いつかの君とあの日の僕

飛鳥休暇

君とやり直す未来

「――でね、パートの折原さんがチーフの作業を横取りして」


 助手席で止まることなくしゃべり続ける由希ゆうきの話を適当な相槌で受け流す。


 彼女の職場の話なんてこれっぽっちも興味はないのだが、女性は話を聞いてもらうだけで良いんだという恋愛のハウツー本にのっとり、ただただ相槌を打ち続ける。


 由希とは二十四のときから付き合って、はや六年になる。


 まわりからは「そろそろ責任を取ってやれ」と言われるのだが、彼女のほうからも積極的に動きがないことに甘えて、ずるずると関係を続けている。


 おれもこのままでいいとは思っているわけではないが、タイミングを逃してしまったいま、改めてプロポーズするには踏ん切りがつかないでいた。


 そんなおれの気持ちを見て見ぬふりするように、楽し気に話し続ける由希を横目でちらりと見る。


 付き合った当初より十キロは太った身体。最近では夜の生活もご無沙汰になっていた。


 それでも、別れることは考えていなかった。彼女はこんなおれのことを愛してくれている。


 休みの日には甲斐甲斐しく手料理をふるまってくれ、会社の飲み会なども何一つ文句も言わず送り出してくれる。


 出来た女だと思う。ただ、そんな彼女に対して、ときめきが無くなってきていることも確かだった。


 街中で綺麗な人とすれ違う度に「あぁ、あんな女性と付き合ってみたいなぁ」なんて考えがよぎることもしばしば。


 しかし、それも想像の中だけだ。彼女に別れを告げる勇気も、新たに出会いを求めるバイタリティもおれには無いのだ。



 そんなことをぼんやりと考えていたその時だった。


 片側一車線の山道、ドライブデートの帰りであったが、対向車線からきたトラックがスピードを落としきれずにこちらの車線に膨らんできたのが見えた。


 ――危ない!


 と思った時にはもう遅かった。


 おれは避けるために左にハンドルを回したのだが、ブレーキが間に合わず、気が付けばすぐ目の前にガードレールが迫っていた。


 ――あ、終わった。


 世界がスローモーションになる。

 隣から由希の悲鳴が聞こえてきたが、その瞬間おれたちの乗った車はガードレールを突き破り、漆黒の崖下へと投げ出された。


 永遠にも思える暗闇の中、おれは走馬灯を見ていた。



 ――あぁ、どうせなら、あの頃に戻ってやりなおせたら。




 耳に強烈な衝突音が聞こえて――消えた。



 ******



「うわぁぁぁ!」


 悲鳴と共に起き上がったおれはベッドの上にいた。


 一瞬、病院かと思ったのだが周りの景色には見覚えがあった。


「――ここは」


 小学生の時から使っている勉強机、お気に入りのマンガが並んだ本棚、壁に貼られたくすんだアニメのポスター。


 それはまさしく、福井県にある実家の自分の部屋だった。


「どういうことだ?」


 戸惑っているおれの耳に「さとしー! 早く起きなさい!」という母親の声が聞こえてきた。


 わけがわからないながらもおれはベッドから立ち上がり、一階にあるリビングに降りていく。


 リビングには新聞を広げた父と、台所に立つ母の姿があった。

 ふたりは明らかに最近会ったときより若かった。


「聡! まだ着替えてないの! 早くしないと遅刻するわよ!」


「……遅刻?」


 ふと、テレビの映像が目に入る。


 流れていた「めざましテレビ」の中では、高島彩アナウンサーの笑顔があった。


「……嘘だろ?」


「なにが嘘なのよ。夏休みは明日からでしょ! ほら、はやく支度しなさい!」


 混乱した頭のまま部屋に戻ったおれは、枕元に置いていた携帯電話を手に取る。スマホではない、折りたたみ式の携帯電話だ。


 携帯を開いて画面を見た瞬間、おれの背筋が凍った。


「2007年、7月21日……?」


 まさかとは思う。思ってはみるが、ここまで見てきたいくつかの事実により、おれの考えは確信へと変わった。


「高校生の頃に、――戻ってる」


 タイムスリップなんて、映画や小説の中だけの話だと思っていた。


 しかし、夢にしてはやけにリアルなこの体験は、現実に起こったことなんだと不思議と理解出来た。


 おれはクローゼットにかけられていた学生服に着替えると、とりあえず学校に向かうことにした。



 学校までは自転車で二十分ほど。

 三年間通った道は目をつぶっていても迷うことはない。


 校門前の長い坂を駆け上がり、自転車置き場に自転車を置いてから、おれは教室へと向かった。


 二〇〇七年というとおれは十五歳、高校一年生のはずだ。


 【1-4】という文字を見つけて教室に入ると「おう、サッシー、おはよう!」という声が聞こえてきた。


「お前……、ミッキーか?」


「なんだよ人を幽霊でも見るみたいな顔して。どっか頭でも打ったか?」


 いや、幽霊なんだよ、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。


 この当時、一番仲の良かったこの三木みき純一じゅんいちは、大学に入ってすぐ交通事故で亡くなっていたからだ。


「……そうか。会いたかったぞ」


「おいおい、なんだよそれ気持ちわりぃ」


 涙目になっているおれをいぶかし気な表情で見てくるミッキーではあったが、もう二度と会うことが出来ないと思っていた友人に会えたことが、おれにはとても嬉しかった。


 感動に浸っているおれが、ふとあることを思い出し教室を見渡す。――いた。


 おれの目線の先には数人の女子に囲まれて楽し気に話す相沢あいざわまどかの姿があった。



 相沢まどか。


 当時、おれが寝不足になるほど好きになった女の子。二年生の時にサッカー部の先輩と付き合い、その後もてあそばれるようにフラレた女の子。


 おれはあの時、その先輩のことをぶっ殺そうとまで思っていた。


 それほどまでに焦がれた相手が、おれの目の前で笑っていた。


 今見ても、――いや、今だからこそ、とても可愛いと思ってしまう。


 当時は恋した者の贔屓目ひいきめで可愛く映っていたのだと思っていたが、改めて見るまどかの姿は、その艶やかに光る黒髪も、制服からすらりと伸びた細い腕も、シルクのような白い肌も、そのすべてが魅力的だった。


 当時のおれが好きになるのも仕方がない。いや、恐らくはクラスの半分、いやいや、学年の半分は彼女に好意を持っていたに違いない。


 そんなことを考えていたおれの脇腹をミッキーが肘で小突く。


「お前、見すぎ」


 ニヤニヤと下品な笑顔を浮かべるミッキーに「あぁ、ごめん」と言いながらおれは自分の席についた。



 ほどなく、担任の武田が教室に入ってきて、夏休みの注意事項などを話し出す。


 そんな武田の話をぼんやりと聞きながら、おれはあることを思い出しまどかを横目で見る。


 ちょうど今日。高校一年生の一学期の終業式の日だ。


 相沢まどかが他校の男子にちょっかいを出されて怖い思いをしたという話を夏休み明けの教室で他の女子に話しているのを耳にした。


 あれが事実だとしたら――。



 武田の話が終わり、今日はこれで解散だという。


 おれがカバンを持って立ち上がると、ミッキーが近づいてきて「サッシー、今日おれん家でスマブラやろうぜ」と声を掛けてきた。


 そうだ、確かこの頃はよくミッキーの家に集まってはゲームに興じていたのだ。


「あぁ、ごめん。今日はちょっと予定があって」


 そう言うと、おれは急いで教室を後にした。



 自転車置き場に自転車を取りに行き、先回りして校門付近でまどかが出てくるのを待つ。


 ほどなく、友人たちとしゃべりながら出てきたまどかの後をさりげなくついていく。



 気付かれないように後をついていくと、そのうちまどかは友人と別れ一人になった。


 まどかは一人でいるときに他校の生徒に絡まれたと言っていたはずだから、その話が正しければもうすぐそれが起こるはずだ。



 思った通り、おれの先を歩いていたまどかの周りを三人の男が取り囲んで何かを言っているのが見えた。


 男たちは下品な笑顔を浮かべたままからかうような仕草をまどかに向ける。まどかは怖がっているのか硬い表情で首を振っていた。


 ――ここだ!



「相沢さーん!」


 おれが声を出しながら近づいていくと、三人の男は怪訝けげんな表情でおれを見てきた。


 その後ろにいるまどかも若干戸惑いの表情を浮かべている。



「ごめん、お待たせ」


 男たちを無視するようにまどかに声をかける。


「こ、小島くん?」


 まどかは未だに戸惑ってはいたが、クラスメイトであるおれの顔を見て少し安堵したような顔を見せた。


「なんだよ、男連れかよ」


 まどかに絡んでいた男たちはがっかりした様子で離れていった。



「――大丈夫だった?」


 男たちが充分離れたことを確認してから、おれはまどかに声をかける。


「うん、ありがとう。怖かった」


 カバンをきつく握るまどかの手が若干震えている。


「いやー、たまたま通りかかったら相沢さんが絡まれてるのが見えて」


 嘘だ。おれは初めから知っていた。知っていて、後をつけてきたのだ。


「もしよかったら、家の近くまで送るよ」


 そう言ってまどかに笑顔を向ける。


 当時のおれなら絶対に言えないセリフだ。まどかと目を合わせるだけで赤面して目を反らしてしまったことだろう。


 だが、いまのおれの中身は三十のおっさんだ。さすがに高校生とは人生経験が違う。


 まどかは少しだけ悩む素振りを見せてから、ゆっくりと頷いた。



 そこから、二人で並ぶように歩き出す。


「そういえば、相沢さんってハリーポッターが好きなんだよね?」


「え、うん。小島くんもハリーポッター読んでるの?」


 どうして私が好きな本を知っているのかと不思議そうな顔をしたまどかが聞き返してくる。


 当然だ。君が好きだということを耳にした当時のおれは、君と趣味を合わせるためにすべてのシリーズを読破していたのだ。


 その後、ハリーポッター談義に花を咲かせる。


 まどかも「こんなにハリーの話が出来る人がいたなんて嬉しい」と楽し気な笑顔を見せている。


 そんなまどかをとても可愛いと思ってしまった。


「――そういえば、今度ハリーの新作映画やるんだよね?」


 ちょうど今日見ていためざましテレビで特集をしていたのを覚えていたおれはそれとなく話題に出す。


 この年は「不死鳥の騎士団」が上映された年だった。


「そうそう! 観に行きたいんだけど他の子は私ほど熱意が無いみたいでちょっと誘おうか迷ってて」


「じゃあさ。良かったら一緒に行かない?」


 おれの言葉に、まどかは「えっ」と言って立ち止まる。どうしようかと考えているのか目は空中を泳いでいた。


「ほら、おれの周りにもハリーポッターなんて一緒に観てくれるヤツいないからさ」


 おれはダメ押しの言葉を吐く。


 こんなに心に余裕があるのも、おれが未来からきた大人だからだろうか。


 まどかは少しだけ考えてから「……うん、いいよ」と言ってきた。


「ほんとに? やったー!」


 ここは大げさに喜びを表すことにする。ここでかっこつけるよりも、喜びを表す方が彼女の心に訴えられるはずという計算の元だ。


 そんなおれの姿を見て、案の定まどかは目を細めて笑っていた。


「それじゃあ、メアド交換しよ」


 そう言っておれが携帯を取り出すと、まどかも自分の携帯を開いた。


「QR……はこの時代無かったか。えっと、――赤外線通信だ」


 おれの呟きに、まどかがわずかに首を傾げたが、そのまま赤外線通信でまどかとメールアドレスを交換する。


「じゃあ、またメールするから」


 そう言って手を振るおれに応えるように、まどかもわずかに手を振り返した。



 ******



 その日の夜から、おれとまどかはメールのやりとりをするようになった。


 当時のおれでは想像もつかない、夢物語のような話だ。


 いや、もしかしたら本当に夢なのかもしれないが、青春時代をやり直せるこんな夢ならいつまでも覚めないで欲しいと、そんなことを思っていた。


 おれはまどかとメールのやりとりをしつつも、この時代のことを少しずつ確認していく。


 友人関係やこの時代に起きた事件、そしてまだ事柄などだ。


 うかつに未来の話をして変な空気になるのだけは避けなければならない。



 そうして迎えたデート当日。


 まだ車の無いおれたちは駅前で集合することにした。


 十五年前の福井駅前はまだ再開発も進んでおらず、記憶の中にあった懐かしい風景のままだった。


「お待たせ」


 先に到着していたおれを見つけて、まどかが声を掛けてきた。


 当時ですら見たことがなかったまどかの私服姿はとても可愛らしく、それはTシャツにミニスカートといったシンプルな服装ではあったが、おれの心を躍らせるには十分な破壊力があった。


「おれもいま来たところだよ。じゃあ行こうか」


 そう言って二人して歩き出す。


「なんか、小島くん今日雰囲気違うね」


 隣を歩くまどかがおれに目を合わせずにそう言ってきた。


 なんてことはない。高校生の時のおれはオシャレにうとく、ファッションにもまったく興味が無かったが、三十にもなった男はそれなりに服装や髪型にも気を付ける。


 今日のために服も購入し、髪型も変えた。


 周りの高校生に比べたら、いまのおれはさぞかし大人っぽく見えていることだろう。


「そうかな? 普通だよ」


 心の中では笑いながら、さも普通のことかのように言葉を返した。


 まどかは恥ずかしいのか目も合わせてくれない。



 その後、映画を観たおれたちはお茶でもしようかと喫茶店に入る。


「ここのプリンが美味しいんだよ」


 高校生には似つかわしくない雰囲気のある喫茶店だからか、まどかはきょろきょろと落ち着きなく店内を伺っている。


「小島くん、よくこんなお店知ってたね」


 もちろん、当時のおれが知っているはずもない。


 ここは大人になってから食べログで見つけたお店だ。前述のとおり、ここのプリンが絶品なのだ。


 元いた世界の彼女――由希と一緒に来た時も、由希が目を輝かせながらプリンを食べているのを思い出す。


 まどかもプリンを気に入ってくれたようで、教室では見せないような満面の笑みを浮かべながらプリンを頬張っていた。



 喫茶店を出て駅前を歩くと、ゲームセンターが目に入る。


「うわー、懐かしい」


 現代ではすでに閉店して無くなってしまっていた店舗だったため、おれは思わず口に出してしまう。


「……懐かしい?」


「あ、いや、子供の頃にゲームセンターで良く遊んだなぁって」


 ハハハと誤魔化すように笑うおれを不思議そうな顔でまどかが見てくる。


「あ、小島くん、あれ」


 まどかが何かを見つけて指をさす。

 指の先には当時大流行した「プリントシール機」があった。


 ――うっわ! 懐かし!


 今度は声に出さずに心で叫んだ。


「……良かったら、一緒に撮らない?」


 まどかが恥ずかしそうに言ってくる。


「いいよ、撮ろう」


 おれはさりげなくまどかの手を取り、プリントシール機に向かう。


 一瞬驚いた素振りを見せたまどかだったが、繋いだ手を解くことなくついてきた。


 ――これはもう、もらっただろ。


 おれは内心ほくそ笑んでいた。




「なにこれ恥ずかしい」


 と言いつつも嬉しそうにまどかが出てきたプリントシールを眺める。


 そこには仲良さそうに写るおれとまどかの姿があった。


 まどかの距離が近いのは気のせいではないだろう。


 思わず抱きしめたくなる衝動をおれはぐっと堪えた。



 その後、駅前まで着いたおれたちはしばらくそこで立ちすくむ。


 お互い、もっと一緒にいたいという気持ちが現れているようだった。


 これが仮に大人のおれだったら、このままホテルにでも誘うところであったが、そこはさすがに高校一年生。それをするにはあまりにも勇み足だということは理解出来ていた。


「あのさ、相沢さん」


 おれの声に、まどかが顔を向けてくる。


「今日すごい楽しかったよ。だから、その、……良かったらおれと付き合ってくれませんか?」


 おれはまどかの目を真っすぐ見ながら告白する。


 まどかの潤んだ目を見たら、返事は聞かずとも分かっていた。


「……うん。こちらこそ、よろしくお願いします」


 まどかが可愛らしくお辞儀をする。



 おれは心の中でガッツポーズをした。


 この後の人生はバラ色しかないだろう。


 若くて可愛いまどかを手に入れ、その当時の彼女をこれから自分の好きに出来るのだ。


 現代で趣味程度に競馬をたしなんでいたおれは、印象的なGⅠレースの勝ち馬は記憶している。


 お金で苦労することもこれからはないだろう。


 最高だ。最高な人生のやり直しだ。


 おれは心の中で何度も何度もガッツポーズをした。――その時だ。




「……聡?」


 ふと聞こえた声に振り向くと、あまり見かけない制服を着た少女がそこに立っていた。


 しかし、その少女の顔には見覚えがあった。

 ここにいるはずのない人間だ。


「――ゆう、き?」



 おれは反射的に声を出し、そしてその瞬間、自分がしてしまったに気が付いた。




 ――この時代のおれはまだ、由希の存在ははずだ。




 おれの言葉を聞いた瞬間、高校生の由希の顔がパァっと笑顔になった。


「やっぱり! 聡も過去に戻っていたのね!」


 そう叫んだ由希がおれに駆け寄り抱きついてきた。


 あまりのことに、おれは金縛りにあったように動けずにいる。



「……こ、小島くん? その人は?」


 隣にいたまどかも、目の前の光景に驚き戸惑っている。


「あ、いや――」


「私は聡の彼女です」


 おれの声を遮るように、由希がまどかに向かって言う。


 それには明らかな敵意があった。女の勘というものなのだろうか。おそらく由希は瞬時に判断したのだ。――こいつは。と。



 由希の言葉を聞いたまどかは、一瞬目を見開いてから「……最低」と言い残し走り去ってしまった。


 おれはそんな彼女の背中に手をのばす。もう届かない、彼女の背中に。



「ねえ、聡。私過去に戻ってから、夏休みの間ずっと駅前で待ってたんだよ? 聡の実家の場所をちゃんと覚えてなかったから。でもほんとに良かった。私たち幸せだよね。もう一度人生をやり直せるなんて。しかも高校生だよ? 私、聡と一緒に青春時代を送りたかったんだ。ねぇ、聡、これから二人でどんな――」


 由希がおれの耳元で楽し気にしゃべり続けるが、おれの耳には入って来ない。



 頭が真っ白になっていた。



 おれの描いていた未来は。


 バラ色に見えていたやり直しの未来は。




 ――いったいこれから、どんな色に染まっていくのだろうか。




【いつかの君とあの日の僕――完】

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