いや、だって、此処から動けないんで……
「
「おやおや。
それはよかったですね」
と言う聡に、よくはないです、と彩乃は言った。
このトイレの霊、聡との出会いは二年前。
親戚の誰かが、顔も名前もよくわからない赤子を連れてきたことからはじまった。
『おじいさまにご挨拶してくるから、彩乃さんちょっと見てて』
と、これまた誰だかわからない親族の女にその子を押し付けられた彩乃は、見様見真似であやしながら、この廊下を歩いていた。
そのとき、たまたま開いていた窓からトイレの中が見えたのだ。
洋式トイレに俯いて座る男の後ろ頭と背中が見えた。
あら、窓開けて入ってる人が居る、と思い、行こうとしたのだが、何かが気になった。
そうだ。
今しゃがんでいた茶がかった髪の男。
最新式の全自動トイレに不似合いな、書生のような格好をしていなかっただろうか?
用を足しているのなら悪いか、と思いながらも、彩乃は赤子をあやして戻りながら、またチラとそちらを見た。
どうやら、彼は蓋の上に腰掛けているようだった。
なんで上に座れたんだろう?
人が近づいたら、勝手に開くはずなのに。
そう不審に思ったとき、その茶髪の男が振り向いた。
失礼だが、
いや、顔自体は整っていて綺麗なのだが。
なにかこう、
ぼんやりとした顔つきをしていた。
「貴方、誰?」
勝手にトイレの中を覗いておいて、そう問う彩乃に、男は言った。
「あれっ? 彩乃さん?」
ん? なんで私の名前を知ってるんだ?
と思ったとき、察したように男が言ってきた。
「ああ、すみません。
私、ずっとこのトイレに住んでいる……、たぶん、霊です」
『たぶん』、そう男は言った。
「トイレで本を読んでいたとこまでは覚えてるんですけどね。
脳溢血でも起こしたんでしょうか。
なんだかそのまま此処に居て。
磁場が悪いのか、貴方たちにも見えないみたいだし」
首藤姓なら書生ではないか、と彩乃は思う。
どうやら雨屋敷に住んでいた親族のひとりらしいが、長い間、此処に居たせいか、生きていたときのことは、ぼんやりとしかわからないらしい。
「貴女たちのことはよく知っていますよ。
最近生きてる人間の方が過去の知り合いより記憶として近いので」
「ちょ、ちょっと待ってください」
彩乃は、はた、と気がつき、声を上げた。
「貴方、ずっと此処に居るんですか?」
「そうですよ。
昔から、ずっと此処に居て、トイレの前や後ろを駆け回る貴方たちの声をよく聞いていました」
しみじみと語る聡に、いや、声だけならいいのだが、と彩乃は思う。
「私、二度と入りませんから、此処」
「……そうしてください」
でも、私も好きで此処に居るわけじゃないんですよね~と聡は愚痴っていた。
そのとき以来、この奇妙な霊との交流は続いている。
磁場の関係なのか、トイレの中に入ると彼の姿は見えなくなるので、もっぱらこの窓から話すだけなのだが。
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