第132話 約束
森の中を荷車で連れられるユウナギは、眠る、青ざめた顔のトバリを抱いて神に祈り続けた。
戦場に出たのだ。彼に助かるつもりは
戦って死ぬつもりでここに来た。だがそれは彼の書いた筋道。彼女も彼が望むのなら、それしかないと思っていた。しかし目の前で失うだなんて想像は、あえて避けていた。互いに逃げなければ、共にいて然るべきのふたり。絶命の瞬間を目にしない可能性の方が低いというのに。
どうすればいいのか、どうしようもないのか、頭の中を巡らすが、ここはあくまで戦場だ。誰にも助けられない。その時、必死に荷車を引いていた兵が、とうとう倒れた。
ユウナギはトバリを荷車に寝かせ、自分は降り、その兵から引き手を取り上げた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……!!」
そこからは自分で引いて走るしかない。森のもっと奥へ。当然道もないが、通れるところへ、ただ進んでいかねば。敵兵に見つからないところまで。
方角も分からないのに、死ぬ気で引いていた。いつか森を抜けどこかの集落に出れば、彼の傷を癒す薬師がいるかもしれないと、それだけを考えて。しかしそろそろ体力の限界だ。
「!!」
そこで車輪が外れ転がっていった。
無言で息切らすユウナギ、もうここまでだ。
ちょうどそこは木々が生えずに多少広くなっている。月明りも差しこむその場に彼女は、彼の乗る荷台を押した。それから朦朧としている彼の上半身を抱え全力で引きずり、倒れ込むように腰を落としたら、彼の頭を自分の膝に乗せた。
無力な彼女は、もはや、ただ彼の手を握ることしかできない。
「ごめんなさい……。また……私は……。私は、何度、過ちを犯したら……」
涙が彼の頬に零れ落ちる。その時、彼はゆっくりと目を開けた。
「ユウナギ様……」
「兄様……! ごめんなさい……」
彼は血の気の引いた顔だが、笑顔だ。
「あなたに、怪我が、なければ……それ……」
「あなたのおかげよ、私は怪我のひとつも、してないわ。あなたが、守ってくれたから……」
もっと感謝を伝えたいのに、声が震えてうまく言葉にならない。
「ユウナギ様……」
彼はろくに力も残っていないのに、彼女の涙を拭おうとする。
「聞い……」
「兄様……?」
そして苦しそうに、全部の力で一呼吸した。
「もし、叶うこと、なら……いつか、生まれ変わ……て、あなたと、また、巡りあい……」
ユウナギはその瞬間、「どうして今そんなことを」と、現状を受け入れられない気持ちが声に出そうになった。
「夫婦になって……ずっと……共に、生きたい……」
「ええ!! 絶対に、何十年、何百年先でも、必ずまた巡り合って……ずっと……老いるまで寄り添い、生きましょう、共に……」
それから彼の大きな手を頬に当て、彼女は静かに涙を流し続けていた。
どれほど時はたっただろう。
その時、がさがさと木立をかき分ける音がして、ユウナギはゆっくりその方を振り向いた。それが敵兵なら、もうここで絶えても、と思っていた。
「……ナツヒ……」
「ユウナギ……」
「……どうして……?」
木々の隙間から顔を出したナツヒの目に映るのは、髪の短い虚ろな彼女と、彼女の膝で眠る兄だった。
「兄、上は……」
「……さっきまで……手首がとくとく、してた……の、だけど……。今は、もう……ないの……」
「……そうか」
藪を抜け、彼もそれを確認するため、彼女の前に膝をつく。
「……ナツヒ、どうして……ここへ……」
その問いに、彼は手に握る物を見せた。
「これの指す方に、ひたすら、まっすぐ来た」
「……方位針……」
そしてユウナギの前から立ち上がり、輪の外れた荷車を鉾で割った。鉾と割れてできた板きれを使って、彼は地面を掘り始めるのだった。
「……?」
「手伝ってくれるか?」
「…………」
彼は、彼女も自分もどこかに隠れ、寝た方がいいと分かっている。逃げるなら一刻でも、この暗いうちに仮眠をとって体力を温存しておくべきだ。
「そのままにしてたら、朝、敵兵に見つかって首を持っていかれる。俺は……それは避けたい」
彼がひとりでやっても、朝までに間に合うかは分からない。
「…………」
「動けないならいい」
ユウナギは首を振った。膝上の彼を寝かせ立ち上がり、板きれでナツヒを手伝い始めた。その間、ナツヒは何も聞かなかったが、ユウナギが自分のせいだとぽつり漏らしたことで、察しはついた。
明け方まであと4刻といった頃、ようやくそこは最低限の深さになったので、ふたりがかりで彼を眠らせる。ユウナギは懐に持っていた、金印の入った小箱を彼の手のひらに乗せ、もう片方の手でそれを覆わせた。
「それも、埋めるのか?」
「これはかつて、
土を掘り始めてからも一向に止まらない涙が、眠る彼を濡らす。
「国を大きく、豊かにし、維持してきた最後の丞相……お疲れさまでした……。どうぞ、安らかに」
ふたりは最後の祈りを捧げ。
「土を戻すが……本当に最後だ。いいのか?」
「……?」
「最後に、兄上と……」
ナツヒは伏し目がちに、示唆するように言った。
が、彼女はそそくさと土を戻しだす。
「……早くしましょう。夜が明けるまでに少しでも寝た方がいい。……生き延びるために」
とめどなく涙を流し、歯を食いしばって土を掴むユウナギに。
「ああ……」
彼はそれ以上何も声をかけられなかった。
夜が明けたと同時にふたりは北へ向かって走り出した。北へ行ってこの森を抜けたとして、どうなるかは分からない。今はただ駆け抜けるしかない。しかし同じく敵兵も、夜明けとともに動き出していた。
ふたりの余力はもうそれほど残っていない。そんな中、背後からの敵兵ふたりに見つかった。ナツヒはひとりずつ倒したが、その前に敵が
ナツヒは何度か敵兵を蹴散らした。倒した兵から鉾を奪い弓矢も奪い、ユウナギも弓を射た。しかしそろそろ走るだけの体力すら限界に近い。藪を抜けたら目前は低い崖となっており、進行方向へは行き止まりに差し掛かった時、追っ手の足音が迫る。そこでナツヒが言った。
「お前ひとりで逃げろ。ここで食い止めるから」
「もう、走れない……。私も、ここで……」
「兄上に守られた命だろ!」
それを言われたら走るしかない。ユウナギは崖を背にするナツヒに任せ、横道にずれて行った。
ナツヒは現れたふたりの追っ手を相手に、時間を稼ぐような戦い方をした。どうやっても、もう相手を不能にするほどの力はない。
もはや気力だけによる、致命傷を受けず一時でも長く立っていられるような戦い方を。ユウナギを一歩でも遠くにやるために。
ひとりはいったん突き飛ばしたが、とうとう、もうひとりの敵兵に真っ向から追い詰められてしまった。ここまでか、と彼が悟った瞬間、その襲撃は止み、敵は倒れた。
「!?」
ナツヒは目を疑った。振り返ると、後ろの低い崖の上から矢を放ったユウナギがいた。
「……ユウ……」
「……やっぱりあなたとここで死ぬ」
ユウナギはここで死にたいと思った。ナツヒの隣で。だから迂回して崖に上がった。もうどこにも行く気はない。
「兄様には謝っ……た。あの世でも、また、謝……るか……」
彼女にしても力はもう底を尽いている。眩暈でそこから滑り落ちた。
ナツヒはそれこそ気力で彼女に歩み寄った。ユウナギも身体の神経がもう、ろくに働いていない。ずり落ちて地に身体を打った痛みすら感じない。もはや動けないだろう。
だが、さきほどナツヒの反撃で伏せた敵兵が起き上がり、ふたりにゆらゆらと近付いてくる。それが鉾を振りかざすのを見上げ、ナツヒは倒れるユウナギの前に、庇うように上半身で立ちふさがり。
そして観念した。
ユウナギも、同じく観念した。
「…………だめ……」
どうしても。彼だけは。
最後に、これが本当に最後の力だ。彼を守って死ぬ、もうそれしか頭にない。前に出る力はない。
ただただ、守りたくて、庇いたくて、覆いかぶさろうと残りの命を燃やし、後ろから飛びついた。
「あなた、だけは……」
――――――――――――絶対、死なせない!!!
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