れたり、“おうむ返し”が多かったり、話す時の抑揚が異常だったりするらしい。彼の場合は、う~、という言葉が会話の中に入る点がそれにあたるのだろう。

 被疑者等の前だと違う一面が出る点は同じだが、吉良の話すタメ口やチャラ語は意図的だ。その為この症例にはもちろん当て嵌まらない。

 松ヶ根の場合は少し頑固でこだわりを持つと共に、人とのコミュニケーションでは女性をやや苦手としている傾向があった。それでもかつては結婚していたことがあるそうだ。しかし現在は離婚している為、そうした障害が影響したのかもしれない。

 いくつかの軽い発達障害を持つ代わりに手に入れた特殊能力の一つが読唇術であり、人並み外れた記憶力だという。現在の刑事課に配属される前は、指名手配された容疑者らの顔や容姿を写真で記憶し、雑踏の中から捜し出す“見当たり捜査”の専従班に属していた。

 そこでは短期間で顕著な実績を挙げたと聞く。正式には県警刑事総務課捜査共助係という部署だ。配属されて一年足らずの間に、九人の指名手配犯や容疑者を発見したらしい。

 そうした能力に加え、彼は聞き取った話や見た映像などは全て覚えているそうだ。例えば先日吉良が三郷の事情聴取をした際、傍らにいた彼は一見ただ聞いているだけに見えたかもしれない。だが実際は音声レコーダーに録音したり、ビデオカメラで撮影していたりする場合と同じ役割を果たしていたのだ。

 そうした反動なのか、一度聞いた他人のものを含め過去の嫌な記憶までも、全て覚えてしまうらしい。その為酷く苦しむ場合があるという。だからか時折彼は、苦虫を噛み潰したような表情をする。恐らくそうしたものを、思い出してしまう事があるのだろう。

 よって相当な成果を出したが、他人には理解できない苦労もあったようだ。そうした要因も影響してか、刑事課に配置転換されたと聞いている。それでも異動後の彼は、特殊能力を遺憾なく発揮した。次々と難事件を解決へと導き、今や刑事課のエースとなっている。

 そんな彼とペアを組むと聞かされた時は、正直小躍りした。吉良は昔から刑事になることに憧れていた。高校を卒業したら、地元S県の警察官採用試験を受けるつもりだった。けれども今の時代、大学だけは入っておけと両親に言われて一時迷った。

 警察官はハードな職業だ。万が一きつく感じ続けられなくなった後の事を考えれば、大卒と高卒の肩書では多少なりとも違ってくる。その点を特に強調されて、止む無く進学を決めたのだ。

 しかし結局卒業が近づくにつれ将来就きたい職業は何かと考えた時、刑事になりたいとの気持ちは変わらなかった。そこで警察官採用のⅠ類試験を受けたのだ。その後研修を受け交番勤務から生活安全部の少年課を経て、三年前から念願の刑事課に配属された。

 所轄とはいえ、長年の夢だった刑事になれたのだ。そこに来て県警本部の刑事課のエースと組み、事件に係われる機会に恵まれた。こんなチャンス等そう簡単には巡って来ない。

 しかも地元では有名な資産家が被害者で現場状況も特殊だった事から、全国ニュースで扱われる程の注目を集めている。これほど刑事として血が騒ぐことはない。

 その一方で心配もあった。エースと組まされ、最重要参考人三名の担当になったのだ。決して失敗は許されない。加えて三十三歳にもなってチャラ男とあだ名される自分が、松ヶ根のような気難しい人と上手くやっていけるかとかなり不安を感じていた。

 だが蓋を開けてみれば、今の所特にコミュニケーションで齟齬は生じていない。それどころか、これまで数多くの先輩方からたしなめられてきた吉良が被疑者などに使うチャラ語について、彼は気にしないどころかそれは面白いし使えると言い出した。

 一方彼がこだわる行動や変わった仕草について、吉良は全く気にならなかったからだろう。これまで能力の高さを評価されながらも、変わった人とレッテルを張られていた点を本人は気にしていたらしい。

 例を挙げると左手で右肩を掻く癖の他に、彼は靴を履く時には必ず右足からと決めている。時間を守る事にも異常なこだわりを見せ、話すテンポや相手とのやり取りの間にも、何らかの法則があるようだ。

 その為途中で口を挟んだりして乱す事を嫌い、異常に怒り出したこともある。ただそれはあくまで同僚達に対してのみの言動だ。被疑者等に言葉を荒げる事などまずない。理路整然と話しながら相手をじっと見つめることで、嘘がつき辛い空気を生み出すのだ。

 時折何か考え事に没頭しているのか記憶を辿っているのか不明だが、人の話を完全に無視する場合がある。けれど聞いていない訳ではない。その証拠にかなり時間が経って本人も忘れた頃、思い出したようにあの時こう言っていただろうと話し出す場合があった。

 けれど吉良自身にも問題があったせいか、尊敬こそすれ変人などと感じたことはない。本来なら既に警部補で四十三歳という年齢とキャリアや実績を考慮すれば、刑事課の係長クラスの管理職になっていてもおかしくない人だ。

 けれど彼の特殊性から、他の刑事達を取りまとめたりする能力には、やや難があるからだろう。また第一線にいた方が力をより発揮できる為、未だ一兵卒として働き続けているに違いない。よって吉良は、彼とペアを組めたことに感謝していた。 そうした思いも伝わったのだろう。吉良の言葉遣いを注意することがない代わりに、自分の言動を気にする事なく伸び伸びとしている気がする。さらに彼が比較的苦手とする女性相手への聴取については、吉良が前面に出ることでバランスが取れていた点も良かった。まだ短期間ではあるが、既に長年付き添ってきたと思える程息は合っていた。

 松ヶ根が相原達の会話を探っているのなら、邪魔はできない。それなら指示通り、周囲にいる参列者から漏れ聞こえてくる声に集中しようとした。そうしてしばらくしていた時、気になる言葉を拾ったのだ。

 ただ余りに人が多すぎて、そこかしこで様々な雑談が交わされている。その上通夜という場でもある為、皆声を抑えているからよく聞き取れない。勘違いなのか、それとも全く別の会社の話なのかも不明だった。

 それでもどうにか内容を知ろうと、会話をしていた集団に少しずつ近づいた。すると吉良が離れたことに、松ヶ根が気付いたらしい。スーツの袖を軽く引きながら尋ねてきた。

「どこへ行くつもりだ」

「いえ、少し気なる会話がしたので」

「どの集団だ」

「こっちはいいです。松ヶ根さんは、向こうの人達に集中してて下さい」

「いやあっちは、ここから見えない奥へ移動しちまった。だから今は大丈夫だ。気になる奴らがいるなら、う~、そっちの会話を読み取ってやる」

「だったらお願いしていいですか。声が小さいし、周りの声が混じるのでよく聞き取れませんでした。あれです。どうやら九竜の会社の話をしていたような気がしました」

「分かった。あれだな」

 吉良が指し示した集団を発見した彼は、肩を掻きながら口に集中して内容を探り始めた。こうなると吉良の出番はない。だが無駄だと理解しつつ、念の為に聞き耳を立ててみた。でもやはり良く分らない。どうしても周囲の小さな雑音が重なって、邪魔をするからだ。

 しかし彼の能力はすごかった。かなり詳細なところまで理解できたらしい。途中から話題が替わり、それ以上の収穫は得られないと悟ったようだ。それから吉良に耳打ちをした。

「確かに今の話が事実なら、興味深いな。ただあの連中は、九竜コーポレーションの取り引き先の会社関係者だ。情報の裏取りは、別の班に任せた方が良いだろう」

「やはりそういう話ですか。でもそれなら、三郷が隠している件にも関わってきますよね。だったら私達が動いたって、問題ないと思いますけど」

「それだと効率が悪い。それに割り振られた捜査範囲を超えて割り込めば、向こうの担当者の気分を害して面倒な事になる。情報を渡し裏取りさせ、顔を立てる。こっちはそれを元に彼女へ質問をぶつければいい」

「了解しました」

「しかしこれが事件に深く関わる裏事情なら、いい仕事をしたことになる。よくやった」

「たまたまですよ。それにまだ単なる噂段階かもしれませんし。余り期待しすぎると、足を救われるパターンかもしれません」

「それはいずれ判る。ちょっと離れて、無線であっちの担当班に早速伝えてみる」

「お願いします。ところでうちの関係者は、どうでしたか」

「収穫なしだ。当たり障りのない会話しかしてない」

 不機嫌そうに言い放った彼は人混みから離れ、先程得た情報を連絡し始めた。その間に周りを見渡していた吉良は、焼香がかなり進み帰り出す人達も増えて来たことに気づく。そこで戻ってくるのを待って彼に尋ねた。

「今夜はあとどれくらいいる予定ですか」

 彼も周囲の変化を感じ取ったらしく呟いた。

「これ以上人が少なくなると、俺達が目立つ。適当なところで切り上げよう。三郷はまだいるが、他のPA社の連中はもう帰った。今日動くようなネタは、他でも上がっていない」

「了解です。それに私達は焼香しませんよね」

「当然だ。今の段階で疑わしい人物達は身内かPA社など、近しい関係者ばかりだ。警察がうろついていると、下手に刺激しかねない」

「そうですね。明日の告別式も顔を出しますか」

「明日は土曜日だ。今日出席できなかった人達が来る場合もある。そうしたら、お前が得た以上の情報を耳にする可能性だってあるだろう。明日も同じような話が複数聞けたら、裏取りもしやすい。そうなれば、三郷を呼び出して話を聞く口実にもなる。前に言われただろ。捜査に何か進展があれば、話は聞きますと。それに該当すれば、協力頂ける訳だ」

 吉良は頷いた。手強い彼女を崩すには、それ相応の武器が必要だ。

「裏が取れるといいですね。後は別の班が当たっている長谷家や兵頭家について新情報があれば、もっといいんですけど」

「今のところ長谷家を調べている奴らから、特段変わった情報はない。経済的に恵まれているとは言えないが、特別貧窮ひんきゅうしてもいない。金が急に必要となった様子もないというし、第一今回だけでは一銭も手にすることが出来ない。一久が急死すれば別だが」

「そうなったら、間違いなく連続殺人を疑われるでしょう。そこまでしますかね」

「その可能性は今の所考え難い。ただ将来相続人となる被害者の甥と姪達は、父親の卓也と上手くいっていないと聞く。相続に直接関わらない立場だからこそ、子供達の為を思って犯行に及んだ可能性もある。う~、例えばもう長くはない病に罹っているからとかな」

 なるほど。長谷家の親子関係は事故を機にぎくしゃくし始め、子供達二人共が社会人になった途端父親と離れ、それぞれ部屋を借りて生活し始めたらしい。ある意味ベタな動機ではあるが、考えられなくもなかった。

 もしかすると自分の知らない間に、独自の情報網で耳にしたのかと思い尋ねた。

「そうなんですか?」

「いや、不眠症等で精神科に通院しているが、他の病院へかかっている事実はないそうだ」

 単なる可能性の一つを口にしただけらしい。けれどメンタルに問題があると聞いて、別の動機を思いついた。

「人生に悲観して自分が死ぬ前に何か子供達にしたいと思っても、おかしくないですよね」

 肩を掻きながら彼は頷いた。

「ああ。だが今のところ動機になりそうなものは、何も見つからないようだ。将来の事を考えてといっても、一久が亡くなりそうだという事情も無い。だから何故今のタイミングだったかと想像した時、殺人のリスクを負ってまでやるには危険すぎる。それにカードキーを持つ三人との接点が、現在全く見つかっていない」

 確かに彼の言う通りだ。ばれれば子供達は一生殺人者を親に持ち、そのおかげで大金を手に入れたと言われ続けることになる。さすがにそれは厳しい選択だろう。そこで同意しながら別の可能性について尋ねた。

「確かなアリバイも無いから参考人には間違いないですけど、犯人かと言われれば難しいところですね。兵頭家の方はどうですか」

 彼は首を捻りながら答えた。どうやらそちらもしっくりしないらしい。

「そっちは長谷家と比べれば、格段に経済的状況が良い。被害者や九竜家との関係も緊密だったというし、会社関係でも目立った問題はないそうだ。ただ先程聞いた噂が事実だとしたら、う~、多少なりとも事情が変わってくるかもしれないが」

 ここでまた振出しに戻った。

「でもPA社の三人と接点があるのは、三郷だけですよね。他の二人との繋がりは今の時点ではありません。ということは、やっぱり怪しいのは彼女ですかね」

「お前、取り調べしていてそう思ったか?」

 吉良は率直な感想を告げた。

「いいえ、全く感じませんでした。殺人犯独特のオーラってありますよね。それが無かったと思います。実行犯じゃなく共犯だったとしても、何らかの見返りがあるか脅されて止む無くといった場合です。そういうのも彼女とは、無縁だとしか思えませんでした」

「俺も現時点では同じ感想だ。しかし彼女が何かを隠している事は間違いない」

 どう反応が返ってくるか気になっていたが、意見が一致したことにほっとする。また彼女の強情な態度に、何かあると感じていた点も同様だった為頷いた。

「顧客からの依頼内容ですね。その話になると、頑なに証言拒否していました。私も守秘義務だけでは無い気がしていました」

「それだけじゃない。被害者の男性関係で質問した時、若干動揺していただろ」

 思いがけない問いかけに、吉良は驚いた。

「そうでしたか。気付きませんでした」

 彼は再び肩を掻きながら言った。

「夫婦仲についてお前が言及した時、う~、彼女は強く主張していたじゃないか。“断言できます。九竜社長は、奥様の敏子夫人を裏切るような行為などしません。それに、”といった時だけ一瞬言葉が詰まった。それまであらゆる質問に対し、立て板に水が流れるような受け答えをしていた彼女がだぞ。その後なんとか立て直したが、俺には不自然に思えた」

「その後って、何と言ってました?」

「“それにあの場所は元事務所ですが、今は単なる倉庫です。廃棄するまでの間、一時的に保管する書類ばかりが置かれているだけで、ソファ等もありません。しかもあのビルには、他のテナントも入っています、女性と逢引をする場所としては、相応しくないでしょう。”彼女はそう誤魔化した」

 そう言われても、正直ピンとこない。

「何となくは覚えていますけど」

「受け答えに矛盾はない。だが本当に彼女が言いたかったのは、別の事だった気がする」

「なんでしょう」

「それは判らん。女性ならではの、う~、機知きちと言うのかな。俺はそういう類に鈍感だ。女性関係に強いお前が気付かなかったのなら、相当なやり手なのだろう」

 彼でさえもまだ判然としない、掴み所のない彼女の様子を思い出しながら吉良は頷いた。

「そうですよね。あの顔で五十一歳ですよ。年上好みの俺でも、本当に引きました。人生経験からしても学歴や経歴からしても、俺が叶う訳ないって本気で思いました」

「彼女の過去を洗ってみて判ったが、なかなか波乱万丈な人生を送っているようだしな。長谷卓也と同じく、メンタルクリニックに通っていることも気になる所だ。それと彼女が、明らかに嘘をついていた事も判明している」

「別に隠す必要なんてなかったと思いますが、何かあると考えていいんでしょうか」

「どうしてかは不明だが、相当厄介な相手なのは間違いない。ただ例え犯行に関わっていなかったとしても、重要な鍵は持っていると思う。だから事件を解決する為に、洗いざらい話して貰わなければならない」

「出来る気が、私には全くしませんけど」

「こら。お前が諦めてどうする。様々な情報を集めて外堀を埋め、話を引き出すのが俺達の仕事だ。そういう意味では、最も核となる人物を担当していることを肝に銘じて置け。彼女を落とせば、事件の真相が見えてくるはずだ」

 叱られてしまったが、ここまで大した糸口さえ掴めていない。そうした現状を思い、つい不貞腐れたように反論した。

「やるだけやってみます。でも後他の二人はどうします。アリバイは確認しましたよね」

「相原と寺内が実行犯で無い事は確かだ。残るは共犯の線だが、九竜家に関する人物との接触はまだ掴めていない。ただ寺内には経済的動機がある。相原も裏事情があるか今別の班で調査中だ。何やら出てくるかもしれない」

 彼も頭を悩ましているようだ。自分だけでないと安堵した吉良は、話題を変えた。

「それは調べていくしかありませんね。ところで松ヶ根さんは事件現場を見て、今回の事件をどう思われましたか。カードキーを手に入れた被害者が、あの旧事務所に女を連れ込んだようにも見えますよね。実際スラックスは脱いでいたし、追いかけまわした足跡も残っていました。性的暴行をしようとした挙句、逆に刺されて殺されたのでしょうか」

 彼は首を横に振った。

「だが性的暴行した形跡はない。実際携帯や財布が盗まれていただろう。連れ込まれた女性が危険回避の為に誤って殺したとしたら、その点が矛盾する。つまり偽装も考えられる」

「だったら強盗目的か被害者を脅迫する目的で、犯人があの場所へ連れ込んだ。その挙句追いかけまわしたか、された後でもみ合って殺したのでしょうか。携帯は何らかのやり取りをしていたと知られないようにする為で、財布を盗んだのは強盗に見せかけたのかもしれません。ただそれだと、スラックスを脱がせた偽装の意味が判りませんよね」

「そう、色んな意味で矛盾が生じる。第一何故あの場所で事件が起きたのかも不明だ。室内を走った跡や荒らされた形跡も、一件自然なようで疑問が残る。死体が嵌めていた電波時計が壊れていたから激しく争ったとも考えられるが、それだって偽装かもしれない」

 唐突な彼の推理に目を丸くした。そうした話は、捜査本部でもまだ上がっていない。

「アリバイ工作ですか。でもあの電波時計は、そう簡単に手動で時間を狂わせられるものでは無いと、鑑識から説明がありましたよね」

「あった。だが事前に入手していれば、今はソフトを使って時間を合わす方法があるらしいから可能だ。ただそうなると、どうやって手に入れたかが問題になる。あれは間違いなく被害者の持ち物だと、家政婦や敏子夫人や一久氏も証言していた。マニアとまではいかないが、それなりの数の時計を収集していた事は確かなようだ。しかし事件当夜にあの時計を付けていたとは限らない。いつも嵌めているものでは無いとも聞いているからな」

 そこまで考えているとは気付かなかった。そうなるとやはり九竜家の内部の人間か、関係する人物が協力者じゃないと無理だ。その点を尋ねると彼は言った。

「それかどこかで、こっそり盗んだ場合もあり得る。う~、どちらにしてもそれなりに顔見知りの人間が絡んでいないと、犯行は難しいだろう」

「電波時計が偽装だとすれば、犯行時間自体も怪しくなりますよね。確か死亡推定時刻は、夜の八時半から十時半の間だと検視や解剖所見から出ていました。それが変わってきます」

「考えられるとしたら、部屋の温度だ。あの部屋にはエアコンがあっただろう。寒い夜だったが前もって部屋が暖められていたなら、体温は上昇するから死亡推定時刻が早まる。現場が八時過ぎにロック解除されていた理由も、そう考えれば納得できるだろう」

 警察学校や昇進試験を受けた際にも勉強したが、死後硬直は顎から首が先に硬直し始め、一~三時間で肩やひじ、股や膝が硬直するのが三~四時間だ。五~六時間で手足の指が硬直し、十一~十二時間だと全身が硬直する。

 死体発見が朝八時半頃で全身が硬直していた為、発見時の室温や直腸温度を測った結果、夜八時半~十時半が死亡推定時刻とされたはずだ。電波時計が壊れていた時間も十時少し前を指していた為、おそらく間違いないと捜査本部は見ていた。

 だが彼は何らかの工作が行われたと疑っているらしい。彼は肩を掻きながら話を続けた。

「他にも激しい運動をしたりすると、死後硬直が早まる。アデノシンさんリンさん、いわゆるATPと呼ばれるものが働くからだ。現場で被害者が走り回った跡が残っていただろ。暖められた部屋で激しく走ったのなら、死亡推定時刻を早めることも不可能ではない」

「そういえば推理物のアニメでも、そうしたアリバイ工作をしたシーンがありました。しかし警備員が夜中に駆け付けた時の話では、そんな事は言っていませんでしたよね」

「室内を碌に見ずさっさとロックして、ビルを出たんだ。部屋の温度なんて気づかなくても不思議じゃない。エアコンのリモコンを調べたが、タイマーにはなっていなかった。よって犯行後には切られていたのだろう。だが事前に部屋へ侵入し、温めて置いてから犯行後に消す事は理論的に可能だ。この点は改めて、確認してみた方が良いかもしれない」

 彼の推測にも一理あるが、そうなると別の疑問が浮かび上がる。そこで質問した。

「でも夜中に駆け付けた警備員がたまたま気付かず、しかも杜撰ずさんな対応をしたから翌朝になって死体が発見されただけですよね。もしそうでなかったら、、そんなアリバイ工作、すぐにばれていたと思いませんか」

「確かに計画的な殺人のように見えて、穴がある事も確かだ。電気メーターは旧式だったが、どれだけ使ったかは検針を調べて昨年以上に電力消費されているか確認すれば後で判る。エアコンだけじゃない。先程言っていた窃盗に見せかけたのか、襲われて殺したように見せかけたのかも偽装方法が曖昧だ。それ以前にカードキーを入手しながら退出時にロックしなかった点は、犯人にとって致命的なミスだと思わないか」

「そうですね。ロックされていれば、死体発見はもっと遅くなっていたでしょう。そうした方が、死亡推定時刻をもっと曖昧に出来たはずです」

「他にも疑問点がある。犯人のゲソ痕だ。被害者のものは、部屋のあちこちから見つかっている。だが鑑識の報告から、犯人はフットカバーのような物をつけていたと聞く。それらしき繊維は見つかったが、割と大量生産されている物のようだ。九竜コーポレーションが所有する物件の、内部見学で使用するものと同じだった事も確認できた。けれどネット等でも購入できる為か、出所を断定することは難しいらしい。ただそうした物を用意していたことから、最初から被害者を殺害する計画だったと思われる。だからこそ矛盾する偽装工作や退出時にロックしていなかった点が余計、不自然に感じられるんだよ」

「でも人を殺すって、なかなか特殊な事ですよね。何十人と殺してきたプロの暗殺者ならいざしらず、初めて人を殺したのなら実際やってみて、気が動転してもおかしくありません。予定に無い事を思わずしてしまったり、しなければいけないことを忘れたりしたのかもしれませんよ。フットカバーだって、九竜コーポレーションの関係者と思わせる為に同じものを用意したか、どこかで内見した際にこっそり入手することだってできます」

「お前の言う通りかもしれない。推理小説じゃあるまいし、全て理屈通りに進むとは限らないのが現実だ。その辺りも、う~、頭に入れて捜査しなければ、足元を救われかねない」

 気づくと参列者達の姿は、先程よりもかなり減っていた。これ以上居続ければ、捜査員達ばかりが残るだろう。目立って相手の機嫌を損ねれば、今後の事情聴取に支障をきたす。

 無線を通じ、そろそろ解散しろと捜査本部から指令も流れ出した。そんな時だ。しんと静まり返っていた葬儀場の奥から、怒声が響き渡ってきた。何やら揉めているらしい。数人の男達に交じって、女性の声も聞こえる。

 誰が話していたのか、声を聴き分ける能力にも長けている松ヶ根が呟いた。

「どうやら最初に一久が逆上して大声を出したようだ。会話の流れからすると、その次が長谷卓也かもしれない。兵頭や三郷の声も交じっている。松方弁護士達も加わっているな」

 三郷を含めたPA社の三人は担当となったことから、面識もあり何度も話をしているから覚えているのだろう。しかし他はほとんど会話をしていないはずだ。松方と兵頭については辛うじて、事件現場に駆け付けた際耳にした程度だろう。

 それでも遠くでの騒ぎの内容を理解できたらしい。吉良には、ワーワーとした騒音としか聞き取れなかった。松ヶ根は無線を使って本部に報告し、何やら確認を取っていた。どうやら現場に向かって良いか、許可を取ろうとしているようだ。

「あの騒ぎ方では、殴り合いにも発展しかねません。そうなれば傷害事件です。たまたま近くにいた警察官が聞きつけ、駆け付けたと言えば問題ないでしょう。向こうもおいそれと、追い払うことはできないはずです」

 同じく周囲にいた捜査員達も、中で何が起こったか気になっているのだろう。彼の意見に賛同し、状況把握の為に駆け付けるべきと主張し出した。その為本部としても抑えきれないと感じたのか、重要性を理解したらしい。

 ただ余り多くの捜査員達が駆け込むのはまずい。そう判断したようだ。

「分かった。ただし行くのは九竜家担当班と長谷家担当班、兵頭家担当班とPA社担当班それぞれ二名ずつだけにしろ。後は待機して、無線で中の会話を確認するように」

 言い終わるか否かのタイミングで、松ヶ根が走り出した。吉良もその後を追う。許可が出た他の班の刑事達も、葬儀場の奥へと向かっていた。指名された八名が親族達の集まった部屋に到着した時でも、まだ騒ぎは収まっていなかった。

 しかし刑事達の姿を見た途端、場は一気に静まり返った。それでも構わず第一声を放ったのは、やはり松ヶ根だ。外の捜査員達にも聞こえるよう、吉良は無線をオンにした。

「何があったのですか。かなり大きな声を出されて揉めている様子が、外まで響いていましたよ。誰か殴られたりして、怪我人はでていませんか」

「なんだ、お前らは。勝手に入って来るんじゃない!」

 やはり最初に発せられた怒声は、一久のようだ。彼は何人かに囲まれて宥められていたのだろう。それでもいきなり駆けつけてきた捜査員達に向かって怒鳴った。しかしそこで間に入ったのは、意外にも親族ではない三郷だった。

「何でもありません。皆様の手を煩わすような事は起こっていないので、お帰り下さい。ここは亡くなられた久宗氏を偲ぶ、お身内の方が集まる席です。ご遠慮いただけますか」

 以前は九竜社長と呼んでいたが、現在は既に敏子夫人が社長を継いだ為だろう。被害者を名前で呼んでいた。

 これまで同様、毅然とした態度を取る彼女に初めて接した周囲の捜査員達は、たじろいでいた。彼女の物言いに慣れているはずの吉良でさえ、後ずさりしてしまいそうになった程だ。けれども苦手としているはずの松ヶ根が踏ん張った。

「いいえ。問題無いと確認できるまで、市民の安全を守る警察としては立ち去れません。それにここはあなた達が借りている場所ですが、あくまで葬儀会社所有の建物です。不法侵入には当たりませんので、あなた達の命令に従う必要もありません。ただし問題がないと判れば、当然我々は引き上げます。ですから教えてください。一体何があったのですか」

 さすがの彼女も反論できなかったらしく、口を噤んだ。すかさず松ヶ根が一久に尋ねた。

「何故大きな声を出していたのですか。何か気に食わないことでもありましたか」

 誘い水に上手く乗った彼は、まだ怒りが収まらない口調で話しだした。

「ああ。大事な娘を殺し、ここ二十年近くも姿を見せなかった奴らが、今更親族面をしてここにいるのは気に食わない。さっさと帰れ!」

 その言葉に対し、横で彼の体を支え落ち着かせようとしていた松方弁護士が言った。

「一久様。興奮なさらないで。お体に障ります。それにそんな事をおっしゃらないで下さい。あれはあくまで事故だったのですし、彼らは久宗氏の死を弔う為に来られたのですよ」

「そんな訳がない。久宗が私より先に死んで高額な財産を受け取る資格が発生したと、姿を現す事でアピールしに顔を出しただけだ。その証拠に帰れと言ったら、私達にはここにいる権利を持っている、そうぬかしやがったじゃないか」

 これに長谷卓也が反論した。吉良は捜査本部にあった写真でしか、彼を見た事が無い。実際会うと小柄で貧相な体つきだ。顔色も余り良くない。それでも必死に噛みついていた。

「それは誤解だと、ご説明したじゃないですか。確かに私はもう九竜家にとって、赤の他人です。ただ権利と言ったのは、久宗さんの余りにも不幸で突然の死を悼む立場にあることを伝えたかったからです。縁を切ったと言われましても、智明や未知留があなたの孫で、久宗さんとも血の繋がった甥と姪であることには変わりませんから」

「それが嘘くさいと言っているんだ。私が先に死んだ後に久宗の葬儀があったとしたら、お前らは顔を出していたか? 俺が死んだら、多少なりとも相続される遺産が智明達にはあっただろう。しかしその後久宗が亡くなった場合、お前らに金は一銭も渡らないはずだった。それぐらいは覚悟していたんじゃないのか」

 今度は智明が反論した。彼も父親に似て、背は高くない。ただ若い分言葉に力があった。

「そんなつもりで来たのではないと、先程もお話しましたよね。二十年前の母の死があってから、こちらと縁遠くなっていたのは間違いありません。それに私や未知留は父とも疎遠になっていましたから、会うのも数年振りです。だからここへは別々で来ました」

「兄の言う通りです。父とは私が高校卒業を機に家を出た以来、六年ほど会っていません。ここへは兄と相談して来ました。それでもすごく悩みました。お爺様が私達を嫌っていることは、よく理解していましたから。それに病死や事故死なら、もしかすると来なかったかもしれません。それでも来たのは父の言うような理由ではなく、殺されたという特別な事態だったからです。ここに警察の方が沢山いらっしゃるように、私達も無関係じゃなくなってしまったからじゃないですか。お爺様方も心の中ではここにいる刑事さん達と同じく、疑っているのでしょう? 久宗の伯父様が亡くなったからと言って、直ぐに私達が遺産を手にする訳じゃないにも拘らずですよ。そうした誤解を晴らす為にも、思い切って顔を出そうと決めたのです」

 毅然と説明した未知留の言葉からは、気の強さが垣間見られた。顔写真は事前に見ていたが、実際に会うと想像以上の美しさだった。確か二十四歳で看護師をしていたはずだ。高校を卒業して、看護師専門学校の寮に入ったと聞いている。

 正式な看護師となってまだ三年目のはずだが、凛としたたたずまいからは新人と思えないほどの風格を漂わせていた。父親の卓也が持つ雰囲気とは違うため、恐らく九竜家の血を引く美形の母親に似たのだろう。

「べ、別に私は孫のお前達を嫌ってなどいない。未知留達を遠ざけたのは、こいつに殺された娘を思い出してしまうからだ。しかし言っておく。遺産についてはお前達の手に渡らないよう、久宗から引き継ぐ資産のほとんどはこれまで通り、会社名義にしておくつもりだ。そうすれば私が亡くなっても、敏子さんに全て残すことができる」

 一久の言葉に今度は、兵頭部長が反応した。

「え? 日香里もこの子達と同じ扱いですか? それは余りにも、」

 そう言ったところで、当の娘がたしなめた。

「お父さん、止めて。私には遺産なんか必要ない。三年前にお母さんが亡くなった時、十分頂いたじゃない。これ以上望んだら罰が当たるわ」

 彼女はまだ二十歳の大学生ではあるものの、未知留と同様とても大人びて見える。外見は美人というより、可愛いと言った方が当てはまるだろう。とても芯が強そうに感じられるけれど、愛嬌もある。どちらにしても、同世代の男達が放って置かない容貌をしていた。

 亡くなった被害者も、彼女をとても可愛がっていたと耳にしている。子供のいない被害者夫婦にとっても、自分達の実の娘のように思っていたかもしれない。一久にとっては唯一の孫といっていい為、大変大事にしていたと聞く。

「つまり今後の遺産相続について、揉めていたという事でしょうか?」

 割って入った松ヶ根を、三郷が厳しい目で睨みつけながら言った。

「大声を出して驚かせたことは謝ります。ただ今お聞きになった通り、あくまで内輪の話ですから、もうお引き取り頂けますか。暴力沙汰にはなっていません。警察は民事不介入が原則でしょう」

 彼は首を横に振った。

「そうはいきません。今回の事件の根幹に関わる問題かもしれませんからね」

「久宗氏は、遺産相続絡みで殺されたというのですか? 何か証拠でもおありですか?」

「証拠はまだありませんが、人を殺す大きな動機になることは間違いありません。少なくとも数億以上のお金が動くわけですから」

「ですから言っているじゃないですか。一久氏がおっしゃったように、久宗氏が持っていた資産で会社名義のものはそのままにして、敏子夫人がほぼ全て受け取ることになるでしょう。遺産相続を目的としていたのなら、そうした状況になる予測もできたはずです。つまり相続が動機であるとの根拠は乏しい。そうではありませんか」

「ではお伺いしますが、既にそうした遺言や手続きを用意されているのですか。まだ被害者がお亡くなりになって一週間しか経っていません。その間に次の被害者が出たとしたらどうしますか? それでもないと言い切れますか?」

 女性が苦手なはずの松ヶ根も、ここで追い出されてはいけないと思ったようだ。得意の論理的思考に基づいて反論していた。けれど彼女も負けてはいない。さらに口論を続けた。

「それでは次に一久氏が殺されるとでも? 久宗氏がお亡くなりになったばかりの席で、余りにも不謹慎ではありませんか」

「誰も一久氏だとは言ってません。ただ可能性をお話ししているだけですよ。それともあなたは、そうお考えになっているのですか?」

 彼の挑発に乗ったのか、彼女は若干感情的に言った。

「悪質な誘導尋問じゃないですか。あなたが相続を動機とする事件だと決めつける言い回しをし、さらなる被害者が出るような口振りでそう言わせたのでしょう」

「誤解です。しかしあなたが思わず口にしたように、今度は一久氏が狙われるかもしれない。警察として絶対それは許せません。だからこそ事件の真相を暴き、できるだけ早く犯人を捕まえたい。その為に夜遅くでもここへ集まりました。捜査員が多くいる中で、殺人を犯そうとは思わないでしょう。私達の存在は、次なる犯罪を防ぐ抑止力にもなるのです」

 彼女もこれには言い返せなかったらしく、黙ってしまった。松ヶ根はチャンスとばかりに質問を畳み掛けた。

「ところで一久氏が大声を出されたのは、長谷さん一家を追い出そうとしただけですか。それにしては長い間、言い合いをされていましたね。他に何かあったのではありませんか」

 確かに出て行けと怒鳴っただけにしては、騒ぎが長い気がする。長谷家の面々が先程のように言い返しただけなら、自分達が駆け付ける間に治まっていてもおかしくない。

 すると彼の指摘が的を射ていたらしく、集まっていた面々の顔に緊張した様子が見られた。改めてS県警エースの洞察力に感心すると共に、相手がどう答えるか吉良は注目した。

 しばらく沈黙が続いた後、松方弁護士は観念して口を開いた。

「いずれ後で判る事なので、お話ししましょう。発端は先程言っていたように、一久様と長谷家との口論でした。しかしその後私が余計な事を言った為に、皆様が動揺されて騒ぎが大きくなったのです」

「それはどんな発言ですか」

 彼は何故か三郷の方をちらりと見た。話していいのかを確認するような仕草に、違和感を持つ。彼女は無表情のまま軽く頷いた。そこで覚悟を決めた松方が、説明し始めた。

「一久様が長谷家には資産を残さないとおっしゃられた後、久宗様も同様のお考えだっただろうと、私に同意を求められたのです。その時、こうご説明いたしました。確かに以前までは、一久様がお亡くなりになられた後に久宗様が亡くなれば、相続人は敏子夫人と智明さん達や日香里さん達になります。ただ姉妹の代襲相続には、遺留分が認められていません。よって久宗様は長谷家のお二人には残されないおつもりでした。また万が一ご自分が一久様より先に亡くなられたら、遺産の三分の一が一久様に渡ってしまう。そうなると甥や姪への代襲相続の遺留分は認められてしまいます。よって一久様への遺産を無くし、全財産を敏子夫人にだけ残すおつもりでした。この事は一久様も薄々ご存知だったと思います。現にそう書かれた自筆証書遺言を、最近まで法務局に預けておられました。ですが実際に知っていたのは、敏子様を除けば私と三郷さんだけです」

 ここで三郷が追加で説明した。

「二〇一九年の法改正で、自筆証書遺言についての制度変更がありました。その中で二〇二〇年七月から、法務局で保管できるようになったのです。そうしておけば自宅で管理するよりずっと確実で、遺言を有効にする際に必要な家庭裁判所の検認手続きが不要となります。よってこれまで数週間ほどかかっていたものが、時間をかけず相続手続きを始めることができる為、久宗氏はそうしていました」

「最近まで? ということは、直近に書き直されたということですか?」

 驚くべき事実だ。被害者が殺される直前に遺言書を再作成していたとなれば、事件に大きく影響していた可能性が急浮上する。しかし返って来た答えは、想像の斜め上だった。

「いいえ。単に破棄されただけで、再作成されたとは聞いていません。つまり久宗様が亡くなられた今、遺言書は存在しないのです」

「どういうことですか。遺言書を書き換える前に亡くなったのですか」

 松方は首を横に振った。

「その表現は正確ではありません。新たに作成された遺言書と、差し替えるのが通常の手続きです。しかし久宗氏はそうされず、ただ前の遺言書を撤回したいと言われました。そこで法務局に赴き手続きをし、遺言書を回収しました。するとあの方は私と三郷さんの目の前で、破り捨てたのです。その後再作成はしていません」

「それは本当ですか?」

 松ヶ根が三郷に尋ねた。先程松方弁護士が彼女の顔を伺ったのは、こういう事だったのか。吉良はここでようやく納得した。しかしその意図する先が判らない。よってどう答えるか、耳をそばだてた。けれど彼女はさらりと一言だけ口にした。

「本当です」

「どういうことなのか、説明してください」

 彼が持った疑問は、どうやらここにいるほとんどの人が感じていたことらしい。一久も含め、あちこちで声が上がった。

「そうですよ。教えてください」

「何故説明してくれないのですか」

 どうやら騒ぎが長引いていた理由は、ここにあったようだ。しかし彼女は、もう何度もお話ししたでしょうという態度を取りながら言った。

「説明も何も、私は立ち会っただけです。相続上の法律の観点からいえば、特別な遺言書を残されなかった。よって法定相続通りになるとしか、お答えようがありません」

「それは基本的に甥や姪に残さないつもりだった考えを変えた、という意味ですか?」

 強く問いただした松ヶ根だったが、それも軽くあしらわれた。

「亡くなられた久宗氏のお考えがどうだったかなど、私に語る資格はありません。松方弁護士も同様でしょう。あるのはただ残った現実だけです。久宗氏は遺言を残されないまま、お亡くなりになられた。それだけです」

 しかし彼はしつこく食い下がった。

「それでは説明になっていない。破棄されたのはいつの事ですか?」

「二カ月ほど前です」

「その事を知っているのは、お二人だけですか?」

「もちろん敏子夫人もご存知です」

「他には誰も知らなかった。間違いないですね?」

「少なくとも私は、今の今までこの件について誰にもお話したことはありません。刑事さん達からしつこいほど事情聴取を受けましたが、言いませんでした。そうですよね?」

 これには吉良達も頷かざるを得ない。やはり彼女は思っていた以上の事を、我々に隠していたようだ。おそらくもっと他にも黙っている重要な事があるに違いない。だが彼女の口を割るには、令状などそれ相応のものが無ければ無理だろう。

 すると松方弁護士も、首を振りながら言った。

「もちろん私も口外はしていません。久宗様がお亡くなりになられた今だからこそ、お話しできるようになったのです。死後の財産分与についてご説明しなければならない立場ですから。ただ三郷さんがおっしゃったように、何も残されなかったことから法定相続通りに進めるだけとしか、お伝えすることはないのです」

「敏子夫人が、どなたかに話された可能性はありますか?」

「それはまずあり得ません。海外の病院にいらっしゃるあの方とお話しできるのは、ごく限られた方だけです。最近では久宗様と私と三郷さん、仕事関係で由利監査役が多少あった位です。他の方に何か伝えると言った事は、まず無いと断言しても良いでしょう」

 ここで三郷が同意した。

「それは私も保証します。第一敏子夫人が、相続に関して私達以外に話す必要などありません。それにこれは久宗氏ご本人が決められ、奥様もそれに同意されただけなのです」

 遺言書の破棄に立ち会った二人がそう言うのなら、間違いないのだろう。それでも松ヶ根は質問を重ねた。

「この事実を知っているかどうかは重要な事です。それを何故今まで黙っていたのですか」

「お話しする必要が無かったからです。それに時が経てば、今のようにいずれあなた達の耳に入ったでしょう。だからといって、それが事件の捜査に影響すると私には思えません」

「何故です? 本来なら遺留分が無かったはずの者が知っていたなら、犯行に及ぶ動機になるとは思いませんか」

 彼女は静かに首を横に振った。

「思いません。何故なら知ったからといって、直ぐにお金が手に入る訳ではありませんから。それに一久氏が久宗氏の遺志を継いで相続分を全額放棄または会社に寄付すれば、代襲相続分すら発生しません。自分への相続分が無いだろう事は、一久氏も気付いたでしょう。それとも破棄されただけで書き直していない事を知り、今の内に久宗氏を殺し続いて一久氏も殺せば、莫大な遺産の分け前を得られる。そう犯人が思ったとでも言うのですか?」

「無いとは限らないでしょう」

「だったらその犯人は少なくとも、相続放棄手続き期限である三か月以内に一久氏を狙わなくては意味が無くなります。警察はそうならないよう見張っていれば、いずれ網に引っかかるでしょう。ようするに、遺言書が破棄されていようがいまいが、刑事さん達が長谷家の皆さんや兵頭部長達を疑っている以上、同じ事ではありませんか。一久氏が亡くならないと、何の得にもならない。もちろん私や松方弁護士が共犯で、成功報酬を約束されていたとしても変わりませんよね」

 彼女の言う事にも一理あった。しかしその事実を事前に知っていたかどうかは、犯行を実行に移す為の大きなきっかけになった可能性がある。捜査に影響はないにしても、長谷家や兵頭家の犯行を疑う強い材料になることは否めない。特に長谷卓也などがそうだ。

 それに共犯説を疑えば、カードキーを持たない松方弁護士より彼女の方がより怪しくなる。それでも彼女の揺るぎない自信に満ちた姿から、お金の為に顧客を殺す計画に手を貸すとは思えなかった。経済的にも恵まれている事は裏付けが取れている。

 考えられるとすれば、久宗と男女の関係があってもつれたのではないかとの見方もあった。しかし彼女が取り調べ中に放った、

「九竜社長は、奥様の敏子夫人を裏切るような行為などしません」

との言葉に、嘘は感じられなかった。それに顧客と、そういう仲になれるタイプでもない。

 さらに彼女は続けた。

「久宗氏が亡くなっただけで、得をする人など誰もいません。強いて言えば一久氏だけと思われるでしょうけど、アリバイがありましたよね。それ以前に動機がありません。以前お話ししたように、一久氏が持っていた資産を長年に渡って会社に譲渡し、久宗氏が引き継げるようにしたのはご本人です。それを今更手に入れる為に殺すだなんて、本末転倒でしょう。それとも一久氏と久宗氏との間に、何かそうなる程の問題があったとでも?」

 これには一久本人が、強く否定した。

「そんなものがある訳ないだろう! それに私はあの日の夜、車で出かけていたことはドラブレコーダーで証明されているはずだ」

 アリバイは確かにあった。しかし彼女がいま口にした、何かそうなる程の問題が二人の間にあったと考えれば話は変わってくる。九竜家担当ではない為、その点を掘り下げ情聴取する事はできない。だがもし担当なら、突いてみたら面白いかもしれないと思った。

 それでもさすがの松ヶ根も担当班の刑事がいる目の前で、その事を口にする訳にはいかなかったのだろう。しかもあくまで彼は被害者の父親であり、ここは通夜の葬儀場だ。そんな時に下手な事は言えない。

 けれどもこのまま追及できないまま終われば、今日の所は追い返されてお終いだ。しかしこれだけ関係者が一堂に集まる機会などそうは無い。さてどうするつもりかと、吉良は松ヶ根の背を見つめた。すると彼は意を決したように、深く息を吸ってから大きく吐いた。

 そこでいきなり先程掴んだばかりの、まだ裏の取れていない情報をぶつけたのだ。

「それではお聞きしますが、先程参列している間に興味深い話を耳にしました。どうやら九竜コーポレーションは、身売りを考えていらっしゃるとか。それも今回の被害者の死よりもっと前から、話が進んでいるそうですね。それは本当ですか」

 吉良が気付き、彼が得意の能力を発揮して得たばかりのものだ。この裏取りをするよう、会社関係を担当する班に情報を流し指示していた。それなのにここで直接質問をするとは思っていなかった吉良は、思わず近くにいた担当刑事達の表情を伺った。

 彼らも驚きの余り、口を半分開けて固まっていた。当然だろう。しかし元々は吉良達が得たネタだ。それを担当している三郷相手に使ったとしても、責められる筋合いはない。それにここで相手の反応を見てから裏を取っても遅くはないだろう。

 それどころか、もっと有益な情報が得られるかもしれない。しかも今ここには容疑者に挙げられる人間が、ほぼ全員と言って良いほど揃っている。このチャンスを逃す手は無かった。それほど貴重な場面であることを、他の捜査員も理解していたようだ。

 目を丸くしたものの、どういった答えが返ってくるか、興味津々といった顔で皆が目を輝かせて成り行きを見守っていた。

 九竜家側に立つ面々も、初めて聞くものばかりだったらしい。本当なのかと戸惑っているのが判る。兵頭部長や松方弁護士までもが、三郷の方を凝視していた。唯一異なった態度を取っていたのは、由利監査役と三郷だけだ。

 つまりこの噂は本当で、彼らだけが知っていたのだろう。それでも彼女は惚けた。

「そんな噂が立っているのですか。困ったものですね。恐らく私が九竜家や会社全体の資産を把握し、管理運用を任されていたのであちこちで色んな話をしたからでしょう。そう誤解された方も、いらっしゃったのかもしれません」

「本当にそれだけですか?」

 松ヶ根のさらなる追求に、彼女は言葉を付け足した。

「今会社が所有する資産を買い取るとすれば、いくら支払いますかという質問をした事は確かです。それもあくまで現在の市場価値を、できるだけ厳密に計算する為でした。後どこの部門で、どれだけの採算が取れているか等も調査しています。私が持つPBという資格ではFPとは違って家業や事業を診断し、資産運用だけではなく事業の拡大や会社全体の資産保全について提案するのが仕事です。様々な角度から情報を集めて分析し、顧客が求められる投資政策書等を作成しなければなりませんから」

「つまり会社の売却話は、事実でないとおっしゃるのですね」

 しかし彼女は彼の質問に答えず、淡々と言った。

「私には守秘義務がございます。久宗氏が亡くなられた後も敏子夫人が社長となられ、会社の株や九竜家の資産の多くを保持することには変わりありません。引き続き敏子夫人の依頼で業務を続けておりますので、これ以上のお話は差し控えさせていただきます」

 近くにいた由利監査役だけが、深く頷いていた。しかし兵頭部長は自らが勤める会社がどうなるのか、また今の地位が保障されるのか危惧きぐしたのだろう。彼女に詰め寄った。

「本当に噂だけですか? もし身売りとなったら、私や他の社員はどうなるのですか?」

 それでも彼女は冷静だった。

「御社の経営や財務状態はとても健全で、問題ありません。それどころか今の世の中の流れは、働き方改革が叫ばれている時です。社員の皆様達を整理するどころか、コロナ禍の影響も少なく働き手が不足している状況は部長もご存じでしょう。ご心配には及びません」

 それでも彼は納得しなかった。

「本当ですか。雇用は確保されても、現在の地位や給与が維持されるとは限りませんよね」

 しかし彼女の答えと態度は変わらない。

「ご安心ください。会社の業績は右肩上がりです。それに企業形態から考えて、久宗氏が亡くなったことで大きく揺らぐ心配もありません。それにもし仮にどこかの企業が買収を仕掛けたとしても、社員達が不利になる条件で売却することを、敏子夫人が許すはずがないでしょう。その事は幹部の皆様なら、十分ご理解されているのではありませんか」

 これには兵頭も頷かざるを得なかったのだろう。それまでの不安げな表情が、徐々に消えていった。そこに畳みかけたのが由利監査役だった。

「三郷さんがおっしゃった通りです。実際社長が交代したばかりでさらに不在の今、何の懸案事項もなく業務遂行できているのが何よりの証拠ではありませんか。兵頭部長を含め各部署の責任者の方々が、しっかりと会社を支えていらっしゃいます。葬儀は多くの方々が参列され、とても混雑していました。だから時間潰しの為に、そのような事を口にした人がいたのでしょう。それを警察の方々が、先程聞きかじっただけではないですか。そんな噂に惑わされることはありません。それとも何かしっかりとした確証でもおありですか」

 松ヶ根は仕方なく首を横に振った。裏取りはこれから行う予定だったのだからやむを得ない。彼の反応を見て、周囲にいた会社関係の人達は皆安堵の溜息を吐いた。

 それでもここで終わらせないのが、県警のエースたる所以なのだろう。話を別の方向に逸らして続けた。

「それにしても、兵頭部長の焦り振りには驚きました。部下達の雇用を懸念するのは、責任者として当然でしょう。しかしそれ以上に、自らの地位や給与が下がることを恐れていたようにお見受けしました。何かご心配な事でもおありですか。久宗氏と生前、現在の立場について揉めていたのでしょうか。そういえばお二人は幼馴染の同級生で、今年還暦を迎えられたばかりだ。多くの企業だと、定年退職になっていてもおかしくありませんよね」

 分かりやすい程動揺を見せた兵頭が、何か言い返そうとした。だがその前に由利が言った。

「わが社では高年齢者雇用安定法の改定を受け、管理職の定年を六十五歳に引き上げました。その他の役職は、継続雇用制度を導入しています。よって兵頭部長の定年は五年後となります。おかしなことを言わないでください」

 確かに法律の改定で、六十五歳未満を定年としている事業主は、雇用する高年齢者の六十五歳までの安定した雇用を確保しなければならなくなった。

 その措置は定年の引上げか、現に雇用している高年齢者が希望する時は、当該高年齢者を定年後も引き続いて雇用する継続雇用制度を導入するか、または定年の廃止のいずれかを講じなければならなくなっている。

 だが九竜コーポレーションの制度について、松ヶ根は既に知っているはずだ。それなのに何故意図的にぶつけたのか、吉良には不明だった。けれど決して無意味で無かったことは、その他の幹部達の反応からして明らかだった。

 それにしても兵頭だけでなく、他の管理職の面々までもが落ち着きのなさを見せたのは、どういう事だろう。吉良は彼の発言が、想像以上の波紋を呼んだことに首を捻った。会社関連の捜査担当班の二人も、眉間に皺を寄せている、同じく疑問を感じ取ったらしい。

「そうでしたか。それは失礼しました。それにしても当のご本人だけでなく、他の幹部の方々までが不安げな表情をされているのは何故でしょう。それはおいおい担当の捜査員達が、後日改めてお伺いするかもしれません。ですが給与に関してはいかがですか。雇用は確保されても、給与形態の変更は可能ですよね。もしかすると、給与の減額を打診されたなんてことはありませんか」

「そういった事実はありません。確かに管理職の定年を引き上げた時点でその後の給与などは、業績や社内における評価制度に基づいて変動することをうたっています。しかし会社の業績は順調ですし、各管理職の中で大きく評価を下げられた者などおりません。これも調べて頂けばわかる事です。勝手な憶測で人を疑うのは止めて頂けますか」

 由利の強い抗議を受け、これ以上の詮索は困難と感じた。松ヶ根も頭を下げて一旦は引き下がったかのように見えた。しかし彼はさらなる別方向へと質問を飛ばしたのだ。

「申し訳ありません。噂話は止めましょう。ところでこの場に敏子夫人がおられないのは、やはり不思議です。本来なら喪主で、しかも久宗氏に代わって社長になられた。海外の病院にいらっしゃると伺っていますが、帰国できない程お加減が悪いのでしょうか」 

 これは一人を除く全員が持っていた疑問だったらしい。皆が一斉に三郷の顔を向けた。由利や松方さえ知らされない情報を、何故か外部の人間である彼女だけが知らされている状況に、不快感を持つ人達もいた。それでも彼女は、平然として表情を変えずに答えた。

「刑事さん達にも何度かご説明しているでしょう。社員の方々には、敏子夫人自らが発したメッセージ映像をお見せしています。直接お話になられた方もいらっしゃいますよね」

 周囲にいた多くの人達が頷いた。九竜家担当の捜査員から、テレビ電話を通じて海外にいる彼女と会話して事情を聴いたとの報告は吉良達も受けている。一部の幹部も同様で、それ以外の社員には動画を流して視聴させたとも聞いていた。

 その事を知った上で、松ヶ根はせっかく得たチャンスを逃さまいと思っているのだろう。少しでも長くこの場に居続けようとして、話題を長引かせているようだ。

「もちろん承知しています。ただこちらに戻られない理由が今一つ判りかねるので、お聞きしたまでです。あなたのお話でも、お二人はとても愛し合っていらっしゃった。その相手が刺殺されたのですよ。海外の病院にいるとはいえ、重病ではないとご自分でもおっしゃっている。それなのに何故帰国されないのか。私達が疑問を持つのは当然でしょう」

「奥様ご本人も涙ながらにおっしゃっていましたが、駆け付けたい思いはお持ちです。それでも帰国しないと決断されたのは、亡くなられた久宗氏のご意志を尊重しての苦渋の選択でした。あの方は奥様の体を何よりも優先するようにと、言い続けていましたから」

「でも重病ではないのですよね。コロナに感染することを、恐れているということですか」

 彼女はこれまで何度も見せたように、ため息を吐きながら答えた。

「何度もお伝えした通りです。ただこれ以上申し上げる事を差し控えます。極めてセンシティブな個人情報に当りますので、そこはご理解ください」

「それだけ重要なプライバシーに関する事柄を、何故身内でもないあなただけがご存じなのでしょうか。あなたは四カ月前に、九竜夫妻から仕事を依頼されたばかりですよね」

 この質問の答えは、誰もが知りたがっている。その為皆が息を呑んで見守っていた。そうした圧力とも思える空気を察しながらも、彼女は全く揺らがない。

「それもこれまで繰り返しお話ししてきたように、久宗氏と奥様のご判断です。私に聞かれてもお答えようがありません。ただ一つ言えることは、時が経てば皆様にもお知らせできることです。それまでの間、私は口を噤みご無事を祈ることしかできません」

「いつまで待てば、教えて頂けるのですか」

「奥様が帰国すれば、判るでしょう。後は病院の医師による許可が、いつ下りるかどうかです。それでも一年以上先になることは、ないと思われます。早ければ数ヶ月以内に退院される予定だと伺っております。ですからもう少しだけお待ちいただけますか。それともそれ以上早く知らなければならない理由が、何かございますか?」

 そう言われてしまえば黙るしかない。被害者が死亡した前後に入出国した形跡はない為、敏子が今回の事件に直接係わっている可能性は低かった。間接的に誰かに指示したとしても、その動機は不明だ。夫婦仲に問題があったとの情報は未だ掴めていない。

 何かあったとすれば、共犯の最有力候補は三郷だろう。しかし彼女が実行犯だと断定できる証拠や、更なる共犯者がいることも同じく押さえられていなかった。

 どうやらここが潮時だと判断したらしい。松ヶ根は他の捜査員の顔を見渡した後、引き上げざるを得ないと知らせるように頭を下げた。

「判りました。お邪魔して申し訳ありません。あなた方の揉め事も、我々が関与する必要は無さそうなので退散します。お通夜は故人を偲び語り合う場ですからね」

「そうしてください」

「それでは失礼します」

 そう言って踵を返した彼の後に続いて、吉良や他の捜査員達も場を去ろうとした。だが彼は突然振り向いて言った。

「一つだけ言い忘れていました。どうやら今回の事件の犯人は、被害者の死亡推定時刻をずらそうとしたようです。なので皆様にこれまで伺った事件当夜の行動を、改めて聞き直さなければならないかもしれません。明日の告別式が終わった後で結構ですからご協力頂けますか。ただ念の為明日も我々の何人かは顔を出す予定ですが、今日のようなトラブルが無い限り、お邪魔することはありませんのでご安心ください。では失礼いたします」

 最後の捨て台詞ぜりふは、一部の人達を狼狽させるのに十分な効果があったようだ。背後でざわめいている声が聞こえた。そこで吉良はチラリと三郷の表情を盗み見た。しかし彼女は眉間に軽く皺を寄せていたものの、微動だにせず誰とも会話を交わしていなかった。

 どうやら彼女の心を乱すまでには至らなかったようだ。それでもこれまで難航してきた捜査において、何らかの動きが見られる予感がした。吉良は松ヶ根の取った行動や発した言葉の重要さを理解し、改めて舌を巻いたのだった。


 長谷卓也は二十年前の事故を思い出していた。それまでは本当に幸せで裕福だったのに、一瞬の油断が家族の人生を狂わせた。

 もちろん智美とは、九竜家の娘だから結婚した訳ではない。彼女を愛し、愛されたからこそ智明や未知留が生れたのだ。それなのに大切な妻を自らの過ちで亡くし、職まで失った。さらに九竜家には縁を切られ、子供達からも疎まれてしまった。

 銀行員の立場を無くしたのは、自業自得だ。それでも清掃業者の正社員に採用されただけでも、幸運だったと思っている。経済的に苦しい時期もあったけれど、子供達が二人共自立してからそれなりの生活はできるようになった。

 それでも時折、事故を起こした瞬間がフラッシュバックする。そうなると眠れなくなる為、病院へは通い続けていた。

 もうすぐ還暦を迎える卓也だが、それぞれの人生をしっかり歩む子供達の姿を見られただけで、もう満足だ。自分にはこれ以上長生きしても、幸せな事など何も待っていない。ただ漠然と生き続けるだけだ。それなら早くあの世で妻に会いたかった。

 しかし死ぬ時は絶対、子供達に迷惑をかけるつもりはない。だから自殺だけはできなかった。静かにコロリと死ぬことさえ出来れば、そんな有難いことは無い。ただ欲を言えば、それまでに何か一つだけでも、子供達の為にできないかと考えた事がある。

 もしその願いが叶うなら、自分はどうなってもいい。妻を殺してしまった罪を償うことができるのならば、何だってやる。例え嫌われ続けていても、あの子達は彼女との間に出来た愛の結晶である事に変わりない。

 卓也はこの二十年間、そう思い続けて来たのだった。



 三年前に妻の雅子を病で亡くした時、忠は目の前が真っ暗になった。一人娘の日香里はまだ高校二年生だというのに、これからどうするのかと頭を抱えた事を覚えている。

 だが娘は自分が思っているより、ずっと大人だった。辛く悲しい思いをしただろうが、希望通りの大学に無事合格し、今は忙しく働いている自分の為に家事を手伝ってくれている。父親想いの娘に育ててくれたのは、何と言っても妻のおかげだ。

 父親というものは、いざとなれば何もできない。経済的に支える柱であることだけが唯一の存在意義だった。しかし妻の死により九竜家からもたらされた贈与の金額は、忠が一生働いて得られるだろう収入を軽く超えていた。

 もちろんお金はいくらあっても困らない。それどころか妻と同じく自分に万が一の事があれば、まだ社会人にもなっていない娘を一人残すなんて、心配でしょうがなかった。けれど九竜家のおかげで、そうした懸念はない。

 二十年前に長谷家と縁遠くなってから、義父は日香里を唯一の孫のように可愛がってくれた。幼馴染で義兄の久宗が子宝に恵まれなかった為、彼らからも子供同然の扱いを受けて来た。よって日香里の将来は、自分がいなくても会社が雇ってくれるから安泰だろう。

 ただ唯一気がかりな点と言えば、最近久宗夫妻の様子がおかしい事だった。副社長の敏子夫人が突然海外に行き、しばらく帰国しないと聞かされた時は驚いた。その上重病では無いとは言え、滞在先は病院だと聞いたから尚更だ。

 そんな中で、突然三郷という年齢不詳の女性が現れた。しかも会社を含めた九竜家の資産管理と運用を依頼したと言うから、愛人でも出来たのかと疑った時期もあった。けれど敏子夫人からの信頼も厚いと知り、油断していたのが間違いだった。

 あんな事が起こってしまったのは、全て久宗達が私を含めた部長クラスの面々に内緒で動いていたからこそだ。彼がいなくなった後の会社を支えるのは、自分しかいない。日香里の為にも、守らなければならなかった。そう忠は信じていた。



 葬儀を終え久宗の遺体を目の前にして、一久はあの晩の事を頭に思い浮かべていた。あの三郷という女が、蔵の傍の駐車場にいたらしいと刑事から聞かされた時は衝撃の余り言葉を失った程だ。しかしその後、彼女は気付かなかったと証言していると聞き安堵した。

 そこから夜に車で出かけていることが久宗にばれ、注意された時の事を思い出す。あれが全ての発端だった。一時は脳梗塞の影響で麻痺が残ったとはいえ、懸命なリハビリの結果ここまで回復できたのだ。それは全て自らの努力が実ったからではないか。

 それを考慮しないで頭ごなしに高齢者の事故が多発し、社会的問題になっているから免許を返納しろと言いだした時は決して許せなかった。一久のこれまでの行動全てを否定したと同じだからだ。

 しかも資産運用等を依頼したという良く知らない女が、リスクマネジメントの観点からそう忠告していると聞いて、余計に腹が立った。大きな病にかかり、とっくの昔に会社を譲り隠居し八十を過ぎたとはいえ、今は元気になったのだ。

 それに私は三人の子に恵まれたが、あいつは産めなかった。そんな奴に命令などされたくない。今は人生百年時代に突入している。そう考えれば、自分もまだまだこれからだ。新たな子供を産み、その子が二十歳の成人式を迎えるまで生きることだってできる。

 妻だけでなく娘を二人亡くしたが、見方を変えればそう悲観することは無い。その事を教えてくれたのが、あの子だ。私は彼女と出会って人生が変わったと言える。もちろん人から見れば、馬鹿な事をしでかしたと非難するかもしれない。実際そう言われた。

 だが私は認めなかった。老いてはいるが、この世に男として生を受けた限り謳歌おうかする権利がある。その信念が揺るぐことは無かった。

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