沈殿する記憶 弍



 僕は、ずっと世界を旅していたはずだった――。



 

「貴方、誰――?」


 さとしはエジプトで宝を探しをしていた。


 仲良くなった現地の学芸員に、古代のパンとビールを再現したものを見せてもらっていたら、突然、日本語で呼びかけられた。


 え? と思いながらも、無視しようと思ったが、その声は強い力を持っていた。


 つっけんどんに聞こえなくもない口調だが、声質は可愛らしい。


 別にその声から、愛らしい女性の姿を思い描いたからではないが、思わず現実に戻り、振り向いてしまっていた。


 開けられたトイレの窓から、声から想像してたよりも奇麗な顔をした女が覗いていた。


「そんなところで何してるの?」

「ああ、ええっと」


 久しぶりに声を出した気がした。


 もっとも、自分が生きた人間の身体を持っていないことは、既にそのとき感じていたが。


 彼女は自分の手許を見、

「いつから読んでるの? それ」

と訊いてきた。


 自分の手には、カバーもない古い色褪せた文庫が握られていた。


「面白い? 何年も狭いとこで、そんなもの読んでて」


 彼女は自分がそうしているところでも想像したのか、厭そうに眉をひそめていた。


 何年も?

 自分はそんな長い間、此処でこうしていたのか。


 一体、どうして……。


 そんなことを考えている間、彼女は自分の額の辺りを凝視していた。


 やがて、ぼそりと呟く。


「そんなことしてる間に、何十年も経って、お爺ちゃんになっちゃってるかもしれないわよ」


 彼女は何を言っているのだろう。


 自分は明らかに霊体だ。

 いつの間にか、この屋敷に巣食う霊たちのひとりとなっていたのだ。


 きっと、此処でいつものように本を読んでいるうちに、脳溢血でも起こし、死んでしまったに違いない。


 でも、それもまた自分らしい、と思ったとき、ふと気づいた。


 自分―― 自分って、誰だろう?


 いつものようにって。


 いつも自分は……。


 彼女は悩んでいる自分を、いや、自分の少し後ろをただ見つめている。


 濃く赤い紅のせいもあってか、派手で華やかな印象を与える女だが、見透かすように自分を見るその目は、静謐せいひつで知性に満ち溢れていた。 


 初めて見るタイプの女性だった。


 ただ可愛らしいだけでもなく。ただ生真面目なだけでもなく。


 一体、どういう気性の持ち主なのか。

 なんとも判断しづらい複雑なオーラを放っている。


「貴方、名前は?」

「名前……?」


「名前よ。

 あるでしょう?」


 その手馴れた口調に、自分が退治されようとしている霊になった気分だった。


 まあ、本当にそうなのだろう。

 彼女からは強い霊力が感じられたから。


 それは、霊体になって、初めてわかるようになった感覚。

 この人は一瞬で、自分を成敗できる。


 だが、彼女はそうせず、根気良く自分と話をしてくれていた。


 場を和ませるためか。

 関係ない屋敷の四方山よもやま話などしたあとで、彼女は言った。


「ねえ、名前くらい、教えてくれてもいいんじゃないの?」


 軽い雰囲気を作っておいて、話題に乗せてから、こちらがリラックスしたところで、極自然に記憶を引き出そうとしたのだろうが。


 運良くか悪くか、自分はずっと身構えていたので、それは効かなかった。


 身構えていたのが、本来の臆病で警戒心の強い性質のせいなのか。


 それとも、最初から別の理由で、彼女に対しては構えていたからなのかは、今となってはよくわからない。


「名前は?」

と彼女がもう一度問うたとき、誰かの厳しい声が自分の名を呼んだ記憶が蘇りかけた。


 だが、その記憶を無理やり、遠くに押しやる。


「……聡」

 その名が勝手に口から出ていた。


「首藤聡」


 そう自分は答えていた。


 まるで過去の自分を捨て、別人になろうとするかのように。


 彼女の前で、首藤賢吾という情けない人間で居たくないという想いがあったのだろう。


「聡さん。そう、いい名ね」


 彼女―― 早瀬ちづるは間を置いたあとで、ちょっと微笑み、そう言った。


 だが、その名を繰り返された瞬間、頭の中に浮かんでいた。


 振り払いたい、嫌な記憶。


 強い男の声が自分を呼ぶ。


『ナツの再婚相手はもう決めた。


 賢吾――


 賢吾、お前だ。

 聞いているのか?』


 ナツには普通の男では駄目だ。


 一家のあるじが二人居るみたいになってしまう。


 そうナツの父親は言っていた。

 



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