第131話 彼らの誤算

 本陣に辿り着いたユウナギは、馬術に長けた兵に黒馬を託した。共に行くのは敵兵に見つかりやすいとのことで、禁じられていた。元よりユウナギに逃げる算段はない。


 彼女は羽織っていた大袖の衣を脱ぎ捨てた。次に懐刀を取り出し、自身の髪の毛を後ろ首でわし掴みにする。そして一気に下から刃を入れ、腰まで伸びた黒髪を、一瞬の間に手放したのだった。


「これでぱっと見なら女王と分からないでしょ」

「ユウナギ様……」

 彼女はそれを紐で束ね、トバリに渡した。


「あなたが持っていてくれる?」

「……ええ」

 彼は短甲の隙間から懐に、髪の束をしまい込んだ。彼女が、女王だと見受けられないよう髪を切ったということは、逃げる意思があるのだと見込んだ。


「さあ、あなたは一刻も早くここから……」

 彼が彼女を乗せる荷台に連れていこうとすると、ユウナギはその手を振り切り再度、長弓を手にした。そして陣営横に仮設されたやぐらに走っていくのだった。


「女王!?」

 やぐらに上った彼女はそこにいる兵士全員に聞こえるよう、声を張り上げる。

「全員、今すぐ逃げなさい! 敵が攻めてきたら私が食い止めるから!」

 やぐらの下でトバリは顔を青くした。


「早く!! あなたたちがこの本陣に配されたのは、神が生き抜く機会を与えてくださったということよ! 前線にいるみんなの犠牲を無駄にしないで!!」


 兵らは戸惑い動けずにいる。彼らが女王のめいとは言え、即座に従えないのも当然だ。この戦場のすべての兵は、女王を守るためにいる。女王が落ちのびるため、少しの間でも時を稼ぐため。それが上からの指令であるし、それ以上に、神の子である女王は何としてでも守らなくてはならない。ひとりひとりの中に確かな信仰があるのだ。


 トバリはこの期に及んでユウナギがこう言い出したら、殴って気絶させてでも荷車に乗せると決めていた。そのような別れ方はしたくなかった。しかし一刻を争う事態だ。



 彼がやぐらに上ろうと梯子に手を掛けた時だった。言葉を失っていた兵士らがざわざわとし始めたので、何事かと尋ねる。

 すると、そこにナツヒの隊の者がやって来たというのだ。


「どうしたの!?」

 その様子を気にして、やぐらの上のユウナギが下に声を掛けた。


「女王! 隊長から、お届け物がございます!!」

 その一の隊の者は必死な様子で叫ぶ。


「ナツヒから……!?」

 彼女はやぐらから降り、その者に駆け寄った。


 彼は、“荷車”を女王の元に運べと、隊長から命を受けたという。東の方から敵兵の目を盗んで森を抜けてきたようだ。

 ユウナギは慌てて拵えたようなのが見て取れる、その荷車に目をやった。

「ナツヒは……?」


 兵は簡潔に説明する。ナツヒはとうにみなを率いて敵兵とやり合いだしただろう。その開戦直前に、彼をここ女王のもとに送り込んだ。


「これを女王に届けるようにと私に。隊長が、必ず女王に伝えろと。“これは俺が作ったから。絶対に乗れ”と」

 そう荷車を手前に回した。


 ナツヒは分かっていた。本陣では当然、女王を逃がすための荷車が用意されているが、彼女が率先してそれに乗るのは拒むだろうことを。そこにいる兵らを先に逃がそうとすることも。

 しかし、それでも賭けたのだ。彼が作れば。彼が作ったと知れば、彼女はそれを無下にしない。彼のその手で作ったものは、深い思いが込められているのだから。


 ただ、彼には誤算があった。


「ナツヒは!? 今どこに!?」

「最前衛ですから……おそらく……もう……」

「!」

 兵にそのようなことを言わせるまでもなく、分かっていたはずだ。しかし。


「……っ」

 ユウナギは我を忘れて駆け出した。


「ユウナギ様!!」


 ナツヒの見込みにはなかった。この緊迫した場で彼女が、彼の元に脇目も振らずとんでいくだろうことは、彼には想像できなかったのだ。


 ユウナギは自分でこのような不利な場を設定しておいて、それでもどこかで彼は死なない、死ぬわけないと信じていた。戦の地に立ち、血の臭いを感じ、彼女はついに知った。そんな奇跡は起きないのだと。


 ユウナギは本陣から南東の方角にいるだろうナツヒに、まっすぐ向かうため森へ入った。そこにいる兵らはトバリの命を受け彼女を追った。トバリも鉾を手にし、すぐに追いかけたのだが、すでに彼女を森の中で見失ってしまっている。

 彼らはそれでも彼女を探しながらどんどん前進するが、いくらかの敵兵も本陣をめがけ森の中に入ってきていた。討ち合いが始まり、女王に辿り着けない。トバリはそこで、彼女は方向転換をし、森から出たのではと見た。


 当のユウナギは、森の中では道がなく方向が分からなくなり、光を頼りに森を出た。はじめのうちは敵兵とぶつかることもなかったが、こちらの兵の防衛を突破してきたそれが前に見え始める。ユウナギは弓を構えそれを撃ちながら走り続けた。

 しかしそれがとうとう、3人以上まとまった敵兵の襲来を拝むことになる。狙いをひとりひとり定めるが、いよいよ至近距離まで間を詰められてしまった。彼女は弓を捨て腰の短剣を抜くが、相手の得物は攻撃距離の敵わない鉾だ。振りかぶるそれを避け、間合いに入り込む、と一瞬考えはしたが、やはり恐れで怯んでしまった。その時、自分の前に素早く影が入り込む。


「!!」

 自身の代わりに鉾で打ち合うその後ろ姿は。

「兄様!!」


 彼は敵兵を薙ぎ倒した。遅れて彼を追ってきた兵が到着する。


「ユウナギ様、今すぐ兵と戻ってください!」

「わ、私……、私はっ……」

 また前方から敵兵の集団が迫りくる。兵らはユウナギを連れ戻そうと彼女を囲むが、彼女は狼狽し、短剣を振り回し暴れるのだった。


「兄様はっ!? なんで、私だけ!!」

 トバリに彼女の声などすでに聞こえるはずもない、命を懸け敵兵と対峙している。それを目にしユウナギは、短剣を手から落とし、震えで微動だにしなくなった。


 そこらに転がるのは、今の今まで生きていた人間の死体だ。気付けば自分も、殺意を持って人をめがけ矢を放った。私欲で人を殺めたら天に許されない、そういった価値観の中でずっと生きてきた。


 なのに今の自分は、ナツヒの元に行きたいというただの“私欲”で、邪魔者をなんのためらいもなく排除したのだ。恐ろしくて己自身から逃げ出したくて、震えてどうすることもできず、兵に守られ、目の前の殺し合いが視界の隅から隅へゆっくり流れるのを見ていた。


 それほど時もかからぬうちに、こちらが数では不利な側にあったが、ユウナギを抑えていた兵らも加勢し、向かって来ていた敵全部を打ちのめした。

 多勢の敵をし、気迫で立ち続けたトバリは、傷から血を流しながらユウナギに振り向いた。


「兄様……血が……」

「お願いです……。ナツヒが心配なら、私が行きます。あなたは今すぐ、戻……」

「兄様!?」


 彼はユウナギの肩に倒れ込んだ。


「早く……さもないと……次……」

「兄様!!?」

 顔の血の気がどんどん引いている。彼は複数を相手取った時、背面を斬られていた。それは短甲をも破り、彼の背に傷を入れた。


 ユウナギの心のうちはここで、冷静と混乱とに二分する。しかしその両者が求めた。本陣に戻るという選択しかあり得なかった。




 数の減った兵らに命じ彼を運び、本陣に着いたら彼女は彼らに頭を下げた。

「お願い! 私と彼を荷車で運んで!! この中でいちばん、力の強い人……一歩でも遠くへ、私たちを……!!」


 ユウナギは、トバリの背からの出血が止まっていないことに気付いた。その血に触れて初めて、彼を逃がすために何ができるかを考えるようになった。結局、彼を失う覚悟など、これっぽっちもできていなかったのだ。


 元々その役目を命じられていたという、見るからに精強な者が名乗り出た。他の兵らも、命を賭して敵兵を食い止めると、女王に各々声を掛ける。ユウナギは狭い荷車の中でトバリを抱きしめた。


 トバリは薄れゆく意識の中で、最初からこうしていれば、もっと早く彼女をここから遠ざけることが出来ていただろうか……などと、今更言っても仕方のないことを、ただ、思っていた。

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