第六章 一彦失踪事件
「一彦! どこにいるの?」
鼻持ちならぬ女達から無事に財布や貴金属を盗み終わった春香は、早くその場から離れようとしていた。だが一彦の姿が見えないと分かり、慌てふためいた。
とはいってもその場で探し回るわけにもいかない。鞄などから金品が無くなったといずれは気付き、騒ぎだすだろう。それはまずい。現場にいた春香の姿が彼女達の印象に強く残れば、後々面倒だ。
その為一度集団から距離を置いて隠れ、遠目で一彦の姿を探しながら彼女達が散開するまでじっと待っていた。時間の経過が、これほどまで遅く感じた経験は初めてだ。その間は身を切られるような苦痛を味わった。
幸いその場で盗まれたと気づかず、彼女達はそのままいなくなった。そこで春香は急いで戻り、一彦の名を大声で叫びながら行方を捜したのである。
しかしいくら経っても見つからず、とうとう日が暮れてしまった。もしかすると家に帰っているかもしれない。そんな僅かな望みを持って部屋に戻ったが、その願いは叶わなかった。
春香は懐中電灯を手に取り、再び外へ出て一彦が姿を消した周辺を隈なく懸命に捜索した。 気付けば夜が明けていた。それでも見つからない。
春香にとって今のどうしようもない世界を生きていく上で、一彦は唯一の生甲斐であり心の拠り所だ。彼の存在があったからこそ、これまで生きながらえてきたと言っても過言ではない。
かつて何度自殺しようと思っただろう。スリ師としての技能を叩き込まれながら、実の父親に性的虐待を受け続けて来た人生だ。それが特殊で奇妙な世界だったと気付いた頃には、絶望しかなかった。
父との関係について、気付かない振りをする母親も大嫌いだった。生きる希望など全く見出せず、どうやって死のうかとばかり考えていた時期もある。
それでもある時、このまま自分がいなくなろうと街はもちろん、この世知辛い世の中は変わらないという現実に気付いた。それは悔しいと春香は思ったのだ。
憎い両親や街の住民達がのさばり、貧しい者はより貧しいまま。一方富める者は、より豊かになっていく。そんな理不尽な世の中に、少しでも復讐したい。その想いがあったからこそ、何とかこの年まで生きて来たのだ。
そんな中で出会ったのが一彦だった。唯一荒んだ心を癒してくれる存在を見つけた春香は、どれほど救われただろうか。そこでソヴェの力も借りながら、父達の元からようやく離れ一緒に街を抜け出し暮らし始めたのである。
スリ師の仕事を続けたのは生活費を稼ぐ為でもあったが、セレブ気取りの輩に対する復讐の意味も強かった。本音では街を出た時点で足を洗い、堅気の人間になりたかった。
そうしなかったのは、父や街の犯罪集団への対抗意識があったからかもしれない。また富裕層達への嫉妬心を消せなかったからでもある。
あの街では昔から複数人の仲間と盗みを働いたり、犯罪を起こしたりする者ばかりだった。決して一人で稼こうとしてはいけないというのが、昔からの掟だからと聞いている。
しかしそれは単なる言い訳なのではないか、と春香は思っていた。それは父達から学んだスリ師としての能力が開花した頃だ。
天才スリ師として名を轟かせ、今や伝説化した祖父の全盛期を彷彿させると言わしめた程の腕前を持ったからだろう。必ずしも必要としない手伝いを技術のない者にさせ、稼ぎを分かつのは馬鹿らしいと感じ始めたのだ。
確かに貧しい者ばかりが集まり、街を作った頃には助け合う必要があった事情も認めざるを得ない。しかし時代は変わった。現に街の中でも貧富の差が生れている。
樋口家のように、集団の頭領を長年務めて来た者の収入は増える一方だった。街の住民の為に提供している場所以外の家や土地を、いくつか所有しているのが何よりの証拠だ。
盗みの種類や方法も変容し、勢力の構図だって違っている。昔は技術が必要で人を傷つけず、金持ちを主に標的としてきた侵入盗やスリ師の集団が、街の仲間の中心となっていた。
けれど今や車上荒らしや車両自体の窃盗、押し込み強盗といった力づくの犯罪や、オレオレ詐欺などと言った知能犯が幅を利かせている。この手の集団が問題なのは、相手が特別金を持っているとは限らない相手からも奪う点だ。
さらに人を傷つけても構わない、という立場を取っていたのも厄介だった。一昔前なら、そういう輩は即座に街を追放されていただろう。
しかし頭領達が部下を強制させる力も、かつてと比べれば弱まった。集団自体が減退し、仲間の為に金を稼いでくる実働部隊をこれ以上減らせないとの判断を下した頭領もいたからだ。
幼い頃の街と違ってきた有り様を、春香は気に食わなかった。根本的に、父や街の奴らを嫌悪していたのも確かだ。とはいえ盗人にも三分の理という言葉通り、譲れない一線がある。
さらには外の世界でも愚かな権力者がのさばり、弱者は虐げられたままだ。それらをひっくるめ、春香は全てに愛想を尽かしていた。
しかし一彦という新たな希望と、街から出て人生をやり直すという目標を見つけ、事情は変わったのだ。その為反抗という名目の下に、スリを続けながらずるずると暮らしてきたのが現実だった。
それがここにきて、最も大切にしてきたものを突然失ったのである。それ故生き続ける為の原動力を無くした春香は、激しく落ち込んだ。体調を崩し始め、堅気の仕事も休むようになった。やがては部屋に籠り、寝込む日々が続くようになったのである。
時折思い出したように布団から抜け出し、街に出て一彦の姿を探してはみた。けれど見つけられないまま一人っきりの部屋に戻ると、再び辛い現実から逃避する為に眠り続けた。後で振り返れば、この時はうつ状態だったのだろう。
もちろん警察に相談したり、周辺に一彦の写真を貼って探したりする真似はできない。彼は幼い頃、生まれたばかりの姿であの街に捨てられていたからだ。
また彼がいなくなったと騒げば、必ず街の仲間や樋口家の人達の耳に入るだろう。そうなれば、これ幸いにと連れ戻される可能性があった。それも困る。よって部屋に引き籠るしかなかった。
それでも一彦がいなくなってから、一ヶ月程経っただろうか。ようやく春香は目を覚まし、今起こっている現実を見つめられるようになった。
そこで彼が姿を消したあの頃から、良子の姿を見かけなくなったと思い至った。あれ程しつこく付き纏っていたにもかかわらず、どうして春香への嫌がらせが止んだのか。もしかすると一彦を連れ去ったのは、あの女かもしれない。そんな疑いを抱くようになった。
そう考えれば、色んな辻褄が合うのだ。彼はとても頭が良く、春香の事が大好きでいつもぺたりと引っ付き、仕事の時以外は離れたがらなかった。それなのにこれ程長く戻ってこないのはやはりおかしい。
ならば誰かがさらったとしか思えなかった。またそのような真似をする人物がいたとすれば誰なのか。そう推測を立てれば、自ずと答えは出る。春香を憎み、いたぶり続けてきた良子しかいない。
もしそうだとすれば、一彦は既に殺されているかもしれなかった。良子には、かつて人に危害を加えた経験があると耳にしていたからだ。それに彼女ならやりかねない。
樋口家には頭が上がらない為、彼らが喜ぶ行為なら例えどんな残虐な役目を与えられても実行するだろう。一彦しか信用せず街を飛び出した春香を、父達が未だに執着しているらしいと、良子を通して何度も聞かされてきた。
二人の関係を彼女だって知らない訳がない。それでも連れ戻そうとしていたのだ。よって彼さえいなくなれば春香は心細くなり、自らの意志で戻ってくるかもしれない。そう企んだとしてもおかしくなかった。
もし街へ戻らなかったとしても、彼女にとって悪い成果ではない。それどころか、春香が苦しむ姿を見たい彼女は逆に喜ぶはずだ。恐らくそれが事実だろうとの結論に至った。
そこで一度は人生に悲観し、自ら命を絶つ方法ばかり考えていた春香は思い直した。父や良子への復讐を果たさずに、この世を去ってなどやるものかと心に決めたのである。
その為彼らにどう報復するか策を練ることだけが、その後生き続ける原動力となった。春香はどうすれば最も効果的か、四六時中考え続けた。そしてある計画を思いついたのだ。
そこでそれを実行する前に、まず一彦を連れ去った人物が本当に良子なのかを確認し始めた。あの時彼女は、間違いなく春香や一彦に近づいていなかったはずだ。いくら仕事に夢中だったとはいえ、少なくとも半径十メートル以内であの女の気配に気づかない程鈍感ではない。
それどころかスリを行う際は、周りの人達の一挙手一投足を見逃さないよう神経が張り詰めていたはずだ。そんな時に彼女がいれば、危険が迫ったと感じただろう。犯人があの女なら、共犯者がいたに違いない。
そこで春香はあの仕事をした時の状況を、改めて頭に思い浮かべた。一彦は確か少し離れた場所にいたはずだ。話に夢中な女達を標的にしていた為、気を引く役目が必要なかったからである。
ということは仕事にとりかかった瞬間、またはその少し前に彼は誰かから誘われたのだろう。あの場から離され、口を塞がれたかして強引に連れ去られた可能性はある。
といっても春香の気が逸れた時とは言え、悟られないよう怪しげな気配を消して一彦に近づかなければならない。そんな芸当ができる人間は限られていた。間違いなくあの街の人間だろう。しかもスリ集団に属している者ではない。それなら春香も気づいたはずだ。
もう一度あの場面を回想する。周辺には高価な物を身につけた女が多かった。けれど中には男の愛犬家もいた様子を思い出す。
春香の目を盗み一彦を連れ去る程の技術を持った女性が、あの街にいるとは思えなかった。だとすれば男だろう。しかも気づかれないように動けるとなれば、侵入盗の集団である公算が高い。
そこで春香は、和美を利用しようと思いついた。彼女なら今は街から離れた家に住み、スリ師の仕事から遠ざかっている。だがあの街と完全に縁が切れてはいない。彼女のところへは今も樋口家の男が通っているだろうし、他の仲間から街の情報だって聞いているはずだ。
しかも彼女なら春香と同じく良子に対し、敵対心や恨みを持っているに違いない。それにかつてはスリ集団にも属し、それなりの地位を得ている。よって他の集団に属しながら、良子と通じている可能性を持つ男の情報も、手に入れられるだろう。
また一彦を連れ去ったのが良子の仕業と分かれば、和美は報復の企てにも賛同してくれるかもしれない。上手くいけば二人で手を組み、樋口家もろとも地獄へと突き落とすことだって可能だ。
そう考えるといてもたってもいられなくなり、すぐさま彼女に連絡を入れたのである。
春香から連絡を貰い相談を受けた時、和美は驚きと共に喜びを覚えた。頼りにされたのが嬉しく、またその内容にも興味を魅かれたからだ。
彼女が大事に想っていた一彦の失踪は、和美にとっても他人事ではない。それにあの良子が絡んでいるとなれば、放っておけるはずもなかった。
「話は分かった。少し心当たりがあるから調べてみる」
和美がそう言うと、彼女の声が明らかに生き生きとし始めた。
「本当? だったらお願い。少しでも早く調べて。もういなくなってから一カ月以上経つの。下手をすれば殺されているかもしれない。でも万が一監禁されているだけなら、一刻も早く助けてあげたいの」
「そうね。当然よ。もし春香の予想が当たっていて、一彦の失踪に良子が関係しているとすれば私も許せない。最近街ではまた荒っぽい連中が増えて、昔からの掟がないがしろにされつつあるとは聞いている。それでも仲間を傷つけたり手にかけたりする行為がご法度なのは、まだ変わっていないからね」
「そうよね。もし一彦が死んでいたら私、絶対に許さない。犯人を殺してでも仇を取ってやるから」
「そんな恐ろしいことは言わないで。だけどあなたの推測が正しいかどうかだけは、必ず明らかにして見せるから」
「有難う。お願いします」
最後には珍しく、丁寧な言葉で締めくくった彼女が通話を切った。スマホを手に持ったまま、和美は時計を見てから少し考えた。夜の八時を過ぎていると確認してから、呼び出した番号の通話ボタンを押す。相手はツーコールで出た。
「もしもし、私。今大丈夫? 仕事中だったら後でかけ直すけど」
「いえ、大丈夫です。どっちの仕事も今は入っていませんから」
「だったら会えない?」
「これから、ですか?」
「今日だったらいつでもいいわよ」
少し間をおいてから相手は答えた。
「では一時間後にお邪魔します」
「食事はどうする? まだなら作るけど」
「いえ、先ほど済ませたばかりですので」
「じゃあ待っているわ」
この時間から、徹が家を訪ねて来るケースはまずない。彼なら夕飯を作らせる為、またはお風呂のお湯を沸かせ溜めておくよう伝える為、もう少し早い時間に連絡があるはずだ。
つまりこれから他の男を呼んでも、鉢合わせする恐れはないだろう。万が一そうなったとしても、彼なら堂々と追い出すだけだ。その後修羅場になる可能性も低い。
ただその後和美の肌に手を触れず、彼も帰ってしまうだろう。そうなれば、次に会うまでの期間がまた長く空く。それはそれで辛い思いをするに違いない。
しかし今夜なら、そんな心配はしなくていいはずだ。簡単に身支度を整えた和美は、あの男の来訪を待った。
約束の時間が経った頃、インターホンが鳴った。画面には男の姿が映っている。ボタンを押して応答した。
「いらっしゃい。今、開けるから」
近所の目もあるので、直ぐに玄関の鍵を開け彼を中に招き入れた。
「外は寒かった?」
和美の問いかけに、中川はコートを脱ぎながら答えた。
「風が冷たくなりましたね」
「だったら早く中に入って。暖房は点けているから」
徹が街の長屋でも使っている、最新型の石油ファンヒーターだ。
「有難うございます。今日は和美さんからお声をかけて頂き、とても嬉しいですよ。しばらくご無沙汰だったので、嫌われたのかと思いました」
「何を言っているの。ちょっと
そう言いながらリビングに入り、彼のコートをハンガーにかけてから背中に抱きついた。彼は少し戸惑いを見せたが、抵抗せずそのままソファに押し倒されるように寝ころぶ。
和美は彼を仰向けにして体の上に圧し掛かり、熱い口づけを交わした。互いの体温が上がり出し、和美の服を脱がそうと彼が手を伸ばし始めたところで起き上がった。
お預けをくらった子犬のような顔をした為、諭すように言った。
「今すぐは駄目。今日は少し聞きたい話があって呼んだの」
嫌な予感でもしたのか、彼は不安げな表情でじっと和美を見上げながら尋ねてきた。
「何の話を聞きたいというのですか」
「あなた、近頃良子とも関係を持っているらしいじゃない」
目を丸くして一瞬黙ったが、首を軽く横に振りながら答えた。
「関係なんて、そんなものじゃありませんよ。最近、私を通じて定期貯金の口座を作っていただいただけです」
「あら。あの子にそんなお金があったかしら」
「和美さんと同じですよ。徹さん名義の銀行の定期が満期を迎えたので、こちらに移し替えて頂きました」
和美は毎月一定額の生活費を貰っている他に、徹の指示で別に預かったお金の管理を任されている。そのお金を使ってノルマで苦しんでいる中川の弱みに付け込み、郵便貯金に切り替える条件として関係を結んでいた。
だがそうした行為をどこかで聞きつけた良子が、同じ手を使って彼に近づき関係を持ったらしい。これは間違いなく彼女による嫌がらせだと判った。
あの子は幼い頃から、人の大事なものに手を出す癖がある。恨みや嫉妬心を持たせ、憂さ晴らしをする悪い性格で昔から良く知る仲だ。春香の話を聞いた時、真っ先に浮かんだ犯人像も彼女だった。
さらに最近中川が彼女と繋がっている、との噂を耳にしていた。その為一彦をさらったのは彼だろうと疑っていたのだ。
街から離れたとはいえ、和美はかつての後輩達を通じた情報網を持っている。家にいながら、街や徹の周辺で何が起こっているかを常に探らせていた。
そこから中川と良子の件を聞いた為、近頃は彼を遠ざけていたのである。だが今日は特別だ。春香だけでなく自分の為にも、彼の告白を引き出さなければならない。
「そんな言い訳が通じると思っているの。そんな態度を取るなら、明日にでも今まで契約してきた定期を全て解約したっていいのよ」
徹名義の定期が無くなれば、彼の成績は大きく落ち込む。それに比較すれば少額だが、毎月コツコツと溜めている和美名義の口座だってある。
それら全てが無くなれば、彼にとって大きな痛手なのは間違いない。だからこそこれまで彼は、和美との関係を続けていたはずだ。互いにビジネスを交えた、遊びと割り切った間柄である。ただ優位に立っているのはこちらの方だった。
彼だって、徹を介した和美と良子の関わりを知らないはずがない。それでも良子と繋がりを持ったのは、それなりに覚悟しての行動だと思っていた。
しかし激しく動揺する彼の姿をみたところ、そうではなかったようだ。二人の因縁について、軽く考えていたらしい。金をちらつかせ、若い体を弄んでいるのだからお互い様だと勘違いしていたのかもしれない。
「そ、それは勘弁してください! 今解約されると非常に困ります。ただでさえこの十二月はボーナスシーズンで、年末年始商戦も始まっています。年賀ハガキのノルマも重なって、大変な時期なんですから」
「それは私に関係ないでしょ」
「お願いです! 何でも言うことを聞きますから、全部解約だけは許して頂けませんか」
この一言を待っていたのだ。和美は畳みかけた。
「何でも聞くといったわね。その言葉が嘘だったら、解約どころか街に居られなくしてやるわよ」
「も、もちろんです。あ、ただ、良子さんとの関係を切れと言うのは、ちょっと。徹さん名義の定期を預かっているので、無下にもできないのです。そこはご理解頂けないでしょうか」
確かに彼の言う通りだ。和美も良子も、徹の金を利用して関係を持っているに過ぎない。調子に乗って誰それとは関わらないでくれ、と指示できる立場でない位の
しかし今回の目的は別にある。そこで早速本題に入った。
「だったら正直に答えて頂戴。あなた、最近良子に頼まれて春香に近づいたでしょう。そこでやった行為を全て白状しなさい」
最初は躊躇していたが、黙っているより喋った方が良いと判断したらしい。想像していたよりもあっさりと、彼らが行った計画を洗いざらい話してくれた。
内容を聞けば、中川が担った役目は大きな罪になる程ではない。だから自白したのだろう。やはり一彦を連れ去ったのはこの二人だった。
問題はその後だ。春香の予想していた最悪の事態が起こっていた。
「殺したのは良子なのね?」
「そうです。私は指示された通り、穴を掘って埋める手伝いをしただけで、手は出していません。無理やりやらされただけなんです」
「どこに埋めたの?」
「それは勘弁してください」
頭を下げる彼を見下ろしながら考えた。今更場所を知ったからといってどうしようもない。警察に届けられるはずもなく、春香に伝えてもできるのは、せいぜい手を合わせる程度だ。
それでも知りたいと彼女は言うかもしれない。だが無理やり吐かせる価値は無いと判断した。その代わりに和美は、証拠となるものがないか尋ねた。
最初は首を横に振ったが、その態度に躊躇いが見られたので再度問い詰めたところ、彼は小声で白状した。
「良子さんには見つからないよう、刺し殺している姿をスマホの動画で隠し撮りしました。もし不測の事態が起こった場合、彼女への脅しや自分の身を守る為に使おうと残しておいたのです。指示された時などの会話も録音してあります」
「その動画と録音したデータを、私のスマホに転送して頂戴」
有無を言わさぬ口調で迫った為、彼は渋々言う通りにした。和美は念の為に映像を再生し確認した所、間違いなくナイフを握った良子が一彦を刺している瞬間を捉えていた。
音声データも聞いたが、間違いなく強引に計画を推し進めたのは良子だという経緯も、それで明らかになった。さすがに気分が悪くなり、この後中川と夜を楽しむ気にはなれない。 その為彼にはそのまま帰って貰った。
思ったよりも簡単に事件の真相が判り、証拠まで手に入れた和美はこの後どうするか悩んだ。このまま春香に伝えれば彼女は怒り哀しみ、どのような行動を起こすか分からない。
良子や中川への復讐を企むかもしれないし、途方に暮れて死を選ぶ可能性だってあった。彼女は自分の生い立ちや生まれ育った街を恨み、世間にも愛想を尽かせている。
そんな中で愛しく思い、大事にしていた一彦が殺されこの世からいなくなったのだ。彼女がどれだけ絶望するかを想像するだけで恐ろしくなった。
それでもこのまま、自分一人で秘密を抱え込むわけにもいかない。もし和美が黙っていたとしても、別のルートで真相を知ったならば結果は同じだ。
それどころか和美が黙っていたとばれれば、怒りの矛先はこちらにも向ってくる恐れがある。下手をすれば、良子達と一緒に殺されるかもしれないのだ。それ程彼女の気質は激しい。
そこで決心した和美は、翌日の夜になってから春香へ連絡をし、得た情報について説明した。もちろん中川から手に入れた、動かぬ証拠となる動画や音声データも転送したのである。
どう反応するか戦々恐々としていたが、驚く程冷静に彼女は呟いた。
「思った通りね。こんなに早く明らかな証拠まで手に入れてくれて有難う」
それだけ言い残し、電話は切られた。和美は今後どうなるか気になったが、傍にいてあげられない自分に苛立つ。今は彼女が下した判断を見守るしか方法は無い。
それでも和美に出来ることがあれば、力になってあげようと改めて思った。
一彦の失踪の原因が分かり、もう二度と会えない現実に向き合った春香は発狂しそうになった。和美との電話では何とか耐えたが、この一カ月苦しんだ挙句最も恐れていた結果に悲嘆し、三日三晩泣きくれたのである。
しかしようやく涙が乾ききった頃、再び復讐という言葉が頭の中に浮かび上がった。元々和美に連絡を取ったのは確認の為であり、予想してた通りの結末だったに過ぎない。
良子の仕業だと判れば、これを機にあの忌々しい父と一緒に苦しみと大きな罰を与えるつもりだったからだ。そこに和美も巻き込めばいい。あの動画を見た彼女なら、間違いなく手を貸してくれるだろう。
後は良子を手伝った、中川という男をどうするかだ。あれほど早く情報を仕入れられたのは、彼もまた和美と深い関係にあるのだろう。ならば仲間に入れ協力させる手がある。これも和美に頼めば、難しくないはずだ。
確かノビ集団に属している男だと言っていた。それなら当初和美にさせるつもりだった役割を彼にやらせれば、より確実に実行できるかもしれない。
それに一日でも早く計画を実行しなければならない理由もできた。和美と会話する中で、街では連続殺人事件が起こっていると聞いたからだ。彼女によれば、警察が頻繁にうろついているらしい。
復讐するより先に彼女達が別件逮捕などされてしまえば、手が出せなくなる。恐らく犯人はあの人だろう。ならば街の住民達によって、排除されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
一彦の仇と自分の過去に対する復讐は、この手で成し遂げたい。その為には、限られた時間で執行しなければならなかった。
そこで早速和美に連絡を取り、中川も呼び出して貰うよう依頼した。その上で、作戦を実行に移す為の打ち合わせを行ったのである。
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