沈澱する記憶 肆

 

 ちづるの生家は、首藤の遠縁に当たる東北の大きな神社だった。


 そこで賢吾に連れられやってきた暁人と恋に落ちた。


 中学から高校まで、ちづるは、ずっと暁人を想って過ごした。


 だが、暁人にはナツやナツの父によって決められた許嫁が居たのだ。


 暁人を想い切れなかったちづるは、この雨屋敷近くの大学に進学した。


 卒業する時期を迎え、いよいよ、暁人を諦め、この土地を去ろうと雨屋敷に挨拶に来たとき、ちづるに賢吾が言ってくれたのだ。


「貴女の力は強い。

 この雨屋敷の霊はすでに溜まり過ぎている。


 厄介な霊を貴女の力で見張っていてくれると助かるのだが」


 迷う暁人の気持ちと、未練を残すちづるの気持ちをおもんぱかって言ってくれたようだった。


 だが、それがよかったのか悪かったのか。

 暁人の結納が決まった今となっては、どちらとも言えない。


 彼の整った顔を見ながら、ちづるは、そんなことを考えていた。


 それにしても、こうして見たら、やっぱり、聡さんと似てるところもあるわね、とちづるは思う。


 聡にもう少し強い意志を持たせたら、こんな風になるかもしれないなと思ったとき、いきなり暁人に抱き締められた。


 一瞬、どうしようかと迷っている間に、暁人に口づけられる。


 視界に開いたままのトイレの戸が目に入った。


 先程の疑問が頭をもたげて来る。


 聡さんから、こちらは見えているのだろうか?


 彼は、こうしている自分を見て、何か思ってくれるのだろうか?


 そんなことを考える自分に気づいていた。


「やっぱり、お前でなければ駄目だ。

 俺は此処を出ていく。


 ちづる、俺に付いてきてくれ」


 あれほど好きな人だったのに、近づく暁人の顔を見ながら、ちづるが考えていたのは、聡のことだった。


 上手くいかない暁人との恋。

 何気ない聡との会話に。

 その穏やかな笑顔に、いつも慰められていた自分に気づいた。


 いつも飄々ひょうひょうとして、自分の世界から出てこない聡。


 此処に居て、居ない人。


 もう彼の人生は本当は終わりに近づいている。

 『聡』という人格がそのことに気づかないまま。


 なんでもう五十年早く産まれて来なかったかな。

 そんなことを思いながら、暁人の、聡に似た手に抱き締められ、口づけを受けた――。




 とても、いい夢を見ていた。

 現実は息が詰まるほどの静けさの中にあるのに、と賢吾は思っていた。


 夢の中の自分はいつも自由だ。

 別に現状にそう不満があるわけじゃない。


 自分には過ぎた立場になり。

 お飾りとはいえ、雨屋敷の当主に納まったせいで、両親は満足したまま、年老いてあの世に行った。


 心配ばかりかけた、やる気のない風来坊のような息子だったが、最後の最後で、親孝行出来てよかったと、本当にそのことだけはありがたいと思っている。


 妻、ナツのことも嫌いではない。

 女学生だった頃から知っている。


 小生意気だが、可愛らしい娘だった。


 よく出来た人間だと思う。


 自分の欲より、まず屋敷のことを考える。

 親族の未来を考える。


 自分と結婚したのもそれでだろう。


 彼女の前の夫は男前で仕事も出来る男だった。

 だが、会社の女と金に手をつけた。


 しかも、いつも木で鼻をくくったような返事しかしない妻のせいでこうなったのだと、ナツにすべての責任を押し付け、出て行った。


 なんて男だとそのときはナツのために憤ったが、自分がその立場になってわかった。


 彼も感じていたはず。

 ナツは自分を愛しているわけではない。


 ただ、家のために自分と居るのだと。


 まあ、ナツと結婚しろと言われて、恐怖のあまりトイレに引きこもり、熱中症になって倒れた自分も、ナツとどっこいどっこい失礼な人間かもしれないが。


 嫌だったのは、ナツではなく、この雨屋敷の当主になるという重責だったのだが。


 意識を取り戻した自分を見下ろしていたナツの蒼ざめた恐ろしい顔。


 プライドを傷つけられた女のそれだった。


 その気の強そうな顔を見たときは、確かに、ナツ自身を遠慮したいと思ったものだが。


 そんな自分も、いつの間にか年老いた。


 或る人は自分の一生をうらやみ。

 或る人は同情するだろう。


 なんの自由もなく、ただ屋敷の奥に引きこもった、妻にも愛されない、淋しい人生だったと。


 だが、自分はほどほど満足している。


 子どもの頃思い描いていた未来とはまるで違っていたけれど。


 目を閉じれば、思い浮かぶのは、行ったこともない遠い世界。


 今も自分は、地下世界を旅して、遺跡や宝を探しているような気がする。

 こんな一生で満足だ。


 自分は、程々、良い人生を生きたと思っていた。


 心騒がせるものなど何もなく。

 ただ、平穏に。


 いや……。


 そんなことを考えていた賢吾は、ふと、足を止めた。


 愛らしい女の笑い声が聞こえる。


 障子の向こう。

 座っている二つの人影が見えた。


 障子を開けずとも、誰が居るのか、その声でわかっていた。


 融と、あの娘だ。


 ちづる……。


 足を止めてはいけないとわかっていた。


 夜なので、暗いこちらは見えにくいだろうとは思うが、見えたら、まるで聞き耳を立てているように感じられてしまうだろうから。


 少し障子が開いていた。

 そこを引き開けて、中を覗きたい衝動に駆られる。


 だが、開けてどうするのだ。


 二人を咎めるのか?

 ただ話しているだけなのに?


 融が、彼女を好きなのは知っていた。

 だが、融は結局、今の妻を選んだ。


 いや、単にちづるにフラれたんだろうと思っていた。


 ちづるは暁人をまだ愛しているはずだから。


 暁人が家を裏切れず、今の妻と結婚したあとも。


 どちらにせよ。

 孫の代の恋愛話など、どうでもいいことのはずだ。


 だが、自分は此処を動けないでいた。

 この障子を開けたい衝動に駆られる。


 此処を跳ね開ける。

 その想像の中の自分は、今の自分ではなく、若い頃の自分だった。


 どうしてなのか。

 老い枯れ果て、すっかり穏やかに落ち着いているはずの自分の中に、まだ未来に夢も希望も抱いていた若い自分が同時に存在していると感じる。


 気がつくと、震える手が、障子にかかっていた。

 慌ててそれを引っ込める。


 二度と手を伸ばしてしまわないよう、己れの手首をもう片方の手で押さえたとき、誰かと目が合った気がした。


 ぎくりとする。

 細い、柱と障子の隙間から感じる視線。


 それは、ちづるからのものだった。


 ちづるがこちらを見ていたのだ。


 何をしたわけでもない。

 ただ立ち止まっただけだ。


 彼らの話を聞いていたことだって言い訳できる。


 融は既婚者なのだ。

 子どもも居る。


 こんなところで、噂になっている、ちづると二人で居ること自体が問題だ。


 注意をしに足を止めたと言えば、いいだけだ。

 だが、動けなかった。


 いつの間にか、融はしゃべるのをやめていた。


「……ちづる」

 長い間のあと、そう呼びかけ、彼女の頬にかかっていた緩やかなウェーブのついた髪を払うように触れる。


 止められないのなら、もう見ていたくない、と思ったが、動けなかった。


 融の口づけを受け入れながらも、彼女の瞳は自分を映したままだったからだ。


 そのとき、ぎしり……と床を踏み込む音がした。


 仕事が忙しいと、妻と息子だけ此処に置いて、ほとんど家に帰らない暁人が立っていた。


 月光の中、孫の白い顔は表情もなく。


 見てはいなくとも、中での出来事をわかっているのではないかと思い、身を硬くした。


「おじいさま、そこ、退いてください」

 はっきりした声で、暁人は言う。


 中まで聞こえたのではないかと、こちらが心臓を痛くしてしまう。


 少し避けると、暁人は障子は開けずに、自分の前を通り過ぎていった。


 その怒ったような背中を見ながら、うらやましいと感じていた。

 そうして、素直に融やちづるに対して怒れる孫を。


 自分はもう若くない。

 すべては本やドラマの中の出来事と変わりないくらい、遠くで起きている出来事なのだ。


 そう思おうとしていた――。


 

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