3 青空の亀裂から

 ようやくこの街に静けさが戻ってきた、皆がそう言う。でも、本当にそうだろうか。皆も、そして僕も、そう思いたがっているだけじゃないのか?


「……ええ、その通りです主任。市当局との折衝はこれ以上延ばせません。必要であれば私も現場に赴きます。……いえ、はい、お気遣いありがとうございます。では失礼します」

 真琴が目を擦りながら居間に入るのと、母がスマートフォンを切るのはほぼ同時だった。「まだ起きてたの? 先に寝てなさいって言ったでしょう」

「仕事、忙しいの?」

「あなたの気にすることじゃ」言いかけた母は、真琴の視線に口をつぐんだ。実年齢より5つ以上は若く見られる彼女だが、連日の激務に目の下の隈が巧みなファンデーションでも隠し切れていない。「……身体がもう2つ3つ余計に欲しいわ」

 テーブルに視線をやった真琴は眉根を寄せた。母の服用する錠剤が、明らかに増えている。しかも種類まで増えているようだ。「そんなにたくさん飲んで大丈夫な薬なの?」

「ただの栄養剤よ。おかしな勘繰りはやめて」

 百歩譲って栄養剤だとしてもその量は尋常に見えないけど、と言いかけてやめた。母の数少ない拠り所を奪いたくはない。第一、とてつもなく面倒になると決まっている。

 真琴は黙って母の後ろに回り、肩を揉んだ。母は何か言いかけたがすぐに肩から力を抜き、ありがと、とだけ呟いた。

 母さんの背中、何だか前よりちっちゃくなったな、と密かに思う。それとも、僕が大きくなったのか?

「学校の方はどう?」

「相変わらずだよ。さすがにこの時期になると、みんな進学の話ばっかり。あ、そうでもないか……あのは誰でも気になるみたい」

 せっかく脱力した母の肩が、真琴が驚くほどの勢いで強張った。「真琴、。あれは何かの間違い。そうでしょう?」

「でも」

「……わかったよ」

「空に割れ目なんてないのよ……」母は精も根も尽き果てたように首を倒した。喋るのも辛い様子だった。「……だから、は何かの間違いなのよ。そうに決まってる……」

 自分に言い聞かせるような弱々しい声に、真琴はそれ以上、何も言えなかった。


 翌朝、真琴が目覚めると母は既に出勤していた。テーブルにはいつもの通り手の込んだ朝食が並んでいる。母さんはいつ眠るのだろう、そもそも眠ったのかな、と真琴は思った。僕が母さんと同い歳になった時、自分の子供にも同じことできるのかな?

 食欲は湧かなかったが、母が寝る間も惜しんで用意したのだからという半ば義務感で口に詰め込む。喉にサンドイッチを詰まらせかけ、慌てて牛乳で飲みくだそうとして、ふと窓の外が目に入った。

 この部屋からでも、あの〈割れ目〉はよく見える。口の中のものを咀嚼しながら、真琴はそれを見続け──やがて深淵を覗き込んだような目眩に襲われて、慌てて目を逸らした。

 最近、真琴は痛感したのだが、ありえないものを注視しすぎると人の精神には影響が──それも良くない影響があるらしい。あの真昼の星空はあまりにも異質で美しすぎて、じっと見ていると目眩がしてくるのだ。実際、目眩や頭痛、吐き気を訴える周辺住民の量は以前の数百倍にも達しているらしい。

「何かの間違い、か……」

〈割れ目〉の向こうの星空は、今日も美しい。


『4・30事件』の後、真琴の周囲ではいろいろなことがあった。いろいろなことがありすぎた。

 高塔家当主・高塔百合子が生死不明となった。〈月の裏側〉と呼ばれる、犯罪者を狩る犯罪者たちの組織が露わになった。また日本でも有数の大企業数社と犯罪組織の関わりが報道機関にリークされ、企業の社長クラスと官公庁の偉い人が責任を問われて何人も馘になった。〈のらくらの国〉が消失し、代わりに別の次元(らしいが、よくはわからない)に繋がっているらしい〈割れ目〉が出現した。

 そして全てが相良龍一のせいになった。今や彼は犯罪者たちを狩る犯罪組織の重要人物であり、国際的大企業と国際的謀略の生き証人であり、出所不明の大量破壊兵器を炸裂させた張本人だった。〈月の裏側〉のメンバーが何人も捕まったり、抵抗して射殺されてはいるが──そのほぼ大半が学生や医師、弁護士やスポーツインストラクターなど犯罪歴のない市井の人々であったことは、少なからず多方面に衝撃を与えた──相良龍一だけは捕まらず、今も逃走を続けている。

 事情通(どこにでもそんな者がいるものだ)によれば警察庁だけでなく国際刑事警察機構ICPOまで動き出していると言うが、風説の域を出ない。

 事実を知っている真琴たちにしてみれば噴飯ものだ。だが泣こうが喚こうが怒鳴ろうがどうなるものでもないことも確かだった。そもそも、龍一たちが非合法的な破壊活動を行っていたのは冤罪でも何でもないのである。

〈のらくらの国〉が消えたことで中断を余儀なくされていた埋立地再開発に乗り出そうとした市当局は、またしても当てが外れることになった。即ちあの〈割れ目〉のせいである。

 出現当時はやかましく飛び交っていた報道機関のヘリも、不用意に近づきすぎた一機が突然コントロールを失い墜落、消息を絶ったことでさすがに懲りたのか、今では大人しく〈割れ目〉の外観を遠くから映すにとどめている。

 おそらくだが、現在未真名市で暮らしている住民同士であの〈割れ目〉が話題に上らなかった日は、出現以降ただの一日もないはずだ。

 曰く、軍の偵察小隊が丸ごと消息を絶った。

 曰く、〈割れ目〉の向こうから狂ったようなけたたましい笑い声が響いてきた。

 曰く、〈割れ目〉の向こう側から巨大な目がこちらを見ていた。

 一つ一つは出どころも怪しい噂話に過ぎない。だが、それを一笑に伏せない何か冷え冷えとしたものが、あの〈割れ目〉の向こう側から吹きつけてくるのは確かだった。


「あのさ、佳澄……今日は一緒に帰らない?」

「あー……わりい、ちょっと急いでんだ。また今度な」

 帰り際、真琴は思い切って佳澄に声をかけてみたが、彼女は妙にそっけない態度で鞄に教科書を詰めてさっさと教室を出てしまった。おかげで周囲のクラスメートにまで「君たちケンカしてんの?」という目で見られる始末だ。

 途方に暮れていたら、軽く肩を叩かれた。可乃子だった。

「ツラ貸せ」


「やるよ」

 真琴を駅前広場のベンチに座らせた可乃子は、コロッケを二人分買って戻ってきた。

「お金ぐらい出すよ」

「いいって。いつも佳澄のバカにたかられてんだろ? あたしにまで気を遣うなよ」

「……最近はたかってさえくれなくなったけどね」

 あれか、と可乃子は舌打ちした。「いたらいたでウゼえけど、いなくなったらそれはそれで寂しいな……まあいいや。冷めないうちに食えよ」

「うん」真琴はコロッケを齧った。家で食べても、こうやって外で食べるよりは美味しく思えないのが不思議だ。「……すっかり嫌われたみたいだね、僕」

「別にあいつ、真琴のこと嫌いになったわけじゃないだろ。おめえが気にしてんのが、佳澄のことじゃないのと同じようなもんだ」

「え……?」

 可乃子はコロッケを一口齧ってから、改めて真琴の顔を覗き込んだ。真剣な顔だ。「腹割って話そうぜ。でかぶつ……じゃねえや、あの人たちのこと気にしてんだろ?」

「……うん」

 そう、我ながら薄情だとは思う。でも、真琴が考えているのは佳澄のことではなく、龍一や夏姫や崇、テシクや百合子のことだった。

 真琴の人生に大きく関わり、そして今はいない人々のことだった。

「真琴はさ。一度、あの人たちについて気持ちの整理をしといた方がいいって」

「気持ちの整理?」

 可乃子は真面目腐った顔でまたコロッケを齧る。「許してやれ、ってことだよ」

「許す……」そもそもそういう発想はなかった。龍一や夏姫に対して怒りがあるわけではない。ただ、苦しいのだ。その苦しさを、どこへ向けたらいいのかわからないのだ。

 全身傷だらけの姿で真琴の病室を訪れた龍一を思い出す。逮捕される危険を冒して真琴に謝りに来た彼の姿を。

 それに対して、自分は何を返せたというのだろう。

「あたしが許せって言うのは、真琴自身のこともさ」

「僕自身?」

「そうだよ。真琴は自分も許せないし、あの人たちも許せないし、じゃどうしたらいいのかわからなくなって、ごちゃごちゃしてんだろ?」

 気が晴れた──とまでは行かないが、あれ以来抱え込んでいたやり場のない気持ちがすとんと落ちたのも確かだった。「そう……かも知れない」

「だから次にあの人たちに出っくわした時、とことんかばうのか、それとも警察に通報すんのか、腹固めとけって話よ。でないと、きっとまた繰り返すぜ」

「あの人たちが……戻ってくるって? 指名手配されてるのに?」

 ああ、と頷いて可乃子はコロッケの残りを口に放り込む。「あの人たちにとっちゃ、この未真名は因縁の地なんだろ? どっちかっつーと、そっちには真琴の方が詳しいんじゃないか」

「それは……そうかも知れない」

 恩人の仇である〈犯罪者たちの王〉を見つけ出してどうするのか、真琴に問われて答えた時、相良龍一が静かに、一言だけ答えたのを思い出した。殺す。

 そう考えてみると、龍一が今も逃亡を続けている理由は、単に逮捕されたくないからではないように思えてきた。むしろひたすら逃げて時間を稼ぎ、逆襲の機会を伺っている──そちらの方が遥かに真琴の知る龍一の実像に近い。

 不意に、可乃子が真琴に顔を近づけた。「振り向くなよ。あたしら、つけられてるぜ」

 ぎょっとして周囲を見回そうとしたが、可乃子は小さく首を振って制した。「びびる必要はないって……今はまだな。たぶんケーサツだろ」

「……龍一さんが僕に会いに来ると思ってるんだね」

「サツだって、あたしらが思ってるよりはずっとアタマ使ってるってことだ」

 腹を固める。自分にできるんだろうか。自分の面倒を見ることだけで一杯一杯の僕に、龍一さんをかばうことなんてできるんだろうか。警察に龍一さんを売ることなんて、もっとできるんだろうか?

「あたしさ、工業行こうと思って」話題を変える必要があると思ったか、可乃子が声のトーンを上げた。

「工業……って、工業高校? 就職するの?」

「まだわかんね」佳澄の『実家』を考えれば優しくはないだろう。「でも、手に職付けとくのは悪くねーからさ。それにあたしも『親とあたしは関係ねーよ』って言いながら親の七光りアテにしてんの、我ながらなんかとっちらかってんなーとは思ってたし」

「そう……じゃ、もうすぐこんなふうには話せなくなるね」

「おいおい、おめえまであたしをしんみりさせんじゃねーよ」可乃子は苦笑する。「高校行ったってまた会えばいいじゃん。佳澄だってよ、案外明日になればまた何事もなかったみたいにたかってくるかも知んねーぞ」

「そ、それはそれで極端かな……」

 それにしても、可乃子がそこまで自分を見ていたのかと思うと、何だか目が覚めるような思いを味わった。案外、人は見ているものだ。

 広場を行き交いながらスマートフォンを見ていた人々の間で、不穏なざわめきが湧き起こった。手近な知人と肩を寄せて画面に注視する人や、口元に手を当てている人までいる。

「……何かあったのかな?」

 可乃子がスマートフォンのニュースアプリを起動させた。「これか?」

 赤茶けた山肌が画面に映った──正確には山肌のあった場所、か。まるでスプーンで抉り取られたプリンのように、ぎざぎざの山腹がごっそりと消失し、巨大なクレーターの中心部からは膨大な量の白煙が立ち上っている。

「何だこれ? 火山でも噴火したのか?」

 映像の意味を理解した真琴の顔面から血の気が引いた。「いや、違うよ、これ……火山じゃない……!」

 まるでタイミングを見計らったかのように、駅前広場のエキシビジョンがCMから臨時ニュースに切り替わり、強張った顔のアナウンサーを映し出した。

『……信じられません、信じられない光景です……! 皆さんご覧になれますでしょうか……北米コロラド州エルパソ郡シャイアン山、シャイアン・マウンテン空軍基地が……その広大な地下施設も含めて、完全なるクレーターと化しております……!』

『シャイアン・マウンテン空軍基地は花崗岩の強固な岩盤に守られたシェルター構造となっており、冷戦時代は北米航空宇宙防衛司令部N O R A Dが設置されたことでも知られ、また現代でもその防護性の高さから試作段階の超精密機器を用いた通信実験施設として……』

『施設は完全に消失しており、5千人以上にも及ぶ兵士・職員の生存は絶望的と見られております……』

『あっ、待ってください! 現地からの映像です。これは……人、でしょうか? これも信じられない光景ですが、消失した基地の上空に人が浮いています……!』

『音声は聞こえませんが、口元が動いています……我々に向けて何かを訴えているように……』

『読唇解析の結果が出ました、字幕で表示します……!』


 消失したシャイアン・マウンテン空軍基地の上空数百メートル。法服の裾をはためかせながら〈黒の騎士〉は呟く。

「神は私に、あらゆるものを裁く天秤を与えられた」


 ようやくこの街に静けさが戻ってきた、皆がそう言う。でも、本当にそうだろうか。皆も、そして僕も、そう思いたがっているだけじゃないのか?


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ごめんな、真琴、可乃子……」

 一方同じ頃。佳澄はひたすら走っていた。

「でも、あたしは真琴ほど頭が良くないけど、良くないなりにいろいろ考えたんだぜ。一緒につるむだけが親友じゃない……ってさ」

 彼女が目指しているのはかつて〈のらくらの国〉があった場所──そう、〈割れ目〉の爆心地である。

「みんな見て見ぬふりしてるけど、あたしはビビったりしないぜ。何もかんも、あの〈割れ目〉が現れてからおかしくなったんだ……あの〈割れ目〉をほっといて、ああでもないこうでもないって話したって無駄なんだよ」

 もちろん、あの〈割れ目〉については国内外から、佳澄の何百倍も頭がいいどころか十回くらい転生しても追いつけないような優秀な科学者が集まって、個人ではとても買えないような高価な機材を使ってはああでもないこうでもないと調べていることは知っている。

 でも、佳澄は何となくわかってしまったのだ──あの人たちは〈割れ目〉の方が大事なのであって、〈割れ目〉のせいで変わってしまったあたしたちの生活はどうでもいいのだ。もっと言うと、〈割れ目〉が消えてなくなっては困るのだ。

「あの〈割れ目〉のせいで若い人が全部逃げちまって、ただでさえ忙しい母ちゃんがもっと忙しくなっちまったんだぞ。母ちゃんが過労でくたばったらどうすんだよ。マジでふざけんじゃねえぞ」

 母ちゃんだけじゃない。あの〈割れ目〉のせいで真琴からも、可乃子からも、とにかく佳澄の周りの人々から笑顔が消えた。みんな深刻な顔で、、と毎日怖々と暮らしている。全部、全部、〈割れ目〉のせいだ。

 佳澄は難しいことや面倒くさいことが苦手だ。できれば毎日笑って暮らしたい。でも周りの人々の笑顔を曇らせてまで一人で笑っていたくはなかった。それじゃ、あたしは馬鹿の上に人でなしじゃないか。

「誰かに任せるんじゃねえ……あたしが、自分で、あの〈割れ目〉を何とかするんだ」

 あの〈割れ目〉を何とかする──それが〈割れ目〉を観察することなのか、〈割れ目〉の向こう側を目にすることなのか、あるいは〈割れ目〉そのものを消し去ることなのか、そこまでは彼女自身にも判然としなかったが。

 この数ヶ月、佳澄は少なくない時間と手間をかけてあの〈割れ目〉を観察してきた。警備員に追い返されるギリギリまで接近したり、ドローンを飛ばして周囲を観察したり──〈割れ目〉自体については何一つわからなかったが、警戒ラインの薄い部分を発見するには充分だった。それを突き止め、さらに必要な物資を購入することで、彼女のお小遣いはほとんど底を突いてしまったが……。

 警戒ラインが見えてきた。臨時の警備ポストにはいつも人が常駐しているし、侵入防止用のモーションセンサーだってある。だが、あたしだって伊達に何日も観察してきたわけじゃない……。

 佳澄はアンダースローで瓦礫を放り投げ、全速力で警戒ラインの内側に潜り込んだ。案の定、警備ポストから二人組の警備員が出てくるが、

「またか……このポンコツが、こんな石っころにいちいち反応しやがって」

「そこの壊れかけた部分からこぼれ落ちたんだな。何が省力化だよ。俺たちの仕事が増えるだけじゃないか」

 警備員たちのうんざりした声からして、こういったことはよくあることなのだろう。

「目新しいオモチャを取っ替え引っ替えする金があるんだったら、俺たちの給料増やしてほしいぜ……」

「その給料だってどれだけピンハネされてんだかな」

 やってられないという顔でポストに戻っていく警備員たちに片手で謝り、佳澄は今度こそ〈のらくらの国〉の最深部──〈割れ目〉の足元に向かって走り出した。この警戒ラインさえ突破してしまえば、もう警備らしい警備は存在しない。

「……あれだ」

 爆発で周囲の建物は根こそぎ吹き飛ばされたからだろうか、そこは綺麗な空き地になっていた。そして、暮れなずむ夕空を背景に、眩い星空が視界を覆い尽くすほどに輝いていた。

 何でも〈割れ目〉自体の幅は数百メートル程度だが、高さは成層圏近くにまで達しているらしい。

 それにしてもおかしいな、と思う。宇宙空間が真空ってことぐらい、あたしだって知ってるぞ。なのに近づいても息苦しくならないどころか、空気の流れすら起こらない。まるで壁に映された映像みたいだ。

 やっぱりあれはなのだ、と佳澄は思いを新たにする。

 偉い科学者のセンセイたちは日没が近くなると引き上げてしまう、とは観察していてわかったことだった。たぶん、センセイたちも日没後にあれと向き合うのは怖いのだ(そのことを、改めて佳澄は実感した)。こうして見ているだけで、底無しの穴に落ちていくような酩酊感がある。

「……おっと、呆けてる場合じゃないや」

 佳澄は頭を振ってビデオカメラを取り出した──それに好都合だ。まさにここにいるあたしが、あの〈割れ目〉をかぶりつきで観察できるってことじゃないか。

「あー……ということでやってまいりました。平野佳澄、皆さんの平野佳澄、あの〈割れ目〉を前に、若干緊張しております」

 声が震える。くそっ、我ながら滑舌が悪いな。動画デビューに備えて練習はしてたのに。

「と……とても不思議な光景です。あの〈割れ目〉の向こうには生命体が存在するのでしょうか? しても不思議ではありません。あんなにたくさんの星が瞬いているのですから……」

 ナレーションとも独り言ともつかない呟きを漏らしながら少しずつ近づいていく。──その視界の端で、星の瞬きとも違う何かが動いた。

「あれ? 今何かが動きましたね。生き物……でしょうか?」

 まるで水が滴るように、〈割れ目〉から何かが滲み出てきた。

 それは人の腕だった。──爪も皮膚も何もかもが青白い燐光を放ち、関節らしい関節が見当たらず、蛇のようにうねりながらどこまでもどこまでも延びる人の腕があれば、の話だが。

 それが一本。いや、二本、三本、十数本、数百本から数千本。

 あれこれまずくね? と頭の片隅で思った。今のあたし、ホラー映画の第一犠牲者ポジションじゃね?

 まるで波に揺れる海藻のように、無数の青白く輝く腕が佳澄に向かって押し寄せてきた。

「うひゃわぁあああああ!?」

 身も世もない悲鳴を上げて逃げた。ビデオカメラを放り捨てて逃げないだけの理性はあったが、おかげで思うように走れない。足首に冷やりとした感触が絡みつき、やがて同じ感触が腕と背、そして肩と顔にも絡みつき──


「下がれ」


 静かな声とともに、一瞬で感触が消えた。

 勢い余って派手に転んでしまい、膝をしたたかに打った。ひいひい言いながら這うようにして手近な自販機の残骸に転がり込む。そのまま頭を抱え、何があっても目を開けるんじゃないぞと自分に言い聞かせて固く目を閉じた。

「すまなかった。此方の住人はとにかく其の方らが珍しいようでな」

 ひたひたと裸足らしき足音が近づき、彼女の傍らに座り込んだ。

 騙されないぞ、騙されないぞ、と佳澄は自分に言い聞かせる。そうやって油断させた隙に、あたしを頭からばりばり食べる気なんだ……。

「ふむ……よく考えてみれば、余が此方に来てからそなたが出くわした初めての住人か。見たところまだ未通女ゆえ、正室云々はいささか気が早い話か……」

 あれ? よく考えたら、こいつ人の言葉──それもニホンゴ喋ってね?

「どうだ、まずは余の友人になってはくれぬか?」

「なんて?」

 驚きのあまり、佳澄は怖がるのをやめた。


 彼女はまだ知らない。自分がたった今、この星の歴史を変えてしまったことを。

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