沈澱する記憶 参
此処に住み始めて何年経ったろうか。
そんなことを思いながら、早瀬ちづるは障子に手をかけ、中に居る老人に呼びかけた。
丁寧に手をつき、頭を下げる。
「東の開かずの間の始末、終わりましたので、報告させていただきます」
「どうぞ。入ってください」
障子を開けると、着物姿の品の良い男が自分を待っている。
彼はいつものように、文机で本を読んでいた。
報告を終えたあと、その手許を見て、笑う。
なんです? という顔を彼―― この雨屋敷の当主はした。
いや、実際のところ、みなが当主だと思っているのは、彼の妻、ナツなのだが。
名目上は、彼、首藤賢吾が此処の主人だった。
彼を素通りし、屋敷の中のことは、なんでもナツだけに報告するものも居るが、自分はまず、賢吾に知らせに行くようにしていた。
彼自身はみんなに軽んじられていることなど気にも留めていないようではあるのだが。
口数は決して多くはないので、とっつきにくい印象もあるが、話してみると、意外とユーモアも解する愉快な老人だった。
「何を読んでらっしゃるんですか?」
ああ、これか、と賢吾は本に目を落とす。
「最近、暇なので。
お薦めの本などあったら教えていただきたいんですが」
賢吾は、そうかね、と言い、少し悪い脚で立ち上がろうとする。
「ああ、私が取りましょうか」
そう言うと、彼は少し眉をひそめた。
弱っているところをあまり見せたくない風なところが彼にはあった。
だが、結局、ちづるが壁際の小さな本棚に本を取りに行った。
賢吾が貸してくれるという本を手に、深々と礼をし、外に出ると、ちょうどナツと出くわした。
地味な装いではあるが、いつ見ても、髪一筋の乱れもない。
ナツはちづるの明るい色の服をチラと見て言う。
「ちづる。お前のそのナリは少し派手ではないのか?」
「派手というほどではないですよ、ナツ様。
この色、今、流行ってるんです。
今度お貸ししましょうか?」
などと軽口を叩くと、非常に厭な顔をする。
だが、ナツはいつも自分をかばってくれていた。
あの娘はどういう素性で、本当に首藤の血筋なのかと陰口を叩かれるたびに。
それが彼女の本意ではないにせよ。
当主として、此処に住まう者をきちんとかばってくれていた。
ちづるは、自分とは正反対なナツを実は尊敬していたのだが。
向こうからしたら、そんなこと思われても迷惑だろうなとも思っていた。
「おい、落ちるぞ――」
「落ちません」
こちらが聞いていないので、最早、ただ挨拶のように声をかけてくる霊に軽く返事をし、階段を上がろうとしたら、
「機嫌がいいな」
とぼそりと言われた。
「そう? そんなことないけど。
機嫌いいというのなら、ついでに、めんどくさいから放ってるあんたも成仏させてあげましょうか」
そうちづるが言うと、霊は黙った。
部屋に入ると、窓の下の壁に背を預けて座り、本を開く。
その中に広がる夢のような世界に浸りながらも、少し笑った。
その本はかなり古かった。
恐らく、当主が若い頃から読み込んできたものだろう。
「『聡』さんにも見せてやろうかしら。
あの人、現実は逃避して忘れても、本の内容なら覚えてそうだわ」
喉が渇いたので、下に下りようと、本を閉じて立ち上がる。
機嫌がいいと霊に言われたことを思い出していた。
機嫌がいい?
どうだろうな。
本を借りたところまでは確かによかった気がするが。
自分と別れたあと、賢吾の部屋に入っていくナツの姿を見たときには、少し胸がざわついたような気がする。
なんでだろうな。
廊下に出ると、たまたま通りかかったのか、融が立っていた。
「暇か?」
と訊いてくる。
「ぼちぼち」
と答えながら、階段を下りる。
「内容
なんだ、それ、という融の口調で、振り返らずとも、顔をしかめているのがわかって、ちょっと笑ってしまった。
融と別れたあと、聡のところにいこうか、どうしようか、迷いながら、廊下を歩いていたちづるは、いきなり誰かに腕を掴まれた。
そのまま隅の方に引きずっていかれる。
「ちょ、ちょっとっ!」
白く細い指が、見た目に反した強い力で腕に食い込んでいる。
そのまま、聡のトイレの前に連れていかれた。
「もう~っ! なんなのよっ!」
ちづるは男の手を振り払おうと強引に振った。
彼はゆっくりと手を離す。
こちらを見下ろし、言った。
「お前、融と付き合ってるのか?」
「はあ? なに言ってんの?」
「みんな噂してるぞ」
そう言う白く端正な顔を見ながら、ちづるは笑った。
「あんたがそんな下種な噂話に興味があるとは知らなかったわ。
意外と暇なの?」
と軽い口調で言ったが、暁人は真顔のまま言ってくる。
「融はよせ。
あいつは遊び人だし、ギャンブルに目がないし、婚約者も居る」
「それはあんたも一緒でしょ。
ああ、婚約者のとこだけだけど。
ご婚約、おめでとう」
と言いながら、ちづるは、ちらと右を見た。
誰かが掃除でもしたのか、トイレの戸は開いたままだった。
ずっと思っていた。
聡の姿は窓からしか見えないが、聡からはどうなのだろうと。
この開いた戸から、こちらが見えているのか?
「ちづる。聞いているのか?」
「え、なに?」
暁人はいつの間にか自分の両腕を掴んでいた。
「……お前が俺に付いて来てくれるのなら、俺は結婚をやめる」
はは、なに言ってんの、とちづるは笑った。
「今更?」
とこの雨屋敷の跡取りにして、賢吾の孫である暁人を見上げる。
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