第三章 春香の苦悩

 樋口春香は長い間、父の支配下で生きて来た。

 周辺に様々な犯罪者達が住む街の中で、彼はスリ師の頭領として活躍していた。そんな彼に幼い頃からその手口を教わり、スリ集団の手伝いもしてきた。

 だが成長するにつれ、自分達の世界は異常なのだと感じるようになった。やがてその違和感は増大し、いつか抜け出したいと思い描くようになったのである。

 その理由は、私生活の悩みが一番大きかった。春香は物心が付く以前より、性的虐待を受けてきたからだ。精神的にも肉体的にも逆らえないよう洗脳され、それこそ犬のように飼育され育ったのである。 

 幼い頃は彼の前で裸になり、好きなようにさせるのが当然だと思っていた。しかし全て理解できてからは、悶え苦しむようになった。

 十数年も続いた地獄の生活を思い出すだけで虫唾むしずが走り、吐き気を催し震えが止まらなくなった。だからなるべく忘れようと心掛けたが、時折ふとした瞬間にフラッシュバックするのだ。

 その度にあの男に触れられた皮膚を、全て引き剥がしたくなる衝動にかられた。息をしているだけでも気分が悪くなる。そうした症状が酷くなると、死んでしまいたいとばかり考え始めた。この身を粉々にすれば逃れられるとの思いから、抜け出せなくなるのだ。

 幼い頃はお菓子を買ってあげる、という言葉に釣られついていった。すると樋口家が所有する不動産物件の一つに入れられ、服を脱がされた。そうすれば喜ぶのならばと、なすがままにされていたのだろう。

 しかし時折嫌がったりすると、お尻やお腹を殴られた。それが怖くて逆らえず、目を瞑っていれば直ぐ終わるだろうと我慢するようになった。

 事が終われば、ご褒美にと美味しいものを食べさせてもらったり、欲しい玩具おもちゃなどを買い与えられたりしていたからだろう。それがいつからか、他の人がいる家の中でも行われ始めたのである。

 以前は昼間だったが人目につかない場所に連れていかれ、声を出さないようきつく言い含められていた。しかしわざわざ外に出るのが面倒になったのか、春香が寝ていると知らぬ間に布団の中へ入って来るようになった。

 最初の頃は違和感を抱いて目覚めた時、あいつの顔が横にあれば

「ああ、またこの時間が来たのか」

と思うだけだった。それでも徐々に後ろめたい気持ちが生まれたけれど、抵抗すると暴力を振るわれる為、なす術がなかった。出来るのは周囲に気づかれないよう、声を出さないで我慢するだけだった。

 それでも年齢を重ねる内に、これは異常な事なのだと気付き始めた。そこで勇気を振り絞り、母に何気なくほのめかしたのである。

 だがその反応は意外なものであり、生涯忘れられない言葉となった。と同時に拘束されたまま抜け出せない、泥沼へと放り込まれたような感覚に陥ったのだ。 

 彼女は言った。

「彼がいるから、私達は食事や家で寝泊まりもできるの。学校へだって行けるのもそうよ。あの人を怒らせたりしたら、困るのはあなただけじゃないの。だから我慢しなさい」

 当然彼の行為はその後も続き、なかなか止まなかった。春香が拒絶すれば、家庭は崩壊し生活できなくなるかもしれないと、怯えるようにもなった。その為これまで以上の苦悩を味わい続けたのである。

 誰もが同じ行為をしているのだと、信じ込んでいる時期もあった。こんな悪夢のような経験をしているのは、この世で自分だけだろうかと思い悩んだ時もあった。もちろん誰かに相談しようと考えた事もある。

 しかし母の言葉が重くのしかかり、他人にこの話をすること自体いけないのだと思ってしまっていた。それでも辛くて我慢できなくなり、友達に言おうかと迷った。けれど同じような反応をされ、馬鹿にされては嫌だという思いから踏み止まった。

 だが彼の行為が激しくなり、痛みを伴うことが多くなってからようやくおかしいのではないか。そう疑問を持ち、調べてみようと思い始めたのだ。

 そんなある時、持っていたスマホで何となくネット検索をした所、同じような体験をして苦しんでいる人が大勢いると知った。中にはSNS上において、そういう被害を受けた人達だけで話し合う場があると学んだのである。

 そこで春香もアクセスし、自分の受けている行為が嫌だという気持ちを思い切って告げた。するとそれは一般社会において、性的虐待と呼ばれる犯罪だと教えられたのだ。

 それからはネットだけでなく、中学校の図書館等の本を読んで調べるようにもなった。幼い頃から勉強はしっかりしろ、本をたくさん読めと言われ続けていたが、春香はそれまで聞き流していた。

 しかしそれが大きな間違いだったと、この時程痛感したことはない。知識というものが、生きる上でいかに重要かを教えてくれたからだ。

 本は自分の身を助け、様々な生き方や方法を指し示してくれるだけでなく、心をも解放させてくれるのだと強く感じた。なぜならそこには自分と同じ、またはもっと残酷な扱いを受けてきた人が大勢いると書かれていたからである。

 中には自殺した者もいて、親に殺された子供達さえいた。そうしてようやく、彼がしている行為の客観的な意味を理解できたのだ。

 世の中には様々な境遇の人がいると知り驚きながらも、春香は安心した。それは異様だと感じていた自分の感覚が間違っておらず、例え親だろうとも逆らって良いのだと認識させてくれたからだ。

 また人はあてにならないとも感じた。母がそうだった。そこで他人にはばれないよう、図書館の隅で必要な部分が書かれている本を探し出しては、読み漁るようになった。

 やがて頼れるのは第三者からの幅広い視点から見た情報であり、実際に運用されている制度や法律であると理解できるようにもなっていた。

 しかしネットの中にいる人達もそうと知りながら、自分と同じく誰にも言えずにいるとの悩みを抱えていた。そこでSNS上の中だけでも、これはおかしい行為なのだと改めて認識し合おうと考えた。

 その為その中の数人に対し、少しずつ詳しい内容を書き込むようになった。もちろん匿名でのやり取りだったが、おかげで自分達はあくまで被害者なのだと考えられるように変わった。

 だが中には女性と偽る悪質な人もいた。その相手からは、被害を受けた際に残った痣の写真を撮って残した方が良いとアドバイスを貰っていた。

 当初はとてもいいアイデアだと思い、それ以降は彼から虐待を受ける度に、証拠写真を残すようになったのである。しかしやがて撮った写真を互いに見せ合わないか、と誘われ始めた。

 最初は向こうから送られてきて、腕や足といった場所だけだった。けれど徐々に足の付け根や胸元など際どい写真が送られてきて、同じような映像を求められたのである。

 その為相手も見せてくれたのだからと、春香は顔や大事な所が写らないよう気を付けながら、撮ったものを数回送っていた。

 しかし次に相手から局部がしっかり映った画像が送られ、同じものを欲しいと言われた時、初めて怪しいと感じたのだ。

 確かに送られた写真には、暴行を受けたような跡があった。だが流石に同じような映像を取り、見知らぬ人に見せる勇気が春香には無かった。それによく考えてみると、これが本当にその人の物だとは限らないと気付いたのだ。

 それはニュース等でSNSを使って他人になりすまし、犯罪を起こしたケースがあると知ったからである。

 そう考えれば、もしかすると相手は被害者ではなく、加害者である可能性もあると想像した時、春香の体に悪寒が走った。そこで問い詰めてみたところ、相手は違うとしばらく言い張った。

 ならばこの写真を警察に提出し、暴行している相手を掴まえよう。私も勇気を出して同じ事をするからと告げた所、突然その相手とは連絡が取れなくなった。

 やはりなりすましだったのだと、この時やっと理解した。ショックを受けた春香は、誰も信用できなくなった。その為こちらからあの行為について打ち明けるのが怖くなり、書き込みを止めたのだ。

 そうして他の同様なやり取りをしていた人とも、接触を断つようになった。所詮街の住民であり、特殊な環境にいる自分のような人間が、一般社会の人達と触れ合おうという考え自体が間違いだった。心を交わし苦悩を打ち明けるなど、土台無理だったのだと諦めたのである。

 冷静になって見れば、SNS上では信じられない程の差別発言や暴言が繰り返されていた。匿名を逆手に取り、誹謗中傷する言葉を浴びせ攻撃し憂さを晴らす人種が、余りにも多く出没していた。

 自らの狭い考えに囚われているのか、自分の意見とは異なる者が現れれば容赦なく執拗に付きまとい、徹底的に叩きのめすのだ。

 また読解力がないからか、想像力が働かないのかは知らないが、言いがかりをつけて嫌がらせを繰り返す。日常で溜まったストレスを発散しているかのような言葉を羅列し、明らかに民度の低い人達も決して少なくないと気付いた。

 その為長い間SNSから遠ざかっていた春香だったが、こちらから何も発信しないにもかかわらず、一人だけ熱心にダイレクトメッセージを送り続けてくれる人がいた。それが“ソヴェ”だった。

 彼女もまた、幼い頃から実の父親に性的暴力を受け続けていた人だ。けれど今はどうにか、逃れられるようになったらしい。

 そんな彼女が自らの経験を晒し始めたきっかけは、同じ被害に合った人達の心を少しでも癒したいと考えたからだという。もしくは現在進行形なら、被害を食い止めたいとの使命を持ってSNSを始めたそうだ。

 ソヴェによれば、被害を受けた際の写真を残す行為は必要だが、それを他人に見せる場合には条件があると言っていた。それは虐待から逃れる為、加害者を罰したいとの勇気が持てた時に限られる。しかも警察等の公的機関へ、提出するケースだけだと断言していた。

 さらに自分が訴え、話を聞いてくれる警察や被害者を支援する団体の人達が本当に信頼できる、自分を守ってくれると確信してからでなければ、安易に見せてはいけないと忠告もしてくれていた。

 よって当然彼女から、写真が送られたり求められたりはしなかった。一度送り合っていると漏らしてしまった時には、絶対辞めた方が良いと諭されていたと思い出した。

 だから春香が突然何も書き込まず返事にも反応しなくなった為、不安に感じたのだろう。彼女だけは心配し、何度もその後どうなったかというメッセージを送り続けてくれていたのだ。

 それに比べると、他の人はこちらが何も言わなくなった途端、水を引いたように連絡が途絶えた。どうやら大抵の人には日頃溜まった鬱憤や不平不満をさらけ出し、愚痴や悪口を言い合って傷を舐めあわなければ、相手にされないようだ。 

 その点ソヴェだけは違うと感じていた。それでも疑心暗鬼が募っていたせいで、長い間放置していたのである。しかし余りにも心配し続け、合わせて様々なアドバイスをされた為に、彼女だけは信用できるかもしれないと思い始めたのだ。 

 それにSNS上で性的虐待における共通体験を持つ人達が意見交換をしている時も、彼女は他の人達と少し異なっていた。自分がどれだけ酷い目に遭っていたかを語りながらも、他の人達に対して心無い言葉を浴びせる人は意外に多かった。

「どうして“やめて”と言わなかったの?」

「あなたの勘違いじゃないの?」

といったものから、

「自分から誘ったんじゃないの?」

「相手にして欲しいからって、嘘をついているんじゃないの?」

「そうさせたあなたにも、落ち度があったんでしょ」

などと、本当に同じ被害を受けているのかと疑わしくなる発言や

「そんなのは早く忘れた方が良い。前を向いて歩いていくべきよ」

「母親に相談して、警察や専門機関に通報しないと駄目」

「可哀そうにね」

「そんな奴は許せない。酷い人ね」

といった一見分かっていそうだが、決してそうした言葉を聞きたい訳では無いと思う書き込みも少なくなかった。

 春香だって、できるなら告発したいと思っている。それができないから、悩んできたのだ。山塚の街の住民という特殊な環境が、それを阻んでいた。その上母に言っても駄目だったからこそ、一層切ない思いをしてきたのである。

 それに下手な同情をかけられるくらいなら、心の内を吐き出すような真似など最初からしない。ましてや何も知らない他人から、彼について非難されたくなどなかった。

 辛いと感じているのは確かだが、それでも血の繋がった実の父親だ。しかも彼らが稼いでくれたお金で、私達は生活できている。しかも街の集団にとり、欠かせない存在として彼は周囲から尊敬もされていた。

 といってそんな詳しい事情は、さすがに書き込めない。だから相手が理解できないのも止むを得なかった。それでも彼と一緒に、自分まで責められているかのような感覚に陥ったのだ。

 しかしソヴェだけは、そうした書き込みを一切しなかった。絶えず言い続けていたのは、

「あなたは決して悪くない。あくまで被害者であって、自分に責任はないの」

「一人じゃない。ここには同じような経験をしてきた、沢山の仲間がいる。本当に大変だけど、あなただけが特別ではないの。でも勇気を出して告白できたあなたを尊敬する。それだけで、十分価値がある行動だと思うよ」

「あなたは大丈夫。時間はかかるかもしれないけれど、回復できると信じて。少なくとも今より心に負った傷は小さくなり、痛みがやわらぐ時だって必ず来るから。希望を持って」

「他の人のせいでくじけるなんて勿体ない。傷つけられたからって、あなたが駄目な人になる訳じゃないから」

「これから一緒に困難をくぐり抜けてくれる、安心できる人を探そう。でも焦る必要はないから。一歩ずつでも前に進めればいいの」

という励ましの言葉ばかりだった。

 彼女は決して相手を否定したり疑ったりせず、こちらから書き込まない限り余計な詮索もしない。また似たような経験者同士で話していても、安易に

「あなたの気持ちは分かるよ」

などとも言わなかった。

 全く同じ環境ではないから、分かるはずがないのだ。それを彼女は良く理解しているように思えた。その上被害状況を尋ねる場合でも

「言えないのなら答えなくていいけど、公的な機関へは通報できない? もちろんそうしたからと言って、必ずしもいい結果が出るとは限らない場合がある。だから躊躇ちゅうちょするのは当然だと思う」

「今は最悪の状況から抜け出している私の経験からすれば、誰かに告白するのが第一歩。次はその状況から抜け出す為の通報。第三には無事保護されるかどうかが大切だと思う。最終的には、あなたの安全が最優先されるべきだから」

と先まで見据えた言い回しを、心掛けているように読み取れた。

 彼女は自分の体験を、こう語っていた。

「最初は自分が被害者だなんて、考えもしなかった。私が父からこのような扱いを受けるのは当たり前だと、ある時期まで信じ込んでいたからでしょう。または自分のせいでこんな酷い仕打ちを受けているのだと、自らを責める気持ちすらあったから」

「それでもやはり自分は被害者であり、悪くないと今では思えるようになった。だからあの時一人で抱えこんでいたのは、間違いだったと後悔もしている。何故なら酷い目に遭っていたのは、自分だけでなく他にも大勢いたから。声を上げていれば、そうした被害者を減らせたかもしれない。そう反省した時もあった。少なくとも、自分の周りだけでも防げた可能性はあったと思う」

「それに受けた傷は、そう簡単に回復しない。今は抜け出せた状態の自分でも、未だに当時を突然思い出して唸されたりする。考えるだけで胸が痛くなり息苦しくなり、死んでしまいたいと考える時もしばしばです」

「性的被害を受けたのは、自分のせいじゃない。でもそう納得させるまで、かなり時間を費やしたから。責任はいつだって加害者にあるのは間違いない。ただしばらくは、それすら受け入れられなかった」

「もちろん当時は、周りに誰も支えてくれる人がいなかった。助けてくれる人を見つけられなかった。もしあの頃の自分を責めるとすれば、自分さえ我慢すればいいという考えは誤りだったと気付ける程の知恵や知識、勇気が無かった事でしょう。もう少し賢ければ良かったと、今になって思います」

「あんな状況に追い込まれさえなければとは思わない。自分の身に起きた事実と向き合いさえすれば前向きな気持ちが生れ、自分の人生を歩み始められる時がいつか必ず来るでしょう」

「大したことでは無い、と考えるのは無かった事にするのではありません。その日一日を何とかしのぐために必要な呪文でした。でもそういう考えに捉われ過ぎると危険です。直ぐには出来なかったけれど、後に向き合う為には邪魔になる考えとなる恐れがあるから」

 こうしたソヴェの言葉に刺激を受けた春香は、彼女だけには再び悩みを打ちあけるようになった。この経験が後に街を出る大きなきっかけを作ってくれたのだ。それにより、周りの環境を変えられたのである。

 春香は彼女の言葉だけを信じ、愚痴などを吐き続けていた。するとこれまでのやり取りで、なんとなくこちらの事情を汲み取ったのだろう。

「実は私も警察に通報すべきだと分かっていたけど、事情があってできなかった。相手が罰せられても、完全に自分との関係を断てない環境だったからね。それでも最悪の状況から抜け出せる。だからといって心の傷が完全に癒されてはいないし、時間はかかると思う」

 そう告白された為、春香と似た状況にあると察せられた。そこでソヴェは通報せずに、どう抜け出せたのかを尋ねてみたのだ。 

 しかし彼女は自分が取った方法が参考になるとは思えないと、具体的な手順は教えてくれなかった。その代わりにこう言ったのだ。

「あなたが何歳かによって、これから告げる手口はとても残酷に聞こえるかもしれない。それを踏まえた上で敢えて教えられる一つは、二十歳になるまで待つ方法です」

 春香はSNS上で具体的な年齢を告げていなかったが、十代後半であると仄めかしていた。実際にこうしたやり取りをしていたのは十七歳の時である。

 中学に入ってから、ようやくスマホを持つ許可が得られた。それからネットへアクセスし始めたのだ。それでもいつ両親達に見られるか判らない為、書き込む内容も検索履歴も時間が経てば消すようにしていた程気を付けていた。

 実際最初の数年は、頻繁にスマホを取り上げられ中身をチェックされていた。しかしやがて面倒になったのだろう。また春香自身が反抗し始め、性的虐待を受ける機会が少なくなった時期から、余り覗き見られなくなった。

 彼は気分屋で気が多かったらしい。集団における地位を利用して、多数の女に手を出していたようだ。丁度その頃は他の要因も重なり、春香への関心が薄らいでいたと思われる。

 おかげで春香はネット検索を頻繁に行い、また図書館や書店にある本を読み漁って、様々な知識を得られるようになった。そこで自分が生きてきた環境がいかに特殊であり、どれだけ狭い世界だったかを知ったのだ。

 性的虐待について調べるようになったのもその頃であり、SNSで悩みを相談するようになったのもそうした背景があったからだ。 

 その為ソヴェの書き込みを見て、一度は大きく失望した。彼女の言葉に従えば、後三年も我慢しなければならない。今は体を求められる状況が無くなったとはいえ、いつまた襲われるか分からないのだ。

 彼の行動は気まぐれで、一週間以上も毎日関係を持とうとする時もあれば、一カ月以上放置される場合もあった。だからこそいつまた暗黒の時間帯が訪れるか、常に怯えて暮らしていたと言っても過言ではない。

 しかしそうした関係は、もう十年以上続いてきた。このまま何もしなければ、彼が飽きるか春香が生きている限り、地獄の世界は永遠に続くだろう。そう考えると、後三年耐えて解放される方法も悪くない。そうした気持ちに変化し始めたのである。

 そこでソヴェに、具体的な手順を質問した。すると返ってくる書き込みを読めば読む程、それしかないと信じて疑わなくなっていった。彼女の指摘はとても的確で、かつ春香のような特殊な環境でも実現可能な手段だったからだ。

 例えばスマホ一つ契約するにも、未成年だと親の承諾を必要とする。彼の束縛から逃れる為には、勝手に見られないよう自分で契約しなければならない。また街から離れれば、部屋も借りる必要がある。その為には春香自身が二十歳を過ぎなければならなかったのだ。

 それでもただ待つだけでなく、今の内に準備しておくべき行動を彼女は具体的に教えてくれた。まず必要なのはお金だ。それが無ければ、当然自立など出来ない。

 その為春香は仕事を探した。これはその後の部屋探しにも繋がると後で分かる。働いてお金を貯め、さらに仕事場での信用を得るという行為が必要だったからだ。

 部屋を借りる為に必要な、親以外の保証人を得る場合に関係するのだと教わった。もちろんそれがダメな時は、お金を払えば保証人無しで借りられるケースもあるという。

 例えば立地条件が悪く入居者が決まりにくい、既に取り壊しが決定していて長く住めない、事故物件などの告知がある場合等がそうだ。他にも保証会社を利用する手があった。無理なく払えるのは収入の三割以内の家賃とされ、家賃のおよそ一~二年分の残高があれば、通る場合もあるらしい。

 またクレジットカード払いを指定する場合もあるそうだ。高校生でない十八歳以上なら、作成できるカードは多い。収入も年収十万~二百万程度あればいいという。

 ただし未成年の場合は、親の同意が必要となる点がネックとなる。結論としてはどういう物件を借りるにしても、社会に出てそれなりの収入を得なければならなかったのだ。

 しかも家賃を安定的に支払う能力があると認められた方が選択肢は広がり、借りられる確率が高くなる。その為の準備期間が必要だと知った時、春香の失望は希望へと変化した。まさにソヴェが言い続けて来た行動を、実践できるかもしれない。そう期待できるようになったからだ。

 そこで春香はまずアルバイトを始めた。それ自体は親から反対されずに済んだ。他の住民達の多くも世を忍ぶ仮の姿を得る為、堅気の仕事に就いていたからである。

 その上高校卒業後、そのまま正社員として採用される可能性が高い職種を選んだ。二十歳になる前から正社員として働いていれば、安定的収入も得られる。さらにお金も蓄えられるだけでなく、社会的信用を勝ち取れるからだ。

 そうしておけば、街を出る為の部屋探しをする際にも選択肢が広がる。その為春香はソヴェに相談しながら探した、ペット用品を扱っている店でバイトを始めたのだ。そこはペットショップも併設していて、全国に多くの店を展開しているチェーン店だった。

 選んだ大きな理由は学歴が無くても、アルバイトから契約社員、後に正社員となる壁がそれ程高くなかったからだ。また樋口家の会社の息がかかっていない店である点も、重要な要素だった。

 春香は必死になって真面目に働いた。そこでお金をコツコツと貯め、周囲とコミュニケーションを取るなど、信用を得る為の行動に神経を注いだ。おかげで高校卒業と共に、三カ月間の試用期間が必要な契約社員になれた。その後無事、正社員に採用されたのである。

 そうした結果を受け、春香は会社から必要だと言われている等適当な口実を作り、親の承諾を得てクレジットカードの作成にも成功した。

 それから二十歳になる五月の誕生日を迎えるまで、前もって借りられる部屋をあちこち回って探した。そこでかなり古く狭いけれど、条件に合う格安の物件を見つけられたのである。

 それまでの期間、幸いにも彼の都合で悪魔の時間を過ごせずに済んだ。よって街を抜け出すまでの日々は、とても楽しく過ごせたのである。

 なぜならそこには、間違いなく明るい未来が待っているからだ。それまで何度も死にたいと思い続けていた時もあった。しかしこの頃は時間が過ぎていき、成人となる日が刻々と近づいている状況に喜びを感じていた。

 これも全てソヴェのおかげである。時には挫けそうになった。その度に彼女は励ましてくれた。

「あなたは悪くない。自分を信じて。既に将来へ向けた目標を持つあなたなら大丈夫」

 時折何もない日でもフラッシュバックが起きて体が震え、呼吸困難に陥った。動悸が激しくなり、心身共に砕け散るような錯覚に見舞われた時もあった。そんな症状に見舞われた際、彼女は声をかけてくれたのだ。

「まずは深呼吸をして。頭の天辺から足の先まで力を抜き、リラックスさせましょう」

「ゆったりとできる椅子やソファやベッドに体を預け、ゆらゆらとしましょう。眠ってしまっても構いません。犬や猫、ぬいぐるみでもいいから、可愛いと思うものを抱く行為もいいから」

「逆に自転車を漕いだり走ったり、何か叩いたりしてエネルギーを発散してみるのもいいかもしれません」

「ヒーリング効果のある音楽、気分を盛り上げてくれるポップな曲を聞くのも気分転換になります。ただしネガティブな歌詞の曲や、暗くなるものは避けましょう。テレビのお笑い番組や、コメディ映画を見て楽しむのも効果的です」

「これまで私が挙げた中で、自分に合ったものがあればそれを何度もやってみましょう。合わなければストレッチをする等、健康的な方法でストレスを発散させればいいのです。お気に入りの趣味があって、それに没頭して気持ちが落ち着くのであれば、それでも構いません」

 まるでセラピストのようなアドバイスを、彼女は与えてくれた。けれどそうすべきだなどと、決して押し付けがましくは言わない。

「睡眠はちゃんと取れていますか。食事は適度に取れていますか。何事も体が資本です。ただでさえ自分の意図しない行為により傷つけられているのだから、あなただけは自分の体を痛めつける真似はしないで、大切に扱ってあげましょう」

「もし必要なら、お医者さんに行って適切な薬を処方してもらうのもいいかもしれません。虐待を通報できればいいのですが、それができないのなら黙っているのも今はやむを得ないでしょう。でもそれ以外の身体のケアは重要です」

 こうした忠告を受けていたからこそ、自分で部屋を借りて暮らし始めた後は、クリニックへ通い始めるようになった。そこで処方された精神安定剤や睡眠導入剤等を出して貰い、時々飲むようになったのである。

 他にも自分の傷を癒す為に必要だった一彦の存在は、とても大きかった。街を離れる時は一緒についてきて貰おうか相談した時も、ソヴェは良い考えだと賛成してくれたからそうした。

 やがて成人した春香は、親の承諾なしで部屋を借りられるようになった。その時を狙い、念願だった彼達の住む街を相談無くこっそり離れられたのである。もちろんその時から、一彦と一緒に暮らし始めたのだ。

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