過ぎたものから、吹いてくるもの

細井真蔓

過ぎたものから、吹いてくるもの

 〇・一


 誰が悪いかと言ったら、半分は僕が悪い。残り半分は、そうだな、社会が悪い。社会ってなんだ。僕の社会は、学校と、家族と、塾、それだけだ。だから、半分は、お母さんが悪い。


 一


 電車が通り過ぎるのに合わせて、ホームに強い風が吹いた。とっさに帽子を押さえようと振り上げた腕に、首から下げた緊急用の携帯電話のストラップが絡み付いて、切れた。帽子は無事だったけど、冷たいコンクリートを跳ねて、携帯電話は壊れてしまった。

 画面が半分青くなった電話をポケットに押し込んで、僕は改札を出た。


 線路の下の汚い壁には、黒っぽい蔦が這っている。蔦の前には僕の背丈くらいの草むらが壁に沿ってずっと続いている。それから錆びたフェンスが、草むらを守るように遠くまで伸びている。

 ろくに街灯も無いのに、道は意外と明るい。窓から漏れる光のせいか、都会の灯りが空に反射しているのか、どこからかやって来る淡い光のおかげで足元はよく見える。線路の反対側には同じような家がずっと並んでいて、カーテン越しに黄色い光が透けている。きっと誰かが晩ご飯を食べたり、犬と遊んだりしているはずなのに、何の音も聞こえてこない。夜の道はすごく静かだ。


 ぼんやりと壁の蔦を眺めて歩いていると、ふと足元が白くなって、後ろから車が近付く音がした。

 脇によけると、車は僕の横で止まった。タクシーだ。見慣れない、水色のタクシー。構わず歩いていると、僕に合わせるようにゆっくりと付いてくる。自然と早足になる僕を追い越して、タクシーはまた止まった。窓が開いて、運転手が僕に声を掛ける。

「きみ、一人? 部活の帰りかい」

 姿は見えないけど、妙に優しげな、おじさんの声だ。無言で通り過ぎようとする僕に、タクシーはぴったり付いてくる。

「サッカー、それとも野球? 遅くまで頑張るんだなあ」

 何の用だろう。いや、何の用だろうと関係ない。それにサッカーでも野球でもない。このでかでかと塾の名前が書いてある鞄に、汗まみれのズボンが入ってるように見えるんだろうか。知らない人には関わらない。こんな時間だったらなおさらだ。何のつもりか知らないけど、僕はタクシーで帰る気なんてない。

「ははあ、分かったぞ。卓球だな。どうして分かったと思う。おじさん、名推理を見せちゃったね。きみのその半ズボンから覗いてる足、おしろいみたいにきれいだもんな。屋根の下でやるスポーツで、きみくらいの歳なら、まずは卓球だね」

 運転手は勝手に話し続けている。姿はまだ見えない。

「卓球はいいぞ。うん。なんてったって、玉が小さいのがいい。小さくて軽い。おじさん、小さいのが好きだなあ」

 暇なんだろうか。だからって、僕にちょっかい出さなくてもいいのに。

「よし、決めた」

 運転手は急に大きな声を出した。

「おじさん、今日の仕事は終わりにしよう。つまり、そうだ、きみを乗せていっても、メーターは回らないってことだ」


 タクシーは僕と磁石で引き合うように、ぴったりと、滑らかに付いてくる。なんだか気持ちが悪い。どこかに逃げられないかな。車の入れない狭い路地、階段、コンビニでもいい。僕を乗せるって? 夜道を一人で歩く小学生を、心配してるんだろうか。

「この辺りはちっとも危なくないけどね、そうは言っても、そりゃあたまには、危ないことだってあるよ。だから、ほら。白い足の、おぼっちゃん」

 タクシーのドアが、軽い音を鳴らして少しだけ開いた。ちゃんと断った方がいいだろうか。けれど上手く話せるか分からない。それに、会話を始めてしまうのが、少し怖い。

 淡い光を並べていただけの住宅街に、明るい軒先が見えてきた。誰かいるかもしれない。助けを求める訳じゃないにしても、人がいれば、怪しいことはできないはずだ。次第にこうこうと照った看板に浮かび上がる「たばこ」の文字が大きくなる。何でもいい。人がいてくれたらそれでいい。タクシーがまた僕を追い抜いて、止まった。


 ドアがゆっくりと開く。

 運転手は出てこない。さっきまで聞きもしないことをぺらぺらと喋っていたのに、突然、リモコンの消音ボタンを押したように静かになった。僕の行く先を塞ぐように、不自然に大きく開かれたドア。それは無言で獲物を待ち続ける、不気味な食虫植物のように見えた。


 僕は思わず走り出す。タクシーのドアをよけて、たばこ屋まで走る。小さなカウンターが見えてくる。中に人影が見える。走ってくる僕に気が付いて、女の人が顔を上げた。

 その人は、珍しい物でも見るように目を丸くして、僕を見つめた。青とも緑とも言えないツヤツヤのワンピースを着て、僕のお母さんよりも少し若そうだ。小さなカウンターに、細い体と、小さな顔がすっぽり収まって、一枚の絵のように見える。

 タクシーを振り返ると、いつの間にかドアは閉まっている。運転席は、暗くてよく見えない。たばこ屋の女の人はタクシーをちらりと見てから、優しげな笑みを浮かべて僕を見つめ直した。

「あなた、六年生?」

 知らない人と話すのは、得意じゃないんだ。けれど、このまま無視して通り過ぎるには不自然なくらい、体がたばこ屋に向かってしまっている。無理矢理方向を変えて通り過ぎようか、どうしようか。そんなことを考えていると、タクシーはゆっくりと動き出して、そのまま闇の中へと消えて行った。


 たばこ屋の小さなカウンターから、女の人は微笑みを浮かべたまま僕を見ていた。後ろには、見たことも無い、いろんな柄の小さな箱が並んでいる。たばこ屋なんて、まじまじと見たことはなかったけれど、普通の家の一角が、こんな風に店のカウンターになってるんだ。看板はよく見ると「こ」の字の下半分が無くなっている。のこぎりで切り落としたように、すぱっと消えている。どうしてあんな所が無くなるんだろう。不思議に思って見ていると、

「昆布、食べる?」

 ふいに女の人が僕に聞いた。

「私の食べかけだけど」

 その人は、鼻と口の間に猫みたいなシワを寄せて笑った。猫が笑ったところは見たことがないけど、もし笑ったら、こんな顔をするんだろうか。大人みたいで、子供みたいな、変な顔だった。もしかしたら、お母さんよりも、ずっと若いのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はただ、首を横に振るだけで精一杯だった。


 〇・二


 中学なんてどこだっていい。勉強しなくたって、普通のとこには入れる。難しいとこになんて、行かなくていい。だけど、なぜかこうして毎晩遅くまで、無理矢理塾に行かなきゃいけないのは、僕の望んだことじゃなくて、お母さんが望んだことだ。だから、こうして今知らない駅のホームに一人で立っているのも、半分は、お母さんが悪い。

 そう考えると、少しだけすっきりする。きっとお母さんも、お父さんも、こんな所に一人で突っ立っている間抜けな僕を笑うだろう。でも、半分はお母さんが悪いんだから、仕方ない。お父さんは時々しか帰ってこないけど、全部お母さん任せにしてるから同罪だ。なんなら半分をさらに半分にして、お母さんとお父さんで仲良く分け合ったらいい。それで、僕を塾なんていう退屈な檻に押し込めた罪を、仲良く後悔したらいいんだ。


 二


 たばこ屋のカウンターを覗くと、奥に畳の部屋が見えた。誰がいるのかは見えないけど、テレビの音が小さく聞こえている。

「大変ね、こんなに遅くまで」

 女の人は細い指先で黒い物をいじりながら言った。そして、カウンターの下から何かを千切って、僕に差し出した。

「昆布は嫌い?」

 別に嫌いではないし、かと言って好きでもない。ただ、知らない人から突然渡された昆布を、いただきますと受け取っていいんだろうか。

 迷っていると、その人はくるっと手首を返してそれを食べた。その顔は、僕を見ているのか、僕の後ろの夜を見ているのか、ちょっと上がった唇の端が、いつまでも優しく笑っているようで、僕はその顔から、なぜだかずっと目が離せなかった。

「さっきのタクシー、乗らなかったのね」

 そうだ。もうタクシーもいなくなったんだ。さっさと立ち去ったらいいのに、不思議とそんな気も起こらない。

「おい、キリコ」

 カウンターの奥から声がした。

「酒がねえぞ」

 声は畳の部屋から聞こえてくるようだった。女の人のお父さんだろうか。それとも、結婚しているんだろうか。聞こえていないはずはないのに、女の人は無視したままだ。

「家はどこなの」

 知らない人に、家の住所を教えてはいけない。この女の人が悪いことを考えているようには見えないけど、奥の部屋にいる人はそうじゃないかもしれない。

「寡黙な少年ね。ふふ。いいわ、じゃあ一つ、おばさんと約束して」

 おばさん、そう聞いて、ふいに近所のおばさんの顔が重なる。なんだかすごく、嫌な感じだ。

「あの水色のタクシーには乗らないこと」

 思いがけない忠告。学校で見たビデオのワンシーンが、頭をよぎる。下校途中の小学生に声を掛けて、知らないところに連れて行く。何をするのかは、知らない。女の人は、さっきよりもまじめな目で僕を見つめている。

「きみが考えてる物よりも、もっと怖い物よ」

 笑ってるのに、笑ってないような声。さっきの運転手の声が、水色のドアが、頭によみがえる。開いたドアの中にいたのは、何だったのか。

「おい、キリコ。酒がねえぞ」

 奥からまた声がした。ちらちらと気にしている僕を見て、

「いいのよ、ただの声だから」

 と、よく分からないことを言った。

「タクシー、それから、そうね、他には何があったかしら。ナメクジ、トンネル、もや、雷、あとは」

 ナメクジって、何の話だろう。あのヌルヌルしたナメクジのことだろうか。

「とにかく、変だなって思ったら、その直感を信じて」

 女の人は、また猫みたいに笑った。

「怖がらせるようなこと言ってごめんなさいね」

「おい、キリコ、酒がねえぞ」

「でもね、本当は、私みたいな人を、信じちゃだめよ」

 そう言いながら、またカウンターの下で手が動いた。きっと昆布だ。ちょっとだけ、食べてもいい気がしてきた。また、僕にくれるんだろうか。手を伸ばそうとすると、

「それじゃ、またね」

 女の人は昆布をつまんだままの指で、軽く手を振った。僕は何を言えばいいのか分からないまま、別れの挨拶も残さずたばこ屋を後にした。振り返りたくなったけれど、ぐっと堪えた。

 またね、という言葉が、僕の背中を押している気がした。


 〇・三


 毎日眠いんだ。学校でも、家でも、ゲームをしてる時は元気だけど、塾でも、行き帰りの電車でも、ずっと眠い。電車では、参考書を広げて、いつもくだらない勉強を頑張ってる振りをしてる。でも、さっきはもう限界だったと思うんだ。

 

 何かのアナウンスではっと目を覚まして、なんだかよく分からないまま寝過ごしたような気がして急いで電車を降りて、周りを見回して、電車がホームを出て行って、人が階段に吸い込まれて行って、ようやく知らない駅で降りたことに気が付いた。いつも通り過ぎているのに、まるで見覚えがない。と言っても、家と塾を往復するだけの僕に、途中の駅のことなんて、水溶液が何色に変わるかと同じくらい、どうでもいいことだ。

 名前も知らない、一度も降りたことのない夜の駅は、僕にとって、まるで知らないどこかの星に着陸したのと同じくらい、不安で孤独な場所だった。


 三


 たばこ屋を離れてしばらく線路沿いを歩いていると、小さな用水路にぶつかった。高架下をトンネルが抜けていて、線路の反対側に階段が見える。あの階段を上がれば水路を越えて進めるだろう。

「おばさんと約束して」

 女の人の言葉を思い出す。トンネルとナメクジには近寄らない。それからタクシー。他にもあった気がするけど、とりあえず今はトンネルだ。この高架下をくぐる道はトンネルと言えるだろうか。当たり前に考えれば、トンネルだ。でも向こう側も見えているし、変な人もいない。たばこ屋を振り返ってみても、灯りはもう見えない。

 どうしようか。何の変哲もないトンネルだ。危ない様子はない。さっと通って、階段を登れば、何も問題はないはずだ。


 トンネルは面白い。入ると、まず音が変わる。プールに潜った時みたいに、それまで聞こえていた音が無くなって、代わりに自分の立てる音だけが、膨らんだり縮んだり、ずれたり重なったりしながら、でたらめに響いてくる。呼吸の音、服の擦れる音、それからスライムを叩いたような足音。大きな魚に飲み込まれたら、こんな感じなんじゃないかと、ふと思う。

 外から見るよりも、トンネルの中は明るい。金網の掛かった大きな蛍光灯が数メートルおきに点いていて、隅々まで照らしている。壁と天井は塗られたばかりのように白い。物騒な落書きもないし、危ないところを探す方が難しいくらいだ。


 真っ白な壁を見ていると、なんだか頭がふわふわした気持ちになってくる。眠る前の、自分がどこか別の世界に溶けて流れていくような気分。いつのまにか地面まで真っ白になった長いトンネルを歩いていると、そこだけ妙に黒々としたマンホールがあった。そばに、近所のおばさんが立っている。ほらね。やっぱり全然違う。さっきのキリコさんという人は、こんなおばさんじゃなかった。どっちかと言うと、おばさんよりも、お母さんみたいだった。窓に映ったお母さんの顔。吊革を持って、僕と並んで立っている。似てるって言われるけど、よく分からない。電車が駅に止まり、人が出て行って、また乗ってくる。お母さんが、開いた席を指さす。別に座らなくてもいいんだけど。まあいいや。なんだかちょっと眠たいし。並んで座っていると、お父さんが何か話しかけてくる。けれど、声が聞き取れない。お父さん、いつ帰ってきたんだろう。今度は長くなるって、お母さんが言ってた。聞いたこともないような国だった。早く帰れることになったのかな。お父さんが着てるTシャツ、ミミズの絵が描いてある。ギョロっとした目玉が付いたミミズ。妹が産まれる前、三人で水族館に行った時に着てた服だ。あの時も、こんな風に、並んで電車に乗っていた。大きな水槽の前で、魚の餌みたいだって笑われて、それから一度も着ているところを見たことがない。何か変だ。これはどこだろう。このお父さんは、いつのお父さんだろう。僕は今、どこにいるんだろう。いつ電車に乗ったんだっけ。何かがおかしい。この電車は、どこに向かってるんだろう。

「変だなって思ったら、その直感を信じて」

 電車がまた駅に止まった。僕は開いたドアから転がるように外に出た。


 暗闇。何も見えない。耳を塞いだような圧迫感。お尻が冷たい。地面が濡れている。真っ暗な場所に座っている。背中に何かが当たっている。手探りで確かめる。これは、梯子だ。追い立てられるように登る。長い。上がっているのか、下がっているのかも分からない。ひたすら手足を動かす。ふと、頭に衝撃が走る。何かにぶつかった。塞がれている。頭と肩を思い切り押し付ける。鈍い音がして、塞いでいた物が持ち上がった。

 目の眩むほど真っ白な空間。トンネルだ。僕はマンホールから這い出し、逃げるように歩いた。走りたかったけど、力が出ない。どうしてマンホールの中にいたんだ。確か電車の中で、お母さんとお父さんがいて……。夢でも見てたんだろうか。まだ頭がくらくらする。振り返ると、誰もいないトンネルに、蓋の開いたマンホールだけが見える。僕はできるだけ早足で、トンネルの出口に向かった。


 どれだけ歩いただろうか。気分もいくらか戻ってきた。トンネルからもずいぶん離れたはずだ。線路沿いのフェンスにもたれ、一息つく。

 さっきから、何が起こってるんだろう。最初はタクシー。それからたばこ屋の女の人だって、よく分からないことばかり言っていた。奥から聞こえていた声も、なんとなく変な感じだったし、トンネルなんて、何が何だか分からない。駅を出てから、変な物が僕を追って来ている気がする。それとも、待ち構えているのか。お化け屋敷の仕掛けのように、僕の行く先で次々に現れて、僕を驚かそうとしているみたいだ。

「おばさんと約束して」

 他には何と言っていただろう。ナメクジと、タクシーと、マンホール? ……違う。だめだ。思い出せない。もっとちゃんと聞いておけば良かった。戻ってもう一度教えてもらおうか。無理だ。あのトンネルには戻れない。別の道も知らない。

「きみが考えてる物よりも、もっと怖い物よ」

 あのままマンホールの中にいたら、僕はどうなっていたんだろう。暗くて何も見えなかったし、必死だったから考える暇もなかったけど、あの暗闇の中にいたのは、僕だけだったんだろうか?


 おへその辺りが締め付けられるように痛む。何度か息をして落ち着く。早くどこかに行かなきゃいけない。どこかじゃない、家に帰らないと。

 鞄の紐を握りしめて、歩き出す。線路の先に向かって進むしかない。ナメクジ、トンネル、タクシーには近付かない。ナメクジ、トンネル、タクシー、ナメクジ、トンネル、タクシー……。


 〇・四


 最後の一人が階段に消えると、ホームには誰もいなくなった。次の電車を待つ人もいない。暗いホームにたった一人で取り残されて、色んな気持ちが頭に浮かんでは消えていって、まとまりなく流れる気分に任せて、しばらくぼうっとしていた。


 誰もいない。次の電車に乗る人が、一人くらいホームに現れてもいいはずなのに、暗いホームには、誰もいない。急にお腹の下の方が、鉄の玉を沈めたように重くなる。汗が滲む。最近よく、こんな風にお腹が痛くなる。前はこんなことはなかった。

 思えば、お父さんが単身赴任になった頃から、何かの拍子にこんな風にお腹が痛むようになった。理由は考えたこともなかったけど、そのくらいの頃から、家の中がぴりぴりし始めたからかもしれない。お母さんが、怒りっぽくなったんだ。妹も全然言うことを聞かないし、僕はちゃんとしてるつもりだけど、そりゃあ、時々ちゃんとできてないこともある。そんな時、お母さんはいつだって僕を怒るんだ。妹はずるい。お母さんが怒ってる時も、ふざけたり、聞こえない振りをして、上手くかわしてる。僕が同じことをすると、しつこく怒られる。どうしてそんなことになるのか、全然分からない。

 それでも、その頃はまだ、それなりに楽しく暮らしていたと思う。


 四


 ずっと線路沿いを歩いている。タクシーとトンネルには気を付けているけれど、あれから出会ってはいない。ナメクジはどうしたらいいだろう。知らない内に踏み潰しているかもしれないし、鞄にくっついているかもしれない。どちらにしても、気付かずに済むなら、それでいい。

 線路を挟んだ向こう側よりも、道も街も、なんとなく暗い。街灯も少ないし、家のほとんどは空き家のように灯りも点いていない。できればさっさと走り抜けたい道だけど、走り始めたら止まれない気がして、緊張しながら歩いている。変な物を見つけてしまわないように、できるだけ正面か足元しか見ないようにしていた僕の目にも、それはするりと入り込んできた。


 視界の隅に映り込んだそれは、線路と道路を仕切るフェンスに引っかかっていた。初めは何か分からず、木の枝のように見えた。小さめの人参くらいの大きさで、濃い灰色をして、しわしわのミイラみたいな棒状の何か。

 近づくにつれて、次第にはっきりとしてきたそれを見て、僕はぞっとした。こんな物、どう見ても普通じゃない。でも、怖さよりも少しだけ好奇心が勝ったらしい。だってそれは、近寄ってみると、間違いなく、こんなこと本当に馬鹿げていると思うけど、それは……、象の鼻だったんだ。体も無い、顔も無い、小さな象の鼻。象が嫌いな子供なんていない。いたとしても、こんなにおかしな象の鼻があったら、黙って通り過ぎる子はいないだろう。


 そっと手を伸ばして、恐る恐る手に取ってみる。かさぶたのようにごわごわした表面が指先に触れる。柔らかくしなる全体が、つまんだ指先から芋虫のようにだらりと垂れる。硬いのに、柔らかい。生きているのか、死んでいるのかも分からない。……分からない? 体の無い象の鼻が、生きているはずがない。それなのに、死んでいるとも作り物だとも言えないのは、まるで眠っているような、このしっとりとした生温かさのせいだろう。

 手の中で何度か握り締めてみる。あまり触ったことのない感触だ。硬い毛が生えているので、人参と言うよりは牛蒡とか山芋とか、そんな感じだ。象の鼻が柔らかい牛蒡に似ているというのは、ちょっとした発見のように思える。もちろん、牛蒡と並べられる大きさの象を見つけたら、ちょっとどころの発見ではない。


 あんまり珍しいものだから、状況を忘れてそんなことを考えていると、突然、ものすごい轟音とともに地面が揺れた。強烈な突風が吹いた。隕石でも落ちたのかと思ったけど、今のは……、くしゃみ?

「おう、おう、やっと来たのう」

 地響きのような声がする。音量が大き過ぎて、どこから聞こえてくるのかも分からない。

「そのくらいで勘弁してくれ。むず痒くてかなわん」

 声の出所を探すが、見つからない。逃げるべきか。けれど、どっちへ。

「おっと、変な気を起こすなよ。なに、悪いようにはせん」

 声の主はどこにいるのか。どれだけ見回しても、周りには線路とフェンス、それから立ち並ぶ家の影しかない。少しでも動く物を探そうと目を凝らすと、灯りの消えた家だと思っていた黒い輪郭が、むくむくと波打つように動き出した。一軒だけではない。並んだ数軒分の影が、一つの大きな塊になって、網に捕まった巨大な動物のようにもぞもぞと動いている。声はその黒い塊から聞こえてくるようだった。

「お前の持っているそれを、ちょいとこっちまで寄越してくれんか」

 頭の中で、危険を知らせるライトが破裂しそうな勢いで回っている。すぐに逃げなくちゃ。けれど、あまりにも大きな姿と声に圧倒されて、体が動かない。

「怖がらんでいい。それを手に取ったのはお前が久方振りなのだ。前の奴は怯えて金網に引っ掛けて逃げよったが、お前は話を聞いてくれるな」

 心なしか、声のボリュームが下がってきた。どうやら、得体の知れない化け物に頼み事をされている状況らしい。

「どうだ、ただでとは言わん。何でも望みは聞いてやる。頼む。小僧」

 また! また勝手なことを言い出した。タクシーに乗せてやるとか、約束しろとか、望みを叶えてやるとか、もうたくさんだ。化け物の声が穏やかになってきたおかげか、強張っていた体が動いた。


 走る。進んでいた方角に向かって、ひたすら走った。後ろから空が割れるような大声と嵐のような風が追いかけてきたけれど、振り返っても巨大な影は遠くに残されたままだった。

 手には、ぐにゃりとだらけたままの象の鼻がしっかりと握られている。最悪だ。思わず持ってきてしまった。とりあえず、これをどうするかは後で考えよう。今はとにかく、なるべく遠くまで逃げなければ。


 〇・五


 四年生まではよかった。

 お母さんは怒りっぽくなるし、お父さんは帰ってこなくなるし、妹は生意気だし、時々お腹は痛くなるけれど、それでも、楽しくてのんびりした生活があった。

 学校が終わると、公園で暗くなるまで遊んで、くたくたになって家に帰ると、ちょうどお母さんも妹を保育園から連れて仕事から帰ってきた頃で、僕は麦茶を飲みながら、テレビをつけて、お母さんの作る晩ご飯の匂いにお腹を鳴らしているだけでよかった。妹は子供っぽい番組ばっかり見ようとしたから、塗り絵とかパズルとかで気を引いておいて、だいたい僕がテレビを独占できた。お母さんはそれを見てため息をついていたけれど、あれは本当のため息じゃなかった。

 僕の前で忙しそうに家事をするお母さんの姿があって、馬鹿みたいな笑い声があって、ただ何もせず、ぼんやりと窓に止まった虫を眺めているだけの時間があった。そんな生活が、四年生まではあったんだ。


 五


 どっちへ歩けばいいかも分からない。夢中で走っている間に、線路も見失ってしまった。とりあえず、なるべく広い道を辿ってみる。何か目印が見つかるかもしれない。

 相変わらず暗い町並みだ。トンネルを抜ける前の明るい住宅街が嘘のように、この辺りには灯りが漏れる窓は一つも見えない。たまに現れる街灯と、ぼんやり光る空だけを頼りに歩く。すると、遠くに店のライトのような光が見えてきた。たばこ屋を思い出して自然と早足になる。

 着いてみると、酒屋だった。閉まったシャッターの上で、弱々しい光が看板を照らしている。古びた店構えに似合わず、看板だけが妙に新しい。誰もいなかったがっかり感と、変な物がいなかった安心感が入り混じる。

「てめえ、寝てんじゃねえぞ、この野郎」

 突然響く、乱暴にシャッターを叩く音と、それよりも乱暴な男の声。

「開けやがれ、くそったれが」

 どこかで聞いたことがある声だ。酔っ払っているのか、呂律が回っていない。

「てめえが配達渋りやがったから、俺がわざわざ、出てきてやってんだ、聞こえてんのか、くそ酒屋が」

 見回しても、誰もいない。逃げるか、隠れるかするべきだと思うけれど、この声が耳から離れない。この声は知っている。

 たばこ屋の、声だ。

 また激しくシャッターを叩く音。蹴っている音かもしれない。

「仕方ねえなあ。仕方ねえ。素直に開けりゃあいいものを」

 音が止む。

「てめえらが、悪いんだぜ、てめえら、全員が」

 乱暴な気持ちをぎゅうぎゅうに押し固めたような声。体が緊張して動かない。

「風通しが良くねえとなあ、店も、世の中も」

 続けて、ぶつぶつと聞き取れない声がしたかと思うと、トラックが店に突っ込んだような、激しく何かがぶつかる音、砕ける音、それから一瞬の呻き声の後、辺りは急に静かになった。


 恐る恐る、店の周りを調べてみる。何かが壊れた跡もなく、人影もない。何事も無かったように、夜は静けさを取り戻している。さっきの声と音は、一体何だったんだろう。確かにたばこ屋の奥から聞こえてきた声と同じだった。けれど、たばこ屋にも、ここにも、声の主は見えない。

 あちこち調べても何も見つからなかった。ずっと緊張していたせいか、さっきからひどく喉が渇く。酒屋の自動販売機で飲み物を買おうと財布を取り出すと、小銭が指先からこぼれて、初めて手が震えていることに気がついた。

 さっきから、まるで夢でも見ているみたいだ。でも、夢じゃないことは分かる。夢の中では、それが現実じゃないことなんて分からないけど、現実では、これが夢じゃないと分かる。その違いは、不思議だ。とにかく、これは実際に僕に起こっていることだ。信じられないような物を見た。恐ろしい目にあった。それは現実に、この僕に起こっていることなんだ。

 小銭を拾うために、自動販売機の下を覗き込んだ。暗くてよく見えない。後ろに回り込んで、裏側の隙間を覗いてみる。小銭は見つからない。けれど、思いがけない物が見えた。自動販売機の隙間から、酒屋のシャッターが見える。そのシャッターが、誰かに殴られたようにへこんでいる。そうじゃない。もっと驚くべき物は、シャッターの前にあった。

 飛び散った破片。大きな四角い塊、その下に、倒れた人。見たこともないような、たくさんの血。顔は、この隙間からじゃ見えない。さっきまで、シャッターの前にそんな物はなかった。慌てて入り口に戻ってみても、やっぱり何もない。また自動販売機の裏側を覗くと、倒れた人が見える。変だ。この隙間から覗いた時だけ、それが見える。

 もう一度入り口に戻ろうとした時、道の向こうから近づく物があった。車だ。


 水色のタクシー。こっちに近づいてくる。

「あの水色のタクシーには乗らないこと」

 キリコさんの言葉がよみがえる。タクシーに乗れば、家に帰れる。お金は、お母さんに払ってもらえばいい。けれど、だめだ。あのタクシーには乗れない。

 もう、限界だ。どんなことをしてでも、家に帰りたい。僕はポケットから半分飛び出た象の鼻を取り出して、ぎゅっと握り締めた。あの大きな影、何でも望みを叶えてやると言っていた。家に帰りたい。そう頼むしかない。


 おぼろげな記憶を頼りにしばらく走ると、ようやく風景の一画に巨大な黒い影が見えてきた。迷いながらもちゃんと戻って来ることができたのは、運が良かったと言うしかない。

 黒い影は、僕を見つけるや否や、言葉にならない吠え声を上げた。怒っているのか、喜んでいるのか、きっと怒っているんだろう。僕は象の鼻を高く掲げ、その影に近づいて行った。タクシーはいつのまにか消えている。影は無言のまま、僕が近づくのを待っている。どこが顔なのだろうかと迷っていると、

「門は開いている」

 と、影は落ち着きを取り戻した声で言った。

 手近な家の門を開け、大きな影に近寄る。これだけ近づいても、どこが顔なのか分からない。掃除機を百台集めたような轟音が、一定の間隔で繰り返している。きっと、呼吸の音だ。そのリズムに合わせるように、生ぬるい風が何度も吹き抜ける。影に目を凝らすと、曖昧な黒い輪郭に重なるように、獣の肌のような表面が現れたり消えたりしている。その皮膚が、時々青や緑の光を反射する。影のように見えている物は、皮膚の周りを覆う黒く濁った空気の層だ。遠くから見るとただの黒い影にしか見えなかったけど、これは確かに生き物だ。ただ、見たこともない生き物だ。

「恐ろしいか」

 僕は、ゆっくり頷く。

「なぜ戻ってきた」

 家に帰りたい、そう言うつもりだったのに、涙が溢れてきた。握った鼻に力がこもる。

「分かった、分かった、そう何度も力んでくれるな。今は、戻ってきたというだけで十分だ」

 急に声が穏やかになった。

「それを、どこでもいい、俺の体に付けてくれ」

 恐る恐る、鼻の根元を、影に触れさせる。影が細かく波打って、鼻を捕える。見る間に鼻は影の表面を滑るように登っていく。しかし、落ちた。

「もう一度だ!」

 またくっつける。登ろうとして、落ちる。何度やっても、同じだった。影が大きく揺らいだ。地面が震えて、低い唸り声が次第に大きくなる。

「あの男、ぐううう、あの男、許さんぞ、小僧、あの男を、おおお、たばこ屋を、ここに、連れて来い!」

 ものすごい怒りが、夜の大気を逆立てる。体の芯に震えが走る。影はどくどくと脈打ち続ける。

「いや、小童一人に任せておれるか、俺も出向くぞ!」

 落ちた鼻に、影が少しずつにじり寄る。やがて半分ほど飲み込まれた鼻に、黒い空気が流れ込む。心臓の鼓動のように、膨らんだり、縮んだりを繰り返しながら、鼻はみるみる大きくなる。丸太ほどに膨れた鼻がのたうつように動き、僕の前に躍り出る。

「乗れ」

 鼻が喋った。ここまで来たら、もうどうにでもなればいい。僕は鼻にまたがった。途端に、足元から強い風が起こり、僕の足は地面を離れ、鼻は空へと浮かび上がる。

 結局、願いは伝えられなかった。僕は一体、いつになったら家に帰れるんだろう。


 〇・六


 きっかけは、何だったっけ。友達が塾に行き始めたとか、テレビで偉いおばさんが言っていたとか、もしかしたらお母さんの心の中には別のきっかけがあったのかもしれないけど、少なくとも、僕の気持ちの中には、そんなきっかけは一つも無かった。


 ある日家に帰ると、ランドセルを潰したような形の見慣れない鞄があった。嫌な予感がした。そして、その予感は当たった。五年生になったばかりの僕は、同時に、行きたくもない私立の中学を目指す受験生になった。

 塾は、はっきり行って面白くなかった。それもそうだ。元々勉強なんて好きじゃない。家からも学校からも遠く離れた塾だったから、友達もいなかった。何でそんなに遠くの塾に決まったのかは知らない。他の子たちはいつのまにか仲の良いグループを作っていた。同じ学校同士だったのかもしれない。

 塾でも誰とも話さないし、学校の友達と遊ぶ時間も減って、僕は少しずつ喋らなくなっていった。家族や、仲の良い友達とは普通に話せるけど、それ以上のお喋りはすっかりだめになった。お母さんと、お父さんは、気付いていただろうか。


 六


 象の鼻に乗って空から降りてきた僕を、たばこ屋のキリコさんは、どんぐりのようなまん丸の目で見ていた。それから、笑いを噛み殺したような顔で「おかえりなさい」と言った。

「お前はたばこ屋の連れ合いだな」

 鼻の穴から、脅かすような声が出る。

「初めまして」

 キリコさんは丁寧に頭を下げた。

「挨拶はいい。たばこ屋に用がある」

「主人はおりません」

 嘘だ。さっき奥の部屋から声がしていた。それに、結婚していたんだ。親子じゃなかった。いや、今はそんなことどうだっていい。酒屋で見た物を思い出す。あれが本当なら、いないというのが、嘘とも言い切れない。

「どこに行った」

 また怒りが戻ってきたのか、鼻がポンプのように動き始める。

「どこに行ったかは、私も知りません」

「なんだと?」

 一瞬の間を置いて、キリコさんは、言った。

「主人は、死にました」

 酒屋の光景がよみがえる。破片。たくさんの血。倒れた人の影。

 鼻は風船のように膨れ、ぶるぶると震え出し、今にも破裂しそうだ。

「まさか、そのようなことが……。娘よ、俺を、欺くつもりか!」

 大声と一緒に鼻息が突風のように吹き荒れる。やっぱり、酒屋で倒れていたのは、たばこ屋の人だったのかもしれない。鼻息が止むと、その人は目にかかった髪を細い指で払った。

「どんな事情かは知りませんが、主人に御用でしたら、お応えできず、すみません」

 そう言うと、また頭を下げた。

「本当に、死んだのか」

 キリコさんは無言の表情で答えた。鼻は残った息を漏らしながらぶつぶつと呟いたきり、すっかり萎れてしまった。


 しばらく誰一人喋らなかった。キリコさんの話が本当なら、その人は死んでしまって、もうどこにもいないことになる。けれど、僕は聞いた。この店の奥の部屋から、キリコさんを呼ぶ声を。僕は見た。酒屋のシャッターの前で、暴れた挙句に血だらけで倒れた姿を。死んだ人が喋ったり、暴れたりするだろうか。普通はしない。でも、象の鼻が空を飛ぶのなら、死んだ人が騒ぐことだってあるかもしれない。それに、初めにこの店に来た時、キリコさんは、妙なことを言っていた。確か、ただの声がどうとか……。

「おい、キリコ。酒がねえぞ」

 静かな時間を、錆びたノコギリで切り裂くような、その声。鼻がびくんと先っぽを持ち上げる。呼ばれた本人は、気にする様子もなく、涼しい顔で遠くを見ている。

「おい、今の声は何だ」

 鼻が急に元気を取り戻す。

「貴様、謀ったな!」

 鼻はほとんど直立して、今にも飛びかかる寸前のようだ。僕はどうしたらいいか分からず、二人をきょろきょろと見比べることしかできない。

「主人と私の力はご存知ですか」

 キリコさんは静かに言った。力、と聞こえた気がする。一体何の話だろう。

「貴様の力なんぞ知らん。だが、あやつは……。知りたくもなかったが、この姿を見るがいい。俺はただ、昼寝をしとっただけだったのだ」

 キリコさんの顔が急に曇った。

「そうでしたか。主人が、大変なご迷惑をお掛けして、本当に」

 話についていけず、二人の顔を変わりばんこに見ていた僕に、キリコさんは言った。

「君は、知らないわね。私は……、そうね、君の知ってる言葉で言うと、魔法使いみたいなものなの」

 魔法使い。初めて会った時から、普通じゃない感じはしていた。その後、何と呼ぶべきかも分からない怪しげな物が次々に現れて、ようやく知っている言葉が出てきたと思ったら、やっぱりそれも、僕を現実には連れ戻してくれなかった。

「私の旦那さんはね、ちょうどひと月くらい前に死んだの。さっき聞こえたのは、まだ元気だった頃の声」

「お前もたばこ屋と同じ術が使えるのか。それならば……」

「ごめんなさい。主人とは違うんです。私は、時間を触れるの。離れた時間を繋げられる、それだけなんです」

 鼻は黙って立ちすくんでいる。心なしか、鼻先がうなだれているように見える。キリコさんはまた僕を見て言った。

「さっき聞こえたのが、私の魔法なの。時間を繋げると、窓を覗くみたいに、その時間が見えるの。それで、少しだけ、音とか、匂いとかが、届くのよ」

 それじゃあ、さっきの声は、もう過去の物なんだ。その声の持ち主は、もうこの世界にはいない。

「娘よ、見ての通り、情けないことだが、俺はたばこ屋に鼻をもがれたのだ。鼻が戻らんことには、動く力も出ん。せいぜいこうして鼻を飛ばすくらいのものだ」

「本当に、申し訳ないことをしました」

 また深々と頭を下げる。

「おい、キリコ。酒がねえぞ」

 突然、何かを思いついたように、鼻が反り返って、その穴を広げる。

「声の元には奴もおるのか」

「ずっと同じ姿を繰り返すだけですが」

「奴に頼めんのか、俺の鼻を戻すだけでいい」

「残念ですが、それはできません。時間の向こうの姿は、過去の姿を映しているだけに過ぎません。こちらから見えていても、向こうからは見えていないのと同じように、向こうの音はこちらに届いても、反対は届かないんです。思い切り強く念じたら、何か気付くような素振りは見せるんですが……、でも、気のせいかもしれない。声が届けば、会話もできるのに」

 鼻の穴がみるみる小さくなったかと思うと、また何かに気付いたように膨らみ直した。

「強い念が届くなら、反対に奴の力も取り出せるのか」

 キリコさんは、ゆっくりと手元に視線を落とした。よく見ると、指先にはまだ小さな昆布が握られている。

「彼の力……」

 僕は見逃さなかった。ずっと微笑んだまま表情を変えなかった顔が、ほんのちょっとだけ、変わった。

「彼の力を引き出すためには、まず私の力が過去に入り込まないといけない。もし、力を媒介させることで、過去に干渉できるとしたら……」

 見つめた指の先に、一瞬、青白い血管のような光が映る。

「やってみます」

 そう言って、そのままぱくりと昆布を食べた。よく分からないけれど、魔法の力なら、時間を超えて過去に届くってことだろうか。鼻が勢いよく空気を漏らす。

「よし、そうと決まれば、声の出所はどこだ」

「待って。そこに映ってる主人は、力を使ってないんです。ただテレビを見てるだけだから」

 小さく聞こえていたテレビの音も、過去から聞こえていたんだ。

「ええい、御託はいいからとにかくやってみせろ!」

 鼻が詰め寄る。今にも巻き付いてしまいそうだ。

「無理なら、別の時間と繋いでみろ!」

「そんなに都合よくいきません。彼がどこで力を使っていたか……。それに、窓を開くのは、それだけで力を消耗するんです。その後にまた、彼の力を真似して使うなんて、できるかしら」

 鼻が蛇のように首を持ち上げる。その周りで、風が渦を巻き始める。この鼻も、何かの力でキリコさんを傷付けたりするんだろうか。あの大きな影にふさわしい、嵐のように、強くて乱暴な力で。


 僕はハッとした。乱暴な力。もしかしたら、できるかもしれない。けれどそれは、何かを傷付けるのかもしれない。暴力ではなく、悲しみによって。……分からない。考えても、何が正しいのか分からない。それなら、僕は、自分のやるべきことをやるしかない。手を伸ばし、キリコさんの袖を掴む。そのまま、鼻の所に引っ張って来て、鼻を押しつけて、またがる。

「おい、なんのつもりだ」

 鼻はそう言いながらも、僕らを乗せるため身を低くする。

「重量オーバーにならないかしら」

「ふん、侮るなよ。今は不承不承このなりだが、これでも女子供の一人や二人、空に飛ばすなど造作もない」

 さっきからのすごい鼻息、あれも魔法なんだろうか。

「何か、考えがあるのね」

 僕は答えなかった。できるかもしれない。けれど、それが本当に良いことなのか、僕はまだ判断できずにいる。

 浮かび上がった鼻の上で、キリコさんは、僕の肩に手を置いていた。ただ反射的にそう動いただけなのか、僕が落ちないように支えているのか、分からないけれど、その手の感触は、このまま進むことが正解なのだと、そう伝えているように僕には思えた。


 足下に、光をこぼしたような住宅街が広がっている。このまま家まで飛んで帰れたら、どんなにいいだろう。この用事が済んだら、ちゃんと、そうお願いしよう。

 長く伸びた線路を挟んで、真っ黒な街並みが見えてきた。線路からそう遠くない場所に、寝ぼけた蛍のような、弱い光がいくつか見えている。その中に、目指す場所があった。僕の指差す方向へ、鼻が少しずつ高度を下げる。はっきり見えてきた。あそこだ。暗闇に隠れた街の中に、ぽつんと妙に新しい看板が見える。鼻が急降下する。振り落とされないように、ぎゅっとしがみつく。


 酒屋の前に降りると、キリコさんは僕の顔を見て「どうして」と呟いた。本当に、これで良かったんだろうか。家族の最後の姿を見ることが、正しいことなんだろうか。いや、それを決めるのは、僕じゃない。


 自動販売機の隙間から漏れた光が、横顔に当たっている。その顔は、すぐそこにあるのに、何だかすごく遠くにあるように見えた。キリコさんは、ずっと、まっすぐに、見ていた。顔つきひとつ変えずに。微笑みも、今は消えていた。

「あなた、こんな所にいたのね」

 聞き取れないくらいの声。そして、そのまま、横顔のままで、言った。

「この人は、物を切り離したり、くっつけたり、そういうことができたの。私は時間を切り貼りする。この人は物を切り貼りする。そういう二人だったの」

 僕は、どうしたらいいか分からず、ただ立っていた。

「失敗したと思ってたけど、こんな所に開いてたのね。場所も、時間も、ずいぶんずれちゃった」

 キリコさんは、隙間に手をかざし、目を閉じて、小さな声で何かを呟いた。一瞬、隙間から光が漏れる。

「てめえ、寝てんじゃねえぞ、この野郎」

 唐突に響く、乱暴な声。象の鼻がぴくりと動く。

「開けやがれ、くそったれが」

 シャッターを叩く音がする。

 だめだ。これ以上、見てはいけない。今、その顔を見てはいけない、そう思ったけれど、僕は、その横顔から、どうしても、目を逸らすことができなかった。


「教えてくれて、ありがとう」

 キリコさんは、まずそう言った。

「主人は、ここで死んだの。酔っ払って、こんな遅くにお店なんて開いてないのに、お酒が無くなったからって、買いに来て」

 一呼吸置いて、続ける。

「閉まってるシャッターを切り取ろうとしたのね。馬鹿な人。それで、酔ってたせいで、お店の看板を切り離して……」

 さっきまで微笑みを貼り付けていたような顔が、急に歪む。

「あんなに憎かったのに、こうして見ると、だめね」

 涙が手首を伝って、落ちる。象の鼻が、ため息のような音を漏らす。

「力を使って看板が落ちたのだろう。それならば、力を吸い取ってやれば、過去が変わって、奴も死ななくなるのではないか?」

 そうだ。やってみる価値はあるかもしれない。けれど、キリコさんは、微笑みながら首を振った。

「そうね。もし過去が変われば、今も変わるかもしれない。ほんとはね、さっき、ちょっとだけ、そう思ったの。でも、変わった後の今が、今の今よりもいい今だって、どうしたら信じられるのかな」

 そう言って、鼻に手招きをする。再び手をかざして、目をつぶる。

「それに、もういいの」

 光の帯が、隙間から横顔を照らす。

「さよなら、あなた」

 言葉にならない声で、その人は最後に、そう言った。

  

 〇・七


 小さい頃は、人と話すのも苦手じゃなかった。むしろお喋りだったと言ってもいい。知らない人にも、平気で冗談を言ったり、おどけて見せたりしていた気がする。

 塾に行き始めて口数が減ってから、自分を表に出すことも恥ずかしくなった。家族や、仲の良い友達の前だとマシだけど、知らない人とは話せない。目を見るのにも努力がいる。親戚のおじさんとかおばさんの前でも、いつも、妹がふざけているのを横目で見るだけだった。


 妹のことは、それなりに好きだと言ってもいいと思う。喧嘩もするけれど、仲良く遊んでいる時間の方が長い。でも、おままごとは、あんまり面白くないんだよね。早くゲームができるようにならないかな、といつも思ってる。

 妹は、友達みたいなもの。僕はそう思ってる。でも、お母さんは、ちょっと違うみたい。妹が産まれてから、お母さんは僕のことを、名前じゃなくて、お兄ちゃん、と呼ぶことが増えた。お母さんの中で、それから僕の中で、僕という物が何か別の物に変わってきている。そんな気がする時がある。


 七


 影に向かう鼻の様子は、さっき無理矢理くっつけた時とは明らかに違うようだった。的を狙う矢のように、一点を目指して真っ直ぐに突っ込んで、そのまま刺さった。反動で投げ出された僕たちは、黒い空気の層にバウンドして、影の上を滑り台のように降りるはめになった。

 これがたばこ屋の人の魔法なんだ。ぐにぐにと粘土を混ぜるようにくっつくのかと思ったら、磁石のようにパチッと付いて、それで終わり。きっと切り離す時も、スパッと落ちるんだろう。昼寝をしている時に鼻を取られたと言っていたけれど、もしかしたら取られたことにも気付かないぐらいだったかもしれない。


 影がぶるぶると震えて、黒い輪郭が波紋のように動いた。足の裏から細かい振動が伝わってくる。海の底を透かしたような青い光が、影の内側で揺らめきながら強くなる。今までの反応とは少し違う。これは、喜んでいるんだ。

「体が、よう痺れとるわ!」

 巨大な影が、鼻から釣り上げられたように、ゆっくりと半身を持ち上げる。やっぱり、大きい。小さいビルぐらいはありそうだ。

「ははは、愉快、愉快、この感覚、産まれ直した気分よ」

 立ち上がっても、それが一体どんな生き物か掴めない。周りを覆っている黒い影のせいもあるけど、それよりも、顔とか、手足とか、そういう生き物の形の頼りになる物が、見分けられないんだ。鼻が付いている所は顔だろうか。それすら確実とは言い切れない。

「小僧、どこに行った、おお、そこにおったか。踏むところだったわ」

 雷のような笑い声が響く。危ない冗談だ。

「娘も、礼を言うぞ」

「こちらの不手際ですから」

「もう良い、死んだ奴に恨み言を言っても詮無しだ。さあ、小僧、約束だったな。何が欲しいか言ってみろ。娘も聞いてやる」

「私は結構です。きみは?」


 僕の願いは、一つだけだ。家族の顔が頭に浮かんで、それだけでいっぱいになって、涙が溢れる。キリコさんが、僕の肩に手を置く。

「家に、帰してあげたいんです」

 何も見れなくなって、ただ、汚れた靴を見ていた。横に、キリコさんの靴が並んでいる。お母さんが授業参観に履いてくるような、きれいな靴。また涙が出てくる。

「そうか、お前は、外の者か。道理で……、そうか」

「できますか」

 何を話しているのか、頭に入って来ない。きっと何か、大事なことを話しているはずなのに。

「外に出すことは、俺にもできん」

 今、何と言っただろう。

「外の者は、一度入ったら、二度と出られんのだ。娘よ、お前も知っている通りだ」

 ぼんやりとした頭に、出られない、という言葉だけが反響する。その言葉は、僕の頭の骨に穴を開けて、そのまま首から胸を通って、おへその裏に落ちる。お腹が沈むように痛む。誰かが、地面から手を伸ばして、僕のお腹を引っ張っているみたいだ。僕は、もう、家に帰れない。

「どうにかなりませんか」

 キリコさんの声が遠くに聞こえる。

「ここから外に出られた試しはない。娘よ、お前の力で過去に戻せんのか」

「人ひとりを過去に戻すなんて……。それに、できたとしても、戻った先でこの子は二人になってしまいます」

 僕は、もう帰れない。お母さんにも、お父さんにも、妹にも、会えない。


 気付いたら、走り出していた。どこに向かっているのか、自分でも分からない。いや、どこに向かっていたとしても、僕はもう、どこにも行けないんだ。


 〇・八


 お兄ちゃんになりなさい。お母さんはいつもそう言う。でも妹が生まれた時から、僕はずっとお兄ちゃんだ。お母さんは、僕がお兄ちゃんじゃないと思ってるんだろうか。

 じゃあ僕はなんなんだろう。お母さんも僕が何なのか分からないのかもしれない。分からないから、塾なんて所に追いやって、僕のことを考えないようにしているのかもしれない。もし僕がこのままいなくなったら、お母さんは心配するだろうか。心配するだろうけど、妹がいなくなった方が、もっと心配する気がする。

 お母さんは、僕のために、本気になるだろうか。僕の帰りが少し遅れたら、真っ青になって探すだろうか。そして僕を抱きしめて、いや、別に抱きしめなくてもいいんだけど、もう塾なんて行かなくていいから、早く家に帰って来なさいって、そう言うだろうか。


 そうだ。

 この駅から、歩いて帰るっていうのはどうだろう。線路沿いに歩いていけば、僕の家の近くの駅に着くはずだし、ちょうどお母さんが心配するくらい、ほどほどに遅くなるはずだ。僕を見つけたお母さんに、もう塾なんて行きたくない、そう言おうか。だめだ。それはお母さんから言わせなきゃ意味がない。お母さんは半分の罪を後悔して、それで、塾なんかより、ずっと大切なことが何なのか、思い出すはずだ。それが何なのか、うまく言葉にはできないけれど。


 八


 帰れないなんて、そんなはずはない。ここは、塾から僕の家までの間にある、どこかの街だ。また電車に乗って、二つか三つか、駅を過ぎれば、僕の家がある街に出る。

 見覚えのあるトンネルを走り抜ける。蓋の開いたマンホールが、視界の隅に映る。中を覗いたら何が見えるだろう。でも、今はそんなことどうでもいい。トンネルを抜ける。走り続けて、息が止まりそう。たばこ屋の灯り。ここを過ぎれば、駅までもうすぐだ。ほら、見えてきた。フェンスの向こうに、駅のホームが現れる。このまま、走れる。改札を抜けたら、ベンチに座って、電車を待つだけだ。

 それなのに、駅に着かない。すぐそこに、入口が見えているのに、走っても、走っても、それが近付いてこない。足は動いている。道も、フェンスも、僕の後ろに流れていく。でも、駅の入口が、ずっと遠くにある。足はクラスでも速い方だ。このくらいの距離なら、十秒も掛からない。なのに、どうして辿り着かないんだ。


 疲れ果てて、立ち止まる。そのまま、うずくまる。家に帰れない。僕は、このおかしな街から、出ることができない。長く伸びたホームの端が、金網の向こう、手の届きそうな所にある。あの駅のホームに、つい一時間くらい前、僕が立っていたはずだ。フェンスに跳び付き、登ってみる。足が疲れてがたがたで、登りにくい。ようやく登りきって、向こう側に飛び降りた、はずなのに、気付けばまた道に立っている。もう一度登る。飛び降りる。硬いアスファルトに着地する。フェンスを越えることもできない。どうしたって、僕は駅に近付けないんだ。

 あのホームで、僕が次の電車に乗っていたら。馬鹿なことを考えずに、素直に家に帰っていたら。僕が、あの時電車を降りなかったら。居眠りしなかったら。塾になんて、行かなかったら。お母さんが、僕を、塾に入れなかったら……。お母さん……。


 そよ風が僕の首を撫でる。それは次第に強くなり、やがて嵐のように僕を巻き込む。この風は、魔法の風だ。見上げると、空から降りてくる巨大な影と、風にあおられる青緑色の服が見えた。


 〇・九


 これは、すごい思いつきかもしれない。こんな夜遅くに、知らない駅から、知らない道を辿って、家まで帰る。お母さんは心配するし、塾には行かなくても良くなるし、それに、すごい冒険の予感がする。

 ……ほんとかな。すごい気もするけれど、もしかしたら、ひどい思いつきかもしれない。ただ子供が考えただけの、馬鹿で幼稚な行動かもしれない。こんな夜に、一人で知らない場所を歩いたことなんてない。もしかしたら、怖くなるかもしれない。でも、大丈夫。そうなったら、次の駅から電車に乗ったらいい。

 いや、そんな弱気じゃだめだ。例えひどい思いつきでも、すごい思いつきでも、僕にとっては、冒険だ。それに、お母さんが心配すれば、僕の目的は達成される。冒険も成功。とにかく、僕がやらなきゃいけないことは、これで決まった。


 遠くから近づいてくる、電車のライトが見える。次の電車にはまだ早いから、きっと通過していくやつだ。あの電車が通り過ぎたら、行こう。ちょっとお腹が痛くなってきたけれど、それだって、何だか少し、気持ちいい。


 九


 影は僕の目の前に、ゆっくりと着地した。鼻がお辞儀をするように曲がり、キリコさんが降りてくる。そのまま僕に歩み寄り、帽子を手渡した。

 擦り切れた野球帽。走ってくる途中、どこかで落としたらしい。よく分からないマークが付いた、僕の帽子。なぜだか、この帽子が、すごく気になる。帽子、駅のホーム、携帯電話。何かを思い出しそうだ。失くした帽子、公園、草の匂い……。

「この駅から降りて来たのね」

 キリコさんが駅を見て言う。

 そう。あの駅のホームに、さっき僕がいたんだ。僕がいて、それで、ホームから人が消えて行って、通過する電車が遠くに見えて……。

 僕はフェンスに近寄り、両手で金網を掴んだ。ホームに僕がいた。そうだ、さっき、僕がいたんだ。

「見せてやったらどうだ。何の救いにもならんが……」

 キリコさんの魔法。離れた時間を繋げる。さっきの僕も、映し出せるはずだ。それで、音とか、匂いとかが、流れてきて、魔法の力だけが、さっきの僕に届く。

「見たい?」

 僕はすぐに頷いた。

「ふふ。よろしい、じゃあ、おばさんの魔法を、改めてご覧に入れましょう」

 そう言って、キリコさんはおどけるように笑った。そう言えば、魔法を使うのは疲れるって言ってたはずだ。ついさっき、使ったばかりなのに。

「その代わり、おばさんと約束して。若いうちは、なんでも遠慮しちゃだめよ。それから、もしきみが、嫌じゃなかったら……」

 キリコさんが、ホームに向かって両手をかざす。

「ううん、またあとで、落ち着いたら話しましょう」

 指先から手首に向かって、青い光が血管のように浮かび上がる。それは少しずつ広がり、腕から体へ、首から顔へと伝わっていく。暗い所で光る人形みたいに、全身が、ぼんやりと発光し始める。玉のような汗が、おでこの上で宝石のようにきらめく。そして、聞き取れないくらい小さな声で、魔法の言葉を唱えた。


 ぱっと見ただけでは、何が変わったのか分からなかった。それは風景の中に完全に溶け込んでいた。と言うより、それは風景そのものなんだ。誰もいなかったホームに、いくつかの人影が見える。少し角度をずらして見ると、相変わらずホームには誰もいない。自動販売機の隙間から見た時と同じだ。ある角度から見た時だけ、違う景色が見える。そしてそれは、もう過ぎ去った、過去の景色なんだ。

 しばらくじっと見ていると、過去のホームに、電車が入ってきた。僕が乗っていた電車だろうか。次々と降りてくる人たちの流れが止んで、扉が閉まろうとした時、擦り抜けるように飛び出してきた小さな人影があった。

 僕だ。過去の僕はきょろきょろと辺りを見回し、しばらくぽかんと立っていた。

「間違って降りたようだな。憐れな子よ」

 僕はその姿を食い入るように見ていた。キリコさんはきっと、帰れなくなった僕の気を少しでも紛らわすために、この窓を開いたんだろう。けれど僕は、全く違うことを考えていた。そして、ホームにいる僕が遠くを見つめるように首を動かすのに合わせて、

「おい、何をする」

 鼻に跳び付いた。そのまま、鼻の穴を、思いきりくすぐる。

「何のつもりだ、やめろ」

 渾身の力で鼻に抱きついて、ねじるように力んでは、離す。またしがみついて、離す。すぐに鼻の穴をくすぐり直す。キリコさんは、目を丸くして僕を見ている。

 その時、鼻が大きく息を吸い込んだ。まるで、嵐の前のそよ風のように、そう、まるで、大きなくしゃみの前触れのように。

「もし過去が変われば、今も変わるかもしれない。ほんとはね、さっき、ちょっとだけ、そう思ったの」

 僕はキリコさんを見る。

「でも、変わった後の今が、今の今よりもいい今だって、どうしたら信じられるのかな」

 そして、僕はキリコさんに、手を振った。


 その人は、何かを見つけたように、僕の目を見つめ返して、それからまた、猫みたいに、笑った。


 一


 電車が通り過ぎるのに合わせて、ホームに強い風が吹いた。とっさに帽子を押さえようと振り上げた腕に、首から下げた緊急用の携帯電話のストラップが絡み付いた、その瞬間、再び、嵐のような突風が吹いた。ストラップが首に巻き付いて、思わず外そうとした時、帽子が風に巻き上げられ、飛ばされた。

 帽子は向かいのホームに落ちていた。変なマークが付いた、うす汚れた帽子。学校に行く時も、塾に行く時も、いつも被っている、僕の帽子。お母さんにもらった帽子。


 低学年だった頃のある日、学校帰りに公園で遊んでいたら、帰る時に、帽子が無くなっていた。誕生日にお母さんから買ってもらった、恐竜の絵が付いた帽子だった。僕は何かすごく悪いことをした気がして、友達が帰った後も、一人でずっと探し続けた。

 暗くなっても、家に帰れなかった。帽子を見つけるまで、帰ったらいけない気がした。暗い公園の街灯の下で、何度も探した草むらを、何度も何度も、繰り返し、探した。光も届かずほとんど見えない草の陰を、手探りで、ずっと、探し続けた。

 お母さんが僕を見つけた時のことは、あんまりよく覚えていない。ただ、あの時の草の匂いと、お母さんが僕を抱きしめた時の感触と、それから、お父さんからすごく怒られたことだけは覚えている。帽子は、見つからなかった。

 翌日、お母さんが、新しい帽子を買ってくれた。恐竜は付いていなかったけれど、その日から、僕はずっとこの帽子を被っている。


 汚れを払って、帽子をきつく被り直す。首に掛かった携帯電話を掴む。

 誰が悪いかと言ったら、半分はお母さんが悪い。そこは譲らない。でも、誰かを心配させて、うす暗い所でたった一人で頑張るのが、僕の冒険じゃない気がする。冒険なんて、実際よく分からないけど、それはいつだって僕の近くにあって、ほんの少しの勇気を出して、何かを変えることができたら、それが僕の冒険なのかもしれない。

 次の電車で帰ろう。そしてお母さんに、もう塾には行きたくないって言おう。みんなと同じ中学に行きたいって、そう言おう。でも、まずは、いつもより少しだけ遅くなるって、伝えなくちゃ。


 短縮番号を押す。

 聞き慣れた声が答える。僕もそれに、答える。

「もしもし、お母さん?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過ぎたものから、吹いてくるもの 細井真蔓 @hosoi_muzzle

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る