2 会食
「まず本日の
蝋燭の光の下、シックな男物の給仕服を着こなした少女の差し出す皿に、夏姫は目を凝らす。皿の上に親指の先ほどの赤みがかった茶色の塊が4つ並べられている。
「穴熊? 穴熊って言った? へえ、鹿や鴨は食べたことあるけど穴熊は初めてだわ。どんな味か想像もつかないけど」
興味津々といった夏姫の勢いに、少女はやや引き気味に応える。「は、はい……いずれも裏漉しした上でアンチョビ・ケッパー・マルサラ酒・ローリエを用いております。こちらのパンに塗ってお召し上がりください」
ふぅん、と夏姫は感心して頷いておいてから「わかったわ。これから出てくる料理の紹介も兼ねているのね!」
テーブルの向かいから含み笑いが聞こえた。「ジビエには独特の風味がある。嫌う者も多いが、君の反応を見る限りその心配はなさそうだな」
声の主、プレスビュテル・ヨハネスは今日も高級な生地が意味をなさないほど地味に仕立てた喪服のようなスーツを着ている。傍らには、女物の給仕服を着た少年が傅いている。
「あらまあ、そんなにじろじろ無遠慮に観察していただいて感謝の言葉も思いつきませんわ。思いつかないから、何も言わないことに致しますわね」
「お好きに」
ヨハネスは気を悪くした様子もない。
給仕の少女が白い目を向けてくるのを無視して、夏姫は薄いパンに塗ったペーストを口に運んだ。獣臭さや血生臭さなど微塵も感じられない、上品な舌触りだ。もっともここに来てから、食事の質で失望したことは一度もないのだが。
──彼女自身、我ながら何やっているのかしら、と思わないでもない。
この邸宅に連れてこられて早くも数週間が経つ。実のところ、夏姫の脱走計画は絶賛頓挫中であった。
扱い自体に不満はない。食事は日に三度、特に一室に監禁されることもなく、敷地の中でなら特に咎められることもない。部屋にはトイレもバスルームもあり、不自由さを感じない一通りの調度なら整えられている。
ここへ来てから生きた人間はあの給仕の少年少女、そして主である〈犯罪者たちの王〉のみだ。他は人間どころか、犬猫の類さえいない。これだけの広さ、数人程度では確実に持て余すと思うのだが……それでも、掃除は隅々まで行き届いている。誰も見ていない間に妖精さんたちが掃除していると言われた方がまだ納得行くくらいだ。
とにかく、ここには人がいない。屈強なボディガードの軍団も、優秀で冷酷な参謀たちも、ボスの無聊を慰めるための目の覚めるような美女の群れも。とにかく夏姫が〈犯罪者たちの王〉の本拠地についてぼんやりと思い描いた人も物も設備も、何一つなかった。小金を持った老人の別荘、その程度の住居である。さすがに冷暖房は完備されていたが、それだけだ。おかしな話だと思う。少なくとも百合子の保有していた〈システム〉か、警視庁が実験中の犯罪予測システムか、同程度の設備があるとは思ったのだが。それもなしで、ヨハネスはどうやって全世界の犯罪組織に指令を送っているのだろう?
囚われの身としては結構な待遇だけどね、夏姫は冷ややかに考える。待遇が結構というだけで、囚われの身には違いないが。だいたい、いくら結構な待遇であってもヨハネスの一存でいつでも取り上げられる待遇ではある。そんなものに甘んじていられるほど人生を投げてはいない。
試しに一度敷地からの脱走を試みたところ、あの男装の少女がどこからともなく現れ、あっさり関節を決められて連行されてしまった。龍一なら勝てたのに、とその時ほど自分の鍛錬不足を悔やんだことはない。
以来、脱走のチャンスを逃さないためにも暇さえあれば屋敷の中のジムで(利用するのは夏姫一人だが)ランニングマシンやフィットネスバイクで体力トレーニングに勤しんでいる。この屋敷から少しでも遠く離れるつもりでフィットネスバイクを漕ぎ、さらにパンチングボールをヨハネスの顔に見立てて渾身の力で殴っているうち、熱心にやりすぎて腹筋が割れてしまった。やや複雑な心境である。
そもそもこの邸宅がどこにあるのかわからない。呼吸ができるから地球上のどこかであることは間違いないのだが──たとえ敷地の外へ出たとしても、海に囲まれた絶海の孤島かも知れないし、数十キロ圏内に民家ひとつない荒野かも知れない。
それに日が経つにつれ、夏姫は単にここから逃げるだけでは問題を遠ざけるだけで、何の解決にもならないのではないかと思い始めていた。
「ジビエ?」
「はい。猊下が夜食を一緒にいかがかと」
数時間前。給仕の少女にそう言われた時、夏姫は一瞬面食らいはした。
だが同時に好都合だとも思った。考えてみれば、自分も龍一も、プレスビュテル・ヨハネスなる人物については何も知らないのだ。
もちろん彼が世界規模の犯罪ネットワークの中枢であり、龍一や百合子の不倶戴天の敵であることは知っている。だが彼がどこから来た何者で、これから何をしようとしているのか、まるでわかっていない。彼が龍一について──そしておそらくは夏姫についても知り尽くしているにも関わらず、だ。敵について何も知らないのに、どうやって戦えるのだろう?
それに、この屋敷の構造や在り処について、主人であるヨハネス以上に知る者もいないはずだ。脱走の確度を高めるためにも、少しでも多くの情報を引き出す必要がある。
「何かお好みや苦手なものはございますか?」
アレルギーの有無などとっくに調査済みでしょ、と言いそうにはなったがそれを目の前の少女にぶつけるのも体裁が悪い。「ないわ。お任せする」
「かしこまりました」
「ねえ、そう言えば」一礼して立ち去りかけた給仕の少女に、ふと思いついて夏姫は呼びかけた。「あなたのことは何て呼べばいいの? もう一週間ぐらい過ぎるのに、自己紹介の一つもないのね」
扉に手をかけたまま、彼女は振り向いた。「私の名前が、そんなに重要ですか?」
「とても重要で切実よ。威張り腐った夫じゃあるまいし『おい』や『お前』だので呼べないでしょ。私はエスパーじゃないから、テレパシーであなたの名前は読み取れないのよ」
一瞬だが確実に、少女の瞳が揺れた。彼女の目の色がヨハネスに似た深い青であることに、改めて夏姫は気づく。「……どうしてもと仰るなら『
「『W1』? それが名前なの? いつも一緒にいる……弟さん? はどうなの?」
「弟ではありません。あの子は『W2』です。あの子も私も、そうとしか呼びようのない存在なのです。質問はそれだけですね? 失礼します」
気は済んだだろう、と言わんばかりに彼女は退室した。全くどういう家なの、と残された夏姫は溜め息を吐いてしまう。主人も従者も、何もかも謎めいている。
それともあの給仕の少年少女は、ヨハネスの血縁、例えば娘や息子なのだろうか。ヨハネスはかなりの高齢に見えるから、夏姫と同年代の子供や孫がいてもおかしくはないのだが。
──そのようにやや不穏さをはらみつつディナーは始まった。夏姫としてはここに連れてこられて初の、誰かとの食事である。
「
目の前に置かれた皿から爽やかな香りが立ち上った。牛蒡と人参とアスパラの付け合わせが目にも美しい。
「お招きいただきありがとうございます。……ジビエ尽くしというのは唐突に感じはしたけど」襟ぐりのあたりを気にしながら夏姫は慎重に口を開く。今夜ヨハネスから贈られた衣装は、簡素ではあるが上品な薄緑のドレスだ(例によって、サイズはぴったりだった)。
「食うことに真剣でない者は信用ならない、という偏見が私にはあってね」ヨハネスは抑揚のない口調で話す。といっても彼の話し方は常に淡々としていて、実際の心情がどうなのかはよくわからない。「人間とは血みどろのグロテスクな肉塊を腹に詰め込みながら歯の浮きそうな綺麗事を並べられる生き物である、という自覚は必要だ。私のように〈王〉と呼ばれる者は尚のこと──ジビエは最適解とは行かずとも、まあ一つの方法ではあるな」
この人も食に一家言ある人なのね、と夏姫は少々呆れた。龍一や崇やテシクと一緒にさんざんおかしなものを食ってきたから、今さら獣肉ぐらいどうということはない。何が役に立つかわからないものだ。
「お腹が膨れて眠くなる前に質問するわね。……どうして私をここに連れてきたの? 人質のつもり?」
料理を楽しんでばかりもいられない、夏姫は思い切って口を開いた。軽いジャブ、といったところだ。
「人質?」ヨハネスの口調に、微かにだが確実に嘲りが混じった。「君は自分に、人質としての価値があるとでも思っているのか」
「人質でないなら何? トロフィー代わり? 〈月の裏側〉への勝利記念?」
「あんなものは『勝利』などとは呼べない」ヨハネスは静かな口調を崩さない。「一都市を制圧できるほどの戦力を割きながら、しかも日本における最大拠点たるマルスを犠牲にしながら〈月の裏側〉の主要メンバーである高塔百合子、望月崇、キム・テシク、それに相良龍一はいずれも生死不明だ。戦略的勝利どころか、戦術的勝利と呼べるかさえ怪しい。しかも作戦立案にゴーサインを出したのは私だ。他の誰も責めようがない」
夏姫は、またしてもヨハネスへの評価を改めるしかなかった。あれだけの戦果を上げながらそれを失敗と断ずるのは、並大抵のことではない。それとも──本当に価値を見出していないのか。
「それに相良龍一、ないし〈月の裏側〉の残党を誘き出すのに、人質などというご大層なものは必要ない。君たちに決定的に欠けているマンパワーと、そして時間というリソースが、私にはある。各国の治安機関、情報機関、そして犯罪組織──それらを総動員してゆっくりと着実に追い詰めていけばいい。私にはそれができる」
夏姫は密かにヨハネスの言葉を吟味する。反論できない──全く反論できない。
「では、どうして?」
「なぜ、なんで、どうして」雉の胸肉を切り分けながらヨハネスは唄うように呟いた。「聞かれれば答えると思うあたりが子供だな。私が嘘を吐けば、君はそれを信じるのか」
痛打に夏姫は息を詰まらせた。ぐうの音も出ない、とはこのことだ。
「まあ彼なら……君の
龍一。
口の中でソースと血の味が混じった。今までの人生で唯一「共犯者」と呼んだ少年。バイタリティの塊のような繊細な野蛮人。夏姫が自分の妄想に引きこみ、それが理由で全世界から命を狙われることになった少年。
自分がなぜここにいるのかまるでわからなくなった。不意に、狂ったように笑い出すか喚き散らすかしたくなった。それができなければ──せめて、何もしたくなかった。
「言っただろう、時間稼ぎだと。こんなことで彼を仕留められるのなら〈四騎士〉など必要ない。彼は切り抜けてしまうだろう──どうにかして。十回命を狙えば十回、百回命を狙えば百回、生き延びてしまう。私はそれをよく知っているのだ。だが、全く無意味なわけでもない」
ヨハネスは右手を宙で一閃させた。一種のモーションセンサーだろうか、彼の背後の壁が一瞬の明滅の後で映像に切り替わった。モニターの画面は一枚の巨大なパネルにも、分割した映像にもできるらしい。
「君たちが犯罪ごっこに勤しんでいる間、私の計画は新たな段階へと進んだ。見たまえ」
夏姫は息を呑んだ。
初めは、精肉工場か何かかと思った。生々しい肉塊が、それも夥しい数の肉塊が、天井のフックからぶら下りながらゆっくりと移動しているからだ。だがよく見れば、その肉塊には手も足も、頭もある。
これは……あの人造の兵士たち、『HW』の素体なのか。
「まるでこのディナーに間に合わせたようだな。米メリーランド州ベゼスダで本日、本格的に稼働を開始した史上初、完全オートメーションのHW生成工場。建造は……驚くなかれ、あのロッキード・マーティン社だ」
まるで皮を剥がれた人間のような「素体」に、周囲の壁から伸びたマニピュレーターが次々とチューブを刺し、薬液を注入し、そして武器や装甲を装着していく。
全自動ラインの終端に達する頃には、まるで直立した昆虫のような完全武装の兵士が完成している。バイザーやアーマーの細部などは以前目撃したものと多少デザインが違うが、そこにいるのは間違いなくあのHybrid Warrior──幾らでも量産・交換・アップグレードが可能なあらゆる軍隊の見果てぬ夢、「人造の兵士」だ。〈のらくらの国〉を灰塵に帰したのと同じ。沖縄を焦土に変え、龍一の恩人を殺したのと同じ。
完成した「人造の兵士」たちはさらに工場の中を流れていく。まるで装填される機銃弾のように、専用のコンテナの中へ詰め込まれていく。カメラの視界が切り替わり、そのようなコンテナが倉庫の中に縦横何十、何百列と居並ぶ様を映す。
「もはやHWは一秘密結社の独占技術ではない。戦車や戦闘機と同様、ライセンスさえ取れればどの国も、どこででも、幾らでも、必要なだけ生産できるありふれた『兵器』となったのだ。そして…… HW生成に必要な卵子を提供するための法案も、既に議会を通過している」
絶句している夏姫を見て、ヨハネスは薄く笑った。憐れみ混じりの、恐ろしく意地の悪い嘲笑だった。
「提供される卵子は人身売買ネットワークから違法に入手したのではない。全米の何百万、何千万という民間からの、善意の提供者によるものだ。自分の恋人が、配慮が、息子が戦場に送られることを心の底から良しとする女性などいない。そして、これは米国だけの現象ではない」
映像が切り替わる。
「これは……これも、HW?」
それも工場内のものらしき映像だった。先ほどと違うのは、素体の周囲で作業に当たっているのがロボットではなく人間の作業員ということだ。もう一つ気づいたことがある。働いている作業員たちはアジア系の顔立ちだ。
「中国・深圳。
「……リバース・エンジニアリングされてるじゃない!」
「ある程度は予測していた。アメリカがHWの正式採用に踏み切った以上、中国も追随せずにはいられまい。どのみち、私の計画にさしたる悪影響はない」
〈犯罪者たちの王〉は笑う。本人にしかわからない理由で。「私にとってどうでもいい者同士は、私の設計した武器で好きなだけ殺し合ってもらう。──甚だちっぽけではあるが、私が目指していた一つの勝利には違いない」
夏姫は強く目を閉じた。何とも言えない敗北感があった。自分たちが言い訳のしようもないほどに負けた、これが結果なのだ……。
ヨハネスの視線が自分に注がれているのがわかる。給仕の少女、W1でさえ息を殺して沈黙を保っている。
だが、自分は生きている。そして、おそらくは龍一も。
夏姫は目を開けた。顔を上げ、正面からヨハネスを見据える。「コースはもう終わり? まだあるんでしょう?」
こちらを見るヨハネスの顔から、先程の嘲笑は消えていた。むしろ、見直したかのような色さえ見える。
「もちろん」そして軽く手を上げ、壁際で身をすくませていたW1を呼び寄せた。「次の料理を」
「……こちらから
夏姫は詰め物にナイフを入れながら、密かに女装した給仕の少年に注目していた。あのW1と名乗った少女は一見無表情に見えても内面の情や揺らぎが隠し切れないところがあるが、W2と呼ばれる少年の方はどうもよくわからない。機械仕掛けの人形のように、動きはそつないが感情というものがまるで見えてこないのだ。
ぱりぱりになるほど焼き上げられた詰め物にナイフを入れると、芳香とともに透明な脂が滲み出た。濃厚な味だが、ソースにビネガーも混ぜられているためか、しつこさはない。
「気になっていたことがあるのだけど」
「何なりと」黙々と詰め物を切り刻みながらヨハネスが答える。本当に味わっているのかと疑いたくなるほど恬淡とした手つきだ。
「HWを指揮・統御するシステムはどういうものなの? それについては〈月の裏側〉が調べても何一つわからなかった。本当に戦場へ投入するのなら頭数を幾ら揃えても、肝心要の指揮統制がなければ文字通りの烏合の衆に過ぎない。兵器であればなおさら」
「ふむ」ヨハネスがナイフを止めて顔を上げる。「クラウドマトリックスによる擬似集合知性を形成、その状況に応じて最適な戦略を取る。私が広報担当ならそのように答えるが」
「セールストークね。最低でも『撃ち方始め/止め』のオンオフスイッチぐらい必要なはずよ。テロにしか使えない兵器なんて体裁が悪すぎて売り物にならない」
「なるほど。ではそれも君の中の『HWの謎』の一つに加えておきたまえ」
そこまで教えるのはサービスの範疇ではないということね、夏姫は胸中で呟く。オッケー、ではその疑問はひとまず棚上げにしよう。
「そもそも『ハイブリッド』って『交配種』のことよね。何と何の交配なの?」
「さてね」
──口にするのが嘘であっても、ヨハネスが「何を隠したがっているか」の輪郭は見えてきた。
「お口直しです」レモンシャーベットの器を置いた給仕の少女が半ば呆れ半ば感心するような目つきになってきたように見えるのは、夏姫の気のせいだろうか。
「〈ヒュプノス〉を皆殺しにしたのは、あなたの命令?」
シャーベットにスプーンを突き立てたままヨハネスがこちらを見る。「ディナーには似つかわしくない血生臭い話題だな。それに、私が嘘を吐くとは思わないのかね?」
「じゃあ、NY平均株価の話でもする? ぼろを出すのが怖いんなら、女の子を形作っているお砂糖とスパイスの話に切り替えてもいいのよ」
W1が顔色を変えて一歩踏み出したが、ヨハネスは片手でそれを制した。「いかにも、あれは私の所業だ。私が自らの名において決断し、命令を下した」
「痛手ではなかったの? 〈ヒュプノス〉の猛威は、〈犯罪者たちの王〉の支配に一役買っていたのでしょう?」
「あれは元々、私のものではない。いや、そもそも誰のものでもないのだ」心なしか、神妙な面持ちでヨハネスはそう話し始めた。「〈総体〉は自らの意思を持って活動する。利害の一致を見ることはあっても、外部からのコントロールなど不可能なのだ。……だから〈総体〉が君たちに協力し始めた時、止める方法は一つしかなかった。制御はできなくても殺すことはできるというのも、皮肉な話だがな」
世界中で何百万、あるいは何千万にも達するかも知れない〈ヒュプノス〉の鏖殺命令を出す──冷血、などというありふれた表現では形容できない、総毛立つような何かだ。
だが、夏姫が引っかかったのはそこではなかった。何かが頭の中でかちりと音立てて合わさった印象があった。「HWと〈ヒュプノス〉の基幹技術は、同じものなの?」
「さて」ヨハネスの目が言っていた──正解だ。
昂りを抑えるためにシャーベットを噛んだ。しゃりっと口中で砕ける冷たさと酸味でわずかに冷静さを取り戻す。「〈ヒュプノス〉を形作る人格共有ネットワークは音声でも、光でも、熱でも電波でもない。外部からの傍受も妨害も不可能で、それはHWも同じ……だったら答えは一つじゃない。両方とも、同じ技術から生まれた同じものなんでしょう?」
「君の目の中に炎の揺らめきが見えるな。君が何を考えているかわかるぞ、夏姫。生憎だが私が行ったのは一度しか使えない、言ってみれば『禁じ手』でな、再現は不可能だ。HWの統御システムから〈ヒュプノス〉への介入ができるのなら、逆もまたしかり──そう思ったのだろうが、同じ手はもう使えない。セキュリティホールはもう塞いだからな」
「……でしょうね」
HWと〈ヒュプノス〉は同じもの──その発想に至っていたのは夏姫が最初ではない。〈月の裏側〉でも、特に高塔百合子は、そのシステムの類似性を指摘していた。偶然にしては似通い過ぎており、ならば元は同一のプロジェクトから派生したものなのかも知れません、と。ヨハネスの言葉はそれを裏づけたに過ぎない。
それに、それほど重大な欠陥を放置するほどヨハネスも間が抜けてはいないだろう。
だが、一度覚えた昂りはそう簡単に鎮まりそうになかった。これは覚えておく必要がある。もしかすると、何かの切り札になるかも知れない……。
「鹿肉スペアリブのローストです。手に取ってお召し上がりください」
差し出された一品を見て夏姫は目を剥きそうになった。今までの小綺麗な料理とはまるで違う。突き出した骨も生々しい、まさに肉の塊だ。
「手など後で拭けばいい。こればかりは、かぶりつかないと美味しくない」
ヨハネスは既に骨付き肉を手に取って食べ始めている。
飴色に焼けた肉と、骨にこびりついた生々しい血の筋に若干ひるんだのは確かである。だが香ばしい肉汁と香辛料の匂いを嗅ぐうち、夏姫の口の中に猛然と生唾が湧いてきた。思い切ってかぶりつく。口の中よりも後頭部近くで、パンチの効いた香辛料と肉汁の味が弾けた。
「いやはや、姫君はつくづく健啖家でいらっしゃる」
はっと顔を上げると、ヨハネスがつくづく感じ入った、という表情になっていた。今までで一番好意的な視線に、かえって夏姫は真っ赤になった。ちらりと給仕の少女を見ると、こちらはこちらで完全に毒気を抜かれた顔をしている。
「……とてもおいしかったわ」かなりばつの悪い思いをしながら夏姫は口元をナプキンで拭いた。ホストが誰であろうと、料理人の腕は疑いようがない。「作った人に、あなたの料理は素晴らしかったと伝えてください」
「ありがとう。本人も喜ぶだろう」
「紹介はしていただけないのね?」
「すまない。故あって会わせることはできないが、君の言葉は必ず伝えよう」
何か心に引っかかるものを感じた。むろん紹介するかは主の一存だが、そこまで内緒にするものだろうか。それにしても〈犯罪者たちの王〉に謝られるのは妙な気分だ。
「さてデザートだが、羆の脂肪から作ったアイスクリームだそうだ。食べるかね」
「食べる!」
元気一杯に返事してから後悔した。W1の方は努めて見ないようにしたが、彼女のいる方向から「ぶふっ」という妙な音が聞こえたような気がする。いや気のせいだ。そうに決まっている。というか、そうであってほしい。
「食事は人となりを示すとは言うが、これほど顕著な例もそうそう見ないな……」
「……大変失礼しました」
これは本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい。というか私、順調に餌付けされてないか?
「羆の脂肪のアイスクリームです。酒と胡椒でマリネした苺を添えてあります」
肉の塊を丸ごと平げた後でこれは正直ありがたかった。濃厚だが何とも言えない香りのアイスと、それを程良く締めてくれる苺の酸味を、夏姫は存分に楽しんだ。
「一度聞いてみたかったのだけど。犯罪王国を自分の一代で築き上げた〈王〉というのは、どんな気分?」
「……楽しくはないな。自分で望んだものとは言え」ヨハネスはやや考える目つきになった。
「『どこそこの誰それの喉首を掻っ切ってこい』でお金を稼げるのに?」
「それはむしろ君や、君の共犯者の方が近い分野だと思うがね……『ところで彼の存在は誰にとっても目障りだと思わないかね』と呟くと、数日後にその某誰が運河に浮かぶことはあるが。それがなぜか、こうした食事の一回二回ぐらいの収入にはなるわけだ──だが、まあ、そういった影響力はあくまで結果としてついてくるものだ。健康を目指して身体を鍛えた結果、筋肉がつくようなものだな。実益がないとは言わないが、それが目的でもない。アメリカ大統領が最高権力者であると同時に万民のための奴隷であるのと同様、私もまた誰とでも、何とでも、換えの利く存在なのだ。試しに私の皺っ首を切り落とし、代わりに君の首を据えたところで、賭けてもいいが何も変わらないだろう。そう思わなければ〈犯罪者たちの王〉などという恥ずかしい二つ名には耐えられたものではない──まともな神経の持ち主ならな」
へえ自覚あったんだ、と言わなかったのは、単にその時の夏姫がアイスクリームを堪能するのに忙しかったからである。
「まるで〈犯罪者たちの王〉とは役割だと言いたげね」
「椅子と言う方が好みだが、そう間違ってもいないな」
「それじゃあなたの目指すものは? あなた自身がやりたいことは、何かあるの? ……ああ、そうね、嘘を吐かれても私にはわからないんだったわ」
夏姫自身、さほど期待していたわけでもない。
だが。
「……ふむ」
夏姫の問いは、彼女にとっても意外な反応を呼び起こした。
「そうだな……君には聞く権利があるとは言えるかも知れん」
「嘘かも知れないのに?」
「信じるかどうかは君次第、とは言っておくよ。私はこれから相良龍一を殺す」
笑い飛ばせればよかったのかも知れない。
だが。
「……それが目的なの?」
暗闇に光が差し込むように。
優れた数学者がイメージから新たな数式を見つけ出すように。
夏姫はそれを直感した。それが嘘でも冗談でもないことを確信してしまった。
「龍一を殺して何かするのじゃなくて、龍一を殺すこと自体が目的……もしかしてそれが全てなの? あなたの全て? そのために龍一の……大切な人を殺したの?」
「……ただ一人の少年を殺すために、この星の全てを火に焚べる」
まただ。何か黒々としたものが、ちっぽけな老人の背後で立ち上がる気配があった。「そのために私は世界規模の〈罪の王国〉を作った。そのために〈四騎士〉を作った。そのためにHW技術を全世界に拡散させた。そのために、幼い頃の君を誘拐した。ただ一つの、私のちっぽけな願いを果たすために。……これが、罪でなくて何だろう?」
皺と、垂れ下がった瞼の隙間から、宝石のように美しいアイスブルーの瞳が夏姫を見返している。「これが、悪でなくて何だろう?」
何てことなの──スプーンを持つ手が小刻みに震え出さないよう、夏姫は細心の注意を払わなければならなかった。龍一。龍一……あなたは自分の追う仇敵がどんな人かわかっていたの? あなたはずっと彼を追っているつもりだったでしょうけど、彼は生まれる前からあなたを知っていたのよ。それだけじゃない……彼はあなたに自分を憎ませて地の果てまで追って来させるためだけに、あなたの大切な人を殺したのよ。
「……どうして龍一を殺したいの? そんなに彼が憎いの?」
「憎しみではない。そうする必要があるからだ。彼は〈黙示録の竜〉であり、それを滅ぼすことが私の使命だからだ」まるで夕暮れの空の微細な変化を説明するように、彼は厳かな口調でそう言い切った。「その使命さえ果たせば、私はこの皺っ首を君なり、〈月の裏側〉の残党なりにくれてやってさえいいと思っている。相良龍一ならさぞかし喜ぶだろうが、私が首をくれてやれるのは彼を殺した後だから無理だな。なかなか上手くはいかないものだ」
くつくつと笑うヨハネスを前に、夏姫はどう答えたらよいのかまるでわからなかった。この老人がひどく馬鹿げた妄想を抱いていることは確実だが、それが全世界規模の犯罪ネットワークの首領であり、あらゆる治安・情報機関と犯罪組織に多大な影響力を振るえる人物だと思えば、笑うどころではない。
「あなたは……一体、誰なの?」自分の声が滑稽なほど掠れていることはわかったが、それを抑える余裕もなかった。
「〈犯罪者たちの王〉だよ。それが君の聞きたいことかね、瀬川夏姫? 私こそはプレスビュテル・ヨハネス──全ての犯罪者たちの上に君臨する〈王〉であり、人類最後の犯罪者となる男だ」
だが、そこで老人はわずかに肩の力を抜いたようだった。見ようによっては、照れ隠しに見えなくもない。「いささか話を先走りすぎたな……だが、まあ、たまにはいいだろう。血の巡りがよくなって、健康にいいからな。それに、君以外の誰かが聞いたところで、生い先短い爺いの世迷言で終わりさ」
「情報は、それを活かせる者が発信しなければ何の意味もないということね……」
「若くて頭の回転が早い女性との会話は退屈しないよ。少なくとも誰の存在が目障りかを考えているよりは遥かに。……そろそろコーヒーをどうかね」
プレスビュテル・ヨハネス。龍一と何一つ似ていないのに、その内面だけは恐ろしいほど似通った男。その覚悟も、その狂気に近い思い込みも。そのややブラック気味のユーモアのセンスも。
こんな長所も短所も常人の何十倍、何百倍と持ち合わせていそうな二人を出会わせたら、一体何が起こるのか想像もできない。
「……いただくわ」
できるだけ気を鎮めながらも、彼女の胸中で密かにある決意が湧き上がりつつあった──この人と、龍一を会わせてはいけない。絶対に。
なぜなら彼らは二人とも、周囲の人間全ての運命を歪めかねない強烈な意志と覚悟の持ち主であり……出会ったとしたら、ただの殺し合いでは済まないからだ。
もしかしたら、地球が半分になるかも知れない。それも文字通りの意味で。
(追記)本話の執筆にあたり、以下の書を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
誤字脱字・誤読等は著者の責任によります。
山のお肉のフルコース パッソ・ア・パッソのジビエ料理(有馬邦明、山と渓谷社)
ジビエ・バイブル 野鳥、熊、鹿、猪、ウサギ… 素材の扱い方から料理まで(ナツメ社)
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