第五章 春香と良子の思惑
街を無事出られはしたが、二十年もの間過ごした環境から抜け出す行為は容易でなかった。表の仕事場による協力で、保証人問題はなんとかクリアできた。けれども、経済的な不安を完全に解消するまでには至らなかったからだ。
学歴のない春香のような人材に対し、高額な給与を支払ってくれる職場などない。苦労の末見つけた格安物件の支払いに加え、電気やガス、水道といった光熱費も馬鹿にならない現実など、実際暮らし始めて分かった。
部屋の生活用品は安価な物で揃えたが、一彦の分を含めた食費だって必要だ。その為人並みの暮らしで十分だと思っていたが、表の仕事だけではとてもやっていけないのが実情だった。
そうした境遇を助けてくれたのが、皮肉にもあの男達から学んだスリ師の技術である。つまり街を出て樋口家から離れたけれど、盗みの世界からは足を洗えなかったのだ。
どうしようもない嫌悪感を持って街から逃げた春香だが、この仕事だけは辞められなかった。経済的に苦しいという、切羽詰まった要因があったのは事実だ。しかし一方で、生まれ持ったスリ師としての血がそうさせていたのかもしれない。
物心がつく前から父達に叩き込まれたスリの技術を生かし、春香は堅気の仕事がない日や時間に、一彦と街を歩きながらカモを探す行動が習慣となった。その結果、ドッグラン等に集まるセレブ女性達へ近づいては、財布や貴金属を盗む生活をし始めたのだ。
愛犬家達に狙いを定めたのには、ちゃんとした理由がある。かつては肩を寄せ合い生活していたようだが、春香が住んでいた街はあくまで呼称だ。実際はそれぞれ点々と離れた別の場所で暮らしている。
その為仲間が住んでいる所は、古いアパートだったり長屋だったりした。けれどもやがて時が経つにつれ、周りはどんどんと新しい家に建て変えられていく。そうしていつのまにか、セレブもどきの輩が集まる住環境に変わっている地域がたまにあった。
そんな中で、普段は室内で飼っているらしい小型犬を散歩させる人が、必ずと言って良いほどいたのだ。もちろんそれ自体悪いとは言わない。犬を自分の子供として扱い、人間と同じような名前を付けて可愛がるのも、他人に迷惑をかけなければいいだろう。
散歩と称してカートに乗せ、亡くなった時には葬式をあげ墓を建てることもそうだ。飼い主が満足しているのなら、第三者が否定する筋合いはない。
しかし普段から、きちんとした
しかもそういう飼い主に限って、犬が嫌いな人種がいるなどと想像もしていないらしい。いたとしても怖がる人の方がおかしいと思うのか、我が物顔でリードを伸ばし歩く人が少なくなかった。
春香自身、決して犬嫌いではない。だが身近にそういう人がいた。その人は嫌な思いを頻繁にしていた。その度に愚痴を聞かされた経験が、何度もあった。その為犬に恐怖心を抱く人の気持ちが良く理解できたのである。
噛まれた経験がある等トラウマを持つ人からすれば、犬を連れて歩く姿を見るだけで駄目なのだ。出歩くこと自体が嫌になるらしい。例えしっかりリードで繋がれていても、吠えられるかもしれないと想像するだけで耐えられず、不快で苦痛に感じるという。
それなのに気遣いできない飼い主ほど堂々と歩道の中心を歩き、他人に吠えたからといって叱りもしない。
もちろん糞や小便の処理をしない、基本的なマナーすら守れない質の悪い者など論外だ。そういう傍若無人なプチセレブを見るだけで、愛犬家である春香でさえ嫌悪感を持った経験がある。
その為に罰を与えようと、スリのターゲットとして選んだのだ。そういう精神は、樋口家に伝わる教えの一つでもあったからだろう。
幼い頃より、法を犯す上でどんな相手からも盗んで良いとは教わらなかった。不公平で歪んだ世の中だからこそ、決して豊かでない者から奪ってはならない。できるだけ悪銭を身に付けた人や、世に害をなす人から盗めと学んできた。
少しでも罪悪感を薄めようという理由なのか、スリを行う上での大義名分が必要だったからかは判らない。ただ街を離れてもその教えに背かぬよう獲物を選んだ結果が、彼女達だったのである。
ただ注意が必要だったのは、街に居た頃のように集団ではなかった点だ。しかし春香には、一彦という心強い相棒がいた。一人では心細く難しい状況でも、協力者がいれば仕事はやりやすい。
標的の気を引いてくれていれば、その分相手に隙ができる。
犬達が走り回っている場所に一彦が足を踏み入れれば、周囲にいた何匹かが必ずと言っていいほど寄ってくる。そこでしばらくじゃれ合っていると、その飼い主達も彼の容姿に惹かれるのか集まるのだ。
そこへ遅れてペットショップの店員である春香が顔を出し話しかけると、初対面であろうとも紳士淑女達に警戒心を持たれず、会話に参加できた。
しばらくおしゃべりを続け、馴染んだと感じたところでいよいよ仕事である。隙を見て標的の持ち物から、財布や貴金属等をスリ取るのだ。
もちろん近くには、他の人達が大勢取り囲んでいた。さらには離れた場所から、犬達を見ている集団もいる。そんな状況下で誰にも気づかれず、瞬く間に抜き取らなければならない。
関心が犬達や人との会話に向いているとはいえ、この時程集中し緊張する瞬間はなかった。その分成功した時の達成感が、とても大きかった。
かつて街の仲間と一緒に行った仕事より、面白い程苦も無く高額な金品が手元に残った。それは大人数でやるより、取り分が全く違ったからだろう。だがその分失敗のリスクも高まる点は理解していた。
よって裏の仕事を行う際は、慎重に注意深く取り組んだ。万が一でも捕まれば、今の幸せな生活が一発で消え去る。早めに出所できたとしても、二度と同じような暮らしが望めなくなると判っていた。
下手をすれば、再びあの最下層の人々が住む街へと引き戻されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。父がいるあの街に帰ると想像するだけで悪寒が走った。
ようやくソヴェの力を借り、地獄から抜け出せたのだ。次に同じ真似をしようとしても通用しないだろうから、彼らから逃げるのはかなり難しくなるだろう。もちろん本気で解放されたければ、警察や児童虐待防止センター等に通報する方法があると知っていた。
しかしそれだけはできなかった。一般的な家庭なら実の父親が捕まったとしても、第一に自身の身を守らなければと考えられたかもしれない。だが春香の住む街でそんな真似をすれば、両親が逮捕されるだけでは済まないのだ。
しかも樋口家の人間を警察に売り渡せば、例え娘といえども街や集団の仲間が許すはずなどない。そんな行動を取ったとすれば、その後の住民の生活に多大な支障が出る。当然街の存続も危うくなるだろう。
それに幼い頃の刷り込みもあった。警察は敵であり、信用できないとの考えを根強く持っていたからだ。さらに保護してくれる福祉施設の存在も、信頼できるとはとても思えなかった。
身内である母でさえ駄目なのだ。それなのに所詮は他人であり、何の責任も持たない者に頼ろうという気など起らなかった。
実際、虐待を受けていると近所の人が警察や児童相談所に通報したけれど、全く取り合って貰えなかったという話はよく聞く。挙句の果てには殺された、との報道さえ目にした。
性的虐待を受けた実の娘が訴えても、父親が無罪になったとのニュースを聞き、更なる不信感を募らせたこともある。そうした事例を見聞きした時、彼らに頼らないという自分の決断は正しかったと確信した程だ。
その事件では、よりにもよって裁判所は被害を受けた娘と父親との間に合意はなく、精神的支配下に置いていたと認めたにも関わらず、心理的抗拒不能とまでは言えないと判断して無罪判決を下したのだ。
抵抗をしようと思えばできたはずだから、それをしなかった娘にも非があったと言わんばかりの物言いである。逆らえないような精神的支配下で、無理やり暴行をした父に罪はないと判断されるなら、誰も裁判所を信用して警察に通報し訴える等できるはずがない。
それまでも信じられるのは自分だけであり、客観的な事実と知識だけだと学んできたから、余計にそう思ったのだろう。だから春香は二十歳になるまで、生き地獄を耐えてきた。
そうやってこれたのも、街を出て父から離れることが出来さえすれば、後は天国のような生活が待っていると想像し続けたからだ。その一助となったのが、一彦の存在である。春香がこの世で最も大切で、無償の愛というものがあると教えてくれたのは彼だ。
互いに気の許せる同士で、新たな生活が送れると考えただけで幸せな気分に浸れた。彼の存在無くして、春香はこの世で生き続けようと思わなかっただろう。
彼は生まれたばかりの頃、街の一角に捨てられていたところを拾われた。その人がたまたま父の属するスリ集団の一人であり、面倒を看るようになったのだ。そうした経緯から、春香もよく一緒に遊ぶ機会があった。
やがて彼の存在が春香にとって反吐が出るほど嫌っていた街における、唯一の生甲斐となったのだ。一彦の面倒を看ていた女性は彼に対し愛情を注いでおらず、時には食事さえ与え忘れる程放任していた。それを知った春香が、代わりに食べ物を用意したこともある。
その為彼も春香に信頼を寄せ、時には甘えてくるようにもなった。やがて互いに気の置けない関係となり、街を出る時は一緒に住もうと決心したのだ。
彼は全く抵抗もせず、ついて行くのが当然とばかりに春香が借りた部屋へ住み着いた。おかげでこれまで死なずに生きて来たのは彼の為だったと思うほど、春香の新しい生活は充実していた。
人間は何故生きるのか。その答えの一つに、誰かを幸せにする為という言葉がある。この時の春香にとって、まさしくそれが真実だと思っていた。
それでも街を出たしばらくの間は、父やその仲間からの追手に怯えていた。その為力ずくで連れ去られた場合に備え、ソヴェの助言等もあっていくつか手を打っていた。だからかやがて居場所を突き止めたらしい樋口家の人達も、強引な手段は取れなかったようだ。
何故なら仕事場や部屋を借りる際お世話になった大家達に、しつこく付き
警察に目を付けられ厄介な事になると判れば、彼らも下手に騒ぎ立てようとは思わない。そうした予防線を張っておけば、用心深い街の住民なら尚更慎重にならざるを得なかった。
また春香はアパートの住民達とコミュニケーションを取る方法で、更なる安全対策を施していた。特に部屋の隣人が、五十代の一人暮らしの女性だった点も幸いした。
相手にとっては、春香が娘のような年齢だったからだろう。ある程度親しくなった頃を見計らい、ここへ引っ越してきた事情の一部を説明した。すると彼女はとても同情してくれ、親身になってくれたのである。
おかげでそう簡単には近づけない体制を整えられた。やがて父の影に怖気づく必要もなくなり、春香は一彦との生活を満喫し始めたのである。
それでもスリ師である父達を嫌悪しながら街を出ても、幼い頃から学んだ技を使わねば暮らしていけない現実に直面していた。そんなジレンマを抱えながら生き続けなければいけないのかと、いつも苦しんでいたのである。
良子の家は、祖父の代から山塚の住民だ。十五歳の時に戦争で親兄弟や親戚全てを失い、人の物や食べ物を盗んで何とか生き延びてきたという。そんな時、樋口家を中心とした人達に拾われたそうだ。同じような仲間がいた為に、とても心強かったと聞いている。
主な仕事は、ひったくりや置き引きが専門だったそうだ。当初は懸命に街づくりや窃盗の仕事をこなし、役立っていたらしい。ひもじい腹を満たす為、目の前の与えられた役割をこなすしかなかったからだろう。
また結婚して良子の父を産んだ。まだ二十二歳で、街作りから三年程度しか経っていなかった頃らしい。ただ周囲では仲間が多ければ多い程、良いとされていた。
だが様々な理由で分裂を繰り返し、街を離れた者が多くいたという。その中に良子の祖父もいたのだ。父が十歳の時、もっと金を稼ぎたいと欲をかいた連中に
その上祖母や父を捨て、一人で出て行ったのだ。それが一九六二年の事である。
そうした集団がごっそりと抜けた後は、同じように女や幼い子供達が街に大勢残されたという。その為祖母と父達の生活は、一時相当困窮したようだ。
それでも街に相互扶助の精神があったおかげで、生き延びられたらしい。皆の生活を良くしようと、残った集団の頭領達がより一層仕事に励んだからだろう。
その頃から周囲に裕福な家庭が増大し始め、得られる稼ぎが膨らんだ時代背景も助けとなったようだ。また街に留まったのは、腕に自信がある者ばかりだったという。それに志の高い人が多かったからか、結束はより強くなったそうだ。
良子の祖母は子供が父一人だったので、もっと幼い子供や数人も抱え困っている家庭を回り補助する仕事についた。そうした役目を果たす代わりに、街から生活できるだけの資金を提供して貰えたという。
当時はもはや戦後でないと言われ、高度成長期を迎えていた。国の経済的成長政策と、児童福祉の拮抗が始まったとも言われる時代だったらしい。
というのも児童相談所の現状は極めて貧弱であり、一九六〇年でその数は全国でわずかに一二三ヵ所だったからだろう。職員についても不十分であり、機能強化の為に抜本的対策を講ずべきと言われていたそうだ。
ちなみに当時福祉事務所が一〇一〇ヵ所、保健所が七九四ヵ所あった。そうした実態から比較しても、国や自治体が児童相談所の存在を軽んじていたと言われても止むを得ない。
そのような不十分な政策の影響か、一九六一年には子供の非行が問題となり、睡眠薬遊びが流行し世間を騒がせていた。一九六三年には政府が異例ともいえる初の児童白書を発行し、今や児童は危機的な段階にあると警鐘を鳴らしたほどだったという。
経済成長の目標は人間の福祉の増進向上にあるはずだが、実際は逆の作用をしていたようだ。要するに、児童を取り巻く家庭や社会環境に対する配慮が乏しすぎたのである。
こうした経緯から少なくとも街の住民達だけは守ろうと、樋口家が中心となり独自で子供の面倒を看る施設を設立した。後に良子の姉貴分にあたる和美が拾われた場所は、祖母達が最初に果たした仕事によって誕生した、成果の一つだと聞いている。
しかし何とか生活できていたけれども、祖母達の暮らしは決して豊かと言えなかった。それに他人の子供の世話に必死となり、我が子へ愛情を注げなかったらしい。それが父の性根を曲げてしまったのだろう。
成人した良子の父は、祖父と同じひったくりや置き引きを主とする窃盗集団に属した。表向きの仕事は盗みに役立つだろうと、その頃各地に増えだしたショッピングセンターの清掃員をしていたようだ。
しかし祖父同様、元々素質があった訳でもない。また自分を捨てた親と同じ仕事に就いたからか、心の中では嫌悪感を持っていたらしい。その程度のやる気では、盗みの腕も上達するはずがなかった。
それでも生活の為にはやるしかなく、嫌々ながら励んでいたようだ。貧しい母子家庭では、選択する余地などなかったからだろう。だがやがて自分より若い者に追い越され、集団の中における父の位置づけは下がるばかりだった。
それが面白くなかったらしい。夜になると飲み歩く癖がつき、そこで知り合った女と関係を持って妊娠させてしまったのだ。その子供が良子である。
父が二十四歳で、母はまだ十九歳だった。どうしようもない男でも五歳年上ならば、頼りがいのある大人に見えたのかもしれない。母は父と結婚して、温かい家庭を作る夢を持っていたようだ。
しかし現実はそう甘くなかった。父は与えられた堅気の仕事もさぼりがちになり、とうとう首になった。母と一緒に暮らす生活や、まして子供を育てるなど真剣に考えていなかったのだろう。
ただ母は街の住民でなかった。その為下手な扱いをして騒がれると困る。そうしたトラブルは街でご法度とされていたからだ。警察沙汰になれば目をつけられ、仲間にも迷惑をかけてしまう。
そこで突き放せないままずるずると付き合いが続き、集団の頭領による勧めもあり籍を入れたらしい。最初は祖母との同居から始まったようだ。
というのは母も別の理由で父親に出て行かれ、生活保護を受けていた家庭で育ったからだという。しかも兄弟姉妹が他に四人もいた中で育った為、とても貧しかったらしい。
子供が五人もいれば、それなりの生活扶助は受けていたはずだ。けれど母親がパチンコ等のギャンブルに嵌まっていたのが貧困の原因だったという。勝っている時は大盤振る舞いをするが、大負けすると極端にひもじい生活を強いられていた。
その為母は幼い頃から、新聞配達等の仕事をしつつ学校に通っていたようだ。よってまともに勉強などしてこなかったらしい。やがて中学卒業後には年を偽り、比較的金になるホステスの仕事を始めたのである。
しかし稼いでも稼いでも、その金は母親に奪われていたと聞く。長女で一番上だったから、下の兄弟姉妹の養育費を出さなければならないと脅されていたからだ。それでも可愛い兄弟姉妹達の為だと懸命に働き、自分の事を後回しにして家にお金を入れていたという。
それがおかしな話だと教えられたのは、父と出会ってからのようだ。店の客とホステスという間柄から深い関係になった時、家庭の事情を互いに話すようになったらしい。その時父は言ったという。
「お前、それは母親に騙されているぞ」
最初は何を言っているのか理解できなかったそうだ。しかし何度も説明をされ、他の人達にも聞いたところ父の言葉が正しいとようやく分かったらしい。
そこで家に帰り、母親に生まれて初めて抗議したそうだ。すると今までにはなかった反抗をし始めた娘に驚いたようだが、次第に本性をだして怒鳴り始めたという。
「あんたを産んでここまで育てたのは誰だと思っているの。私よ! その親の言いつけを守るのは当たり前でしょう。あなたは私の言うことさえ聞いていればいいの! 誰に入れ知恵されたか知らないけど、家にはそれぞれルールってものがあるんだ。余所の人間が口を出すんじゃない! そう言ってやりな!」
学のない母でも、やはり相手が間違っていると気付いたのだろう。父やその他の忠告が正しかったと改めて理解し、自分が家を出るしかないとその時思ったそうだ。
やがて親と縁を切った母は、父の家に転がり込んだのである。そうした事情を聞いた父方の祖母や街の住民達は、温かく迎え入れたという。そういった経緯もあり、良子は祖母と両親のいる家で生まれたのである。
しかし二人の結婚生活は、長く続かなかった。元から母に対し愛情が薄かった父は、気に入らないとすぐ殴るようになったらしい。しかも良子にまで暴力を振るい始めた。
そこで祖母が集団の頭領に相談し、諭してもらうよう頭を下げたという。当然街では許されない行為だ。父は相当厳しく指導を受けた。その時素直に頭領達の言う通りにして、態度を改めていれば問題は起こらなかっただろう。
しかしそうならなかった。父はそれまで抱えていた不満もあったに違いない。突然街を出て行ってしまったのだ。そうして祖母と母、良子の三人での貧しい生活が始まった。
祖母は施設で、母は街が経営する飲み屋で再びホステスの仕事をして、なんとか暮らしていた。良子は幼心に早く大きくなり自分でも仕事をしてお金を稼ぎ、こんな生活から脱却するのだと心に誓ったのもこうした背景があったからだ。
それでも街の子供は、最低でも高校まで勉強をしなければならないとの規則があった。加えて同じ街の仲間同士で、助け合わなければならないとも教え込まれていたのである。
そんな中で三歳年上の徹は、良子にとって幼い時から憧れの存在だった。彼はいつも同年代における仲間達の中心にいて、とても目立っていた。彼の父がスリ師の頭領であり、祖父が街の創始者の一人だと言う血筋も影響していたかもしれない。
樋口家は代々、山塚におけるスリ集団の元締め的役割を担ってきた。その為徹もまた、その血を受け継ぐ後継者として大事にされていたのだろう。貧しい家庭で育ち、長屋の片隅でこっそりと生きて来た良子とは、立場が大きく違った。
だからこそ彼らの仲間に入れて欲しいが為に、いつもついて回り少しでも役に立とうと、汚れ仕事でも何でも引き受けるようになった。また似た境遇で仲良くなった一つ年上の和美が、樋口家の世話になっていたことも大きなきっかけとなったのである。
街を無事出られはしたが、二十年もの間過ごした環境から抜け出す行為は容易でなかった。表の仕事場による協力で、保証人問題はなんとかクリアできた。けれども、経済的な不安を完全に解消するまでには至らなかったからだ。
学歴のない春香のような人材に対し、高額な給与を支払ってくれる職場などない。苦労の末見つけた格安物件の支払いに加え、電気やガス、水道といった光熱費も馬鹿にならない現実など、実際暮らし始めて分かった。
部屋の生活用品は安価な物で揃えたが、一彦の分を含めた食費だって必要だ。その為人並みの暮らしで十分だと思っていたが、表の仕事だけではとてもやっていけないのが実情だった。
そうした境遇を助けてくれたのが、皮肉にもあの男達から学んだスリ師の技術である。つまり街を出て樋口家から離れたけれど、盗みの世界からは足を洗えなかったのだ。
どうしようもない嫌悪感を持って街から逃げた春香だが、この仕事だけは辞められなかった。経済的に苦しいという、切羽詰まった要因があったのは事実だ。しかし一方で、生まれ持ったスリ師としての血がそうさせていたのかもしれない。
物心がつく前から父達に叩き込まれたスリの技術を生かし、春香は堅気の仕事がない日や時間に、一彦と街を歩きながらカモを探す行動が習慣となった。その結果、ドッグラン等に集まるセレブ女性達へ近づいては、財布や貴金属を盗む生活をし始めたのだ。
愛犬家達に狙いを定めたのには、ちゃんとした理由がある。かつては肩を寄せ合い生活していたようだが、春香が住んでいた街はあくまで呼称だ。実際はそれぞれ点々と離れた別の場所で暮らしている。
その為仲間が住んでいる所は、古いアパートだったり長屋だったりした。けれどもやがて時が経つにつれ、周りはどんどんと新しい家に建て変えられていく。そうしていつのまにか、セレブもどきの輩が集まる住環境に変わっている地域がたまにあった。
そんな中で、普段は室内で飼っているらしい小型犬を散歩させる人が、必ずと言って良いほどいたのだ。もちろんそれ自体悪いとは言わない。犬を自分の子供として扱い、人間と同じような名前を付けて可愛がるのも、他人に迷惑をかけなければいいだろう。
散歩と称してカートに乗せ、亡くなった時には葬式をあげ墓を建てることもそうだ。飼い主が満足しているのなら、第三者が否定する筋合いはない。
しかし普段から、きちんとした
しかもそういう飼い主に限って、犬が嫌いな人種がいるなどと想像もしていないらしい。いたとしても怖がる人の方がおかしいと思うのか、我が物顔でリードを伸ばし歩く人が少なくなかった。
春香自身、決して犬嫌いではない。だが身近にそういう人がいた。その人は嫌な思いを頻繁にしていた。その度に愚痴を聞かされた経験が、何度もあった。その為犬に恐怖心を抱く人の気持ちが良く理解できたのである。
噛まれた経験がある等トラウマを持つ人からすれば、犬を連れて歩く姿を見るだけで駄目なのだ。出歩くこと自体が嫌になるらしい。例えしっかりリードで繋がれていても、吠えられるかもしれないと想像するだけで耐えられず、不快で苦痛に感じるという。
それなのに気遣いできない飼い主ほど堂々と歩道の中心を歩き、他人に吠えたからといって叱りもしない。
もちろん糞や小便の処理をしない、基本的なマナーすら守れない質の悪い者など論外だ。そういう傍若無人なプチセレブを見るだけで、愛犬家である春香でさえ嫌悪感を持った経験がある。
その為に罰を与えようと、スリのターゲットとして選んだのだ。そういう精神は、樋口家に伝わる教えの一つでもあったからだろう。
幼い頃より、法を犯す上でどんな相手からも盗んで良いとは教わらなかった。不公平で歪んだ世の中だからこそ、決して豊かでない者から奪ってはならない。できるだけ悪銭を身に付けた人や、世に害をなす人から盗めと学んできた。
少しでも罪悪感を薄めようという理由なのか、スリを行う上での大義名分が必要だったからかは判らない。ただ街を離れてもその教えに背かぬよう獲物を選んだ結果が、彼女達だったのである。
ただ注意が必要だったのは、街に居た頃のように集団ではなかった点だ。しかし春香には、一彦という心強い相棒がいた。一人では心細く難しい状況でも、協力者がいれば仕事はやりやすい。
標的の気を引いてくれていれば、その分相手に隙ができる。
犬達が走り回っている場所に一彦が足を踏み入れれば、周囲にいた何匹かが必ずと言っていいほど寄ってくる。そこでしばらくじゃれ合っていると、その飼い主達も彼の容姿に惹かれるのか集まるのだ。
そこへ遅れてペットショップの店員である春香が顔を出し話しかけると、初対面であろうとも紳士淑女達に警戒心を持たれず、会話に参加できた。
しばらくおしゃべりを続け、馴染んだと感じたところでいよいよ仕事である。隙を見て標的の持ち物から、財布や貴金属等をスリ取るのだ。
もちろん近くには、他の人達が大勢取り囲んでいた。さらには離れた場所から、犬達を見ている集団もいる。そんな状況下で誰にも気づかれず、瞬く間に抜き取らなければならない。
関心が犬達や人との会話に向いているとはいえ、この時程集中し緊張する瞬間はなかった。その分成功した時の達成感が、とても大きかった。
かつて街の仲間と一緒に行った仕事より、面白い程苦も無く高額な金品が手元に残った。それは大人数でやるより、取り分が全く違ったからだろう。だがその分失敗のリスクも高まる点は理解していた。
よって裏の仕事を行う際は、慎重に注意深く取り組んだ。万が一でも捕まれば、今の幸せな生活が一発で消え去る。早めに出所できたとしても、二度と同じような暮らしが望めなくなると判っていた。
下手をすれば、再びあの最下層の人々が住む街へと引き戻されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。父がいるあの街に帰ると想像するだけで悪寒が走った。
ようやくソヴェの力を借り、地獄から抜け出せたのだ。次に同じ真似をしようとしても通用しないだろうから、彼らから逃げるのはかなり難しくなるだろう。もちろん本気で解放されたければ、警察や児童虐待防止センター等に通報する方法があると知っていた。
しかしそれだけはできなかった。一般的な家庭なら実の父親が捕まったとしても、第一に自身の身を守らなければと考えられたかもしれない。だが春香の住む街でそんな真似をすれば、両親が逮捕されるだけでは済まないのだ。
しかも樋口家の人間を警察に売り渡せば、例え娘といえども街や集団の仲間が許すはずなどない。そんな行動を取ったとすれば、その後の住民の生活に多大な支障が出る。当然街の存続も危うくなるだろう。
それに幼い頃の刷り込みもあった。警察は敵であり、信用できないとの考えを根強く持っていたからだ。さらに保護してくれる福祉施設の存在も、信頼できるとはとても思えなかった。
身内である母でさえ駄目なのだ。それなのに所詮は他人であり、何の責任も持たない者に頼ろうという気など起らなかった。
実際、虐待を受けていると近所の人が警察や児童相談所に通報したけれど、全く取り合って貰えなかったという話はよく聞く。挙句の果てには殺された、との報道さえ目にした。
性的虐待を受けた実の娘が訴えても、父親が無罪になったとのニュースを聞き、更なる不信感を募らせたこともある。そうした事例を見聞きした時、彼らに頼らないという自分の決断は正しかったと確信した程だ。
その事件では、よりにもよって裁判所は被害を受けた娘と父親との間に合意はなく、精神的支配下に置いていたと認めたにも関わらず、心理的抗拒不能とまでは言えないと判断して無罪判決を下したのだ。
抵抗をしようと思えばできたはずだから、それをしなかった娘にも非があったと言わんばかりの物言いである。逆らえないような精神的支配下で、無理やり暴行をした父に罪はないと判断されるなら、誰も裁判所を信用して警察に通報し訴える等できるはずがない。
それまでも信じられるのは自分だけであり、客観的な事実と知識だけだと学んできたから、余計にそう思ったのだろう。だから春香は二十歳になるまで、生き地獄を耐えてきた。
そうやってこれたのも、街を出て父から離れることが出来さえすれば、後は天国のような生活が待っていると想像し続けたからだ。その一助となったのが、一彦の存在である。春香がこの世で最も大切で、無償の愛というものがあると教えてくれたのは彼だ。
互いに気の許せる同士で、新たな生活が送れると考えただけで幸せな気分に浸れた。彼の存在無くして、春香はこの世で生き続けようと思わなかっただろう。
彼は生まれたばかりの頃、街の一角に捨てられていたところを拾われた。その人がたまたま父の属するスリ集団の一人であり、面倒を看るようになったのだ。そうした経緯から、春香もよく一緒に遊ぶ機会があった。
やがて彼の存在が春香にとって反吐が出るほど嫌っていた街における、唯一の生甲斐となったのだ。一彦の面倒を看ていた女性は彼に対し愛情を注いでおらず、時には食事さえ与え忘れる程放任していた。それを知った春香が、代わりに食べ物を用意したこともある。
その為彼も春香に信頼を寄せ、時には甘えてくるようにもなった。やがて互いに気の置けない関係となり、街を出る時は一緒に住もうと決心したのだ。
彼は全く抵抗もせず、ついて行くのが当然とばかりに春香が借りた部屋へ住み着いた。おかげでこれまで死なずに生きて来たのは彼の為だったと思うほど、春香の新しい生活は充実していた。
人間は何故生きるのか。その答えの一つに、誰かを幸せにする為という言葉がある。この時の春香にとって、まさしくそれが真実だと思っていた。
それでも街を出たしばらくの間は、父やその仲間からの追手に怯えていた。その為力ずくで連れ去られた場合に備え、ソヴェの助言等もあっていくつか手を打っていた。だからかやがて居場所を突き止めたらしい樋口家の人達も、強引な手段は取れなかったようだ。
何故なら仕事場や部屋を借りる際お世話になった大家達に、しつこく付き
警察に目を付けられ厄介な事になると判れば、彼らも下手に騒ぎ立てようとは思わない。そうした予防線を張っておけば、用心深い街の住民なら尚更慎重にならざるを得なかった。
また春香はアパートの住民達とコミュニケーションを取る方法で、更なる安全対策を施していた。特に部屋の隣人が、五十代の一人暮らしの女性だった点も幸いした。
相手にとっては、春香が娘のような年齢だったからだろう。ある程度親しくなった頃を見計らい、ここへ引っ越してきた事情の一部を説明した。すると彼女はとても同情してくれ、親身になってくれたのである。
おかげでそう簡単には近づけない体制を整えられた。やがて父の影に怖気づく必要もなくなり、春香は一彦との生活を満喫し始めたのである。
それでもスリ師である父達を嫌悪しながら街を出ても、幼い頃から学んだ技を使わねば暮らしていけない現実に直面していた。そんなジレンマを抱えながら生き続けなければいけないのかと、いつも苦しんでいたのである。
良子の家は、祖父の代から山塚の住民だ。十五歳の時に戦争で親兄弟や親戚全てを失い、人の物や食べ物を盗んで何とか生き延びてきたという。そんな時、樋口家を中心とした人達に拾われたそうだ。同じような仲間がいた為に、とても心強かったと聞いている。
主な仕事は、ひったくりや置き引きが専門だったそうだ。当初は懸命に街づくりや窃盗の仕事をこなし、役立っていたらしい。ひもじい腹を満たす為、目の前の与えられた役割をこなすしかなかったからだろう。
また結婚して良子の父を産んだ。まだ二十二歳で、街作りから三年程度しか経っていなかった頃らしい。ただ周囲では仲間が多ければ多い程、良いとされていた。
だが様々な理由で分裂を繰り返し、街を離れた者が多くいたという。その中に良子の祖父もいたのだ。父が十歳の時、もっと金を稼ぎたいと欲をかいた連中に
その上祖母や父を捨て、一人で出て行ったのだ。それが一九六二年の事である。
そうした集団がごっそりと抜けた後は、同じように女や幼い子供達が街に大勢残されたという。その為祖母と父達の生活は、一時相当困窮したようだ。
それでも街に相互扶助の精神があったおかげで、生き延びられたらしい。皆の生活を良くしようと、残った集団の頭領達がより一層仕事に励んだからだろう。
その頃から周囲に裕福な家庭が増大し始め、得られる稼ぎが膨らんだ時代背景も助けとなったようだ。また街に留まったのは、腕に自信がある者ばかりだったという。それに志の高い人が多かったからか、結束はより強くなったそうだ。
良子の祖母は子供が父一人だったので、もっと幼い子供や数人も抱え困っている家庭を回り補助する仕事についた。そうした役目を果たす代わりに、街から生活できるだけの資金を提供して貰えたという。
当時はもはや戦後でないと言われ、高度成長期を迎えていた。国の経済的成長政策と、児童福祉の拮抗が始まったとも言われる時代だったらしい。
というのも児童相談所の現状は極めて貧弱であり、一九六〇年でその数は全国でわずかに一二三ヵ所だったからだろう。職員についても不十分であり、機能強化の為に抜本的対策を講ずべきと言われていたそうだ。
ちなみに当時福祉事務所が一〇一〇ヵ所、保健所が七九四ヵ所あった。そうした実態から比較しても、国や自治体が児童相談所の存在を軽んじていたと言われても止むを得ない。
そのような不十分な政策の影響か、一九六一年には子供の非行が問題となり、睡眠薬遊びが流行し世間を騒がせていた。一九六三年には政府が異例ともいえる初の児童白書を発行し、今や児童は危機的な段階にあると警鐘を鳴らしたほどだったという。
経済成長の目標は人間の福祉の増進向上にあるはずだが、実際は逆の作用をしていたようだ。要するに、児童を取り巻く家庭や社会環境に対する配慮が乏しすぎたのである。
こうした経緯から少なくとも街の住民達だけは守ろうと、樋口家が中心となり独自で子供の面倒を看る施設を設立した。後に良子の姉貴分にあたる和美が拾われた場所は、祖母達が最初に果たした仕事によって誕生した、成果の一つだと聞いている。
しかし何とか生活できていたけれども、祖母達の暮らしは決して豊かと言えなかった。それに他人の子供の世話に必死となり、我が子へ愛情を注げなかったらしい。それが父の性根を曲げてしまったのだろう。
成人した良子の父は、祖父と同じひったくりや置き引きを主とする窃盗集団に属した。表向きの仕事は盗みに役立つだろうと、その頃各地に増えだしたショッピングセンターの清掃員をしていたようだ。
しかし祖父同様、元々素質があった訳でもない。また自分を捨てた親と同じ仕事に就いたからか、心の中では嫌悪感を持っていたらしい。その程度のやる気では、盗みの腕も上達するはずがなかった。
それでも生活の為にはやるしかなく、嫌々ながら励んでいたようだ。貧しい母子家庭では、選択する余地などなかったからだろう。だがやがて自分より若い者に追い越され、集団の中における父の位置づけは下がるばかりだった。
それが面白くなかったらしい。夜になると飲み歩く癖がつき、そこで知り合った女と関係を持って妊娠させてしまったのだ。その子供が良子である。
父が二十四歳で、母はまだ十九歳だった。どうしようもない男でも五歳年上ならば、頼りがいのある大人に見えたのかもしれない。母は父と結婚して、温かい家庭を作る夢を持っていたようだ。
しかし現実はそう甘くなかった。父は与えられた堅気の仕事もさぼりがちになり、とうとう首になった。母と一緒に暮らす生活や、まして子供を育てるなど真剣に考えていなかったのだろう。
ただ母は街の住民でなかった。その為下手な扱いをして騒がれると困る。そうしたトラブルは街でご法度とされていたからだ。警察沙汰になれば目をつけられ、仲間にも迷惑をかけてしまう。
そこで突き放せないままずるずると付き合いが続き、集団の頭領による勧めもあり籍を入れたらしい。最初は祖母との同居から始まったようだ。
というのは母も別の理由で父親に出て行かれ、生活保護を受けていた家庭で育ったからだという。しかも兄弟姉妹が他に四人もいた中で育った為、とても貧しかったらしい。
子供が五人もいれば、それなりの生活扶助は受けていたはずだ。けれど母親がパチンコ等のギャンブルに嵌まっていたのが貧困の原因だったという。勝っている時は大盤振る舞いをするが、大負けすると極端にひもじい生活を強いられていた。
その為母は幼い頃から、新聞配達等の仕事をしつつ学校に通っていたようだ。よってまともに勉強などしてこなかったらしい。やがて中学卒業後には年を偽り、比較的金になるホステスの仕事を始めたのである。
しかし稼いでも稼いでも、その金は母親に奪われていたと聞く。長女で一番上だったから、下の兄弟姉妹の養育費を出さなければならないと脅されていたからだ。それでも可愛い兄弟姉妹達の為だと懸命に働き、自分の事を後回しにして家にお金を入れていたという。
それがおかしな話だと教えられたのは、父と出会ってからのようだ。店の客とホステスという間柄から深い関係になった時、家庭の事情を互いに話すようになったらしい。その時父は言ったという。
「お前、それは母親に騙されているぞ」
最初は何を言っているのか理解できなかったそうだ。しかし何度も説明をされ、他の人達にも聞いたところ父の言葉が正しいとようやく分かったらしい。
そこで家に帰り、母親に生まれて初めて抗議したそうだ。すると今までにはなかった反抗をし始めた娘に驚いたようだが、次第に本性をだして怒鳴り始めたという。
「あんたを産んでここまで育てたのは誰だと思っているの。私よ! その親の言いつけを守るのは当たり前でしょう。あなたは私の言うことさえ聞いていればいいの! 誰に入れ知恵されたか知らないけど、家にはそれぞれルールってものがあるんだ。余所の人間が口を出すんじゃない! そう言ってやりな!」
学のない母でも、やはり相手が間違っていると気付いたのだろう。父やその他の忠告が正しかったと改めて理解し、自分が家を出るしかないとその時思ったそうだ。
やがて親と縁を切った母は、父の家に転がり込んだのである。そうした事情を聞いた父方の祖母や街の住民達は、温かく迎え入れたという。そういった経緯もあり、良子は祖母と両親のいる家で生まれたのである。
しかし二人の結婚生活は、長く続かなかった。元から母に対し愛情が薄かった父は、気に入らないとすぐ殴るようになったらしい。しかも良子にまで暴力を振るい始めた。
そこで祖母が集団の頭領に相談し、諭してもらうよう頭を下げたという。当然街では許されない行為だ。父は相当厳しく指導を受けた。その時素直に頭領達の言う通りにして、態度を改めていれば問題は起こらなかっただろう。
しかしそうならなかった。父はそれまで抱えていた不満もあったに違いない。突然街を出て行ってしまったのだ。そうして祖母と母、良子の三人での貧しい生活が始まった。
祖母は施設で、母は街が経営する飲み屋で再びホステスの仕事をして、なんとか暮らしていた。良子は幼心に早く大きくなり自分でも仕事をしてお金を稼ぎ、こんな生活から脱却するのだと心に誓ったのもこうした背景があったからだ。
それでも街の子供は、最低でも高校まで勉強をしなければならないとの規則があった。加えて同じ街の仲間同士で、助け合わなければならないとも教え込まれていたのである。
そんな中で三歳年上の徹は、良子にとって幼い時から憧れの存在だった。彼はいつも同年代における仲間達の中心にいて、とても目立っていた。彼の父がスリ師の頭領であり、祖父が街の創始者の一人だと言う血筋も影響していたかもしれない。
樋口家は代々、山塚におけるスリ集団の元締め的役割を担ってきた。その為徹もまた、その血を受け継ぐ後継者として大事にされていたのだろう。貧しい家庭で育ち、長屋の片隅でこっそりと生きて来た良子とは、立場が大きく違った。
だからこそ彼らの仲間に入れて欲しいが為に、いつもついて回り少しでも役に立とうと、汚れ仕事でも何でも引き受けるようになった。また似た境遇で仲良くなった一つ年上の和美が、樋口家の世話になっていたことも大きなきっかけとなったのである。
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