第四章 街の女達の思惑

 真っ先に殺したかったのは、あの男だった。しかしそう簡単にはいかない。そこで実の娘を虐待しているとの噂があった後藤を、最初のターゲットにしたのだ。

 理由はいくつかある。一つはかつて私が座敷牢に入れられた時、お仕置きという名の元に襲われた経験があったからだ。その大人達の一人が後藤の父親だった。

 けれど当の本人は、現在刑務所に入っている。三年程前、空き巣に入った先でいないはずの家人とばったりと顔を会わせたらしい。その際に揉め合った末、勢い余って殺してしまったのだ。

 よって強盗殺人の罪で無期懲役の判決を受け、いつ出所できるかどうかなど判らない。それより問題なのは、あの男の血を引く息子が同じ行為をしていた点だ。

 虐待は連鎖すると言われているが、後藤もまたあの父親から暴行を受けていたに違いない。だからといって自分の娘を襲うなど、許されるはずがなかった。

愚かな連鎖は断ち切らなければならない。そうしないと私のように苦しむ人間は増える一方だと、この年になってようやく悟ったのだ。

 きっかけとなったのは、後藤の妻がパートしているスーパーの片隅で、泣いている現場を見たからだ。彼女がスマホを片手に話をしている所を、私は偶然通りかかったのである。

 しかし深刻そうな表情をしていた為、声をかけるタイミングを失った。そこで期せずして、店の陰から盗み聞きするような状態となったのだ。

 相手はどうやら娘だったらしい。彼女は何か叫んで電話を切った後、座り込んで号泣し始めたのである。そしてこう言ったのだ。

「ごめんね。私にはお父さんを止められない」

 その既視感のある姿を目にした瞬間、私の脳に長い間忘れていたおぞましい記憶が蘇った。

 初めてあの人から性的暴力を受けたのは、座敷牢に入れられる少し前だった。しかし当時は私が可愛く、愛しているからだと言い聞かされ、それを信じていた。痛くて気持ち悪かったが、大事にされているという安心感もあり、受け入れていたのである。

 けれど牢から解放され、家に戻った後も何故かあの人からの行為だけは続けられた。まだ許されていないのかと考えた時もある。そこでどうしてなのか尋ねると、何の説明もなく殴られたのだ。

 ある日それが全く理解できずにいた私が助けを求めた時、まさしくあの女が発したのと同じ言葉を投げつけられたのである。

「ごめんね。私にはお父さんを止められない」

 それからこの絶望的な世界に、私の逃げ場所は無いのだと理解した。逆らうという選択肢はなく、抵抗すれば暴力を振るわれるのだ。

 それでもここにいなければ、屋根のある場所で寝たり食べ物を与えて貰ったりもできない。学校へだって行けなかっただろう。私には従うという選択肢しか、残されていなかったのである。

 そこから先の記憶はほとんどなかった。気付けば中学を卒業した後、知らぬ間にそういう行為をされ無くなっていたのだ。

 後にそれはただ一時的にあの人の関心が、他の女性や子供に向いていただけだと知った。何故なら再びあの悪夢が思い出したように蘇り、しいたげられたからだ。

 私は自分の身と心を守る為、無抵抗と無心になる方法を覚えた。だからこれまで忘れていたのである。そうでなければ生き続けられなかったからだろう。

 しかし時折、ふとしたタイミングで思い出す時があった。その度にもがき苦しみ、時には自分の体を傷つけたい衝動に駆られたものだ。そこで無意識に防衛機能が働くのか心の扉が強制的に閉められ、記憶を消してきたのである。

 だが今回だけは違った。後藤の妻の姿がどうしても忘れられず、それどころか今までに無い怒りの感情が芽生えてきたのだ。まさしく更なる悲劇を生み出した、あの事件を起こした頃のようだった。 

 ふつふつと沸いてくる衝動を、自分では抑えられなくなっていた。恐らく他の件でも腹立たしく思い、憎んだり悲しんだりしていたからかもしれない。そうした様々なストレスが、長い間心の奥底に閉じ込めていたトラウマを噴出させたのだろう。共に化学反応を起こし、狂気を呼び覚ましたに違いない。

 私はどうしても収まらないいきどおりを鎮める為、どうすれば良いかそればかりを考えるようになった。そうでなければ発狂してしまい、自ら死を選びかねないと思ったからだ。

 それでもあれから時が経ち、大人になったからだろう。安易に自死を選べば憎むべき相手が喜ぶだけだと、落ち着いて思い直せるようになっていた。

 それに復讐する為の手段を考えている間は、脳が興奮していたからだろう。その時間だけは怒りや苦しみを、一時的に和らげられたのである。加えてあの頃とは違い、今の自分が得た街の中における立場の差が、様々な選択肢を与えてくれた点も大きかった。

 そこで泣いていたあの女に声をかけ、話を聞くなど様々な情報収集を始めたのである。結果貧困や差別の連鎖により街が未だに無くならず存在し続けてきたように、虐待も連鎖しているのだと気が付いた。

 だから私は決心した。どうにかこれを阻止しなければならない。そうしなければ、自分と同じ被害者がこれからも次々と生まれ続けるだろう。これこそが今まで命を長らえて来た、私の使命だと思い込むようになったのである。

 一度そう決めた時点で、私は性的虐待している者をピックアップした。そして逮捕されるまで、彼らの命を奪い続ける覚悟を決めたのだ。その第一の標的が、泣いていた女の夫である後藤だった。

 実行はそれほど難しくなかった。相手とそれ程深い付き合いがなくても、同じ街の住民だ。しかも私の立場を使えば、近づくのは容易い。そこに女という武器を加えれば、引っ掛からないはずがなかった。

 子供を相手にしているとはいえ、所詮助平な男達だ。女房や頭領など、他の人には知られないよう会いたい。そう耳元にささやくだけで良かった。

 そうすれば勝手に向こうから、都合の良い場所や時間帯を指示してきたのである。連絡に携帯などは使用しなかった。利用したのは街の角にある町内掲示板だ。そこに予め決めた暗号文の載った文書を、張り付けておくだけで良かった。

 これは私と会っている所を見られないようにするだけでなく、他の人へ疑いがかからない為にも必要な手段だった。予想通り声をかけた男達は、周辺にいる人物達が何かしら予定の入っている時間を選んで私を呼んだ。

 三人共がお昼でしかも場所が自宅だったのは偶然でもあり、他人の予定が入りやすい時だったからだろう。周辺の住民は食事を作っているか食事中か何かしらしていて、目につきにくいという理由があったのかもしれない。

 誰にも見られず家の中へと入り、二人きりになればしめたものだ。隙を見て背後から首に紐を巻き、背負い投げの要領で締め上げるだけで良かった。想像以上に相手が重かったり暴れて逃げられたりしないよう、一度椅子に座らせてからやったのが成功の秘訣だろう。  

 おかげでスムーズに済んだ。もちろんその後は火を使って顔を焼いた。しかし強盗に襲われたかのように見せかけ、家を荒らす必要まではなかったかもしれない。

 それでも小細工をしたのには、矛盾した理由があったからだ。昔と同じように火傷を負わせ首を絞める行為は、あの事件を知る人物達に誰が犯人か教えているようなものである。

 だったらよせばいいのだが、どうしても止められなかったのだ。上手くいけば、別の人に罪をなすり付けられるかもしれない。そう考えて少しでも目くらましになればと、余計な真似までしたのである。

 だがその効果はあった。警察は当初騙されかけていたという。それでも殺されたのが皆街の人間だと判ると、怨恨の線または仲間割れを疑い出した。街の中に犯人がいると捜査方針を変えたらしい。

 それでも彼らが揃って性的虐待していたとの情報までは、さすがに掴めないだろう。もちろん昔の事件についてなど、警察は知る由もない。よってアリバイがないとはいえ、私にまで捜査の手が及ぶとは考えにくかった。

 けれども一部の街の住民は気付くはずだ。といっておいそれと、警察に突き出すような真似をされるとは思えない。その上殺された集団の仲間がかたきを討とうと、私に手を出そうともしないだろう。

 唯一動くとすればあの人だけだ。よって今後は、彼の周辺の動きさえ注意していれば良かった。それに次の犠牲者は決まっている。私の復讐の連鎖は、それを最後にするつもりだ。

 しかし殺し方は、今までと同じようにいかないだろう。最も憎むべきあいつを前にすれば、思うように体が動かない恐れがある。よって手口を変える必要があった。

 だがどうすれば良いか、頭の中は混乱し結論が出ていない。積年の恨みを上回る、植え付けられた恐怖心がそうさせるのだろうか。または心の片隅に、あいつに対する歪んだ愛情が潜んでいるのだろうか。

 私はさいなまれた。殺人計画を立てて実行している間、あれ程高揚していた気持ちが今はどん底までに沈んでいる。後悔はしていない。しかし拭い去れると想像していた想いが、薄まるどころか今はより濃く浮き出てきた。

 最後にと考えていたターゲットを目の前にして、臆病風おくびょうかぜに吹かれたのかもしれない。それともあいつの姿を思い出すだけで頭は痛み、足がすくむ思いをしたからだろうか。

 強烈なトラウマから逃れる方法は、忘れるのではなく受け入れることだと聞いた覚えがある。私は連続殺人を続ける中でそうしようと、これまで何度も試みてきたつもりだ。

 しかしそれは未だに成功していない。すぐには無理だろうが、時薬が癒してくれると信じていた。けれどそれは大きな間違いだった。といってあいつを殺し復讐を果たせば、本当に私の心は晴れるのだろうか。

 そうした無意味な思考のループが、際限なく続く。こんなことなら思い出さなければよかった。無駄な殺人などせず、再び記憶の奥底に沈ませておけば、これほど悩まなくて済んだのかもしれない。

 いやそれは違う。このまま放っておいても、再び何かをきっかけにフラッシュバックするような事態は避けられなかったはずだ。そうすればまた頭を抱え、苦しみのたうち回っていただろう。

 いっそ死んでしまえば、こんな思いをしなくて済む。だがそれだけはできなかった。やはり復讐を果たすまでは、死んでも死にきれない。彼はともかく、他にもこのままのうのうと暮らす人間が存在するなど、決して許せなかったからだ。

 やはりどうにかしなければならない。なんとかしてこの気持ちに決着をつけよう。私がそう願い続けていたからか、想いが天に通じたらしい。事態は意外な形で動きだした。

 それはあの春香が、親に内緒で街を出て行方不明となった件だ。それにより樋口家の面々は、彼女がどこに行ったのか探し始めた。早々に見つけて、連れ戻そうとしたに違いない。

 彼女は今や、樋口家にとって大切な存在だ。幼い頃から鍛えられていたからでもあるが、スリ師としての才能は素晴らしかった。街の創始者の一人であり、今や伝説化している樋口肇の血を強く引いていたのかもしれない。

 通常街では、集団で盗みを行ってきた。だが彼女の場合は、徒党を組む必要がないと言われていた。それほど巧みで、人並み外れた技を持っていたのである。

 実際彼女の居場所を突き止めた私は、様子を見に行く機会があった。その時は一彦をおとりに使っていたものの、主に自らのテクニックだけで次々と成果を上げていく姿を、この目でしっかりと見届けられた。

 その手際の良さは、私から見ても正直惚れ惚れとした。受け渡し役や見張り役などがいない少人数での仕事は、かなりのリスクを伴う。また街の掟もあったため、現在の頭領である徹でさえ最低五人以上の集団でしか、仕事をした経験が無かったはずだ。

 しかし彼女はそれを難なくやってのけていた。贔屓ひいき目に見ても、徹より腕が立つと感じた程だ。忠雄の技術すら上回っていたかもしれない。そう思わせる程の素早さとセンスを持ち合わせていた。

 そんな能力があったからこそ、樋口家としては余計に春香を手元に置いておきたかったはずだ。彼女のスリ師としての素質が惜しいとの気持ちもあっただろうが、それだけではない事情も知っている。

 手からすり抜け逃げたからこそ、追いかけたくなるものだ。再び手に入れたいという執着心も手伝ったに違いない。

 彼女もまた、あの男の餌食になった経験がある。彼はお金儲けの他に、性欲を満たしてストレスを発散していた。その最初のきっかけが、誰だったのかは知らない。

 ただその中に、私も含まれていたのは確かだ。その後味をしめた彼は、私だけでは飽き足らずに他の女にも手を出すようになった。

 やり方は簡単で同じだ。自分がそうであったように、強い力を持つ者の支配下にあれば逆らえない。山塚の街の頭領の家で生まれ育ったからこそ、あいつは精神的に支配する方法を身に着けられたのだ。

 そうして住民達を手当たり次第に抱き、性欲に溺れていった。今思えば、後に世界的有名なゴルファーがかかっていた為に有名となった、性的依存症の可能性もある。

 というのも彼が相手にする年齢は幅広かった。上は五十代から下は十代未満の子もいたと聞く。特に幼い子を弄ぶ行為に嵌ったのは、あの事件がきっかけだったのかもしれない。

 その影響もあり、春香とも関係を持ったと思われる。過去の経験から、未熟な体をした女性でも関係が結べると知っていたから余計だ。

 彼女に対しては、精神的な支配下に置く過程の一つとして利用した一面もあっただろう。彼女は代々スリ師としての血を引く、樋口家の定めとして鍛え上げられていた。

 厳しい特訓に耐えられるよう、飴と鞭を使い分けて彼女の心をマインドコントロールしていたのかもしれない。または周囲から樋口肇の能力が隔世かくせい遺伝いでんしたとの評判を聞き、嫉妬を覚えた可能性もある。

 けれど彼女はある時から、抵抗を見せるようになった。教育方法が間違っていたのか自我に目覚め、洗脳が解けてしまったらしい。やがて知恵を付け、時には大人しく言う通りにする振りをしながら、着々と街を離れる準備をしていたのだ。

 彼らが気付いた時には遅かった。彼女は二十歳の誕生日を迎え成人したその日に行方をくらませ、街の仲間とはほぼ縁を切った状態で部屋を借り、生活し出したのである。

 それでも居場所を見つけるのは容易かった。住民票を移さずとも、街が持つネットワークにかかれば完全に抜け出すなどまず不可能である。しかし彼女を強制的に、街へ連れ戻しはしなかったらしい。

 乱暴な方法を使えば、警察沙汰になってしまう。その為あの人は手下を使って彼女の同行を探らせながら、連れ戻すよう様々な仕掛けを施していたようだ。

 なるべく傷つけないよう工夫しながら、あらゆる手段を使って春香を取り戻そうと、必死に動き始めていたのかもしれない。それでも彼女は、あの男や街の者達を拒絶した。

それが後に起こる、新たな事件へと繋がった。私もそうした動きに巻き込まれた為、またとないチャンスを得られたのだ。


 幼い頃から樋口家の保護の下で育てられた和美かずみは、当時三つ年上の徹に魅かれていた。年が近かった為に、彼の祖父の肇や父の忠雄から兄として面倒を看るようにと言われていた経緯もあったからだろう。

 和美は徹と共に、スリ師になる為の厳しい特訓を受けさせられており、互いに傷を舐めあう関係だった点も影響した。そうした環境から、樋口家には逆らえないという心理が働いていたのも否定できない。

 やがて彼らの命令は、何でも聞くようになった。その為か、ある日服を脱ぐよう指示され、裸にされた和美は抱かれたのである。ただし当初は決して強引で無く、半分合意の元での行為だった気がする。

 優しい手つきで体を触られ、くすぐったくもあり愛おしく感じたことを今でも覚えていた。和美がまだ十代にも満たない頃だ。その時を境に仲間達の目を盗んで、二人は関係を結ぶようになった。

 後に言われたのが、和美は他の街の女達と育ちが違うように感じていたという言葉だ。どことなしに品があり、目鼻立ちが整っていて可愛いとよく褒められた。それは和美の生い立ちが、そう思わせたのだろう。

 というのも元はと言えば、山塚の街で生まれた子でなかったからだ。一流企業で働く父と専業主婦の母との間に生まれ、豊かな暮らしをしていたのである。若くして大きな一軒家を持ち、庭で子犬を飼っていた程だ。

 そんな子供が街の住民となったのには、それなりの理由がある。

 一九七七年に和美が生まれて間もない頃のことだ。高度成長期に入った日本の景気は活気づいていた。だがその分企業戦士と呼ばれたサラリーマン達の職場環境は、とても過酷なものだった。

 この時代から現在に至るまで、働く人々の長時間過密労働、深夜労働、時間外労働、土日出勤、単身赴任から過労死などが問題となっている。そのような犠牲によって支えられてきた“豊かなニッポン”から“バブル経済の崩壊”“リストラ”と、現代日本資本主義社会は、多くの疲弊した国民を生み出してきた。

 働けば働くほど、成果が出やすい時代背景があったからだろう。完全週休二日制になる以前であり、休日出勤が当たり前のように行われていた。そうした親達の元で生まれ育った子供達には、当然親が無理している分だけしわ寄せが行く。まさしく和美がそうだった。

 和美の父もそんな仕事人間の一人だったが、ある時期から徐々に体調を崩し始めて会社を休みがちになった。その度に病院へ足を運び検査を受けたが異常は見つからないまま、とうとう会社に出社できなくなってしまった。

 今なら、過労によるうつ病が発症したとの診断を受けていたかもしれない。しかしその頃は、そうしたものはまだ認識されていない時代だった。広く知れ渡り始め抗うつ剤の売れ行きが高まったのは、九十年代の後半以降である。

 その為父は単なる怠け病であり脱落者だと、会社や周囲の人々から烙印を押された。結果会社を退社せざるを得なくなり、親戚や親兄弟からもうとまれたのである。

 そんな状況に陥った父を、母は何とか支えようと努力した時期もあったようだ。しかしぐったりとしていた父が、時々人が変わったように気分が高まり暴れだし始めた。

 大声で怒鳴り散らすだけでなく、暴力まで振るうようになったからだろう。それ以降、母の態度が変化していったらしい。経済的にも先行きが不安になり、耐え切れなくなったと思われる。

 恐らく当時の父は、双極性障害の躁鬱そううつを繰り返していたようだ。うつの時は静かにベッドで横になり、ぼんやりとテレビを眺めて静かにしていた。

 だが躁の時は、何故自分がこんな目に合わなければいけないのかとまくしたて、愚痴ってばかりいたらしい。発症したのがまだ三十代半ばという、これからという時だったからこそ、本人も忸怩じくじたる思いをしていたのだろう。

「俺がこれまで身を粉にして働いてきたのに、何故こんな目に遭うんだ。これもお前や和美を養わなければならないと思ってきた結果じゃないか。この辛い気持ちが分かるか!」

 そう母に訴える時もあれば、ちょっとしたことに腹を立て癇癪かんしゃくを起し、殴る場合もあったらしい。

「お前は俺を馬鹿にしているんだろう! こうなったのはお前達のせいだ。これまでどれだけ贅沢な暮らしをさせたと思っている。二人を食わせていこうとしたから、俺は体を壊したんだよ。お前達がいなければ、こんな体にはならなかったんだ!」

 そう言って、まだ三歳を過ぎたばかりの和美にまで手を出す始末だった。これにはさすがの母も、我慢できなくなったのだろう。ある時子犬の散歩に出かけると言ったまま家を飛び出し、実家へと戻ってしまったのだ。

 この時和美も一緒に連れ逃げてくれれば良かったが、母はそうしなかった。今も根強い誤解があるけれど、それ以上に精神病は遺伝すると言われていたからかもしれない

 その為父の血を引いた和美も、将来的にトラブルを起こすのではないか。そう母方の祖父母や親戚一同までが、口を揃えたという。その為引き取ろうとしなかったようだ。

 今でも精神疾患を起こす遺伝子の存在があると言われているが、完全に解明されてはいない。もちろん親から子へ遺伝するとの科学的証明もされておらず、環境やストレス等の後天的な要素の影響の方が大きいという通説もあったからだ。

 それでも時代背景と差別意識が強く働いたのだろう。母は弁護士に依頼して和美の親権を手放し、父と協議離婚したのだ。その為持ち家は売却しなければならず、和美達は安いアパートへと移り住むようになった。

 無職で病に侵された父が、まともな生活を送れるはずなどない。その為置き去りにされた和美は、碌に食事を与えられず放置された。今でいう完全なネグレクトである。

 それでも父方の祖父母や親戚の中から、一人でも手を差し伸べてくれる人がいれば、もっと違った人生が待っていたかもしれない。しかし父は日頃から周囲の人間に対し、馬鹿にする態度を取った振る舞いが災いしたようだ。

 有名な進学校に入学し、誰もが知る偏差値の高い大学を卒業して一流企業に勤めていたからだろう。自分よりも劣る学歴しかなく、小規模の会社で働いている人達を見下し、傲慢な言動をしてきたという。

 その為実の両親達でさえ窮地に陥った父から距離を取り、放置していたのだ。もちろん自治体等による福祉の力にも、頼ろうとしなかった。彼の高いプライドが、そうした行動を阻んだのだろう。

 そんな生活の中で、最も被害を受けたのが和美だった。時には部屋から閉め出されたり、その為長い間一人で外を歩き回ったりしていた。お腹を空かせていたからだろう。食べ物を探して、街の中をさ迷ったりもしていたらしい。

 そんな和美を見かねて優しくしてくれたのが、知らぬ間に偶然迷い込んだ山塚の街の人達だった。彼らもまた、それぞれ複雑な事情を抱えていた。いわゆる堅気の人達とは、相容あいいれない者同士の集団だ。

 それ故和美のような子供を他人事とは思えず、放っておけなかったのかもしれない。始めて彼らの目を引いたのは、六歳の頃だったと思う。

 街では表向きの顔として床屋や商店など、一見堅気に見える仕事に就いている者がそれなりにいた。そんな中に、託児所を経営している者もいたのだ。

 そこに勤めている女性の保育士が、うろついている和美を見て驚いたという。最初は自分の施設で預かっている子供が抜け出した、と勘違いしたようだ。彼らは主に街の住民の子供を預かっていたが、中には一般家庭の児童もいたらしい。

 しかしよく見れば違うと判ったけれど、それはそれで気になったのだろう。声をかけ、色々話を聞きだしたそうだ。その時の状況自体は、和美自身あまり覚えていない。

 そうして尋常ではないと気付いた彼女は、仲間達に相談したという。そこで動き出したのが街の創始者の一人、スリ集団の頭領をしていた徹の祖父である樋口肇だった。

 仲間を使って和美の家の事情を調べ尽くし、このままでは取り返しのつかない問題が起きかねないと判断したようだ。

 困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促す事という街の規律があったからだろう。彼はまず託児所を通して、役所の福祉課に相談したらしい。

 一九四七年に戦争で家族を失った子を保護する為の児童福祉法が制定した為、各地に児童相談所が設立されてはいた。しかし春香が保護された一九八三年当時は、今ほど虐待児に対して手厚い保護をするケースは多くなかったようだ。

 一九八〇年から始まった校内暴力が全国に広がり、その翌年は少年非行第三ピーク到来と呼ばれ、大きな社会現象となっていた時代である。一九八二年には、そうした非行少年達を集めて更生させると話題になっていた民間団体のヨットスクールで、通学生の死亡事件が起こっていた。

 児童虐待よりもそうした少年少女に耳目じもくを集めていたからか、手が回らなかったのかもしれない。それでも肇や託児所の所長らは、精神疾患のある父親への支援、さらには子供の保護が必要だと訴え続けてくれたという。

 そのおかげで和美は、養護施設へ預けられるようになったのだ。ちなみに実の父親はその後精神科の病院へ入院したが、こっそり抜け出し隣のビルの屋上から飛び降り自殺して亡くなった。

 そこで肇は集団の仲間の女性に指示し、堅気の親戚を通じて里親になり和美を引き取るよう依頼したらしい。その後樋口家の保護の下で世話されるようになったのだ。

 実際に食事を与える等の世話をしていたのは、徹の母だった。よって三歳年上の徹とは、幼い頃から実の兄妹のように育った。その為成長するにつれて精神的に不安定になった和美を最後までかばってくれたのが、徹を始めとした樋口家の人々である。

 和美は元々お嬢様育ちだったこともあり、顔も可愛いと評判だった。その為恐らく徹の両親は、いずれ徹の嫁にと考えていたのかもしれない。

 よって二人が後に関係を持つに至ったのは、ごく自然の流れだったのだろう。そうして長い間仲間の一人でしかなかった和美が、さらにその後彼の稼いだ金で街とは関わりのない場所へ建てた家に住み始めた。あの頃が一番幸せだった。

 しかし今はどうだ。結局彼は自分より一つ年下の良子よしこが住む街へと戻ってしまった。時々訪ねてくれるが、山塚のみすぼらしい家の方が住み心地は良いという。

 小汚い長屋の一角ではあったけれど、スリ師として一人前と認められたあかしから初めて自分名義で手に入れた家だ。その時の喜びが、彼はまだ忘れられなかったらしい。

 ただ他にも理由はあった。父の忠雄の世話が必要となった為だ。徹が大学を卒業して数年後、彼の母が病死した為に忠雄は独り身となってしまったからである。

 しばらくは一人暮らしをしていたが、ここ数年で体調を崩し、やがて寝込んでしまったのだ。そうした言い訳がましく聞こえる事情を告げ、和美の元から離れて行った。だが半分は本心なのだろうと思えた。和美が今の家で生活をし始めた時と、似た感情なのかもしれない。

 そうした様子をずっと近くで見ていて、疎ましく思っていたのが妹分の良子だった。彼女は貧しい家庭に生まれ、碌に働きもしない両親の代わりに稼がなければならない立場だった。

 それは樋口家の世話になっていた和美も同様である。その為二人は、忠雄が取り仕切っていたスリ集団の手伝いをし続けてきたのだ。

 当初、和美は徹を異性というより兄としてみていたが、彼女は違った。集団の頭領の息子であり年も近かったからだろう。より親密になり、恩恵を得たいと企んでいたらしい。

 さらに異性としての憧れと、好意もあったようだ。だからこそいつも仲良くしている和美に対し、屈折した嫉妬心を持っていたと思われる。

 しかし表面上だけでも和美と仲良くしていれば、常に二人の近くに居られると考えたようだ。その為徹に気に入られようと、和美との関係を壊さないよう心掛けていたようだ。そうした奇妙な結びつきが、後に街の大人達を巻き込んでの大きな事件を引き起こした。

 当然あれ以来、しばらくは気まずい思いをした。それでも二十歳を過ぎる頃まで、表向きは仲の良い幼馴染として、同じ街で暮らしていたのである。

 そんな関係が大きく変わったのは、徹が所帯を持ってからだ。そこから彼女と完全に疎遠となり、やがて徹の正妻と愛人という敵対する立場へと変化した。

 それでも互いに本当の寵愛ちょうあいは、自分にあると信じて疑わなかった。そう思わなければ、生きていけなかったのだからしょうがない。樋口家の保護があったから、和美はこの世で生きることを許されてきたも同然だったからだ

 和美があの街を離れたのを機に、盗人の世界から足を洗っていた。今は彼が毎月振り込んでくれる金だけで生活している。今更あの世界へ復帰しろと言われても、足手まといにしかならないと分っていたからだ。

 もう四十を過ぎた身だ。しかもそれなりに贅沢もさせてもらってきたからこそ、今更以前の生活水準には戻せない。

 しかしかつて共に徹の下で働いていた良子は、未だにスリ集団の受け取り役や見張り役として、彼の手助けをしているようだ。そうした付き合いもあり、情にほだされて戻ったのか知らないけれど、その現実は和美にとって腹立たしくて仕方がなかった。

 だがそれ以上に気を揉んだのは、春香の事だ。和美や良子と違って二十一歳と若く、また樋口家の跡取り娘でもある彼女に、徹はずっと手をかけてきた。

 最近彼女が逃げるようにして街を出たにもかかわらず、まだ未練があるらしい。その点は良子も気が気でなかっただろう。噂では徹に言われたからなのか、春香の居場所を確認し動向を探っているようだ。  

 街を離れたとはいえ、相変わらずスリ師として活躍している彼女を仲間に引きずり戻し、再び利用しようと画策しているのかもしれない。

 それでも春香への嫉妬心もあってか、一緒に暮らしている一彦を狙って嫌がらせしているとも耳にしていた。当の春香は良子や和美も含め、樋口家に関わる人間を全て毛嫌いしている。

 しかし街から遠ざかったとはいえ、そう簡単に堅気の生活ができるほど世間は甘くない。それは和美も経験していた。そうした暮らしに必要なのはまず金だ。

 加えて街で学んだ慣習を全て投げ捨て、世間の常識を身につけなければならない。それには相当な労力と時間がなければできなかった。

 人の事は言えないけれど、良子は人の物を奪ったり関係を壊したりする行為に執念を燃やすタイプだ。恐らく今回も春香と樋口家との関係を壊し、また春香から一彦を引き離そうとしているに違いない。

 もしかすると、和美と春香の仲をも引き裂こうとしている可能性もあった。良子が心配する程、二人の関係は良いと言えない。一緒に暮らしていた時期もあったけれど、春香が和美に好感を持っているはずなどなかった。それどころか憎しみすら抱いているだろう。

 ただ彼女が街を離れてからは、同じく街の外で暮らす和美に連絡をしてくる機会が増えたのは確かだ。集団から逃れたとはいえ、大勢の仲間に見守られてきた環境とは全く異なる状況に、戸惑いもあったのだろう。

 だから時折ちょっとしたことではあったが、アドバイスを求めてくるのである。和美も頼られれば嬉しい。互いにそれなりのわだかまりはあるにせよ、相手はもう成人した大人だ。そうした自信もあって、和美との接し方にも変化が起こったのだと思う。

 よって彼女の力になれることがあれば、全力でサポートしたいと考えていた。特に良子は二人にとって、共通の敵だ。徹の場合は難しいところだが、相手があの女ならどんな手を使ってでも助けてやるつもりでいた。

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