狂愛乱舞

婭麟

第1話 動き出す狂愛

 彌慧みさとは、静かで穏やかなリビングのソファーに腰を深く落として、暖かな高層マンションの窓から差し込む日差しを、眩しげに見つめながら微笑んだ。

 それは兄の繚彌りょうやが、眩しげな表情を作った彌慧いもうとの為に、カーテンを引いてくれていたからだ。

 子供の頃から大人しく、年齢よりも若く見える彌慧は、大柄で逞しかった父親似の高身長の兄の繚彌とは正反対に、小柄で華奢で色白なのはたぶん母親に似ているのだろう。

 そしてある事件から、彌慧は前よりももっと華奢な体躯となってしまった。その体躯は、まるで少女のまま時が止まってしまったかの様だ。


「今夜は何を食べに行く?」


 繚彌が彌慧の隣りに、腰を落としながら聞いた。


「さっぱりした物が食べたいな……あーでも、天麩羅……」


「天麩羅?全然さっぱりしてないな……」


 繚彌は呆れる様に言うと、微かに彌慧の頰に掛かる前髪に指をやった。


「……そろそろ髪も、整えに行かないとな………」


 繚彌が髪を撫でながら言うと、彌慧は円らで黒目がちな瞳を向ける。

 その大きな瞳が長い睫毛で際立って、それが微かに潤んでキラキラと光って見える。

 その大きく光る黒目に、よく似た兄の瞳が映し出されている。

 繚彌は魅入られる程の妹の瞳から、微かに視線を下に下ろした。

 暑い夏は過ぎたというが、まだまだ暑さが残る時期なので、細くて白い腕を惜し気もなく晒す、繚彌好みのフリルの付いたワンピースから見える二の腕には、見るも辛い程の痣が色を変えて現れていた。

 二の腕だけでは無く、その可憐で可愛いらしい顔も、そして身体中に残した痛ましい程の痣と傷……それは複数の男達が、凌辱し尽くした痕であり傷であった。

 その傷は現在いまは無い。

 穏やかな兄妹の日常によって、少しずつ消え去って行った……そして、彌慧の心の傷も……。



 国城繚彌と彌慧兄妹の両親は、彌慧が九歳の時に事故で突然亡くなった。五つ違いの繚彌が十四歳の時だった。

 小学生と中学生の兄妹は、一瞬にして両親を亡くし、二人は母の妹夫婦に引き取られて育った。

 母の妹夫婦には子供がいなく、思春期の男子の繚彌は難しい年頃であったが、彌慧は未だ幼い処があった為、叔母は姪の彌慧を可愛いがっていたので、引き取られてからも溺愛されて育った。その為彌慧は、現代的な女子よりはかなり純粋で純朴に育った。それと反して、元々難しかった繚彌は、両親の死後叔母夫婦ともしっくりといかず、進学も勝手に東京の大学に決め、叔母夫婦の家を出てしまった。………とはいえ、授業料も生活費も小遣いも、叔母の所から困らない程の手厚い支援を受けた。

 叔母が言うには、父の保険金が二人を大学まで行かせても、それでも残る程にあった……という事だったが、それが本当でも嘘でも、突然両親を亡くした兄妹にとって、叔母はとても良い縁者であった事には変わりはない。

 そんな大学時代に、友人と遊びでインタネットに載せた、繚彌が作った曲が大学の友人達を経て、世間で話題を呼び商業関係者の目に触れて、音楽関係の仕事の依頼が来る様になった。

 当時売り出し中の新人であった、春野摩耶の新曲を担当させられ、それが驚くほどにヒットした。

 当然の様に摩耶は、驚くほどのスターダムにのし上がり、当たり前の様に年齢の違い繚彌と恋人関係となった。………といっても、夢中になったのは摩耶の方だった。曲を提供する事を始めた繚彌は、いろいろと誘惑が多くて、若い繚彌は呆れる程に無頓着に多くの女性と付き合った。

 そんな事をしている内に、自然というか繚彌の望みだったのか、で糧を得る様になって行った。

 両親が他界し、甘える相手を失っていた繚彌は、手取り早く自立したい気持ちが大きかったのかもしれない。

 だが繚彌にはその才があった。たぶん自分が望む以上にあったのだろう、春野摩耶以外にも、提供した曲は世間の若者達の趣向に合って、歌い手達を有名にしたのだから。

 だから気が付けば繚彌は、名の売れた作曲家となっていた。

 そんな頃、ずっと離れて暮らしていた妹の彌慧が、東京の大学に通う事になり、過保護な叔母は


「彌慧を、女の子一人で暮らさせるわけにはいかない」


 と言って、彌慧を繚彌の所に引き取る様にと言って来た。

 五つ違いの可愛い妹は、繚彌の難しい思春期から、どう接してよいのか解らない存在となっていた。たぶん両親が存在していれば、普通にごく普通に過ごす時間において、接し方も理解して行くものであったかもしれないが、両親がある日突然居なくなり、難しい時期のまま離れて暮らしてしまったがゆえ、繚彌は異性である妹の接し方が、歪なまま時が過ぎてしまい、結局の所歪なまま停止してしまっていた。叔母の様に溺愛もできずに、どちらかというと放ったらかしの様な状態になってしまった。

 繚彌は設備の整った高層マンションを、大学生の彌慧に住まわせ、自分は仕事場として新しく購入したマンションに移り住んだ。

 其処ならば恋人の摩耶も、ちょっと遊びの女の子達も自由に泊める事ができるからで、それ程迄に繚彌の生活は乱れていた。

 そんな兄妹を、兄の恋人として妹の心配をしていたのは、今や若者達の間で〝魅惑の歌姫〟と迄、称賛されている摩耶だった。摩耶は何かと彌慧と繚彌の間に入って、彌慧の世話を焼いてくれていた。


「彌慧ちゃん、余りお友達がいないみたい……」


 ある日摩耶は、心配して兄の繚彌に相談した。


「小さい時から人見知りで大人しいからな……一人もいないのか?」


 それでも繚彌は心配する様子も見せずに、幼い頃から習っていたというピアノを弾きながら言った。


「ううん。雅美ちゃんという子が一人、凄く仲良いみたいで、よく泊まりに来てるみたい」


「………気のおける相手が、一人いればいいだろう?俺だって付き合いは多いが、信頼できる人間なんて、一人か二人だ……」


「………そうだろうけど………」


「それより今夜は、泊まってくだろ?」


 繚彌はピアノのを弾きながら、それは熱い視線を送って来る。

 摩耶はその視線に、微かに微笑んで頷いた。

 繚彌はいろいろ浮き名を流すが、必ず摩耶の所に帰って来る。

 そんな関係が何年と続いているから、幾度となく言い争いもしたし、別れ話も出たし、摩耶だって繚彌一途でいたわけではないが、なぜか繚彌は摩耶が突き放すと、離れたくない様に擦り寄って来ては、上手いこと元サヤに収まってしまう。

 もはやそれが数え知れなくて、それで摩耶も諦めの様になってしまった。

 つまりは、ゾッコン惚れ抜いているのは自分だと、この幾年かで思い知らされてしまった。

 だから、いろいろと浮気心を起こして、飄々と渡り歩いているが、いずれ結婚するなら、それは自分であろうと確信している。

 繚彌が求めているのは自分なのだと、ちょっとした自負の様なものが存在する。

 それに、繚彌の唯一無二の存在であるはずの、決して気を留める気配すら無い妹だが、同じ親の血を分け合っている存在の彌慧の世話を任せているのは、行き当たりばったり的な付き合いの女性達では無くて、ただ自分だけである事なのも、摩耶にそんな思いを抱かせている要因だ。

 だから摩耶は、義姉の気持で彌慧と接したし、それがいつしか優越感となっている。

 そんな彌慧が就活を始めた時も、繚彌は全くの無関心で、相談に乗ったり彌慧に良さそうな会社を模索したりしたのも摩耶だった。

 彌慧は、目を見張る程の美人だ。

 否、幼さの残る童顔は少女の様で可愛く可憐で、よく今迄男の手垢が付かずに、男の毒牙に傷付く事も無く過ごして来れたと、不思議と思う程だが、かなりの人見知りと大人しく余り人と関わり合わない、その性格と生活習慣に因する事が多いのだろうが、それはちょっと勿体無いと、人気商売の摩耶は思ってしまう。

 そんな相談に乗っていた頃………

 彌慧に、それは苛酷な不運が訪れた。

 そしてそれは、春野摩耶の人生をも大きく変えてしまうものだった。




 その日は繚彌が、久々に休暇を取れた摩耶のマンションに、泊まりに来る事となっていた為、繚彌は以前摩耶とペアで買った懐かしい時計を、その左腕にめて行こうと思い当たり、それが今は彌慧が住んでいるが、以前は摩耶と共に住んでいた事もあるマンションの自室の、机の引き出しに置き去りにして来た事を思い出して取りに行く事にしたのだった。

 二人の長い関係は、関係者のみならずファン迄知る、周知の事実となっていたし、つい最近のワイドショーでも


〝結婚間近か?〟


 という話題が取り沙汰されていた。

 今年に入り摩耶のコンサートツアーに、一区切りがついた為の取り沙汰ではあったが、摩耶自身がそろそろ二人の関係を、判然とさせたい赴きもあり、これから取る長期休暇に意味を持たせたい意向が動いていたからでもある。

 当然その意向は、相手の繚彌も察していたし、それゆえに同棲していた頃に、海外で仲良く買い求めたペアの時計を、着けて行こうと思い立ったのだ。

 繚彌はマンションに入ると、彌慧が居ない事に違和感を持った。

 夜の九時といっても、彌慧がこんなに遅く迄遊び歩いているとは思えなかったからだ。

 とはいえ、寝るには早い………


 ………もしかしたら、病気で寝込んでいるのか………


 いつも放ったらかしにしているが、そこは兄妹だ。熱が高いなら、病院に連れて行くくらいはできる。

 高校の時の友人が、こっちの大学を出て医者になっている。

 繚彌は、彌慧の部屋を覗いた。

 だが彌慧は居なかった。

 病気じゃないなら………

 繚彌は自分の部屋へ行き、時計を見つけると左手に嵌めて、そのまま出て行こうとして、部屋の奥を見つめた。


 ………まさかな………


 トイレとか浴室で、倒れていたりしたら………

 そう何気に思って、浴室を覗いて心臓が止まりそうになった。

 電気も付いていない浴室に、ドアを開けた灯りに浮かび上がる彌慧の姿。

 慌てて電気を付けて中に入ると、浴槽が真っ赤に染まっていた。

 ドラマとかでよく見る光景………

 えっ?自殺?彌慧が?手首を切って?………

 繚彌は慌てて彌慧を浴槽から遠ざけ、梱包用の紐を持って来て、兎に角切り口の上の方を思う存分に締め付けた。


「彌慧?彌慧!!!」


 彌慧は微かに息をして、少しだけ顔を歪めたが返事はしない。

 救急車を呼ぼう……と携帯に手をやり、思い直して医者になった友人に電話を掛けた。


「何をしてる!直ぐに救急車を呼べ!」


「………お前の所に連れて行く……十五分で着くから……」


「馬鹿か?」


「………頼むから……」


 友人が務める病院に、彌慧を抱える様に連れて行った。

 友人はそれよりも少し早く着いていて、懇意の看護師に準備をさせてくれていた。


「なぜ言う事を聞かない」


 友人はきつく言うと、彌慧を連れて看護師と処置室に慌てて入って行った。

 長く感じる時を過ごして、繚彌は処置室の前に立ち尽くす。

 暫くして友人が出て来た。


「………何があったんだ?」


「こっちが知りたい。妹の所に行ったら……」


「妹?……彌慧ちゃんか?……顔は痣だらけで腫れてるし、身体中打撲の痕だらけだ。殴られたり………」


 友人はそのまま口籠ったが


「複数の男に乱暴された形跡もある……つまり………顔は大人しくする様に殴られたんだろうが、身体の方は無理矢理………それに薬を打たれた痕もある……一応血液検査はするが……」


「………手首の方は?」


「ああ……そっちは大した事無い……早く見つけてよかったな……だから救急車を呼ばなかったのか?」


「………できれば、おおごとにしたくない……」


「だが複数犯なら、警察に届け出た方がいい。また何かあったら……」


「もうそんな事はさせない」


「心当たりがあるのか?」


「……あるわけがないが、俺がずっと側についている」


「……いやお前……」


「もう、そんな事は言っていられないだろ?俺の側に置いて、俺が守る……」


「国城……お前の気持ちは分かるが……」


「高務……そうするしかないだろ?」


 繚彌の言葉に、友人の高務が憐れむ様な表情を浮かべた。


 翌日気が付いた彌慧から聞いた言葉は、繚彌と高務を唖然とさせた。

 大学から帰宅した彌慧は、マンションの前で数人の男に拉致された。

 そのまま何処かの廃屋に連れて行かれ、複数の男に凌辱された。

 何回めかの行為の後、男達は嬉しそうに薬を打った。

 男達に抗ったのは、ほんの最初だけだった。

 激しく男に殴られ、数人がかりで抑え付けられてなぶり者にされた。

 抵抗する娘を手篭めにする快感が良かったのだろう、何回か代わる代わるに男達は彌慧にのし掛かり、痛い程の苦痛も味わせた。その内意識が錯乱し始めたのは、彌慧がおかしくなったのか、薬の所為なのかは分からない。

 どのくらいの時間監禁されて甚振られたのか、なん日男達に弄ばれたのか分からないし、何回薬を打たれたのかも分からない。

 ただ数えられぬ程に、男達に汚された。

 もはや帰れる事は無かったかもしれないが、それすらも分からなくなる程だった……と彌慧は、光を失った瞳を天井の一点に向けて言った。

 すると繚彌は、彌慧のベットの脇にひざまづいて、痛々しい程の痣だらけの細い手を取った。


「生きていてくれて……良かった……戻って来れて良かった……」


 か細い手に額をつけて、涙を流して繚彌は言う。その態度に、今迄瞳に色を失って語っていた彌慧が、吃驚した様な顔を向けた。


「お兄ちゃん?」


「彌慧を喪わずにすんで、よかった………」


 長きに渡り、目もくれる事なく側にいる事もしなかった実兄あにが、大勢の男達に汚された妹の傍らで、膝をついて泣いている。それも生きていてよかった……と………。

 彌慧は思いもかけなかった兄の言葉と態度に、天井を見つめて涙を流した。

 大好きな実兄は、自分など嫌っているのだと思っていたから………。

 大勢の男達に汚されたまま、そのまま死んでもきっと悲しむ事も、憐れむ事も無いと、そう思って来たから………。

 この汚れた妹を、忌み嫌うと思っていたから……今迄以上に……

 だから彌慧は死のうと思った。

 これ以上大好きな兄に、疎まれて生きていたくはなかったから……。

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