第128話 今ひとたびの……
その刹那、ふたりはただ見つめ合った。
しかし、いたたまれなくなったか、トバリは顔を背けた。
「……いけません」
「どうして!?」
「…………」
ひとこと拒絶され、目の前が暗然となる。彼女は高ぶる心を抑えようと一息ついて、説得のためまた口を開いた。
「あなたの妻になって死にたい。そうしたら、生まれてきた意味を感じられるんじゃないかって。生まれた意味を知れば、きっと死も怖くない。生にも死にも、自分なりに意味が欲しいの」
彼には今まで散々駄々をこねてきたが、これが本当に最後だ。思いの丈をぶつけ、必死で食い下がる。
それでも彼は、目を伏せた。
「私にあなたは抱けません……」
このような時に彼女を悲しませて終わるのは、当然悔やまれた。彼もできることなら、彼女に優しくささやき、朝まで、ただ大事に撫でていたかった。
「なんで!? もういらないのよこんな力! ……それとも、私ではだめ? あなたの最後の女に、私は不相応ってこと?」
彼は首を振った。
「私にはあなたを守る力がありません。戦場で最後にあなたを守る力があるとすれば、それは神の温情のみ。私は祈り、神に託すしかないのです。あなたの命運を」
ユウナギは衝撃を受けた。この期に及んで彼はまだ、自分を生かすことを考えているのだ。
「私は生き残るつもりはないわ。そんなことあなただって分かっているでしょう……」
彼の固い意思を、揺り動かす言葉が見つからない。今までだってろくに彼を説得できたことなんてない。それが悔しくて、堪えるつもりだった涙がまた落ちる。
トバリは彼女の涙を拭いながら、その切なる思いを伝える。
「それでも、たとえほんの僅かでも、私はその可能性に縋るしかない。あなたが神の力を失わない限り、希望は皆無ではない」
しかし彼女のとめどなく零れる涙は仕方なく、次は手にそっと触れた。
「嫌よ。都合のいい夢はみないで。そんなあてのないものに賭けられて、夢も叶わず私は死んでゆくの? 子どもの頃からずっとずっとあなたを想ってた。あなたと出逢えた証に、一夜でいい、抱かれたい。今の私には、それ以外の希望なんてない」
「都合のいい夢だと分かっています。それでも、これが私の信仰なのです。私のために生きてください」
「無理よ……」
「あなたは生きて、なんとしてでも生き延びて、あなたの夢を叶え幸せに生きてください。それが私の唯一の希望です」
「そんなのとんでもない重荷だよ! 私だけ生き延びたって、どんな夢も叶いっこないのに!」
彼は握っていたユウナギの手を離し、立ち上がる。そして以降は振り向かず、静かに自室を後にした。
そこには向かい合う確かな想いがあるはずなのに、それが譲れぬ深い想いであるほど、本来なら己よりも相手を思いやりたいふたりが、穏やかな着地点に降り立つのは不可能だった。
ユウナギはしばらくその場で、拒まれた恥ずかしさと、愛されることを知らずに死にゆく自分への憐憫で、泣きわめいていた。
明け方、彼女はふらふらと敷地内を歩いていた。少しは寝入ったはずだが、泣き疲れて目も口も痺れた感覚がある。きっと今の自分は見れたものではなく、すぐにも顔を洗いたくて小川に向かった。
「ユウナギ?」
顔を洗っている真っ最中に、後ろから声をかけてきたのはナツヒだった。どうやら偶然のようだ。彼はここで出くわして少し驚いている。
「!」
また更に驚いた。振り向いたユウナギの目が腫れに腫れて形容し難い面貌になっている。
「ナツヒ……」
彼女の身に何があったかは不明だが、彼も時間にそう余裕がない。よってすかさず確認する。
「ちゃんと兄上に話したな? 今日中に中央を出られるんだよな?」
ユウナギは衣装の大袖で顔を拭いながら、彼の問いに答える。
「兄様に……拒まれた……」
「は?」
ナツヒの顔に不審の色が浮かぶ。
「そんなわけないだろう。兄上がお前を連れて逃げるのを……」
彼のその物言いを遮り、ユウナギは叫んだ。
「抱いてって言ったの!!」
「…………?」
目を丸くするナツヒ。
「死ぬ前に、妻にしてほしいって頼んだ……。一度で良いから、死ぬ前に、女として……」
枯れたはずの涙がまた溢れてくる。
「でも断られた……どうしても、だめなんだって……。私はこれで本当に、生まれてきた意味もなく……」
その声はだんだん小さくなっていったが、
「愛される幸せを刻むことなく生を終えるの!」
ついには高ぶる感情任せに声を荒らげた。
彼女は嗚咽でこれ以上言葉が続けられなくなった。ナツヒにしてみたらどうしてそんなことになっているのか問い詰めたいところだが、もはやふたりがここから逃げるのは叶わないと察した。それで十分だ。
「そうか」
言葉にしたら余計に惨めでユウナギは、恥ずかしくて逃げ出したくなった。彼の前だからか、まだ甘えた気持ちで泣き続ける。
そんな彼女に、隣でしゃがむ彼は言葉をこぼした。
「俺が抱いてやれればよかったんだが、そういうわけにもいかないもんな」
今までならまず見せたことのない、彼の思いやり溢れる表情を、ユウナギは伏しているので目にすることができない。
ナツヒは立ち上がり、元居たところへ戻って行ってしまった。この昼過ぎに彼は、ここを出なくてはならない。
ユウナギは顔を上げた。彼はとっくに存在しないが、振り向いて尋ねた。
「……今ナツヒ、なんて言った?」
そこでやっと気付いた。これが彼との最後の時間となるだろうことを。
今度は彼に対して急速に、羞恥の感情が湧き上がってきた。死地に向かうというこんな時に、自分は何を言っているのだろうと。思いやる言葉を彼に何一つ告げず、自分の事ばかり。苦しいのも怖いのも自分だけではないのに、これほど情けないことはない。
もう一度話したいと慌てて一の隊の集まるところへ走って行ったが、そこの兵らに、彼はまだ来ていない、きっと寝ていて、出立の直前までここには来ないのではと言われる。ユウナギはすごすごと自室に戻った。
ただその後、兵らに物を言づけようと、そこにまた帰り来た。
太陽が真南に昇った頃、ナツヒが兵舎の前に姿を現す。ここで彼の元に、先ほどユウナギに頼まれていた兵が来た。
女王からだと小さい包みを渡されて。彼がその布を開くとそれは、小さく揺れる鉄の針のようなものが置かれた小箱だった。なんだこれ? と、小箱の側面を2本の指で摘まんでかざし振ってみた。針はそれでも落ちてこない。
そして目線をふと下にやると、そこには小さな紙切れが。うっすらと葉の跡が付いているその白い紙には、たった一言、『生きて』と記されていた。
ナツヒは少しの間それを見つめ、そして胸元にしまい、勢いよく馬に跨った。
その頃、その辺りでいちばん高いやぐらに上りユウナギは、ナツヒの隊が中央を出ていくのを見ていた。ただずっと、何を思うでもなく見つめ、見えなくなったらゆっくりと降りた。
するとそこに、トバリが迎えに来ている。
「兄様……」
彼はまだ申し訳なく思っているのだろう。彼女を探しに来てはみたが、何も言葉をかけることができない。結局、言葉を投げかけたのはユウナギの方だった。
「もう、言わないから。あなたの信仰を侵すようなことは、決して。だから、今夜はふたりきりで、共に過ごしましょう。絶対、何も……しないから!」
ユウナギの目はやっと少し腫れが引いたのだが、また泣き出しそうだ。彼はそんな彼女に歩み寄った。
「ねぇ、私が中央に来た頃のことや、私が幼かったせいで覚えてないたくさんのこと、私を育ててあなたが感じたこと、何でも、いっぱい話して。朝まで……」
「私もあなたと出会ってから、あなたの記録をたくさん、山ほど書き記したのです。それが歴史に残ることは、もうないと思いますが……。私の記憶を永遠に……」
ユウナギも彼の目の前に歩み寄った。
「あなたの中に、しまっておいて欲しい。時の許す限り、思い出を語り合いましょう」
そして頷いて、子どものように彼の腕の中に飛び込んだ。
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