第2話 兄と妹

 それから暫く入院して、彌慧はマンションに帰った。

 兄の繚彌は、彌慧が驚く程に甲斐甲斐しく病院に通った。

 それこそ看護師達に、仲の良い兄妹だと微笑ましく思われる程で、ちょっとでも繚彌が遅れて来ると


「あら?今日はお兄さんは?」


 と数人の看護師に問われる程で、それを聞かれる彌慧は何時も可憐に笑って俯いた。たぶん高身長で目につきやすい繚彌は、看護師達の注目の的でもあったのだろう。

 昔から五つ年上のカッコ良い兄は、引っ込み思案で大人しい彌慧にとって自慢の兄だった。

 国城繚彌の妹というだけで、友達や先輩達が親切にしてくれた。

 あの両親が事故死して、叔母の家に行くまでは………。

 中学に進学する頃から、繚彌は両親とも彌慧とも会話をしなくなった。

 だけではなくて、何時も不機嫌な顔をしていた。

 そしてよく遊びに来ていた友人達が来なくなり、繚彌は友達の所に出かける様になり泊まりにも行っていた。そんな繚彌が叔母の家に行ったら、何時も怒っている様な態度をしていた。

 叔母や叔父には、問われた事だけを二言三言返すだけ。

 大学は誰にも相談する事もなく、東京の大学に決めてさっさとアパート迄探して叔母の家を出て行ってしまった。その時だって、彌慧には何も言ってはくれなかった。ただ黙って出て行って……叔母が呆れた様に教えてくれた。だから、とても会いたかったけれど、一度も繚彌の所には行った事がなかった………。

 否、一度だけ大学の見学と称して、高く聳え立つマンションの前まで来た事があった。だけど怖くて兄には会えずに帰った……。

 あの何時も不機嫌で、側に寄ると何となく舌打ちされる様な、そんな威圧感の漂う兄の表情しか思い浮かばず……


「帰れ!」


 と冷たく怒鳴られそうで………。

 大人しい彌慧が、これ程までに人と関わりを持ちたがらず、引っ込み思案になったのは、繚彌のあの時期の態度が大きく影響している。

 自慢で大好きで堪らなかった兄が、ある日を境に急に冷たくなって、視線すら合わせてくれなくなり、偶に合えばさも不機嫌な表情を作って睨み付けられた。

 だから彌慧は臆病になり、大好きな兄に嫌われない様に、そっと息を殺す様にして兄を見つめた。視線を合わせず……目立たぬ様に………。




「あっ、枝毛……」


 繚彌は彌慧の、黒く艶やかで長い髪を撫で下ろして、その先っぽに小さく枝分かれしている毛先を見つめて言った。


「前髪と毛先を、少し整えてもらおうか?」


 繚彌は、穏やかに優しく微笑んだ。

 その顔が、彌慧は一番好きだ。

 兄の顔は、いろいろと変化を見せる。怒っていたり笑っていたり、泣いていたり困っていたり、縋っていたり拗ねていたり……。その表情の中でも一番笑顔が好きだ。それもこんな風に、穏やかに優しく微笑んで彌慧独りを見つめる顔………。


「摩耶さんみたいに、軽くパーマをかけてみたいな」


 彌慧は癖の様に、黒目がちな瞳を上目遣いに繚彌に向けて言う。


「彌慧の髪はこんなに綺麗なんだから、痛める事しかないパーマをかける事は無いだろ?それに、俺は今の方が好きだ……」


 繚彌は、指先で摘んだ毛先に鼻を付けて、自分と同じシャンプーの香りに、酔い痴れる様に言った。




 あの事件から、優しく包み込んで守る様に、ずっとマンションに共に住んで、驚く程に優しく傍らに寄り添ってくれる様になった兄………。

 心身の痛みが癒える迄は……と、兄は殆ど妹の傍らに居て、マンションから一人で出歩く事を許さなかったので、遊びに来てくれるのは、友達の雅美ちゃんだけだ。大人しく引っ込み思案で、人見知りな彌慧が唯一心を開ける友達だ。

 幼い頃からおとなし過ぎる彌慧は、周りからも可愛いがられたが


「ただ可愛いだけ。見映えが良いだけ……」


 とか揶揄される事も多かった。

 兄の繚彌との関係が、一方的に険悪になってからは、同性から陰湿な虐めとかもあったから、彌慧はどんどん内向的になり、他人との関わりを恐れる様になった。

 それでもただ一人の兄を慕い、兄の居る東京の大学へ進学を決めた時は、かなり過保護な叔母が反対したが、結局彌慧の思いに根負けして、繚彌の側に置く事で渋々同意した。

 だから叔母は、まさか繚彌が共に住んでいなかったなどとは、夢にも思っていなかったはずだし、繚彌も叔母の前では良き兄を装った。

 偶に恋人の摩耶も会ったりしているから、叔母は有名人の美しい歌姫が、繚彌の妻となり彌慧の義姉となると信じているし、摩耶は繚彌の為にも卒なく兄妹の仲を取り持っていた。


「彌慧ちゃん大丈夫?」


 雅美ちゃんは、細身だった彌慧がもっと痩せてしまったから、凄く心配してくれる。


「うん……」


 彌慧は、雅美ちゃんには本当の事を話している。

 なぜだか彌慧は、雅美ちゃんが好きだ。

 真面目で優しくて温かな雰囲気の雅美ちゃんは、大学で知り合って話しかけてくれて、不安な思いがいっぱいだった彌慧を、救ってくれたただ一人の友人だ。そんな雅美ちゃんは実家から通っていて、週に何回かはバイトもしている。

 彌慧も憧れないわけではないが、過保護な叔母からは、多い程のお小遣いをもらっているし、兄の繚彌からも摩耶を通して与えられている。

 それは

「お前は働くな」

 と言われている様で、怖気づいてしまった。

 そんな兄の側に、それでも居たいと願う自分は何だろう……と思う。

 思うが……それを考えたところで、もはや仕方のない事だ。

 雅美ちゃんが心配してくれてから暫くして、彌慧は腹部の痛みと出血で病院に運ばれた。そして妊娠をしている事が判明した。


 ………あの時の男達の誰かの子だ……それも誰だが解らない程に、甚振られ辱められた男達の中の誰か……男達は飽きる事を知らずに、彌慧を凌辱して楽しんでいた………


 彌慧は目の前が真っ暗になって、その先の女医の話しを覚えてはいない。

 だがそれは子宮外妊娠と呼ばれる、異所性妊娠という、普通の妊娠とは異なっていた為、とても危険な症状に陥るという事で、彌慧は入院をして手術を受ける事となった。

 大好きな兄との関係が優しいものとなり、少しずつ元気を取り戻そうとしていた彌慧は、再びあの忌まわしい男達によって、心身共に辛く苦しい淵へと突き落とされた。

 誰とも分からない複数の男達の、快楽の道具とされ妊娠させられたなんて、きっと優しく接してくれる様になった兄だけど、また厭になって冷たく遇らう様になるかもしれない……いや、以前は理由が分からなかったが、今度はそうされても仕方のない境遇だ。

異性である兄には、あの男達がどの様な感覚で、どの様に彌慧を犯し続けたか想像できるだろう。彌慧を見る度に、その行為を憐れみを持って見つめるか、それとも嫌悪を持って見つめるか………。

 彌慧は決して、兄には知られたくはないと思った。

………だから死にたいと思った。

 仮令自分に関心を持つ事の無い兄繚彌だが、彌慧は誰よりも自分が汚されたという意味を知っていて、そんな自分を繚彌には晒したくはなかった。

 そこに屈辱とか憎悪とかは存在しなくて、ただ兄への慕情があった。

 深い眠りから目覚めた彌慧は、再びの兄繚彌の優しい眼差しに迎えられた。

 優しく手を取る繚彌は、彌慧を覗き込む様にして笑いかけた。


「もう大丈夫だから……」


「お兄ちゃん?」


「………全て取って棄ててしまおう?今までずっと、ほったらかしにしてたから……だからこれからは、俺がちゃんと側に居てお前を支えるから……だから兄妹二人で、乗り越えて生きて行こう……ずっと二人で生きて行こう………」


 繚彌はつぶらな瞳を向ける彌慧の額に、額を付けて優しく言った。

 その微かに触れる温かな息に、彌慧は安らぎと安堵を得て再び目を閉じた。


 叔母夫婦が来たのは、彌慧が判然と麻酔から目覚めてからだった。

 過保護な叔母は、彌慧のベットの側に座って泣いていた。


「学校帰りにレイプされるなんて……」


「車で連れ去られれば、大の男だって逃げれないもんなぁ……」


 叔母の連れ合いの仁科は、叔母の肩に手を置いて溜め息を吐いて呟いた。


「………それで子宮外妊娠だなんて………」


 さめざめと泣いていた叔母だが、急に顔を上げて彌慧を見る。


「………誰の子供か分からないんだから……これでよかったわ。彌慧は若いんだから、この事は忘れて幸せにならないと……卒業したら、家に帰ってらっしゃい……」


 叔母は、彌慧の手を取って言う。

 すると彌慧は不安な表情を浮かべて、繚彌を探る様に見つめた。


「………ああ叔母さん、僕も仕事が忙しくて、ずっと彌慧を放ったらかしにしてしまったから、これからは彌慧が元気になるまで、兄として支えてやりたいと思うんだ」


「叔母さん。お兄ちゃんは凄く心配して、仕事もセーブして大事にしてくれてるの……」


 彌慧は繚彌の言葉に、安堵の色を浮かべて叔母に言った。


「………たった二人だけの、兄妹だもんなぁ……」


 仁科が真顔で妻に言う。

 その言葉に叔母は、少し表情を強張らせ


「犯人は分かってないんでしょ?また狙われたら……」


 強い口調で繚彌に言って、反対の意思を表示する。


「これからは叔母さんの様に、過保護なくらい気を使って側に居るよ」


 繚彌が笑顔を作って言ったので、今迄とは違う繚彌の態度に、叔母は面喰らった様に見つめた。


「………そうね……あなた達は兄妹だものね……結婚するまで、今迄の時間を埋めるのも必要かもね?」


叔母はずっと自分の言う事を聞こうとしない繚彌に、少しの棘を含ませて言った。


「………それを言われると、こたえるなぁ……」


 すると繚彌は、苦笑して叔母を見る。


「両親が死んでから、彌慧には兄らしい事を全くしてないですからね……こんな事になってから気づくんじゃダメ兄ですが、今迄の分も彌慧を大事にします」


叔母は珍しく、ちゃんと答える繚彌に、大きな嘆息を吐いた。


「………だったら、退院したら一度二人で戻ってらっしゃい。お墓参りもしてないでしょ?」


「必ず帰ります」


「ああそうだ。恋人の摩耶さんも一緒にね……」


「彼女は仕事で忙しいですよ」


 叔母の言葉に、繚彌は笑顔を向けて返す。


「結婚はもう直きなんでしょ?……その事もちゃんと聞いておきたいの。テレビやインターネットの記事で、知る事じゃないでしょ?いくら親じゃなくたって………」


「……ああそのつもりでしたが、彌慧が心配なんでね……もう暫く先に伸ばします。その時は、叔母さんと叔父さんには、一番に相談しますよ」


「そんな事したら捨てられるわよ?」


「彼女は仕事で忙しいんですよ。向こうが落ち着いら、ちゃんと決めて報告にあがります……叔母さんと叔父さんには、子供の時から可愛いがってもらってるし、彌慧は叔母さんに、育てられた様なもんじゃないですか?僕だって、甘えがあったからあんな風だった理由わけだし……これからは、兄妹で親孝行させてもらいます」


今迄とは全く違う繚彌の、和やかで穏やかな態度に


「そうだよナツさん。彼女はスターなんだから、いろいろ大変だろう?それに繚彌君だって忙しい人なんだから……」


 仁科が妻を、宥める様に言った。

 思春期の子供、それもかなり難しかった繚彌に手を焼いたナツは、相談もせずに勝手に出て行った甥を快く思っていない。

 ………とは言え、年頃の異性というのは、かなり難しいと聞いているし、友人からも男だと怖いくらいだとか、女の子だと心配な事ばかりだと愚痴られているから、繚彌の事も仕方のない事だと、仁科は血が繋がっていないからこそ、理解というか一線を引くというか、割り切って受け入れている所がある。だが姉の子供という立場のナツは、それで割り切れない様だ。繚彌の態度の分、彌慧への過保護というか愛情が増していた。

 だがナツはそんな夫の言葉に、それ以上の言葉を繚彌には与えずに、哀れな愛しい彌慧の慰めの言葉と変えて、長らく話しをして後ろ髪を引かれる様に帰途に着いた。


「叔母さん、相変わらず煩いな」


 繚彌が、彌慧に向かって苦笑する。


「心配してるからだよ」


「分かってるよ……」


 繚彌が、ベットの傍の椅子に腰掛けて笑うと


「お兄ちゃん、摩耶さんと結婚するの?」


「………しないよ」


 真顔で問う彌慧に、繚彌は即答する。


「私の為に伸ばすの?」


「違うって……これからずっと、彌慧と一緒に居るって言ったろ?」


「………でも、摩耶さんとは……」


「本当の所、今は摩耶とは付き合っていないし、結婚も考えてない……確かに恋人の時もあったし、同棲した時もあったけど……今はそんな事は考えていない。それに大事な彌慧がこんな辛い目に遭ったんだから、側に居て支えてやりたいし……今迄何もしてやれなかった埋め合わせもしたい……摩耶は有名人だからね。勝手にいろいろ書き立てられるのさ……確かに長い付き合いだし、結婚を考えた時期もある相手だから、面白可笑しく書かれる………」


繚彌は、少し起こしていたベットを下げると


「そうだ!元気になったら旅行でも行くか?親が死んでから、何処にも連れて行ってやってないし?」


「お兄ちゃんと?」


「二人だけで……」


 繚彌は傍らの椅子に腰掛けると、彌慧を覗き込む様に言った。

これは、兄繚彌の癖なのだろうか?

余りに長い事、こうして話す事もなかったから、実の妹でありながら彌慧は兄繚彌の事を知らない。

どんな癖があって、どんな物が好きだったのか……。

幼い頃の兄は、よく遊んでくれた事だけは覚えていて、膝の上に置かれて遊んでくれたのが、父だったのか兄だったのか……。ただ二人とも彌慧には、大好きな相手であった事だけは変わりはない。

そんな兄の視線が暖かい……。

 こんな視線を、向けられるのは初めてだ……。

 両親が健在の時ですら、見せた事の無い暖かい……というか優しい眼差し……


「うん。行きたい……」


 彌慧は、幸福感に酔い痴れる様に答えた。

 見も知らぬ男達に犯され、不本意な妊娠迄させられ、不幸にもその子が普通に宿ってはくれずに、躰にメスを入れられ、忘れたくても決して忘れる事のない痕を残された。

 そんな辛く悲しい事すらも、兄に忘れ去られた年月に比べたら、彌慧にとっては比にならない程の些細な事だ。

そうだ。彌慧にとって、そんな事柄が兄の気を引く一つなら、兄が心配して気にかけてくれるなら、取るに足らない事柄なのだ。

今の幸福を、手に入れる為の代償なのだ。

ならば彌慧は、幾らでもその代償を払う。

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