第3話・ダーク

暗い……地の果てまで続く闇色の霧の中に一人の少女が佇んでいた。

(またこの夢だ)

毎晩のようにこの夢を見る。しかし覚えていられるのは夢の中だけだ。どうせ目が覚めたら忘れている。

(どうしていつも忘れてしまう?)

自分への怒りを覚えつつも、少女は足を踏み出した。足に地面の感触はない。歩いているつもりでも、実際に進んでいるのかはわからない。だがそうし続けなればならないのだ。もうすぐアレが近づいてくるから……。

瞬間、幼子の泣き叫ぶ声が辺りから聞こえてきた。夢の空間を反響し四方八方から声が襲いかかる。少女は両手で耳を塞いだ。しかし、音は手を貫通し鼓膜を震わせる。

(私は……この声を知っている)

思い出そうとするも、声に邪魔され意識を集中できない。ただできることはここから逃げ出すことだけだった。空を蹴ることになっても、可能な限り遠くへ。この声より速く!!



目を覚ましたダークは、飛び起きた勢いでベッドから転がり落ちそうになった。我に返った瞬間、自分の情けない様に自嘲気味に笑った。全身ひどい寝汗だ。しかし、私はなんの夢を見たのだろうか。

(夢……?)

そもそも夢なんて見ていない。夢を見たという感触すらもない。熟睡していたとしか思えない。だがこの汗はなんだ。

ダークはこの矛盾に心当たりが無いか、知識を巡らせた。そうだ、たしか聞いたことがある。精霊の力を得ると、精霊の力で生活に変化が現れることもあるとか。この酷い寝汗もきっとそのせいなのだろう。

色々考えていたダークだったが、濡れた寝間着が冷えてきたため身震いをしてしまった。しかし着替えたところで湿った肌がまだ気持ち悪いだろう。

窓から外を眺めてみる。夜明けは遠く、まだ真っ暗だ。こんな時間に出歩くのは良くないだろう。そう、普通に出歩くことに関しては。

着替えと布を手にとったダークは、ふぅと静かに息をつく。するとダークの素足と床の隙間から闇が漏れ出した。そしてその闇はどんどん広がり、ダークの体を包み込む。ダークの闇は、夜の闇に溶けていき、輪郭を失っていく。そしてまるで元から誰もいなかったかのように、ダークは姿を消した。



ダークがエレメンツになってから10年以上経っている。エレメンツに選ばれたとき、彼女はわずか4歳だった。前任者が突然病に倒れ、余命幾ばくもなかったために後継者を早急に選ばねばならなかった。そして精霊が選んだのはダークだった。

精霊の力を宿す以上、人間の体への負担は大きい。若いうちはそうでなくとも、年老いたあとに無理が降り掛かってくることなど、よく聞く話である。前任者は60代だったと聞くが、ダークは幼かったために会ったこともほとんど覚えていない。自分に付いていた教師が教えてくれた程度のことしか知らない。

ダークが精霊の力を継承したあと、彼女は力を制御の訓練を毎日のように行っていた。しかし、それは全く苦ではなかった。自分で闇元素を操れる、そんな唯一無二の能力に彼女は夢中になっていたのだ。だから毎日が楽しくてたまらなかった。

そしてそれは今も続いている。こうやって闇に紛れれば、夜中にだって居住施設を抜け出すことができる。こんな時間に出歩こうとしているのを警備兵に見られたりすれば、もちろん止められるに決まっている。もちろんダークの身分は警備兵よりも上ではあるため、無理を通せば抜け出すことも可能だろう。しかし彼らの手を煩わせるのはダークの主義には合わない。だから必要なときはこのように精霊の力を使うのだ。

誰もいない街の中を駆けていくのはなんとも爽快だった。闇の中ならほとんど疲れることもなく移動できるので、ダークはこの時間が大好きだった。

しばらく走った後にたどり着いたのは、街のはずれにある湧き水の出る給水設備のところだった。ここでなら誰にも見つかることはないだろう。闇の中から姿を現したダークは、持ってきた布を濡らそうと給水器の蛇口をひねる。冷たい水が流れ出し、布がそれを吸い込んでいく。ダークは十分に濡らした布を絞ると、服の中に手を入れ体を拭き始めた。汗でベタついていた肌が落ち着いていく。何度かすすいでは体を拭き、気持ち悪いのが落ち着いたところで、彼女はまた闇の中に溶けていった。

着替えをしようというのだ。誰もいないだろうとはわかっているものの、外で服を脱ぐなんてことは流石にできないものだ。……とは言いつつ、こんなところで体を拭く姿もなかなかみっともない気がすると、ダークは苦笑する。



着替えを済ませたダークは、来たときと同じように闇に紛れ居住区に戻る。居住施設の入り口の近くまでたどり着いたとき、ふと視界の端に気になるものが映った。屋根の上に人影が見えたのだ。不審に思った彼女は居住施設には入らずに、足場になりそうなところを探しては器用に登っていき、施設の屋根に飛び乗った。

「よう」

そこにいたのは光の守護者であるコウだった。コウはこんな夜中でも寝間着には着替えず、着るのが面倒そうなベルトの多いいつものジャケットを着て、屋根に座っていた。ということはダークのように目が覚めたために散歩をしていたということではなく、今の今まで起きていたのだろう。

「こんな夜中に抜け出すとは、お前もなかなかやるな」

コウはニヤリと笑う。ダークはこの男の皮肉めいた笑みがあまり好きではなかった。特にダークに対してはより一層皮肉を込めているように見える。

(私になにか言いたいのだろうか)

ダークは今まで何度も訊ねているのだが、いつもはぐらかされてしまう。そのくせに嘲笑うかのような笑みを向けてくるから正直腹立たしい。

「ダークのようなお嬢さんも眠れなくなることが?」

「私だって人間よ。眠れない夜があってもいいじゃない」

「人間……ねぇ」

コウはクッと喉の奥で笑った。ダークは苛立った表情を隠そうともせずにコウへ向き直った。

「あなただって人間じゃないの。人を馬鹿にするのはやめて」

そう言うと、ダークは手に持っていた布をコウの顔に投げつけた。コウは避けようとせずに布を顔面で受けると、そのまま後ろに倒れた。ダークはやりすぎたと一瞬だけ思ったが、コウが顔に乗った布を拾い上げると一瞥もせずにダークに投げ返した。

「……さっさと寝な、お嬢さん。夜ふかしは肌に良くない」

何をやっても本気で相手をしないコウにダークは苛立ちを覚えたが、向かったって勝ち目はない。深いため息を吐き、踵を返した。これ以上ここにいたって意味はない。



ダークが屋根から降り、足音が聞こえなくなるまでコウは倒れたまま空を見ていた。空には無数の星たちが煌めき、それがコウの心を癒してくれる。しかし口元には依然嘲りの笑みを浮かべていた。

「もはや俺たちは人間じゃねぇよ」

先程のダークの言葉への返答だったのだろう。しかしその声は誰にも届かない。

「俺たちは、ただの駒だ」

コウはわかっていたのだ、この都にひしめく欲望の渦をその身で感じていたのだ。

その瞬間、空に一筋の光が流れた。それはまるでコウの涙のようだった。

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