第七章 計画実行
和美の家へ、久しぶりに徹が訪れた。彼の脱いだコートを預かり、ネクタイを外してあげる。持っていたハンドバックを脇に置いた彼は、ソファに座りくつろぎ始めた。
きちんとした身なりをしている様子から、昼間はスリ師として動いていたのだろう。和美はいつも通りコートとネクタイを所定の位置に片づけ、スウェットと厚手のガウンや靴下を出して彼に渡した。
最近はめっきり少なくなったものの、この家に泊まってそのまま仕事に出かける場合がある。その為下着やルームウェアからスーツやネクタイまで、彼が身につけるものは一通り置いてあった。
着替え終わった彼は、煙草を取り出した。テーブルには既に灰皿と備え付けのライターも準備している。和美は吸わないけれど、彼が訪れた時はできるだけ居心地が良いように努めていた。もちろんそれが自分の役目であると、十分理解している。
脱ぎ捨てられたスーツやシャツなどを拾い上げ、
「お風呂が沸いているけど入る? それとも先に何か食べる?」
「風呂を先にするよ。上がったら何か出してくれ。あと飲み物もな」
「ワインでいい? 冷たい水は?」
「今日は冷えたから、ワインだけでいいよ。簡単に摘まめる物も一緒にな」
「ナッツとチーズでよかった?」
「ああ。それよりその手はどうした。怪我でもしたのか」
和美の右の手首から指の先まで巻かれた包帯を見て、彼が尋ねた。心配しているというより、気になったから一応確認した程度のトーンだ。その為心の中でため息をつきながら答えた。
「軽い火傷よ。うっかり熱い鍋の蓋を素手で持っちゃったの。でも大したことないから」
「そうか」
案の定、彼は既に聞いたことすら忘れたかのように煙草をふかし始めた。一服し終わると立ち上がり、風呂場へと向かった。
その間に和美は先程指示されたものをテーブルにセットし、食事の準備を行う。ここでいつもなら、今夜彼が泊ってくれるのだろうかと気を揉むところだ。
しかし今日は、四つだけ済ませられれば十分である。もちろん朝まで一緒にいられるのなら尚いい。だけどそうならなかった時、落ち込むのは
泊まらずに帰るのなら、それは良子がいる家に向かうことを意味する。だから余計に忌々しく思うところだが、そこは口に出さず我慢しなければならない。
それでも風呂から上がり、ワインに口をつけ始めた彼に尋ねずにはいられなかった。
「今日はゆっくりしていける?」
しつこくねだるような口調にならないよう気を付ける。帰って欲しくない、あの女の所へ戻らないでくれといったあからさまな態度を取るなんて、和美のプライドが許さなかったからだ。
すると彼は軽い調子で答えた。
「そのつもりだ」
その返事に心の中で小躍りしながらも、表情には出さないよう心掛けて料理を運んだ。これで久々に二人きりでの食事を、気分よく楽しめるだろう。
目の前にいるこの男を、殺したい程憎んだ時が正直ある。それでもやはり、まだ愛情が残っているのだと思い知った。今日も彼の為に、好物であるカキを使ったカレーグラタンを用意していた。
美味しいと評判のフランスパンを買って、ガーリックトーストも作った。オードブルにはタラのマリネ。カボチャのスープとシーザーサラダの他、じっくり煮込んだ牛タンと根菜の煮込みや、デザートにはイチゴのタルトも準備している。
食事に手を付け始め、彼は全て美味しいと喜びながら次々に口へと運んでいく。その様子を見て和美は幸せに浸っていた。だがそれもほんのひと時だけだった。
しばらく経ったところで、彼が突然尋ねてきたからだ。
「最近変わったことはないか」
一見何気ない会話のようにも聞こえたが、微妙に声が緊張している。何か気付いたのかもしれない。そう感じながらも、悟られないよう素知らぬ振りをして答え、問い返した。
「別に無いわよ。あなたの方はどうなの。何かあった?」
戸惑ったのか、一呼吸おいてから言った。
「連続殺人の件で、警察が街の住民に何度も接触し始めている。そのせいで仕事がやりづらいと、ぼやき始める者が増えた。和美の方にも、以前話を聞きに来たと言っていただろう。あれからどうだ」
「もう来てないわ。三件とも事件が起こったのはお昼時だったでしょ。いつものように一人家で食事していたからアリバイの証明はできなかったけど、特に怪しまれてはいないと思う。だって当り前じゃない。仕事をしていない私のような女性だったら、皆同じでしょ。そんな人は大勢いるし、今の私は街の住民と距離を置いているから、容疑者リストに挙がっていないんじゃないかな。そっちでは、そんな頻繁に事情を聴きに来ているの?」
「ああ。とはいえ俺のように三件ともアリバイがある奴の所へは来ないが、無い者はしつこい程付け回されている。とりわけ実働部隊がひどい。事件にかこつけて、窃盗を働くかどうか見張っているようにも思える。どうやら警察の奴らは今回の件を機に、街を壊滅させるつもりなのかもしれない」
「別件で逮捕して、あわよくば犯人もしくは犯人に繋がるような情報を得ようとしているってこと? それはさすがにやり過ぎね」
「そういう話は耳にしていないのか」
「警察がうろついていて面倒だという愚痴は多少聞いたけど、そこまでだとは知らなかった。でもあなたがマークされていないのなら安心ね」
「そう楽観はできない。樋口家がスリ集団の頭領で、街の運営には欠かせない役割を担っていることくらい、向こうも気づいている。今の所は優先順位や口実がある者から、順番に潰しているだけだろう。いつそれが俺のところへ来るか分からない」
「それは他のアリバイがない幹部クラスが、大勢逮捕されてからの話でしょ。その前に殺人犯が捕まれば、大丈夫だと思うけど」
「それだけじゃない。今回の件で、思っていた以上に街の秩序が相当乱れていると明らかになった。これを機に、各集団での引き締めを強化させているけれど、どれだけの効果が見込めるか。はっきり言って、余り期待はできない」
「だからといってどうするの。街を維持し続けなければ、一番被害を受けるのは子供や障害を持った人達よ。山塚の街は、未来ある彼らや社会的弱者を救う為にできたんじゃない。私だってここで助けられたのよ。もし街が無ければ、親に殺されていたでしょうね」
「しかしその守るべき子供達が、今回殺された奴らの被害に遭っていた。しかも単なる虐待じゃない」
「それはもちろん、止めさせなければならないわ。貧困と同じく虐待も連鎖するっていうから、どこかで断ち切る必要があるでしょうね。でも街だって色々対策は取って来たじゃない。それが不十分だったから、今回のような裏の事情が表に出てきたのだと思うけど、外の社会に任せられないからしょうがないでしょう」
「ああ。児童相談所を含めた自治体の対応には、これまで何度も裏切られてきたからな。荒れて問題を起こした少年の引き取りを、施設が受け入れ拒否してきたケースも何度かあった。親等の環境状態が悪く、発達に問題が生じ学習能力の低下を招いた子供達は大勢いる。知識等の不足から偏った、または限られた思考しかできなくなるからだ」
ドキリとした。身近にそうした経験を持つ人がいる。彼はそれを知った上で口にしたのかもしれない。それでも気付かない振りをして和美は話を続けた。
「だから街では昔から、しっかり勉強しろと教えてきたじゃない。私だってそうだし、あなたを含めて大学まで卒業した人がこの街には何百人といるわ。外にある児童養護施設だと、そうはいかないでしょ」
原則十八歳までしかいられない養護施設では、ある時から特例により二十二歳まで引き上げられるケースが認められたとはいえ、条件は相変わらず厳しい。大学の授業料も上がり続けたせいで、貧困家庭は進学なんてできなくなっている。
その為街では、そんな外の世界だと真似できない奨学金制度を作ってきた。世間では全く目が行き届いていない、登校拒否に陥った子供達の支援だってしている。
外の世界では虐待を受けていた子供の行方を見失った例が相当数あると、ニュースで報道されていた。最近でも安否確認がされていない児童は、三千人近くいるという。だが実態はもっといるだろう。
彼もそれを承知している為に、頷いて言った。
「そうだな。しかし外の社会でも、それなりに手を打っている自治体があるのは確かだ。登校拒否の治療として始まった、療養キャンプなんかがそうだろう」
これは五日間自炊というキャンプ生活を通して、療育効果を図る目的で行われるものだ。実生活と違った大自然の中での環境を利用し、子供達が心理的にも開放的になれるよう取り組んでいる。全プログラムを四~五名の異年齢の子供で構成され、心理職員やケースワーカーも各一名ずつ配置するのが通常だ。
しかし和美は反論した。
「それはこの街でもやっているじゃない」
「そうだ。良い例は取り込むべきだと祖父が言い出し、始めたからな。各グループの子供達のペースに合わせ、自分達で組み立て自由に進められる生活をするものだ。俺達も昔やったのを覚えているか」
「もちろんよ。子供の感情や欲求など、内面的なものを表出できる環境作りが目的だったんでしょ。出来る限りキャンプ中の生活は自分達で決定していたし、大人達は実行できるよう援助しながら、子供同士で相手の存在を認めるようになったわ。おかげで関わり合いが持てた友人が、沢山できたことをよく覚えている。だから学校へ行くことが怖くなかったし、楽しいくらいだったわよね」
「そうした治療は、自分達のやり方や打開策を発見する手助けとなる。作り出していく過程や、生活しやすいように枠を広げていく子供の動きを、決して否定したり拒否したりしない。それこそ子供達にとって、値打ちのあるものだと補償する点が大事なんだ」
「年が離れた人達と、色々な遊びや取り組みもしたわね。そういう関係の中から、誰々に会って私の人生が変わったと言わしめるのが大切だとも聞いた覚えがある。実際にあの頃の私は徹達から沢山の事を学んだし、おかげで生きる道を見つけられたのよ」
彼は和美の言葉を受け流し、真剣な顔をして話題を元に戻した。
「児童臨床家のような専門家の手から離れた所で、子供自身が自分を変えるよう促すのがあの取り組みにおける重要な点だ。登校拒否は、親や家庭に問題がある場合もあるけれど、それだけじゃない。一人一人の子供の個性が発揮できなくなっている学校教育の環境に、原因があるケースも散見される。そこを街では補ってきたつもりだ。現に街の子で、登校拒否をしている者はほとんどいない」
「でも虐待は無くなっていない。そこが問題というわけね」
「そうなんだ。つまり今までの取り組みでは不十分な事がはっきりした。二十年前、児童虐待の防止等に関する法律が施行された。それ以降の虐待対応に関し、外の社会では体制整備が着々と行われるようになっている。実際児童福祉士の数は、昔に比べれば相当増加した。けれども相談所の数は、たいして増えていない」
彼の言う通りだ。それどころか児童相談所における児童虐待対応件数は、三十年前の一一〇〇件だった状態から、春香が生れた年の九九年には一万一千件を突破している。二〇一八年では十六万件にまで激増した。その分全く手が回らなくなったのだろう。だからなのか、虐待死する児童は後を絶たない。
「だからやっぱり、外には任せられないって事でしょ。街で何とかするしかないじゃない」
「それも最近は限界を感じるようになってきた。経済格差は多少なりともあるが、外の社会と比べれば貧困率は高くない。問題なのは、街の閉鎖性と集団内における歪んだ精神的格差だ。これらを何とかしないと、街はいずれ崩壊する」
真面目な話が続き、雰囲気が重くなった状況を嫌った和美は、話題を変えようとした。
「だからって、今すぐどうにかできる話じゃないでしょ。改善の取り組みをするにしたって、時間がかかる。そんな先の心配をしてもしょうがないわ。少なくとも今夜だけは、嫌な話を忘れて、ゆっくりしましょうよ」
「そうだな」
ようやくそこで、暗い空気を変えられた。彼も気分転換をしたかったようだ。おかげでその後は、別の明るい話題に花を咲かせたのである。
食事が終わり、片付けをし始めた和美の後ろで、彼はテレビを見ながら煙草をふかしていた。背中に神経を集中させ、頃合いを図りながら深く息を吐く。
すると彼がトイレに行くのか席を立った。丁度洗い物を終わらせた和美は、先程まで彼が座っていた場所に腰を下ろし、素早く用事を済ませる。その後正面に移動し、彼が戻ってくるのを待った。
しばらくすると用を済ませた彼の姿が見えた為、ソファに座ろうと近づいてきた所で声をかけた。
「ねぇ。あなたに買って貰ったファンヒーターなんだけど、少し調子が悪いみたいなの。ちょっと見てくれる?」
まさしく目の前を通ろうとしていた彼は、視線を下に向けて立ち止まった。
「買ってから、まだ二年も経ってないだろ」
「でも時々変な音がするの。今はしないけど、急に壊れたりしたら怖いでしょ。それにこれからもっと寒くなるっていうのに、使えなくなったら困るわ」
どれどれ、と言いながら腰をかがめてスイッチ等に触れ、ヒーターの周りを丹念に覗き込みながら言った。
「おかしな所はなさそうだ。強いて言えば、後ろにある空気の取り組み口に埃(ほこり)が少し溜まっている位かな。ここが詰まると、不完全燃焼を起こしかねないから気をつけろ。まあもしそうなった時でも、これは防止装置がついているし大丈夫だ。自動的に停止するから、一酸化炭素中毒にはならない」
「あらごめんなさい。そんなところまで見ていなかった。後でちゃんと掃除機で吸っておく。これから気を付けるわ」
「そうした方が良い。多分それが原因で空気を取り込みづらくなって、変な音がしたのかもしれないな」
「ありがとう。やはりこういう機械の
彼はテレビ台の横に置いてあるティッシュ箱から何枚か取り出し、さっと汚れを取ってくれた。
「今綺麗にしておいたから、しばらくは良いだろ。それでも変な音がするようなら言ってくれ。俺からこれを買った店に連絡して、点検させるから」
「分かった。そうしてくれると助かる」
ちょっとした用事でも、役に立ったのが嬉しかったらしい。彼は満足げな様子でソファに座り直した。ここでさらに喜ばせようと、ポケットから取り出した白い塊をテーブルに置いて言った。
「お礼と言ってはなんだけど、必要なら持って行って」
「これはなんだ。粘土か」
首を傾げながら、その塊を手に取り眺めた彼の目の奥が光った。どうやら気づいたようだ。ただその意味するところまでは判らなかったらしく、尋ねてきた。
「どこの鍵の型だ」
「実はこの間、珍しく春香が家へ来たのよ。ちょっとした用事で、直ぐに帰ったんだけどね。その時あの子が目を離した隙を狙って、家の鍵の型をこのプラスチック粘土で取ったの。私もあると安心だけど、あなただって持っていた方が良いと思ったから。でもそれで合鍵を作るなら、私の分は良いわよ。型はもう一つあるから、自分で作りに行くわ」
彼が息を呑んで言った。
「いいのか」
「持っていたいでしょ。年頃の娘が離れて暮らしているんだもの。心配じゃない。春香は私達に合鍵を渡すような子じゃないから、こんな手でも使わないと手に入らないでしょ。だからって、あの子のいない時にこっそり入ったりはしないでね。あくまで万が一の事があった場合に備えて、だから」
「ああ。もちろんそうする」
春香と和美、そして彼との奇妙な関係はお互い理解しているはずだ。それなのに和美から彼女の家の鍵の型を渡されるなど、想像もしていなかったのだろう。明らかに戸惑っている様子が伺い知れた。
しかし彼はそれ以上何も言わず、持ってきていたハンドバックの中へ、大事そうにそっとしまった。その様子を横目で見ながら、和美はほくそ笑んだ。
必ず明日にでも彼は合鍵を作るだろう。当然仲間内には知られたくないだろうから、よく使っている街の鍵屋ではない別の場所に頼むはずだ。そう予想していた。
翌朝、和美の作った朝食を平らげた徹は、機嫌良く出かけて行った。しかも去り際に
「また来るよ」
などと珍しい捨て台詞を残していったのだ。昨夜の徹は、ベッドの中でもご満悦だった。余程昨夜のプレゼントが気に入ったらしい。
そんな彼の背を見送り見えなくなったと確認した和美は、メールを送った。すると近くで待機していたのだろう。昨夜の内に連絡しておいた中川が姿を現した。
周りを見渡し誰も見ていない状況を確かめ、和美は何も言わず差し出した彼の手にプラスチック粘土の塊を置く。そこで
物を受け取った中川も、同時にその場から離れた。そこで和美は思いを巡らす。彼は待っている間、どういう気持ちでいたのだろうか。
最初に和美からのメッセージを受け取ってから次のメールが来るまで、徹と一緒の時間を過ごしているだろうと想像できたはずだ。彼が少しでも嫉妬してくれていたならば嬉しいけれど、何も感じていないかもしれない。
そうでなければ、良子にまで手はださなかっただろうと思い直す。しかも街では、頭領の筆頭である徹と深い関係を持つ二人なのだ。図太い神経の持ち主でなければ、付き合い続けられるはずもない。さらには春香の立てた作戦に乗る勇気など、持てなかっただろう。
彼は和美から受け取った型を使い、合鍵を作りに行った。作戦決行日にはそれを使い、目的の家に忍びこむ予定だ。
次は春香の番である。彼女が徹を誘い込み上手くやれば、作戦は早ければ数日のうちに決行されるだろう。当初その役割を果たすのは和美だった。しかし話合った結果、春香の方が成功しやすいとの結論に達したのである。
和美は後もう一つだけ用事を済ませれば、家で春香と中川が戻ってくるのを待っていれば良いだけだ。さっさと全てを終わらせてしまいたい。
その為外出用の服に着替えた和美は、再び外へ出た。そして大通りまで辿り着き、タクシーを拾って目的地へと向かったのである。
自分が考えた作戦だからこそ、この役目だけは出来るならやりたくなかった。しかし和美や中川を巻き込み彼らを動かそうと説明した所、二人に説得されたのだ。
確かに和美が実行するより、成功する確率が高くなるのは間違いない。だからこそ断れなかった。実際連絡して誘うと、彼はすぐに飛んで来た。
しかも聞くところによれば、これから新しい標的を狙う為の下見に行く予定だったにもかかわらずだ。彼が乗ってきた車の助手席に座り、街の近くをぐるぐると回りながら二人は会話を交わした。
「大丈夫なの? 別に今日でなくても良かったのに」
「構わないさ。春香からお願いがあるなんて言われれば、こっちの方が何倍も大事だよ。それに盗みの件は警察がうろついていて様子見だが、運営会社については順調に利益を出している。だからそんなに焦る必要もない」
「じゃあ懐は温かいんだ」
「もちろん。それより手袋をしたままだが、大丈夫か。まだ寒いようだったら、暖房の温度を上げるけど」
「ううん、いいの。ちょっと乾燥でひび割れしているから、クリームを塗って保温しているだけだから」
「そうか。それでいくら必要なんだ」
「五万もあればいいの。数日すれば直ぐに返すから」
「返さなくていいさ。それに五万なんていうな。手元に三十万あるからこれを持っていけ」
「こんなにもいらないの。ちょっと計画が狂って、少しの間お金が必要になっただけ」
「嘘をつくな。この間は和美の所にわざわざ訪ねて、二十万借りたらしいじゃないか」
「あの人、喋ったの? あれだけ黙っておいてって頼んだのに!」
春香は怒った振りをしたがこの話は嘘だ。計画の為に彼女と口裏を合わせ、お願いに来たと伝えて貰っただけである。だがその言葉を真に受けたらしい。
春香の身辺は、彼らの仲間により常に監視されていると気付いていた。その為ここ最近は一彦がいなくなったショックで、堅気の仕事だけでなくスリの仕事もしていないと知っていたからかもしれない。
その為春香が本当に困っていると信じ込み、喜び勇んでやってきたのだろう。
「そう言うな。本当はもっと渡したかったけど、手持ちがなかったので俺に用立ててくれと和美から頼まれていたんだ。そんな時に春香本人が珍しく連絡して来たから、用意していたんだよ。それに返すなんて水臭い事を言わないでくれ。お前は認めたくないだろうが、一応親子なんだから」
「本当に、いいの?」
俯いて殊勝な振りをすると、彼は思った通り喜んだ。
「当たり前じゃないか。でも何故急にお金で困ったりしたかは、聞かないでくれと和美に言ったらしいな。俺には教えてくれるかい?」
「理由を聞きたいのなら、いらない」
そっぽを向くと慌てて封筒を出し、押し付けるように渡してきた。
「嘘だよ。何も聞かないから持っていけ」
「あ、有難う」
心の中で舌を出しながらお金を受け取ると、案の定誘ってきた。
「こ、交換条件って訳じゃないが、折角だからちょっと休んでいかないか」
先程からゆっくり話が出来そうな場所を探しながら、車を走らせている様子は何となく気付いていた。こうなると分かっていたから、この役目は和美にさせたかったのだ。
もちろんここで相手の欲求を満たせておけば、作戦が成功する公算は確かに高まるだろう。しかしそれは最後の手段に置いておきたい。
そこで春香は彼の問いに答えず、先程渡された封筒から一万円札を抜き、ドラッグストアの前で停まってくれと頼んだ。彼は訝しそうな表情をしながら、言われた通り店の駐車場に車を入れ尋ねて来た。
「どうした? 何か買いたい物があるのか」
「うん。これでお父さんが毎日飲んでいる、栄養ドリンクを二本買って来て欲しいの。今でも飲んでいるんでしょ。良子さんも好きで就寝前に二人で一本ずつ開けているって聞いたけど」
「あ、ああ。春香もあれが欲しいのか」
「まあいいから。お願い。買って来て」
上目遣いでねだると、彼は照れくさそうに頷いた。
「分かった。お金は俺が出すから良い」
そう言ってドアを開け、店の中へと入っていった。春香が言った栄養ドリンクとは、様々な滋養強壮に効く高価なものだ。一本五千円弱はするという。どこから聞きつけたのか、体に良いと四十を過ぎた頃から飲みだしたものらしい。コラーゲン入りの為、今では良子も気に入って摂取していると耳にしていた。
しばらくすると彼は手にビニール袋を引っ提げ、速足で戻って来た。運転席に乗り込むと、買ってきたドリンクを春香に手渡してきたので一旦受け取った。
だがシートベルトを締める様子を眺めながら袋から瓶を取り出し、軽くキスをする仕草をしてから再び戻した。それを後部座席へと置いて言った。
「今夜はこれを二人で飲んで。毎日飲んでいるだろうから他にもストックされていると思うけど、せめてものお礼。だから今日は私からの気持ちだと思って飲んで」
困惑した表情をしていたが、遠回しにこの後の誘いを断っているのだと理解したらしい。それでも勝手に家を飛び出し、音信不通となっていた娘から初めて連絡があったのだ。その為今回の所は、これで良いと思ってくれたのだろう。
「分かった。有難う」
「約束よ。ただ良子さんには、私に貰ったと言わない方が良いと思うから、黙ってて」
「そうだな」
彼は了承してくれたが、明らかに関係修復にはまだ至らないと分かり、落胆しているようだった。だが一方で絶縁状態だったにも拘らず、困った時には頼ってくれると分かって喜びも感じたはずだ。これで逃げられればと思っていたが、どうやら上手くいったらしい。
「じゃあ、私はここで」
ドアを素早く開けて、春香は外に出た。
「お、おい。送っていくよ」
「ちょっと寄りたいところがあるからいいの。じゃあお金が返せる目途がついたら、また連絡するね」
そう言い残し、その場を立ち去った。彼は呆気に取られていたようだが、お金を返す為にもう一度電話がかかってくると聞いて満足したらしい。それ以上は追ってこなかった。
何とか計画の一端を成功させられた。後は中川が最後の締めくくりを、実行できるかどうかにかかっている。
そこで彼の視界から外れたのを確認し、道の脇に隠れた春香は早速電話を掛けた。相手はツーコールで出た為告げた。
「決行は今夜よ」
「例の物を、徹さんに渡せたんだね」
「そう。間違いなく飲むとは思うけど、上手くいかなかった場合も考えて忍び込んで」
「了解」
「鍵はもう手に入った?」
「ああ。既に出来上がって用意してある」
「じゃあ大丈夫ね」
「任せてくれ」
通話を終えた春香は深く息を吐いた。後は和美の家に向かって彼の帰りを待てばいい。残るは本当の最後の仕上げをするだけだ。もう一度深呼吸をしてから大通りに出た春香は、タクシーを捕まえ一度家に戻った。
そこで事前に用意していたものを手にし、郵便局へと立ち寄り手続きをしてから、目的の家へと向かったのである。
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