雨屋敷の真実
「此処から出たら?
こんな辛気臭いとこに居て、なんになるの?」
ちづるは聡である自分に、よくそう言っていたが。
此処から出たら、自分たちの関係が終わりになることを彼女は誰よりよくわかっていただろうと思う。
ふわふわトイレで漂っているだけの聡という人格。
そんな頼りないもの、生きている賢吾に敵うわけもない。
聡はトイレの霊をやめた途端、賢吾に呑み込まれ、消えてしまうに違いないのだ。
『もう行ってっ。
いっそのこと、此処から消えてっ』
彼女の放った言葉に含まれている苦悩を、自分は感じまいとしていた。
まさか彼女が自分を想ってくれているなどと、そんなだいそれたこと、思うまいとしていた。
彼女との恋が成就するなど。
それは、エジプトに宝探しに行くよりも、遥かにあり得ない未来。
だが、結婚しても子どもが生まれても、ちづるを想い続ける暁人や融の行動に自分はイラついていた。
誰の子だかわからぬ子を産んだちづるにも。
そんなとき、あるチャンスが訪れた。
いや、それをチャンスと呼んでいいのか。
融とちづるの関係に業を煮やした暁人が、あの納戸でちづるの首を絞めたのだ。
だが、暁人はドドメを刺せなかった。
そして、そこに『賢吾』が通りかかった。
チャンスだった。
二度と訪れないだろう、彼女を、弱った賢吾の手でも殺せるチャンス。
幾ら記憶を消して別人になったつもりでも、所詮は同じ魂。
聡と賢吾はずっと、心の何処かで繋がっていた。
後一押しで、彼女は息絶える。
そう聡と賢吾は思う。
そうすれば、彼女はもう、誰かのものになることもなく。
自分ではない、別の男の子を産むこともない――。
賢吾の手が、すでに虫の息になっていたちづるの口と鼻を掌で塞いだ。
彼女の目が自分を見る。
その震える手が伸び、賢吾の頬に触れるか触れないかの位置で止まった。
賢吾の手のせいで、口許は見えないが、その目が笑ってくれたように見えたのは、自分の勝手な解釈か。
賢吾の皺だらけの頬を涙が伝っていた。
何故自分は、この娘を殺そうとしているのだろう。
賢吾の自分はぼんやりそんなことを考えていた。
聡の自分は、ただ涙が止まらなかった。
止まらないまま、強く賢吾の手に力を込めた。
誰かが納戸の外に居るようだったが、気にならなかった。
『此処から出たら?
こんな辛気臭いとこに居て、なんになるの?』
このまま塞ぎ続けたら、二度とあの優しい声が自分に呼びかけてくれることはないと知りながら。
夢を見た。
遠い砂漠を旅していた。
若い自分が、ちづるを
雨屋敷に沈殿する記憶の中に彩乃は居た。
あまり自分に関わらなかったナツ。
だが、公平に他の子どもたちと同じようには接してくれてはいた。
あるとき、遊んだあと縁側に駆け上がってきた自分を呼びとめ、結んだ髪が乱れているとナツが
『こちらに来なさい』
緊張しながらナツの部屋に入ると、彼女は箪笥から手鏡を出してきて、それを持てと自分に言った。
奇麗な細工の紅い丸い手鏡。
彼女がそんなものを持っていたことに彩乃は驚いた。
いつも上品だが、地味な着物を纏っている彼女がそんな鮮やかな小物を持っていたことに違和感を覚えたのだ。
ナツは鏡を正座した自分に持たせ、後ろに膝をつくと、櫛で髪をとかし始めた。
『奇麗な髪だね。
お前の母親も奇麗な髪と奇麗な顔をしていたよ』
それきり黙って、ナツは髪をとかし続ける。
『ほら出来た。
女の子はいつも身だしなみに気をつけておくもんだよ』
結い終えたナツは彩乃の肩に骨のように細い両手の指を置く。
鏡の中、彩乃の顔の側に、ナツの顔が映った。
静かだが、鋭い瞳で鏡越しに自分を見ている。
ナツが言った。
『ほんとうに――
お前は奇麗な顔をしているね』
ナツは亡くなるとき、みんなにそれぞれ遺品をくれた。
彩乃には、何故かあの手鏡を。
いや、何故ではないか、と彩乃は思う。
ナツ様はすべてを知っている。
私が誰の子どもなのかも。
だから、ナツ様は脅すように見せかけ、警告してくれていたのだ。
私が嵩人を愛さないように。
腹違いの兄である嵩人を愛さないように。
ずっと鏡の中から見張り続けていたのだ。
愛する孫と憎いちづるの間に生まれた、この私を――。
ナツは溜息をついて言う。
「結局、私が一番気にかかっていたひ孫はお前なのかもしれないね」
その言葉に、嵩人の顔が青ざめる。
「さて、私はもう消えようかね。
この納戸はきっと、お前たちが『守って』いってくれるだろう」
そんな風にナツは言った。
そのとき、
「……ナツさん」
微かな声がナツに呼びかけた。
聡が廊下の角から顔を出していた。
「ナツさん」
ようやく、『聡』がトイレから出てきたのだ。
聡はいつの間にかナツの足許に落ちていたに櫛を拾い、彼女に渡した。
「貴女にとってはいらないものでしたか?
気のきかない私からの最初で最後の贈り物でしたね」
ナツは夫から受け取ったそれを見つめている。
ふと気づくと、彩乃は夏の光眩しい縁側に立っていた。
横にナツが腰掛け、庭を眺めている。
「私はね、夏に産まれたから、ナツと言うのよ。
なんて適当な名前だと親に文句を言ったら、私が産まれたとき、此処から見えた夏の空がとても美しかったから、つい、そうつけたのだと言われたの。
こんな私でも、親は愛してくれていたんだよ。
初めの夫とうまくいかなかった私を、父は賢吾とめあわせてくれた。
本当は家のためじゃなくて。
私があの人を好きだと知っていたから」
あの人からしたら、迷惑な話だったろうけどね、とナツはいつもよりやわらかく微笑む。
彩乃は、これが本当の彼女なのかもしれないと思った。
この雨屋敷の跡継ぎとして、ずっと気を張って生きてきた彼女の。
「……みんな、ナツ様のことは好きでしたよ。尊敬していました」
怯えつつも尊敬していたと言うか――。
「家人たちが自分を崇拝してくれていても、一番大事な人の心が私を向くことはなかった」
ナツの膝にはあの紅い手鏡があった。
「みんなこれを誰かの贈り物だと思っていたようだった。
私の好みに合わぬ、くだらぬ贈り物だと。
それでも、もったいないから我慢して使っているのだと。
でも違う。
これは私が買った。
私の生涯で、唯一した贅沢。
いや―― 本当の贅沢は、嫌がる賢吾を無理やり夫にしたことかもしれないね」
ナツは鏡に己れの顔を映すと、自嘲気味に笑ってみせる。
「もう少し、私が美しかったら」
「ナツ様はお奇麗ですよ」
そんな声が背後で突然した。
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