願掛け

 彩乃が振り返ると、光のあまり届かぬ室内に、母、ちづるが立っていた。


 今の自分とそう変わらない年頃のようだ。


 ちづるはナツの後ろに座り、その髪に触れる。


「少し、よろしいですか?」

と地味にひっ詰めている彼女の髪をほどいていった。


 現実には、ほとんど逢ったこともない母が、こちらを振り返る。


「彩乃」

と呼びかけられた。


 なんだか泣きそうになる。


 彼女の目が自分の横を見た。


 いつの間にか、そこに櫛が落ちていた。

 それを手に取り、彩乃は二人に近づく。


「私がそれに触れない方がいいでしょう。

 あんたがやって」

と母は言う。


 彩乃は櫛でナツのほどかれた長い髪をといた。


 ナツの手鏡に、自分と彼女の顔が映り、どきりとする。


 それは長く鏡の中にあった光景だったからだ。


 とき終わった髪をちづるが華やかな形に束ねる。


 彩乃、と振り向かれ、はい、と母の意図を汲み、ポケットに入れていたものを渡した。


 それは以前、友達が海外旅行の土産にくれた口紅だった。

 鮮やかな色のそれを、母はナツに手渡した。


 ナツは鏡を見ながら、丁寧にそれを塗る。

 老いたナツの顔が、明るくなった。


 鏡を見つめるナツの目許が潤み、その口許が少し微笑んだ。


 ナツは彩乃の前に霊として出るとき、いつも派手な紅い着物を着ていた。


 雨屋敷を取り仕切るナツは質素倹約を信条としていた。

 だから、みなの手本となるために、自らも贅沢をすることはなかった。


 だが、本当は着てみたかったのかもしれない、鮮やかな紅い着物を。


 あの手鏡のような美しい色の。


「言ってくだされば、口紅くらい、いつでもお貸ししたのに」


 ちづるが軽く言った言葉に、ナツは顔をしかめる。


「そういう問題ではないだろう。

 だいたい、お前の持ち物は何もかも派手すぎる。よく今――」

と言いかけ、ナツはそこで言葉を止めた。


 ちづるは両手をつき、ナツに向かって頭を下げる。


「ナツ様、彩乃と嵩人のことを」


 ナツは黙っていた。

 ちづるは頭を下げたまま言う。


「結局、永遠に、あの人を愛し続けられたのは、貴女だけです、ナツ様。

 あの人も、そのことはわかっていると思います。


 私が好きだったのは、私を愛し、殺してくれたのは、もう居ない幻。


 あの人が置き去りにしてきた過去の幻影に過ぎません。


 生きて年を重ねていったあの人の側に、ずっと居られたのは、貴女だけだったんですから」


 場違いな電子音がした。

 何かに気づいたように、ちづるは頭を上げる。


「……そうだな」


 誰も居ない横を見、ナツは呟くように言う。


「あの人は、ただずっと私の側に居てくれた。それだけで――」


 ナツの手が口紅を握りなおし、彩乃に向ける。


「え」


「私は昔、しちにんびしゃくに願いをかけた。

 賢吾に聞いたことを実行したのだ。


 その結果、賢吾は手に入ったが、前の夫は破滅した。


 夫を婿入りさせるとき、父はちゃんとどんな人物か調べたはずだったのに。


 ああなって、離婚に至ったのは、しちにんびしゃくの呪いのせいかもしれないと私は思った。


 まあ、ただの逃げだろうがな。


 私の心が自分に向いていないことを彼は知っていたのだろう。


 お前も願いをかけてみるか?」


 突き出された口紅を受け取ることが、その選択を受けるかどうかとかけられている気がして、彩乃は受け取らずに首を振る。


 ナツはふっと笑い、口紅を握らせた。


「そうだな。

 まあ、この先、どう生きるかはお前の自由だ。


 私はもうお前を縛らない。


 このままこの屋敷に留まり、嵩人の幻を追って生きるもよし。


 峻や他の男と歩き出すもよし。

 雨屋敷はお前の好きにしろ」


 ナツは自分の横を見、誰も居ないそこに向かい、笑いかける。


「過去に縋って生きるのも悪くはなかったがな。

 あの人が死んだあと、何度も此処に並んで、お茶を飲んでいる幻を見たよ。


 現実にそんな顔をしていたかわからないが、幻のあの人は、私を見て、穏やかに微笑んでいた」 




 暗い――。


 現実に意識が戻ってきたらしい。


 彩乃はナツが櫛を胸に抱き、消えるのを見た。


 そして、その前に立つ聡の声を聞いた。


『私は―― 私は最後まで風来坊のようでしたが。

 『首藤賢吾』は貴女を大事に思っていましたよ。


 もう貴女は貴女の役目を終えられていい。

 後のことは、この子たちがなんとかしますよ』


「後のことってなんだ?」


 ぼそりと清水の声がした。


 うわっ、と思う。


「あ、すみません。

 いつか渡り廊下の辺りであった綺麗な女の人が此処まで案内してくれて」

と谷本が言い、清水が、


「……俺にはなんにも見えなかったんだがな」

と言う。


「はあ、すみません。それはたぶん、母です」

と彩乃は言った。


「……母?」

と谷本たちが訊き返す。


「私の母です」

「死んだんじゃなかったんですか……」


 そう清水が呟く。

 谷本に見えるのなら、生き霊だからだ。



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