第一章 山塚と三十五年前の事件

「何度言ったら判るんだ! もっと早く手首をひねるんだよ!」

 父の忠雄ただおが手に持っていた長い竹尺たけじゃくで、手の甲をピシッと強く叩かれた。既に二時間以上、スリの手ほどきを受けている。だが何度やっても、言われた通りに出来ない。その都度仕置きされた徹の右手には、沢山のミミズ腫れができていた。

「さあ、もう一度!」

 物心がついた頃から、同じ事ばかりやらされてきた。とこのある奥の部屋では祖父のはじめが腕を組み、いつも厳しい表情をして特訓の様子を見守っていた記憶が残っている。

 だからこそ父も気を抜けず、厳しく教えざるを得なかったのだろう。後に徹が同じ立場となった時、そう理解出来るようになった。しかし当時は、なんて親だと憎んでばかりいたものだ。

 徹が五歳だった時、五十三歳の祖父はまだスリ集団の頭領とうりょうを務めていた。当時三十歳だった父など、足元にも及ばない腕の持ち主と評価されていたという。

 その孫に対し、後の後継者となるべく行われていた教えだ。生半可なまはんかな方法では済まされない。常に空気はピンと張りつめていた。それが山塚の街を創業した家の一つに数えられる、樋口家の使命だったからだろう。

 祖父がスリ師となったのは、当時の時代背景が関係している。それが犯罪集団を築き上げ、山塚と呼ばれる街へと発展した成り立ちに繋がっていた。

 戦争中だった日本は、それまで二十歳以上だった徴兵検査を一九四三年に十九歳、四四年には十七歳へと切り下げた。一九二六年生まれの肇は、そうした法改正の影響により十八歳の時、徴兵検査を受けると直ぐに赤紙が来て軍隊へと召集されたらしい。

 だが幸いにもその翌年の夏には終戦を迎え、どうにか生きて故郷へ戻ってこられた。しかし実家周辺の惨状を見て、呆然としたという。見渡す限り焼け野原で、家族を失い食べる物にも窮している孤児達が街にあふれていたからだ。

 また中には生きる為に止む無く人の物を盗み、飢えをしのぐ者達も大勢いた。

「これからどうやって、俺達は生きて行けというんだ」

 当時は怪我などを負わずに生きて帰ってきた退役軍人に対する世間の目は冷たかった。しかも国からの恩給なども廃止されていたのである。

 国としても一九四七年には、戦争で家族を失った子の保護の為に児童福祉法を制定する等、一応の対策は取っていた。だがとても十分とは言えなかったようだ。

 児童福祉の幕開けは、戦争の犠牲になった児童への緊急保護と、施設収容業務が主だったからだろう。当時戦争が生み出した戦争孤児は、十二万三千人とも言われている。

 その中には貧困による栄養失調や親等を失ったからか、精神疾患を負った者も大勢いた。もちろんまともな教育を受けられる環境ではなかった為、知恵遅れや言葉の遅れを生み出し、基本的生活習慣の欠如をもたらしたのだ。

 また運動不足や身体的、社会性の遅れが、落ち着きのなさや集中力の欠如、極度の甘えを誘発し、情緒の不安定さを増していく。その為孤立し、人間関係を作る力を欠落させたらしい。

 けれど児童福祉法の施行によって起こったのは、街に溢れだした子供を多く掴まえようとする、いわゆる浮浪児狩りだった。その後は粗末な建物の中に収容し、隔離するのみだったという。

 風呂も無く、隙間風が吹き寒い冬でも夏服一枚で過ごさせ、狭い部屋で何十人も寝起きする生活だったらしい。職員もまたそんな中で共に暮らし、自らの手で新しい家づくりを始めた人達もいたようだ。 

しかし施設では毎日テストを行い、精神薄弱か否かを分類し鑑別するだけだったと聞いている。人権など全く無視され、浮浪児を一時保護して一刻も早く一般正常児等に劣らない良い子にしてやろうなどとは、誰も考えていなかったようだ。

 そんな事情から、当然福祉の手から逃げる者もいた。その為か、一部地域では治安が悪化していたようだ。当時は戦争に取られたまま戻らず、農家では男手が足りなくなっていた。そこで食料を調達しようとする者達の手で、田畑などが良く荒らされていたという。

 実際一九五三年には、少年非行第一次ピークと呼ばれる現象が起こっていた。子供の生活や教育、文化や福祉、健康の全てに渡って、児童憲章の精神が踏みにじられた反動だったとも言えるだろう。

 この年にようやく恩給制度が復活したが、祖父達のような短期しか勤めていない旧軍人には支給されていない。その為国に対する不満は、さらに募ったようだ。

「折角悲惨な戦争を生き延びた同士の、大事な命だ。決して粗末にしてはいけない。そうした悲劇の連鎖を食い止めよう」

 そうした想いから、祖父達は立ち上がった。有志を募り、助け合う集団を作り上げようと試みたのである。

 世間では他にもそうした動きが、一部で起こっていたらしい。親や教師、研究者を始めとする市民団体や文化団体、労働組合等により、幅広く子供の人権と平和を守る国民運動が始まっていた。

 しかしようやく親を探す運動が起こったのは、戦後から十年も経った一九五六年である。それは貧困の中での非行、問題児童について「短期間で治療し、家庭に返す」を目的にしていた。

 その実情は、短期治療施設の設置や非行対策専任職員の配置を提唱されただけに止まっていたようだ。子供の心や境遇に寄り添ったものだとは、到底言えなかったという。

 しかも児童収容施設づくりは、この頃にほぼピークを迎えたと言われている。つまりそれ以上増やさなかったことを意味した。

 このようなお粗末な状況を見て、祖父達が国には頼れないと諦めたのも理解できる。だからこそ後に山塚と名付けられた集団は、自らの力で生活しようと試行錯誤し始めたのだ。

 もちろん生きる為には食料や、雨風や寒さをしのぐ住居が不可欠である。特に子供達の健康状態を維持する為、十分な量やスペースを確保しなければならない。そこでまず焼け野原となった一角を陣取り、かき集めた木材等で長屋を建てたという。

 さらに必要な食料を調達する為、止む無くお金や現物を盗むようになったそうだ。しかしそれだけでは、単なる犯罪者達が集まる街に過ぎなくなる。そこで祖父達は児童達に対する教育の場や、将来に備えた職業訓練等を行った。

 中には貧困による栄養失調や、劣悪な環境が影響したのだろう。今でいう知的障害や統合失調症を患っている子供も少なくなかった。街ではそうした者に対する介護やリハビリなどにも取り組んでいたという。加えて様々な規律を作った。

「決して、他人を傷つけてはいけない。街では、住民達同士の助け合いを原則とする。困っている者、特に子供であれば住民でなくとも保護をし、仲間に入るよう促せ」

「犯罪に関してもできる限り、同じまずしい境遇の者からは盗むな。できるだけ余裕がありそうな家から奪え」

 こうした決まりが、創立当初から出来上がっていたと聞いている。様々な取り組みを経て、祖父達は罪を犯しているとの自覚を持ちつつ、人間としてギリギリの矜持きょうじを保ちながら生き続けることを選んだ。それが山塚という街の成り立ちであった。

 仲間はあっという間に百人を超えたらしい。最も大きかった頃は、窃盗集団が十数以上あったという。実働部隊だけでも二百人以上いたそうだ。その家族も含めると、街の住民は千人を超えていたと想像できる。

 だが令和の時代となった現在は、主な集団が六つにまで減った。住民も二百人余りと、全盛期に比べればかなり規模は小さい。時代の流れと共に、街の形態が変化した事も要因の一つだ。また大きくなり過ぎた為、分裂等が起こった結果でもあった。

 というのも集団を形成し街を作り始めた頃は、盗みも生きる為に必要最小限に留めていた。しかし時代が高度成長期に入ると世間では裕福な人達が徐々に増えだし、以前のような極貧状態の家庭が少なくなった。

 そうなると、自分達も豊かになりたいと考える者が増えていく。また街が拡大し人数が増加する過程で、統率が取り辛くなった点も影響したのだろう。設立当初の掟の徹底が困難になったのだ。 

 さらに暴力的な略奪を禁止していた街の規則に、反発する者も出始めた。力でねじ伏せる行為を良しとしなかった創業家達の考えに背く者達が、少なからず現れたのである。

 食うに困らない程度の盗みしか許されず、また儲けは分かち合うとの考えが窮屈に感じられたのであろう。病気や怪我、または警察に捕まり稼げなくなった人の家族を、街全体で養う決め事に異議を唱える人達も出てきた。

 平気で人を傷つけ、窃盗の標的に対して手段を選ばず、貧しかろうが根こそぎ奪う危険な集団も現れた。愚連隊ぐれんたい、さらには暴力団ぼうりょくだんと呼ばれた連中だ。

 元々「暴力団」という名称は、警察が名付け第二次大戦後にマスコミを通し、一般でも認知されるようになったものだ。また戦後に物資が不足したことで、闇市が栄えた。その為露店を本職としていた的屋できや系団体が、特に勢力を増し始めていたという。

 社会の荒廃により治安も極めて悪く、愚連隊などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。そんな中、非暴力的な窃盗集団として山塚の街が誕生したのだ。

 街の秩序が保たれないと危惧した創業者達は、そうした他の連中とは距離を置くと決めた。その為街は、度々分裂を起こしていったのである。

 もちろん出て行った集団と、対立するケースもあったらしい。縄張り争い等で、抗争に発展したこともあったようだ。それでも祖父達は、出来る限り争いを避けてきたという。

「街は戦争によって犠牲となった、子供達を救う目的で設立されたのだ。それなのに再び人が殺し合えば、さらに不幸な者を増やしてしまう。それは絶対に避けなければならない」 

 そう主張し、時には自分達が撤退または別の暴力団の力を借り、仲裁して貰ったらしい。できるだけ穏便に、問題を解決する方法を模索していたからだろう。

 場合によっては暴力団からあぶれて貧困に喘ぐ者達や、その子供達を街の住民として受け入れる等して貸しを作ったりしたようだ。そうやって街は、今日まで生き延びられたのである。

 ちなみに山塚と呼ばれる街は、実在の地名ではない。現実には仲間内から逮捕者が出て警察の家宅捜索を受けたり、抗争が起こったりする度に転々と移り住んできた。その為同じ土地に留まることができなかったからだ。 

 今は小綺麗な住宅地の隙間の、まだこんな古い家があるのかと驚かれるような場所に各々が住んでいる。だから特にまとまってはいない。それどころか今や区や市、都県をまたいで分散していた。

 つまり街と言っても、集団を立ち上げた頃にあった古い地名を、そのまま名残として使っているだけだ。しかし創設から七十年以上経った今でも、時代の流れと共に形態を変えながら存続してきた。

 それどころか今や伝説と化し、街の出身だと聞けば盗人仲間の中では、一種のステータスになっている一面もあった程だ。そんな中でも、祖父を初代とする樋口家の集団は街の中心を担いつつ、主にスリを専門とする多くの仲間を長らく率いてきた。

 樋口家に限らず、一度罪を犯してその旨味を知った者が足を洗うのは、そう容易くない。堅気になろうとして街を出ても学の無い点等が影響し、周囲と馴染めず舞い戻ってくる人達は多くいた。

 またしくじって警察に捕まり、刑務所へ入ってしまった者もいる。そいつに家族がいれば、養い手を失うことで路頭に迷ってしまう。街が無ければ、生きていけないあぶれ者は後を絶たなかった。

 そうした人々が存在する限り、祖父を筆頭とする創設者達は、更なる強固な街づくりを目指すしかなかったのだろう。彼らはまず、食べる事と子供達への教育だけは欠かさない、との指針を守り続けた。

 頭領を中心とする実働部隊達の稼ぎを吐き出してでも、貧しい者達に分け与える習慣は止めなかったらしい。何故なら経済的な貧困はもちろん、情報の貧困も連鎖するとの考えがあったからだという。

 そうした原則に基づき、街の子供達は働きながらも、必ず学校へは通うよう指導されていた。時代が進むと共に、余程の事情がない限り最低でも高校は卒業させられた。

 しかも大学へ進学できるものがいれば、街全体で支援する体制も整えられた。現に忠雄や徹は大卒だ。これは今でも徹底されている。

 例え知的障害等があっても、そうした児童の面倒を見る専門の施設や人材を、街では育成したり確保したりするようになった。さらに図書館等の本をできるだけ読むようにと、徹も幼い頃から言われ続けていた記憶がある。

 実際街の住民達が出入りする各所に、様々な書籍が揃えられていた。本屋からの万引きはご法度、という規則まであった程だ。そうした様々な取り組みにより、残った人間達はより結束を固めていったのである。

 このような長年の功績もあり、樋口家は街の中で一目置かれる存在となった。その後継者である徹の父も肇から鍛え上げられ、若い頃からスリ集団の幹部として成長していった。

 ちなみに集団の頭領の名は、必ずしも戸籍上の名と同じでない。樋口家は代々その息子や孫が後を継いできた。しかし子供がいない等の理由で、別の者が引き継ぐ集団もあったからだ。

 それでも設立当初の名残から、各々の集団には屋号が付いていた。例えば空き巣を専門とする集団の頭領は大畑おおはた、自動車盗等を専門とする集団は三根みねといった具合だ。それぞれ初代頭領の名が引き継がれている。

 その中で徹は樋口家の血筋を受け、幼い頃からスリの英才教育を受けて来た。そうした経緯もあり、徹はまだ五歳だというのに祖父の監視の元で、父から厳しい特訓を直接受ける日々を過ごしていたのである。

 徹の母もまた、スリをする際の見張りや受け渡し役などをしていたからだろう。我が子が腕を真っ赤に腫らしていても、黙って見ているような人だった。

 そうした成果が実を結んだのか、徹も後にスリ師の頭領として認められるようになった。だがそれまでは、嫌で嫌でしょうがなかった。常に偉大な祖父と比較されながら集団を束ねる難しさも、うんざりするほど味わってきたからだ。

 父だって似た気持ちを持っていたに違いない。そうした日頃のストレスが溜まった結果、発散する先が性欲や金銭欲へと向かわせたのだろうと、今になっては理解できる。

 父に代替わりしてからも、金を必要以上に貯める行為など祖父の目が黒い内には考えられなかった。何故なら常に集団の頭領は、従う仲間達を不自由なく食べさせなければならない、との使命を持っていたからだ。

 祖父が全盛期の頃は、最もその傾向が強かったという。稼いだお金のほとんどを、街や仲間の為に使っていたといって良いだろう。よって頭領という名の名誉はあっても、徹達はある時期まで決して裕福な暮らしをしていなかったのだ。

 それでも武士は食わねど高楊枝たかようじを地でいく生活は、続けねばならなかった。時にはお金に窮し、別の集団の頭領からお金を借りてしのいでいた頃もあったようだ。

 当然他の集団の頭領から、借金を頼まれる場合もあったという。まさしく相互扶助の精神により、街は維持されてきたのだ。そうした暮らしは、父の代の途中まで続いていた。

 というのも日本全体が裕福になりだした頃には、昔程食うに困る仲間は少なくなったからだ。また街全体の規模が、一時期に比べれば縮小したからだろう。おかげで祖父が頭領だった時代よりは、樋口家の生活も少しずつ楽になっていた。

 徹は幼心にそうした暮らしに不満を抱き、疑問を持っていた。自分は我慢しているのに、仲間の子供の方が玩具だったり高価な物を身に付けたりしていたから余計だろう。

 他の集団の頭領の息子や後を引き継いだ者達も、似たような思いをしていたと聞く。その反動もあったに違いない。バブルが既に崩壊し、祖父が亡くなった平成十年頃には、街の構造が大きく変わったのである。

 例えば頭領だからと、街に支出する金を多く出さなければならない体系がまず変わった。負担を分散させる方法や新たな資産形成を試み、相互補助の仕組みを作り直したのだ。

 一例をあげると、まず住民達の手にした儲けが、街の中で循環するシステムを構築した。その一つとして、人々が暮らす部屋の確保を街で行うようになった。

 かつてはある一定の地域にまとまって生活していた仲間達も、今では転々と住処を移動するケースが当たり前になった。時代の変化と共に、警察等から監視され始めたからだ。

 そこに目を付けたのが不動産の取得である。つまり街で蓄積したお金を使い、各地に格安の土地、建物を見つけては買い取った。そこに仲間達を住まわせ、賃料を取るようにしたのだ。

 他にもいくつかの対策を取ったことで、住民達の生活はやがてかつてほど酷い貧困に喘ぐものは少なくなり、中には裕福な生活を送れる者も増えていった。

 それでも窃盗等の犯罪を繰り返さざるをえなかったのは、貧困の連鎖から抜け出せない者達が絶えずいたからである。特に多かったのが、母子家庭や父子家庭だ。

 様々な事情で生活の安定しない者達が一定数生れる環境は外の社会でも同じであり、仕方がないのかもしれない。そうした住民達の稼ぎを確保する為、集団は盗みを働き続けた。

 もちろん街の運営費用も馬鹿にならない。実働部隊に入れない者達、例えば障害を持った者や病気にかかった者の雇用の維持や生活費を確保するのに、人件費や設備投資費用等の店舗維持費が必要となるからだ。

 そうした環境も影響したのだろう。大家であり集団の頭領、または幹部の地位を利用する者が現れたのだ。支援する代わりとして、逆らえない女達等に手を出す状況が自然とできてしまったのである。

 今回街で起こった連続殺人事件は、そんな背景が起こしたと言っても過言では無い。しかも殺された人物達全員が、掟破りの非道行為を行っていた。それは住民の多くが知るところとなった。

 事件の真相の一端を垣間見えたからか、街には動揺が走った。当然だ。街の成り立ちを全否定する卑劣な所業をしていたとはいえ、街の住民を仲間が殺したとなれば話は大きく変わってくる。

 しかもその犯人が、街の創業家の一つである樋口家から出たかもしれないとの噂は、想像以上の衝撃を与えた。罪を犯している同志にとって、結束する唯一の拠り所は信頼だ。その根底が崩れたからだろう。

 住民達は同じ穴のむじなで、傷を舐め合うように結びついてきた。警察はもちろん、自分達を取り巻く社会全体に敵意を持ち、生活基盤を支えてきたのだ。

 しかしここにきて、さすがに限界を迎えたと思われる。元々の成り立ちから七十年以上の時間を経ていながらも、形を変えながら存続してきたのは間違いない。

 だが実態は少しずつ、綻びが生じていたのも事実なのだ。やはりその始まりは、三十五年前に起こった事件だったのかもしれない。街の崩壊は既にあの頃から始まっていた。徹はそう思わざるを得なかった。

 今回のターゲットは三人組の老女達だ。バブル景気のおかげだろう。それぞれの夫または自分自身が、多額の収入を得ているのだろうと一見して分かる。

 彼女達の目当ては、目の前の演舞場に出演する若手の歌舞伎役者らしい。先程から周囲の迷惑など顧みず、ピーチクパーチクと彼らの話題で盛り上がっていた。

 他の客だって似たようなものだ。開場までの時間潰しなのか、下世話なネタに花を咲かせている妙齢のご婦人達や、セレブ気取りの輩がひしめいていた。

 中には一人静かに佇んでいる者もいたが、どうせ大したことなどしていない。平日の真昼間から、決して安くない料金を支払い集まっている者達ばかりだ。

 時間帯から考えれば、館内で値段の張る弁当を食べるのだろう。圧倒的に有閑ゆうかんマダム達の比率が高い。それでも時折夫婦揃って並んでいる者や、子供連れの若い女性達も少しだけ見かけた。

 私達は周辺の客から浮かない様に、それぞれフォーマルな服装をしている。少数派の人達をよそおい、じりじりと標的に近づく為だ。同じく正装した頭領や幹部達も近くにいる。彼らの指示を見落とさないよう注意しながら、私やギョロは持ち場を確保した。

 彼女達は話に夢中で、全く気付いていない。周りの客も、他人には基本的に無関心だ。ようやく時間が来たらしく、係員が出て来てドアを開けた。すると皆が一斉に、入り口へと近づきだす。人が密集している今がチャンスだ。

 標的の三人を取り囲んだ頭領達の手が動く。人混みに押された老女達のバックから、素早く財布等を抜き出す。と同時に、近くの仲間へ手渡した。それを別の仲間へと、次々送り渡される。その間袋に小分けされ、さらに仲間が分散して受け取った。

 奪った品々が次々と流れていく中、最終アンカー役の小学生だった私とギョロがそれらを回収する。子供なら盗人に加わっていると疑われにくいからだ。

 全てが揃ったところで、私達は会場入り口へ雪崩れ込む人波の合間を縫い、逆方向へと歩く。ゆっくりと慌てずに離れ、五分後には人気のない所へと辿り着いた。

 もちろん辺りを見渡し、誰も追って来ていないか確かめる。問題ないと分かり、そこでギョロと顔を見合わせ笑った。その後指定された集合場所へ向かうと、あの場にいた仲間達が全員揃っていた。

「出せ」

 頭領に言われ、私達は預かった財布等を手渡す。彼は一つ一つ中身を確認し、札束と小銭の他に宝石らしき物を取り出した。知らぬ間にそうした物もバックから抜き取っていたようだ。

 私達に与えられていたのは、怪しまれないよう少しでも早く現場から離れる役目だった。その為何を受け取ったか等、いちいち確認はしない。だから全く気付かなかった。

 もう一人の男が彼の出した物を受け取り、再度金額等を数えながら持っていた巾着袋の中へと無造作に入れていく。それを仲間達がじっと見守っていた。

 今回の収穫を出し終えた財布が、頭領から別の仲間の手にポンッと投げられる。

「捨ててこい」

 頷いた彼はすぐその場を離れ、どこかへと消えた。カード類等、換金に手がかかる物を残して捨てる為だ。もちろん仲間の指紋等を拭き取ってから処分される。しかもそう簡単に見つかるような場所には置かないはずだ。

「今日の取り分を渡す」

 頭領が隣にいた男に、軽く耳打ちする。頷いた彼は巾着の中から金を出し、一人一人に分配し出した。年齢や役割等で渡される金額は、それぞれ違う。だが文句を口にするものは誰もいない。

 受け取った者から、次々と場を離れる。ギョロも分け前を手にすると、そのまま繁華街へと消えた。恐らく買い物でもするつもりだろう。しかし私は真っすぐ家へと向かった。

 道中では、先程まで集まっていた仲間の顔もちらほら見かけた。同じく家路に着く人達だろう。私達が住んでいる家は、ほぼ似通った場所にあるからだ。類は友を呼ぶともいうが、実態は少し違う。

 貧しい者達が住む場所は、まだ壊れていないと感心される程の古い家やアパートだ。そうした地域は比較的治安も悪い。生活する為。犯罪に手を染めるしかない者達が少なからずいるからだろう。

 通称、山塚と呼ばれる街の長屋周辺がそうだ。貧困は大人から子供へと連鎖する。抜け出せるものなど、ほんの一握りだ。殆どの住民が親やその上の時代から、そうした生活を引き継いでいる。片親などは当たり前で、両親すらいない者も多い。

 生まれながら天涯孤独な境遇や、様々な事情で止む無くこの街に住み着く奴らがいた。私や年が一つ違いのギョロも例外ではない。よっていくつかある窃盗集団の中で、スリを専門とする仲間に入ったのだ。

 生きる糧を得る為、集団で標的を狙う際の手伝いをした。また相手の懐やバックなどから奪う練習を、毎日のように繰り返していたのである。

 今回はスリ師の頭領を中心に目をつけた三名から、財布などを奪う仕事だった。その為現行犯逮捕されないよう仲間達に盗んだ獲物を次々と手渡し、その場から離れる手法を取っていたのだ。

 こういう時、スリ師として未熟な私やギョロは見張り役だったり、途中や最後の受け取り役を担ったりする場合が多い。

 街には他にも空き巣、車上荒らし、車両盗難等の窃盗を主とする集団や強請り等の恐喝を専門とする者、詐欺や横領の得意なグループ等があった。幼い頃から人の物を盗んで生活するのが常識、という環境だったからだろう。今思えば、世間と全く異なる価値観を持っていたのは確かだ。

 他の人と自分達は違うと気づいたのは、かなり大きくなってからである。それでも間違っているとは思わなかった。先生といった肩書や偉いと崇(あが)められている大人達が、ろくでもないと知っていたからだろう。

 教師や医者や政治家等がそうだ。警察だって暴力団と何ら変わらない。強力な権力を持っているだけに、たちが悪い集団としか思っていなかった。

 私達を守ってくれる存在等と、想像した覚えもない。それどころか、敵との認識を常に持っていた。もちろん自分達が法を犯しているとの自覚は、ある年齢を過ぎた頃から持ち始めていた。

 それでも権力を利用し、堂々と嘘をつく大人達を多く見て育ったからだろう。勝手気ままに振る舞い、時には暴力や窃盗、殺人すら犯す者だっている。

 そんな彼らが逮捕されず野放しでいられるのなら、私達の罪など可愛いものだ。特別悪い罪など犯していない。しかも街の大人は、ごく一部を除いて親切な人達ばかりだった。そう心から信じ込んでいたのである。

 それどころかスリ師は人を怯えさせず、傷つけず殺しもしない。持っている者から、少しばかりの金を頂戴するだけだ。しかも貧乏人からは取らないので、世の中の金の回りをよくするまともな集団との自負すら持っていた。

 しかし特殊な生活環境や体験をしているからか、街には奇妙な行動をする者が何人かいた。当時も今も、知的障害や適応障害を持つ児童や大人達が一定数いたからだろう。中には乱暴な行動を起こす奴もいる。その一人がギョロだ。ほっそりとした顔に大きな目が特徴だった為、周りからそう呼ばれていた。

 彼女は幼い頃に虐待されていた反動からか、自分より弱い者に強く当たる性格をしていた。またそれだけでは済まず、ある時から異常な行動をし始めたのだ。

 きっかけは、如何にも金を持っていそうな犬を連れた老婦人を彼女が見つけ、一人でスリをしようと近づいたことで起こった事件だった。

 まだ不慣れだとの自覚や、慎重さが欠けていたのだろう。相手をあなどり警戒も怠った為に失敗した。その上標的の飼い犬に噛まれる失態を犯したのだ。

 幸いその場から逃げだせたので、警察沙汰にはならなかった。噛まれた腕も、大した怪我ではなかったらしい。だがそれ以降の彼女は、金持ちへの憎しみが増しただけでなく、犬に対する嫌悪が激しくなった。

 その結果目をつけた飼い犬を、片っ端から手持ち花火で襲い始めたのである。「すすき」と呼ばれる細長い筒状の紙管に火薬を入れ、竹の棒などに紙で巻き付けたものを使ったらしい。着火するとススキの穂のように、シューッという音を出しながら火花が前方に吹きだす花火で、子供達もよく使う商品だ。

 これを庭に紐で繋がれた犬を見つけては、周囲に人がいないと確認して火傷させて逃げた。そうした行為を何度も繰り返していたようだ。しかしそれが徐々にエスカレートし、わざと目を狙うようになったという。更には首を紐で締め、殺された犬も出たのである。

 こうした行動に気付いた周囲の大人達は、さすがにやり過ぎだと彼女をさとしたらしい。それは当然だ。下手をすれば警察が動き出す。目をつけられれば、街の他の住民達にも影響が出るからだ。

 理由は様々だが、すねに傷を持つ者が多く集まっているのがこの街である。よって目立った行動は、厳につつしむことが掟だった。

 しかしそれ以上に懸念されたのは、動物虐待が凶悪犯罪の予兆と考えられていた点だ。そうした行為が続けば、いずれ人をも傷つけるようになりかねない。やがては殺人を犯すだろうと思われていたという。

 攻撃的な振る舞いが外に向いている間は、時にそうした狂気を仕事上で活かせる見込みもあるだろう。しかし内に向かえば、仲間が傷つく恐れがある。つまりは家の中で、爆弾を抱えるようなものだ。

 いつ爆発し、被害に遭うかもしれない。そのような恐怖を抱いたまま、ごく限られた閉鎖的な範囲で生活する状況程、恐ろしい事は無かった。

 仲間内にも、暴力で金を奪う乱暴者が何人かいる。それでも身内には手を出さないとの暗黙の了解があった。しかもそうした輩は山塚の規則にそぐわないと判断され、やがて街から出て行くよう促されるのだ。

 罪を犯して生活を維持する集団にとっては、固い結束こそが命綱である。密告者等の裏切りが起これば、瞬く間に全員が堀の中へ入れられてしまう。そこにきて制御不能なシリアルキラーがいるとなれば、大問題だ。

 よって彼女は、次第に仲間から遠ざけられるようになった。それが彼女の乱心に拍車をかけたのかもしれない。

 ある日私の大好きだった一彦かずひこが、花火で目を焼かれた上で首を絞められ殺される事件が起こったからだ。とうとう自分達のテリトリーから被害が出た為、仲間は騒然とした。といって当然警察は呼べない。

 幸いこの事件を知り得たのは、第一発見者も含め樋口家が所属する集団だけだった。ギョロがその集団の管理下にいたからだろう。そこで他の住民達には内密とし、頭領と幹部達だけで対策を話し合った。

 その結果亡き骸は、私達が住んでいた場所から遠く離れた山中に埋められた。一彦は幼い頃に捨てられ、仲間が拾い育てたという生い立ちもあったからだと思われる。この街では昔から、そのようなケースが散見されたと聞いていた。

 当然犯人は彼女だと集団の皆が疑った。一彦の首には紐が巻かれた跡があったからだ。しかし本人は頑としてそれを認めなかった為、彼女を一時的に隔離部屋へと閉じ込めたのである。

 そこは盗品等を隠す為に、街が土地付きで買い取った古い土蔵の一つだった。防音や耐震はしっかりしており、災害時の避難場所としても利用されていたらしい。

 その中には仲間内で何か悪さをした時に使われる、木と鉄の枠で作られた座敷牢まで設置されていた。彼女はそこへ放り込まれたのだ。

 どうしようもなく酷い環境で育っていたのは、彼女だけではない。私も恵まれていたとは言えない中で生きて来た。そんな中で一彦は唯一と言って良い程大切な存在であり、心の拠り所でもあったのだ。

 その命を奪ったギョロを私は決して許せず、復讐を誓った。その為こっそり周辺の大人達から話を聞き証拠を集め、犯人はギョロだと確信を得たのだ。

 首に巻かれた紐で引っ張られ窒息したのが、一彦の死因だったとも耳にした。それならば、彼女にも同じ罰を与えなければならない。

 そう考えた私は、花火と紐を懐に忍ばせ夜中にこっそりと隔離部屋へ近づいた。そこで外にいる見張り役が居眠りをしている隙を狙い、事前に入手していた合い鍵を使って忍び込んだ。

 座敷牢は壁から離れた部屋の中央付近にあり、周囲をぐるりと一周できるよう設置されている。恐らく逃げ出し難く、監視しやすいからだろう。

 私は足音を立てないよう注意しながら、木枠の角に体をもたれて寝ていたギョロの頭を叩いて起こすと、寝ぼけまなこでこちらを向いた。その瞬間、手持ち花火を取り出して火を点け、格子の隙間から彼女の顔をめがけて火の粉を飛ばしたのだ。

 本当なら同じように目を焼き切ってやりたいところだったが、そこまでは至らなかった。咄嗟に彼女が避けたからだ。それでも首筋にはかかったらしい。だがさすがに激痛が走ったのだろう。大声で悲鳴を上げた為、見張り役の男達や周囲からも人が大勢駆け付けた。

 計画では目を覆いうずくまる、または反対側に逃げたなら彼女の背後へと回り込み、首に紐をかけ絞め殺す予定だった。しかし予想以上に早く捕まってしまった為、そこまでには至らなかったのだ

 その後紐を持っていた状況から、殺害まで企てていたと知られた。よって私は彼女と同じく危険人物扱いされ、別の蔵にある同じような座敷牢へと閉じ込められたのである。

 どれくらいの期間、そこにいただろうか。毎日のように入れ替わる見張り役の人達から、様々な酷い仕打ちを受けた。

 私達が固まって暮らす意味を滔々とうとうと説教する人もいれば、暴力を振るう者もいた。しかし最も酷く後々にまで影響した扱いは、罰と称して体をもてあそぶ男達がいた事だろう。

 閉じ込められているとはいえ、牢の中だと手足は自由だ。口も塞がれていなかったので、何とか抵抗を試みてはみた。

 それでも力の強い奴や、複数人が鍵を開け牢の中に入ってきて襲われれば、なす術もない。そうやって私は服を脱がされ裸となり、好き勝手にされたのである。

 そんな監禁生活が続く中、私は色んな事を考え気付いた。ギョロも同じ目に遭っているに違いない。しかも彼女の首は今、私のせいで大火傷を負っている。そんな状況なら、抵抗する力も出ないはずだ。

 そう思うと、これまで持っていた彼女に対する強い憎しみが薄らぎ、とんでもない事をしてしまったと後悔の念に駆られた。だが一彦を失った悲しみは癒えない。ただ彼女に謝罪したい気持ちも、同時に生れた。

 その相反する思いが入り混じり苦悩した私は、ようやく牢屋から解放された後、同じく外へ出されていた彼女と顔を会わせた。そこで自分の過ちを認めて頭を下げ、同じ苦しみを味わった同志と認識して貰った為に、再び彼女との交友関係を続けられるようになったのだ。

 しかしそれぞれの心の奥底と体には、決して消せないしこりと醜い傷が残ったのは間違いなかった。

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