Crime and Punishment:Interlude

アイダカズキ

1 逃亡者たち

 夕方から降り始めた雨は、夜半過ぎには豪雨となった。大粒の雨が窓ガラスを叩く音は雨よりも滝のそれに近かった。天井で回転するシーリングファンは湿気た空気を掻き回しこそすれ、まるで冷房の役には立っていない。

 額に脂汗を浮かべながらも昼の間に闇市で仕入れた幾つもの電子機器を床に広げ、相良龍一はひたすら半田ごてを動かしていた。裂け目だらけのマットレス──この室内で唯一の家具らしい家具だ──の上には、いつでも脱出できるよう所持品を全て詰め込んだナップザック。

 とっくに生温くなったペットボトルの水を一息に飲み干し、龍一は額の汗をぬぐった。タイ首都・バンコクのホテルは数あれど、その中でもこの安宿は最低ランクであることは確かだった。それでも逃亡中の身である以上、贅沢は言えない。偽造身分証、偽造パスポートの発注代。交通費。そしてどこの国にもいる腐敗した役人や警官に握らせる「鼻薬」代。高塔百合子が用意した逃亡資金は、恐ろしい勢いで目減りしていた。自分がいかに〈月の裏側〉、そして百合子に依存していたのかを、思い知らされずにはいられなかった。

 正直、疲れていた。昼は炎天下のマーケットで人いきれの中を歩き回り、この安宿に帰ってきてからもトイレ休憩以外はずっと作業中だ。横になって休みたかった。クーラーなどという文明の利器などないこの部屋の寝起きはさぞかしひどいものになるだろうが、一眠りはできる。

 それでも、手を休めることはできなかった。彼の勘が……それも、悪いことに限って外れたことのない勘が告げている。今夜こそ、と。

 ノックの音に彼は顔を上げた。誰何すると、お部屋の照明を取り替えに参りました、と掠れた声で返事があった。聞き覚えのある声だ──龍一は安宿の玄関にいたやる気のなさそうな接客係の顔を思い出した。愛想どころか部屋のキーを龍一の手元に滑らせて寄越す以外の動作は一切したくない、といった風情のあの男が、唐突に職業意識に目覚めでもしたのだろうか。

 そんな馬鹿な。

「鍵は開いている。どうぞ」

 必要に迫られてすっかり堪能になってしまったタイ語でそう返すと、ドアノブが回り、顔中に大粒の汗を浮かべた接客係が見えた。

 次の瞬間、その全身が血飛沫を上げて引き裂かれた。軽快な掃射音は、一瞬遅れて響いた。襲撃者の構えるSMGから放たれた無数の9ミリパラペラム弾が、不幸な接客係と、その延長線上にあるひび割れたガラスと、粗末な格子を粉々に打ち砕いた。雨と風がどっと室内に流れ込む。

 龍一はその火線上にいなかった。床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、一回転して襲撃者の頭頂部に踵を振り下ろした。龍一とさほど体格の変わらない大柄な男が床へ叩き伏せられる。SMGといい身につけたボディアーマーといい、当然、堅気の出立ちではない。

 頭からおびただしい血を流しながらもナイフを引き抜いたのはさすがにプロだったが、龍一が手刀で叩き落とす方が早かった。

 だめ押しとばかりに龍一は容赦ない平手打ちを見舞った。男の口から血混じりの唾液と折れた歯が飛ぶ。さらに数発、胸ぐらを掴んだまま頬を叩くと男の全身からようやく力が抜けた。

 誰に頼まれた、とはもう尋ねなかった。「仲間の配置は? 何人いる?」

 倍近くに腫れ上がった凄絶な顔で、男はそれでも笑った。「俺だってよくは知らない……お前が思うより、ずっと沢山だ」

 だろうな、と思うだけの冷静さはあった。「それなら……」

 言おうとした龍一の目に、オレンジ色の閃光が映った。


 向かいの雑居ビルの屋上から放たれた対戦車ロケット弾は、龍一のいた部屋を消滅させただけでなく、安宿の三分の一ほどのフロアを抉り吹き飛ばした。豪雨を圧するほどの爆発が夜の底を赤々と照らし出す。

 一瞬だけ気を失っていたらしい。凄まじい耳鳴りに頭を振りながら、龍一は身を起こす。弾片で引き裂かれた襲撃者の身体が力なく崩れ落ちた。皮肉なことに、この男の身体とボディアーマーが龍一を致命傷から救ってくれたようだ。

 なけなしの全財産を詰めたナップザックは部屋と運命を共にしたらしい。だが、龍一がずっと作っていた「小道具」は幾つか爆風を免れていた。それをかき集めながら、龍一の目が向かいのビル屋上を見据える。「あそこか」


「ハッハー! 綺麗に吹っ飛んだぜ!」

 豪雨の中、まだ煙を立ち上らせるロケット砲を担いだタンクトップの若い男が野卑な笑い声を上げる。彼の背後では猟銃や安物の密造拳銃を手にした似たり寄ったりの面相の男たちが、早くもおっぱいだの、新しい外車だのと勝手な話を始めている。

「おいおい気が早すぎるだろ、肝心の死体を引きずってかねえと金は貰えねえんだぞ……」

 まああの様子じゃ生きてても半分ぐらい死体だろ、と呟きながら得物をライフルに持ち替える。だが彼の余裕も、燃える安宿の中からマットレスを全身に巻きつけた何かが猛スピードで飛び出てくるまでの間だった。

「何だぁ……?」


 マットレスをかなぐり捨てた龍一は一瞬の躊躇もなく路面を蹴った。雨樋を蹴り、窓枠を蹴り、そして壁を蹴り、瞬く間に屋上まで駆け上がった彼は、ライフルを構えたまま目を真ん丸くしている男の顎を渾身の力で蹴り上げた。ほとんど垂直に男が吹っ飛び、手放したライフルとともに屋上を数度転がる。

 龍一の動きは止まらない。手すりを蹴って跳躍し、左右の手で立ち尽くす男2人の頭部を鷲掴みにした。足払いでバランスを崩し、2人の頭部を屋上の床に叩きつけた。

 反応が追いつかない残りの男たちにも、さらに手刀と蹴りの猛打が襲いかかった。数秒で、男たちは半死半生の有様となっていた。気絶を免れた者も、苦痛に呻き声を上げてのたうつのみで、もはや戦闘意欲はない。

 ようやく息を吐いて、龍一は自分自身に愕然とする。

 頑健だの俊敏だの、そういう問題ではない。確かに自分の身体能力は世間の大半の人々より並外れている自覚はある(夏姫などは『人間離れどころか化け物離れしてるわね』などと大真面目に言っていた。失礼な娘だ)。だが今のは……アメコミのヒーローでもあるまいし、、と言わんばかりの荒唐無稽なアクションではないか。

 どうも何と言うのか、タガが外れつつあるような気がする──あの未真名市の〈黒の騎士〉との一戦以来。

「気になる」などという生やさしいものではないが、考えている余裕もない。弱々しく呻き声を上げながら這って逃げようとしている男の胸倉を掴み上げる。「一度だけ聞く。どうやって俺の居所を突き止めた?」

 頭蓋を掴んで言わせると男はあっさりと吐いた。と言っても、顎を砕かれてまともに喋れなかったが──震えながら指し示すスマートフォンの画面を見ると、どうもSNSで連携を取り合いながら目撃情報を集めたらしい。馬鹿で頭の悪いごろつきどもが常に間違った方法を取る、とは限らないわけか。

「喋ったから、命は取らないでおいてやる」

 と言っても、最初から殺すつもりなどなかったが──頭を掴んで屋上の床に叩きつけると男はすぐ気絶した。怪我に加えて雨ざらしで風邪まで引けば当分は病院暮らしだろうが、命を狙ってきた相手にそれ以上の慈悲はかけられない。

 しかし面倒だな、と思う。プロアマ混在か。下手に連携が取れているより、よほど厄介かも知れない。

 そこで「視線」に気づく。豪雨の中でバランスも崩さずに、円盤型のドローンが音もなく浮遊してこちらを注視している。

「次から次へと……!」

 舌打ちしながら、昼間からこつこつ作っていた「小道具」の一つを投げる。あり合わせの材料で作ったハンドメイドの閃光弾だ。アルミホイルの小片も詰めておいたため、ある程度の電子撹乱効果も見込める。

 屋上が昼に変わったような眩い光のもたらす効果も確かめず、龍一は暗い路地に向けて身を躍らせる。


 こうなることに全く備えができていなかったわけではない。

 実際〈犯罪のインストラクター〉望月崇は万が一の事態が発生した場合の対応策を考えていた。「誰かを救おうと思うな」とも。そもそも高塔百合子や〈月の裏側〉の支援が当てにできなくなるような事態で悠長に合流を待って安全圏へ脱出できるわけがない、まずは逃げ、そして時間を稼げと。

 結局それは正しかった。崇や百合子を探そうとしていたら、あるいは未真名市近辺に留まっていたら、日本脱出すら叶わずに身柄を拘束されていただろう。やってくるのが治安機関、あるいはヨハネスの刺客になるかは運次第だろうが。

 だがこうもたたみかけるようにして、昼夜を問わずプロアマ双方の暗殺者に付け狙われるような状況は、さすがの崇も想定外だったに違いない。何しろ数が多い。一山幾らのごろつきとはいえ、数を頼みに押し寄せてくる何十、何百の賞金稼ぎは決して侮れる存在ではない。加えて龍一はあくまで生身の人間であり、銃弾一発で致命傷になりかねないのだ。どこの国、どこの辺鄙な街に隠れようと、あとからあとから追っ手が迫ってくる。おちおち寝られやしない。正直言ってうんざりする。

 だが、今の龍一を捉えているのは、奇妙なことに死への恐怖ではなかった。無数の刺客を捻じ伏せ放り投げ、数え切れない死線を越えて、それが一体何になるってんだろうな、という一種の虚脱感だった。


 身を躍らせた龍一が降り立ったのは暗い路地裏──ではなかった。

 細いが強靭なワイヤーを繰りながら数階分ほどビルの壁面を滑り降りた龍一は、窓ガラスを割って中にするりと身を滑り込ませた。警報装置などという上等なものは全くなく、ましてこの豪雨だ。しばらく息を潜めたが、住人に気づかれた様子はない。テレビでもつけているのか、ニュース番組らしき音声が並ぶドアの隙間から漏れ聞こえてくる。回る換気扇から焼ける肉と香辛料の匂いが漂い、龍一は自分の空腹を自覚する。

 明滅する照明と、それに照らされる煤けた廊下が龍一を出迎えた。人影はない。雨に打たれる必要がなくなったことでやや安堵すると同時に、寒気で身が震える。全身が濡れているのだから当然だ。少しでも包囲網の外に出なければ。

 歩き出そうとして──何かを感じた。

 考えるより先に身体が動く。

 振り返りざま、首筋に音もなく飛んできた何かを掴み取り、飛来した方向へ投げ返した。微かな呻き声。数メートル先で吹き矢筒ブロウガンを手にした男が驚愕に目を見開いたまま、喉に自分の放った針を突き立てられて崩れ落ちる。

 吹き矢とは──音が出ない分、銃よりよほど恐ろしい。いや、それよりずっと重要なことがある。

 ドアが爆ぜるような勢いで開かれた。倒れた吹き矢の男を跨ぎ越し、新たな男2人が飛び出してきた。しゅっ、という鋭い吐息以外に声もなく、一人は山刀マチェット、もう一人は金属バットを構えて突進してくる。

 脅し文句どころか言葉一つ発さず、なまじの銃にも頼ろうとしていない。危険な相手だ。

 そうとわかった以上、龍一は容赦しない。退くのではなく、逆に前へ出た。山刀を持つ男の前で前転、急激な動きに目を剥く男の顎を両足で蹴上げる。もう一人の振り下ろす金属バットを転がって避け、転がりながら逆に手首を掴んで捻って投げた。瞬く間にもんどり打って転がった2人の顔面に拳と肘を打ち込んで気絶させる。

 後方のドアからもボウガンを持った男が2人。躊躇せず気絶している吹き矢男の身体を蹴上げる。ボールのように男の身体が吹き飛び、ボウガンの男たちを押し潰した。苦痛と罵声を上げる男たちとの距離を詰め、蹴って殴って顔面を砕いた。

 これで終わりじゃない、倒れ伏した男たちを見下ろし龍一は荒く息を吐く。少しでも襲撃者たちの裏を掻くつもりだったが、甘かった。彼らがもっと高度な技術──例えば行動予測システムのような──のバックアップを受けているのなら、それこそ空を飛ぶか地に潜るか、それとも瞬間移動でもするかしない限り包囲網の外には出られない。だとすると、当然この襲撃にもがある。

 奇妙な気配を感じた。いや、正確には気配ではない……無機物の気配、とでも言うべきものを感じ取ったのだ。

 曲がり角の向こうから『そいつ』は滑らかなモーター音とともに姿を現した。珍しい代物ではない。ただこんな場所、こんな状況に現れるには異様すぎるだけで。

 楕円形の頭部にデフォルメ化された目と口、円筒形のボディと移動用の車輪。ホテルや銀行、牛丼屋や電器店の店頭に置いてある受付用ロボットだ。ただしこいつはだいぶ──いや相当にカスタマイズされているらしく、全身が中国語とタイ語で卑猥な落書きとステッカー塗れになっており、しかも両腕には銃器が無理矢理取り付けられている。ベルトリンク給弾式のM249ミニミ分隊支援火器が一対。

 それが今、微かなサーボ音を響かせて龍一に向けられた。

「マジかよ……」

 考えている暇はなかった。手近な部屋の窓ガラスに向かって全力で身を投げる。盗難防止用のワイヤーでも入っていたら相当悲惨なことになっていたはずだが、不幸中の幸い、ガラスはあっさり割れ、龍一は見知らぬ家庭のキッチンにガラス片を撒き散らして転がり込んだ。

 キッチンと同程度の広さの食卓で晩飯を食べていた中年の夫婦と、小学生ぐらいの少年少女の呆気に取られた視線が龍一を出迎えた。すくみ上がった善良そうな父母をかばうように立ち尽くす勝ち気そうな少女と、震えながらもその手を握る弟に見つめられているうちに、戦闘の昂奮はたちまち罪悪感に取って代わった。

「ごめん」

 謝って踵を返した龍一の眼前で、軽快な乱射音とともにドアを無数の銃弾が穿ち、室内の粗末な食器棚を粉々に打ち砕いた。

 自重だけでめりめりと穴だらけになったドアが押し破られ、地獄の使者よろしく受付ロボが室内に入ってきた。目を赤々と光らせ、開いた口からはスピーカーでけたたましい笑い声が際限なく垂れ流されている。無論、正規の機能ではない。悪趣味な改造だ。

「伏せろ!」

 今度こそ悲鳴を上げて抱き合う一家を背に、龍一はコンロから油まみれのフライパンを手に取り、眼前に構えて突進した。

 狙いが上半身に集中していたのが幸いした。銃弾が甲高い音を立てて何発かフライパンを貫通するが、いずれも龍一の頬や腕を掠めた。

 構えたフライパンごと受付ロボに体当たりする。ひっくり返りこそしなかったが、崩れたバランスを立て直すのに集中して射撃を止めた。そのまま全速力で側を走り抜ける。壁を蹴って天井近くまで跳躍し、身を捻ってロボットの顔面、カメラとセンサーが集中する部位にフライパンを投げつけた。

 見事命中。受付ロボはなおも射撃を加えたが、その狙いは龍一を逸れて天井の蛍光灯を砕いたにとどまった。

 完全自立行動ではない、走りながら龍一は思う。暗殺依頼を受けたのがどこの誰であれ、それなりのプロなら不特定多数の人間が住まう建物の中に殺戮マシンを野放しにするほどイカれてはいないはずだ。必ず近くに操縦者コントローラーがいる。なら、そいつの捜索範囲を抜ければ……。

 聞き覚えのある作動音が龍一を凍りつかせた。前方から、もう一体の受付ロボが姿を現したのだ。しかもそいつは、両腕へミニミの代わりに6連発のグレネードランチャーを取り付けている。

「……!」

 とっさに跳躍した。階下へ続く階段のその踊り場へ、躊躇いもなく身を投げる。背後でシャンパンの栓を抜くような軽快な音が響き、一瞬遅れて熱と爆風が背を叩いた。

 ぐう、と肺の中の空気を吐き出しそうになって堪える。勢いを殺さず、下の階まで転がり落ちる。目が回り、全身が猛烈に痛むが──生きてはいた。

「やってくれるな……!」

 呻きながら膝を立てた龍一は、またしても見たくないものを見るはめになった。3体目の受付ロボだ。しかもこいつの両腕は──耳障りな音を立てる回転鋸だった。

「次から次へと……少しは退屈させてくれよ!」

 とっさに住民のものらしきビール瓶ケースを掴み、投げつける。だが高速回転する刃は何ということか、折りたたまれていた関節を展開し、2メートル近くも伸びてケースを両断した。まるでグロテスクな蟷螂だ。

 どうする──歯噛みする龍一は、階段の上から聞こえてくる機械音を振り仰いで息を呑んだ。

 一度は振り切ったあの2体の受付ロボが、下半身から蜘蛛のような多脚を伸ばしてゆらゆらと階段を降りてきているのだ。どんだけギミックを詰め込めば気が済むんだよ、と恐怖すら忘れて呆れてしまう。

 3体1。しかも火力ではとても勝ち目がない。

 どうする、改めて手持ちの小道具を勘定する。閃光弾が一発、ワイヤーとそれを射出する専用ガンが一丁、それに……。

 難しく考えすぎたな、そこで龍一はようやく微笑する。相手がいくら機械仕掛けだって、おつむは人間じゃないか。

 龍一は前方へ踏み出す。回転鋸へ向かって。さらに一歩、二歩、三歩。

 受付ロボの操縦者は一瞬戸惑ったに違いない。今まで必死の形相で逃げ回っていた相手が、自分から近づいてくるのだから──だが気を取り直して、今度こそ龍一の顔面を真っ二つにしようと回転する刃を振りかざそうとした。

 その視界へ、龍一は最後の閃光弾を放った。相手に投げつけるのではなく、宙へ「置く」ようにして。

 蛍光灯など比較にならない、第二の太陽のような爆発的な閃光が周囲を覆い尽くした。龍一もそれをまともに正面から浴びる──ただし、彼はあらかじめ目を閉じていた。もちろん瞼の裏からさえ強烈な閃光が目を焼いたが、少なくとも受付ロボの操縦者より視界の回復は早かった。

 パニックに陥りかけた操縦者の罵声が聞こえるようだった。回転鋸の両腕を滅茶苦茶に振り回し、壁や天井を切り裂いてはいるが、それは龍一とはまるで見当違いの方向でしかない。他の2体でさえ近寄れずにいる有り様だ。

 思った通りだ──姿形こそ恐ろしげだが、それは要するにこいつらの操縦者が殺しのアマチュアだという証明に他ならない。丸腰に近い素人をいたぶって殺すための悪趣味な玩具であって、プロが操縦する正規の戦闘用ではないのだ。

 跳び箱にでも乗るようにして、受付ロボの頭部に飛び乗り、

「もう充分楽しんだだろ?」

 カメラアイに腰から引き抜いたスティック──救難用の発炎筒を、貫通せんばかりに深々とねじ込んだ。

 手を下した龍一でさえ慌てて飛び退かずにいられない、狂乱の踊りが始まった。目からも口からもオレンジ色の炎を吐き出し、前にも増した勢いで回転鋸を振り回すその動きは、しかし既に断末魔のそれだった。操縦者が敵味方の区別すらつけられなくなったのか、龍一に目もくれず手近なミニミ装備の受付ロボに派手な金属音を立てて激突した。泡を食って放たれたミニミが回転鋸の片方を吹き飛ばすが、もう片方の回転鋸が火花を上げてボディに食い込んでいく。

 これまた操縦者の困惑を隠しもしない受付ロボがやむをえずグレネードランチャーを向けるが、

「手伝ってやるよ」

 カメラの死角から忍び寄った龍一は、そのカメラに塗装用のカラースプレーをたっぷりと吹きつけた。イカ墨でもぶちまけられたようにカメラアイの周囲が真っ黒に染まる。

 泡を食って頭部と腕を振り回す受付ロボの、そのグレネードランチャーの砲身にワイヤーが絡みついた。強力なモーターリールが受付ロボの自重など物ともせず、床をがりがりと削りながらロボを引きずっていく。そしてワイヤーのもう一方が巻き付けられているのは、顔面から炎を吹き出しながらミニミ装備の受付ロボを切り刻んでいる受付ロボだ。

 操縦者たちがこの場にいたら、身も世もない悲鳴を上げていたに違いない。

 回避や迎撃ができる距離ではない。闇雲に放たれた擲弾は射手も巻き込んだ。黒焦げの金属とプラスチックの塊となって受付ロボたちは沈黙する。一瞬遅れて、ミニミをくくり付けられたままの腕が妙に虚ろな音を立てて床に転がった。

 龍一はもげていたロボの腕を床に叩きつけ、無理やり括り付けられていたミニミを外した。床では受付ロボがまだもがいているが、その動きは殺虫剤を浴びせられた虫のものでしかない。

 気の利いた台詞も特に思いつかなかったので、龍一は何も言わず、もがいている受付ロボたちにミニミの残弾を全て叩き込んだ。


『獣は雛鳥を喰らい尽くした。出てくるぞ』

『了解。仕上げに入る』

 暗視/赤外線両用の狙撃スコープから目を離さず、ベテランの狙撃手スナイパーは傍らの観測手スポッターにそう答えた。雨避け兼用のカムフラージュマットがあるとはいえ、この雨音では無線なしに会話などできはしない。

 叩きつけるような豪雨、しかも真夜中の屋上などというロケーションは快適とは言いがたい。だが贅沢は言っていられない──目標に気取られず、なおかつ確実に仕留められるのはここしかない。

 そう、ホテルにロケット弾をぶっ放す馬鹿なごろつきどもも。そして素人をいたぶって殺すしか能のない殺戮ロボの操縦者たちも、それを切り抜けた目標に一瞬の安堵と隙を与えるための、囮に過ぎないのだ。

 この世にかけがえのないものなどない。誰だって、何とだって換えが効く。俺たちと同じように。

 夜間、豪雨、そして強風。どれを取ってもプロでさえ二の足を踏む悪条件だ。それがどうした、と思う。悪条件を捻じ伏せてこそのプロであって、理想的な環境でのみ狙撃を行いたければ日当たりのよい射撃場で動かぬ的でも撃っていればいいのだ。

『嫌な仕事だな』

 不意に観測手が漏らした呟きに、狙撃手は驚いた。口数こそ少ないが、失望させられたことなど一度もない長年の相棒だ。あるいはそういう男でも、こんな夜にはそう言いたくなることもあるのだろうか。

 相棒の気持ちがどこにあれ、笑いも怒りもできなかった。『ああ。だが、仕事は仕事だ』

『……そうだな』

 聖人君子は殺しの依頼などしやしない。ましてや彼らが確実な死を手渡してきた者たちが、救いようのない極悪人であったことなどただの一度もない。

 だが確実に言い切れることがある──のだ。それも何度だって。狙撃手は腹を据えた。

『出てくるぞ……タイミングは任せる』

『おうよ』

 呼吸を整え、トリガーに指をかける。──何か素晴らしい夢を見ていたとしても、今ではもう思い出せやしない。

 長く吐き、長く吸う。絹を扱うような繊細さでもって、トリガーを──引けなかった。指が動かない。まさか、良心の呵責を反映したとでも言うのか。

 違う。指に何か、目を凝らさなければ見えないほどの微かな煌めき……極細の糸が絡みついている。何だ、これは?

 突如、隣の観測手がくぐもった呻き声を上げた。まるで喉に何か詰まりでもしたように、首のあたりを掻きむしっている。その首に何か巻きついているのは、やはり「糸」ではないのか。

 呆気に取られている狙撃手の前で、観測手の身体が物凄い勢いでカムフラージュマットから引きずり出され、まるで逆回転でも目にしているような早さで給水タンクの影に引き込まれた。肉を打つ鈍い音、そして人の身体が崩れ落ちる音。

「勘がいいね。その『糸』は人の指くらいなら簡単に落とすよ」

 夜の闇より黒々と。

 レインコートを着た背の高い影が、屋上に立っていた。そんな馬鹿な……賭けてもいい。さっきまでここには俺たち以外誰もいなかったはずだ。俺も相棒も、何者かの接近を許すほど迂闊な仕事はした覚えがない。

「殺してはいない。殺すつもりもない。そして殺させるつもりもない。あなたたちに今望むのは、それ以上でもそれ以下でもない」

 その立ち姿も、屋上に響く声も、はたして随分と若かった。あの目標──相良龍一と大差ない若さだ。その若さで自分たちに接近を気取らせなかった技量は、尋常のものではない。

 一つだけ心当たりはある。

「〈ヒュプノス〉は……全員くたばったんじゃなかったのか」

 そう、皮肉な話ではある。暗殺者集団〈ヒュプノス〉が一夜にして謎の壊滅を遂げたからこそ、今の自分たちに暗殺依頼が回ってきたのだ。

「間違ってはいない。だって、今の僕は……」

 その全てを聞くことなく、彼は腰のホルスターからサイドアームの拳銃を引き抜こうとした。子供だろうと〈ヒュプノス〉だろうと、一度自分たちに牙を剥いた相手の慈悲を期待するくらいなら、最初からこんな仕事を請けはしない。

 眉間への凄まじい衝撃がその答えだった。仰向けに倒れ込んだ狙撃手のすぐ傍らに、澄んだ音を立てて一枚の硬貨が転がる。こんなものを投擲して俺を無力化したのか。抜く手などまるで見えなかった。拳銃など比較にならない速さだ。

 ざまあないな、薄れゆく意識の中で彼は苦笑せずにいられなかった。俺の子供くらいの若造に手もなく捻られるとは。俺も相棒もそろそろ引退かな……。

「……だって……今の、僕は……」

 本人以外聞くことのない影の呟きを、豪雨は瞬く間にかき消した。


 今度こそ龍一はビルの正面玄関から出た。もう何の邪魔もなかった。

 生き延びた……龍一は溜め息を吐く。だから何だってんだろうな、という勝利とも安堵とも違う虚脱感に。

 一体、こんなことをいつまで続けるつもりなんだろう。そもそも続けられるのか?

 味方から遠く離れ、和解すらできないほどに敵の面子を潰し、身を守ることを口実にひたすら暴力を撒き散らす。復讐どころか、連れ去られた夏姫を助けに行くどころか、自分が日々生き延びるのに精一杯じゃないか。

 自分を突き動かしていた衝動が綺麗に霧散していることに龍一は気づく。死にたいわけではない。ただ、虚しいのだ。今日より明日が、明日より明後日が良くなる、良くなっていくという実感が欠片もないのだ。こんな心持ちでは早晩、頭をへこまされて道端のどぶに横たわることになるだろう。いや、どうなんだろうな。本当は俺はそうなりたいんじゃないのか?

 そこで龍一は前方の人影に気づく。何だよ──我知らず、苦笑をこぼしていた。寄るべないダークヒーローごっこなんかしてるから、ほら見ろ、本物の〈死神〉が来たじゃないか。

 豪雨の中で微動だにせず、〈ヒュプノス〉の「端末」──A、またはアレクセイと名乗った青年は、彫像のように静かに佇んでいた。

〈犯罪者たちの王〉とやらは本当にあらゆる殺し屋をかき集めるつもりなんだな、納得はあったが怒りはなかった。奇妙な、一種の安堵さえあった。有象無象どもだけならまだしも、本物の〈死神〉にまで捕捉されたらどうしようもない。詰みだ。

「久しぶりだな」面白くもない挨拶が口をついて出た。しかし実際、あの〈ヒュプノス〉相手にどんな挨拶が相応しいのだろう?

「話があるんだ。君に」

「いいぜ。聞くよ」

 青年は笑った。嘲笑でも苦笑でもない。他に表情の選びようがないからそうしたような笑い方だった。「僕はもう、〈ヒュプノス〉じゃないんだ」

 涙を流さずに泣いているような顔だな、と龍一は思った。

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