第一の殺人

トイレの中に誰か居ます


 縁側の格子戸には、いまどき見ないような厚ぼったいガラスがはめ込まれていた。


 その向こう、紫陽花の陰に薄墨でえがいたように、ぼんやりと浮かぶ女の霊なんかは奇麗だとも思うけど。


 首藤嵩人すどう たかとは白いソファの肘掛に頬杖をつき、その霊を眺めていた。


 昔は此処に住んでいるから、こんなものが見えるのだと思っていたが。

 外で暮らすようになっても、やはり霊は見えた。


 今住むアパートにも家賃を払わない同居人が居るのだが。


 しゃべらないし、いつの時代でも誰かが着ているような、こざっぱりとした服装しているので、どのくらい古い霊なのかもわからない。


 部屋に風呂があるのに、その男の霊は三日に一度、洗面器を持って何処かに出かけて行く。


 霊との気ままな二人暮らし。


 そのまま続けてもいいような気もしていたが、死んだ祖父、荘吉そうきちの遺言のせいで、いささか困った事態になっていた。


 ジジイめ、あとで文句を言ってやる。

 そう心の中で荘吉を罵ったとき、ガラス戸に女の姿が映った。


 此処に現れるどんな霊より長い黒髪の女。


 小さな容れ物の中に、きちんと部品が整列しているかのような彼女の顔は、美しいが無表情で。

 化粧っ気はまったくなかった。


 白いカットソーにウエストの締まった長めのジャンパースカートという、今どき流行りの格好なのに。


 彼女が着ていると、何故か正統派な昔の服装に感じられる。


 品のいいその立ち居振る舞いのせいだろうか。


彩乃あやの

と嵩人は振り返り、廊下に立つ彼女、早瀬彩乃はやせ あやのに向かい、呼びかけた。


「ぼーっと突っ立ってるから、地縛霊の一種かと思ったぞ」


 すると、彩乃は相変わらずの無表情で、淡々と言い返してくる。


「あら。

 私もソファに霊が座っているのかと思ったわ。


 嵩人、しちにんびしゃくに落ちて死んだんじゃなかったの?」


 高校のとき、ぱっと見、はかげな彼女の口から飛び出す毒舌の数々に。


 何も知らずに彼女に憧れていたクラスメイトがショックを受けていたのを思い出した。


 いや、そもそも、お前が突き落としたんだよな、それ……と嵩人は思っていたが、口に出せば、また揉めそうなので黙っていた。


 雨屋敷の裏山には、生き物が住めないと言われる沼のような溜め池がある。


 そこに落ちたら溶けて死ぬと、此処らの子どもたちはみな信じていて。

 側まで行っては、本当に蛙も居ないことを確認し、何度も逃げ帰っていた。


 だが、彩乃に突き落とされても死ななかったあの日、自分はひとつ大人になった。


 池は所詮、ただの汚い池に過ぎない。


 まあ、風邪はひいたけれど。


「おじいさまなら、部屋にいらっしゃると思うわ」


 そう言って、彩乃は行こうとする。


 一ヶ月前、当主、荘吉が亡くなり、その遺言が公開された。


『最後まで住み続けられたものに、この雨屋敷を明け渡す』


 金の亡者たちが色めき立たないわけがない。


 だが、自分にとって重要なのはそこではなかった。


『首藤嵩人は、高村華絵たかむら はなえの婿養子とする』


 荘吉は勝手に地元代議士である高村との縁談を進めていたようだった。


 高村は地元の名士である首藤の名が欲しい。

 こちらは高村の援助が欲しい。


 利害は一致している。


 もちろん荘吉も鬼ではない。


 自分が断ればこの話は進まないことにはなっていたのだが。

 いつもの売り言葉に買い言葉でやってしまっていた。


 そして、そんな間抜けな自分に、彩乃はあれ以来、近寄りもしない。


 来月、


 俺は結婚するらしい――。

 

 



 よくもしゃあしゃあと帰って来れたもんだわ。

 そう思ったあとで、彩乃は、向こうが跡取りなのに、そんな言い方もおかしいか、と思った。


 居候は自分の方だ。

 首藤家とのつながりもよくわからないのに、ずっと此処に居る。


 荘吉は親戚連中を一掃しようとしたときも、身内の居ない自分を不憫に思い、自分にだけは出て行けと言わなかった。


 彩乃はまだ嵩人の居る洋間をチラと見たあとで、玄関からぐるりと廊下を回った。


 建て増しを重ねたこの屋敷はちょっと面白い構造をしている。


 もともとあった玄関近くのトイレの外に廊下をつけたらしく、このトイレは、窓の向こうに人々が行き交う廊下がある。


 だから、この窓を開けることはまずないのだが。


 辺りに誰も居ないのを確認したあとで、彩乃は廊下からその窓を開け、中に向かって呼びかけた。


さとしさん、居ます?」


 すると、人影のなかったトイレから声がした。


「居ないわけないでしょう?

 私は此処から出られないんですから」


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