第3話 姉と妹

「最近繚彌さん、妹の事ばかりね……」


 春野摩耶は、二つ違いの妹がソファーに腰掛けたまま、さも面白そうに言うのを、一瞥して飲み物をソファーの前のテーブルの上に置いた。


「……ちょっと、彌慧ちゃんに不幸な事が立て続いてね……」


「……えっ?あれ程無関心を装っていた彼が?妹の不幸な事件に、無関心でいられなくなっちゃったんだ?」


 摩耶は、面白そうに見つめる妹を直視した。


「兄妹だもの……本当の処は心配なのよ」


「本当の処?お姉さんは、いつまで経ってもおめでたいわね?本当の処なんかじゃないわよ。本当にあの人が愛しているのは、妹の彌慧……他の誰でもないわ」


「またアンタは……」


 摩耶は呆れる様に言うと、聞く耳を持たない様に雑誌に目を向ける。

 二つ違いの絵摩は、繚彌と姉の摩耶が交際し始め、初めて会った時から繚彌に恋をした。それは直ぐに摩耶は察する事ができた。

 なぜなら、絵摩は小さい頃からずっと、姉の持っている物を欲しがる子で、それは摩耶の交際相手にも及んだからだ。

 中学の時も高校大学の時も、摩耶が付き合う相手に興味を示し、手を出すと言えば聞こえが悪いが、気を引こうとしたり、時には付き合ったりもした。そんな妹だが、不思議と姉妹仲は悪くはなかった。

 今でも姉妹仲が悪くは無いのは、繚彌が絵摩のアプローチに無関心であるからだ。若い頃の恋は相手というよりも、〝恋〟という物に恋した感が否めなく、彼氏が絵摩に乗り換えてしまったり、二股をかけられたりしても、その時は激しく辛く悲しい思いをしたが、なぜか摩耶は妹を憎む迄はいかなかったし、互いを傷つけ合う程の激しい喧嘩をした事もない。

 一つには平静を装う事で、自尊心を保っていたのかもしれないし、絵摩はそんな摩耶の態度に直ぐに、摩耶から取り上げた男に冷めて捨てる様に別れたからだ。だから摩耶の方も、そんな相手であっただけの事だと、割り切る事もできたのだろう。

 当然の様に繚彌との関係に於いても、絵摩は割って入って来ようと、もはや人目を憚かる事もしない程に、繚彌にアプローチをかけたが、数え切れぬ程に浮気を繰り返す繚彌であったが、不思議と絵摩だけには関わりを持たなかった。そしてそれが摩耶の中では大きく、何かと裏切られる繚彌だが、許しを請われてしまうと、許して元サヤに収められてしまう理由だろう。摩耶は妹の絵摩に一線を引く繚彌に、一つの信頼を持っているのだ。

 どんなに綺麗事や、優しい言い訳を繕われるより、ただ一人の妹の絵摩だけに、関係を望まない……それは、今迄裏切られた男達とのダントツの違いを、摩耶に見せつけて植え付けるのだ。

 そんな絵摩は、悔し紛れに摩耶に


「どんなに繚彌が無関心を装っていようと、彼が愛しているのは妹の彌慧で、決して摩耶では無いんだから!」


と言って、摩耶を嘲笑して罵倒もした。

 だが繚彌は、大学生の頃知り合って以来、ずっと妹の彌慧とは疎遠に生きて来たし、彌慧が大学へ通う為にマンションに同居する様になってからは、仕事をする為の新しく購入したマンションに住んでいたし、摩耶が居る時は摩耶のマンションに転がり込んで、半同棲の様な状況となっている。

 彌慧が不幸に見舞われ、心身共に回復する為に、今はマンションに帰ってしまっているが、彌慧が回復すれば繚彌は再び此処に戻って来るだろう。

 そう摩耶は疑わずに、一人取り残された感も否めないマンションで、繚彌の帰りを待っている。

 そんなマンションに、長期休暇を取った姉が一人で、鬱仏と籠っていると面白がって、絵摩はやって来ては嫌味を言って行くのだ。


「二人でじっくり、愛を育むはずの休暇じゃなかったの?」


「そんなんじゃないわよ……此処の処、ツアーだとかいろいろと忙しくて、休む暇もなかったから……」


「……でも繚彌さんも、此処に居るはずだったんでしょう?お休みの間ズゥーと………」


 絵摩はニヤリと笑むと、摩耶が入れてくれた飲み物に口を付ける。


「西島君からは、そろそろプロポーズかも?……って聞いてたのにね」


「えっ?そうなの」


 摩耶は絵摩の、揶揄う様子にも関わらずに身を乗り出した。


「……ほら?やっぱり……姉さんだって期待してたんじゃない?」


「………………」


「そう期待するって、そんな雰囲気だったって事でしょ?……なのに、急に妹、妹………どういう事かしらね?」


「絵摩!彌慧ちゃんは本当に酷い目に遭ったのよ。監禁されて大勢の男に乱暴されて……その内の誰かの子供を………」


「妊娠したの?知らない男の?それも複数の男の誰か?」


 絵摩は、恐ろしい程に表情を明るくして言ったので、摩耶は呆気に取られて言葉を呑んだ。


「子宮外妊娠だったのよ……」


「子宮外妊娠?」


「子宮内膜以外の場所に、着床した状態なんですって……繚彌は詳しくは教えてくれなくて……ただ危険な状態になり得るから、早急に手術したって………」


「………なんだ、誰かも分からない、男の子供を産むわけないか……」


 絵摩は、さもがっかりした様に言う。


「当たり前でしょう?まだ卒業もしてないのよ……結婚もしてないのに……」


「………もし妊娠したのなら、繚彌さんがどうするか見ものだと思ったのに……産まない大義名分ができたんじゃねぇ………良心の呵責なんていらないし……」


 摩耶は、冷たく言い放つ絵摩を凝視する。


「………あんたさっきから、何言ってんの?」


「………だから大事な妹が傷物になって、不本意な相手の子供を身籠った。さあ繚彌さんが、どうするのかな?って言ってるのよ………」


「………だから支えようとして、側に居るんでしょ?」


「今迄凄く気に掛けて、親身になっていた姉さんを寄せ付けずに?」


「………それは………」


 それは摩耶も気になっている。

 今迄は、上手くいっていない仲の妹を、繚彌の代わりの様に気に掛けて来た。

 確かに仕事柄不規則だし、ずっと側に居て世話を焼く事はできなかったが、時間のある時はマンションまで足を運び、電話やラインやら自分にできる限りはやって来た。だから繚彌は、節操無く浮名を流しても、必ず摩耶の元に戻って来たのだ。そんな摩耶が、これからの休暇について、二人で話し合おうと繚彌から連絡を受け、いそいそとマンションで待っていたのに、連絡一つ寄越す事なく繚彌は来なかった。その時は、彌慧が監禁され犯され続けて、解放されたが自暴自棄となって自殺を図った時だったから、後から知らされても何も言えなかった。そして状況が状況だから、見舞いは遠慮する様に繚彌から言われた。

 それから退院したと聞いて、一度マンションに顔を見に行ったが、繚彌は妹が心配だからの一点張りで、ろくに摩耶と話しをしようとはせず、そのままずっとマンションに居続けているし、落ち着いた頃話し合おうと思っていたら、今度は子宮外妊娠が発覚して入院、退院しても前以上に取り付く島もない程だ。

 かなり長めに取った休暇も、そろそろ終わろうとしているが、繚彌と逢う事も話す事もままならない。


「やっぱり妹が一番なのよ……それをそう見せずにいたって事は、それなりに理由があるって事でしょ?」


「辞めなさい馬鹿馬鹿しい……確かに絵摩の言う様に、ちょっと意外な気もするけど………もしもこれが絵摩だったら、私だって繚彌どころじゃないもの……」


「はぁ?私だったら?」


 絵摩は摩耶が、吃驚する程の大声を上げて言った。


「姉さんって、馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、案外馬鹿じゃないのかもね?凄く面白い事言ってくれるわ?」


 絵摩はそう言うと、口元を歪めて再び笑った。


「………そうね……繚彌さんにしても、かなり衝撃的よね………それで仲良く兄妹ごっこをして行くとは、到底思えないけど………まっ、私の言ってた事が真実だったって……姉さんにも直ぐに分かるわ」


 絵摩はそう言うと、神妙な表情を作ったまま、ジッと一点を睨み付けて言った。




 あの事件の後退院してから彌慧は、繚彌が寝付く迄ずっと側に居てくれないと、眠れない様になっていた。

 病院では消灯時間の前に、看護師が薬を持って来てくれたから、その薬を飲んでいたが、やはりなかなか寝付けない事が多かった。

 昼夜を問わず男達に苛まれた精神は、身体の傷とは違って良くなる事はなかったからだ。

 マンションに戻ってからは繚彌が薬を与え、彌慧が寝るまで側に居てくれた。

 繚彌はよく、父や母の話しをした。

 九歳で亡くした彌慧は、微かな記憶しかない処が多かった。だから繚彌の話しは、彌慧の記憶の奥にある事も多くて、とても懐かしく、そして二人が兄妹である事を確信させるものだった。


「俺が小学校の高学年の時にさ、彌慧が一緒に風呂に入りたがって……流石に困ったな……」


「えっ?」


「俺もそろそろ、羞恥心が出て来てたし……彌慧はまだ小学校に上がるか上がらないか?………それでも……なぁ………」


繚彌は、意味ありげに苦笑する。


「母さんがお兄ちゃんと妹は、一緒にお風呂に入らないものなのよ……って、真顔で言うとさ、その時は諦めるんだが、翌日になると入ろうって……一度なんか風呂場に入って来てさ………」


 繚彌は言葉を切って、ジッと彌慧を見つめた。


「今度一緒に入るか?」


 その言葉に戸惑いを見せる彌慧に


「……もう、身体の違いは分かったろ?隠す事もないしな……」


 繚彌は、あっさりと言って笑った。


「お兄ちゃんと妹は、一緒にお風呂に入らないものなんでしょ?」


「……彌慧言うねぇ。確かになぁ………俺もずっとそう思ってたんだが、そうじゃなくてもいいんじゃないかって………最近思い始めたんだ………彌慧はどう思う?」


 繚彌が聞いた時、彌慧は眠そうに大きく欠伸をしてみせた。


「時間はあるから、じっくり考えていこう……」


「ん……」


 彌慧は眠そうに瞼を閉じながら、それでも繚彌へ顔を向けた。


「お兄ちゃん、一緒に入ろう……?」


 薄くて桃色の唇が、妖艶に動いて言った。




 雅美ちゃんが久しぶりに遊びに来た日、繚彌は仕事に出て行った。

 毎日繚彌は仕事を受けずに、ずっと彌慧と過ごしていたから、仲良しの雅美ちゃんが遊びに来ると聞いて、済ませたい仕事をして来ると言った。

 一つには妹の友達に気を使ったのもあるだろうが、あの事件から二ヶ月は経っていて、繚彌は電話で話したりはしているものの、彌慧を一人残して長い時間家を空ける事がなかったから、確かにいろいろと用事が溜まっているのも本当だろう。


「念願のお兄さんと一緒に暮らせて、良かったね」


 雅美ちゃんは、美味しいと評判のケーキ屋さんのケーキを差し出して、嬉しそうに言った。


「うん……凄く嬉しい」


「………どころか、一人占めって感じ?」


「へへ……」


 想像もつかない程の、辛く悲しく酷い目に遭ったのに、とても嬉しそうに彌慧が笑ったから、雅美はちょっとホッとして笑った。

 雅美は一人っ子だから、だから妹の兄に対する感情か理解できない。

 兄弟のいる友達は、面倒くさいとか大嫌いとか言う友人が殆どで、あんなのの彼女になる女子の気がしれない、とか言う友達が多かったが、内には凄く可愛いとか、カッコいいとか、大好きとか言う友達もいる。

 どちらも理解はできないけれど、雅美としては兄はカッコよくて頼りになって好きで、弟は可愛くてやっぱりカッコよくて好き……が理想だ。

 だからやっぱり、いろいろ言ってみるものの、大概の者達は兄でも弟でも、姉でも妹でも好きなのだろう。それが本当だと思う。

 そして兄弟とか姉妹が、恋人とかできてたり結婚とかする時に、凄く焼きもちを妬いたりするのも、一人っ子なりに理解できたりもする。

 そして彌慧の兄に対する好きは、本当に雅美が描く兄に対する、理想というより妄想の好きに近い……というかそのものの様に思う。

 つまり異性よりも、はるかに近い異性なのだ。そして側にあって、手が届くのに絶対に手に入らない異性なのだ。

 そんな兄を、ずっと遠くに感じて来てしまったから、彌慧の兄に対する感情は、かなり危うい感情に変化している。

 たぶんそれは雅美が一人っ子なので、理解できる事なのかもしれない。

 そして雅美はそれを、おかしいと思わない。

 なぜなら、兄弟という異性を持たないから、それに対する感情が理解できないからだ。つまり好きは好き……愛は愛……それしか分からないからだ。

 だから彌慧が自慢の兄に、他の兄弟を持つ女子とは、違う思いを抱いて兄を見ていたとしても、雅美は自然と受け入れてしまっているのかもしれない。

 そしてそれを、倫理的に考えて否定する事もできない。

 だから今日彌慧がとても楽しそうに、そして嬉しそうに、兄との生活を語っていたとしても、雅美は悲惨な目にあった彌慧が、その辛さを乗り越えて幸せそうにしている姿に、ホッと安堵の色を表し、元気な姿に喜びを覚えるだけなのだ。

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