第105話 女王命令により彼は私の口づけを拒めない

 下山途中、ユウナギはふたりにぼそっと呟いた。

「どうにかならないのかな。これ」

「みんな祟りのことを恐れているんでしょうね」


 ユウナギもその類は人一倍恐ろしいものなので、強くは言えない。しかしそれを一部の者に押し付け、見ないふりをするのは間違いだと思う。

「そんなの違いますよね」

「!? サダヨシ、心読んだ?」

「顔に出てました」


 彼女にはどうにもできない。このむらの人間ではないし、この時代では権力者でも何でもないのだ。

「こういう時は権力者になりたいって思うわね。ねぇサダヨシ?」

 ユウナギは意味ありげな表情で彼の顔を覗き込む。サダヨシは知るはずもないが、ナツヒには分かる。これは彼女が無茶を通そうとする時の顔だ。


「兵士でもなんでもいいけど、とにかく影響力のある人物になるのよ。邑の人たちと、山の男たちのために!」


 サダヨシは、あれ、自分の思うままにやってみるのがいいって言ってませんでしたかね、と思った。


「父君が役人だからっていうことではなくて、みんなに心から頼られて、期待を寄せられる力のある大人に、あなたがなって」

「僕なんて、無理ですよ」

「そんなことない。あの水害対策の穴だって、完成して役に立った時、みんなあなたを認める。もう第一歩を踏み出してる!」

「…………」


 ナツヒの背中のサダヨシは、思いがけず嬉しくなったようだ。照れ隠しで顔をうずめた。


「ナツヒさんはどうして兵士になったんですか?」

「俺は、物心ついた時からそれしか道はなかったというか」

「物心ついた時から強かったんですか! いやもう先ほどのナツヒさん、すごくかっこよかったんですよ!」

 機嫌の良いサダヨシは全部ユウナギに報告したい。


「砦に駆け込んだ時なんて、『俺の女はどこにいる!』なんて勇ましく!」


 ナツヒは噴き出した。


「言ってねえよそんなこと!」

「あれ、そうですか? じゃあ、かしらをやっつけた時の『俺の女を返してもらうぜ』という捨て台詞ですかねいちばんは!」

「言ってねえ! 脚色するな!」


 ナツヒはユウナギがじっと見てくるような気がしてしまったので。

「それは、あっちが“お前の女”とか言うから、“俺の連れ戻しに来た女”って意味で……」

「…………」


 しどろもどろに言い訳する彼は放っておき。ユウナギはサダヨシに、

「その暗闇の中ですらキラキラした目で、ナツヒをそんなに褒めないで……」

と、明後日な方向のつぶやきを漏らした。

「「?」」

「なんとなく……」


 その頃、集落まで下り着いた。もう夜明けが近い。サダヨシ家族の屋敷の庭で、大勢の男たちが集まっている。そこで3人は「戻りました、お騒がせしました」と頭を下げてまわり、みな安堵して各々家へ帰っていった。


 なにはともあれ、長い歴史の中でユウナギが、“さらわれて下界に帰ってきた初めての娘”となったようだ。




 ユウナギもナツヒもそれから熟睡し、正午も大分過ぎた頃に起きてきた。食事をもらってそれから散歩に出たら、そろそろ日暮れ時だ。


 ふたりは川沿いの土手に腰を降ろし、赤々とした陽の落ちるのを見ていた。

「……悪かったよ」

「ん?」

 急に謝られても、ユウナギには何のことやら。


「お前にしたこと……」

「私を押し倒して犬のように噛みつこうとしたこと?」

「犬とは何だ! ……まぁそれもだけど。……あのむらで怒鳴ったこと……」

「ああ」

 彼女はわりともう忘れていた。


「俺、これでも一応、反省して……」

「兄様に、ナツヒは後になって自分を恥じてるって言われたから、分かってるよ」

 そこで兄を出してしまうユウナギだった。


「でも有無を言わさずやられるって腹立つでしょ!」

「ああ、よ――く分かったよ」

 ナツヒはやはり決まりが悪そうだ。しかしこれでやっと仲直りである。


「でもあれで、あんなふうに吸われても、禁を犯すことにはならないって知ることができたんだ。実はよく分からなくて」

「ん?」

「男の人と結局どうしたら交わったことになるの? 身体に口付けられて、しかも跡付けられても別にいいなんて……」


 ナツヒは、なんだか話が妙な方にいってないか? と感じた。

 実はユウナギ、先代女王にかつて話された“異性との交わり”の実態がぼんやりしている。彼女にとってのそれは、“漠然とした身体の交流”である。


「やっぱり私の口を男の人に付けちゃだめ、なのかな?」

 そして彼女の感覚で唇は、聖域のような、特別な身体の部位なのだ。これが異性と触れたりなどしたら、もうどうにかなってしまうのではないか、と期待している面もある。そんな彼女は独り言を続ける。


「試すのやっぱり勇気いるなぁ」

「試すってお前……」

 彼は考えるとそわそわしてくるのでこの話題を止めたかった。


「口どうしはさすがに心配だから、するなら頬ね。頬に口づけしてみよう」

「は?」

「大丈夫よ、こんなこと5つの子だってしてるんだから」

「5つでそんなことやってる奴いるのか?」

「試すから頭、動かないで」

「はぁっ?」

 ユウナギは思い立ったら自分の行動に疑問を持たない、彼もよく知っている。それには何の意味もなく、ただ彼女が思いついたというだけである。


「別に今じゃなくても……帰ってから兄上にでもやれば……」

「だって次の神隠しがいつか分からないから、結果が早いうちに分からないじゃない」

 ユウナギはナツヒの右横にぴたりとくっついた。


「……帰れなくなったらどうするんだ」

 俺が止められなくなって、とはもちろん口にせずだ。


「大丈夫。まぁでも万が一そんなことになったら、ここで生きていくしか」

 実は、運命の賭けに出たい気もしている。もし帰れなくなったら、未来のすべてが変わるのかもしれないと。


――――そんなことにはならなくて、未来はどうやっても変えられないのだけど。


「……それは女王命令か?」

 ナツヒがユウナギの目を見た。


「え? ……どういうこと?」

「女王の命令なら逆らえないから」

 ナツヒは合わせた目を逸らした。


「……なにそれ」


 彼の言葉にユウナギは、気持ちがさ―っと引いていくのを覚えた。思い付きで突っ走っていたのが冷静になれたとも言える。思い起こせば、頬にでも口づけするなど、以前の自分だったら考えられない。恋しい人にそれをもらえた時はすさまじい感動で、しばらく心が浮かんでいられたものだ。しかし、自分は特段変わっている気もしないが、確かに時は流れ、このあいだなど他人に首筋を吸われるなんてことも起こったのだ。経験してみると、これはやはり全身がそわそわして、なお熱くなってきて、「したい」ことのように思う。5つの子がするのとはきっと、理由わけが違う。以前より興味が湧いているのを自覚している。もちろん、相手は誰でもいいわけではない、はずだが。


 なぜだか急に、たった今。とにかく、したい。


 なのに今、目の前にいる彼にこのように言われてしまった。こんな、大人になる過程に誰もが経験するようなことでも、自分は命令を下さなくてはいけないのか。彼の言い様が頭の中で鳴り渡り、例えようのない苛立ちが押し寄せてくる。


「そうよ、女王命令だから。あなたに拒む余地はないわ」

「……分かったよ」


 ナツヒは少しあごを引いた。そして目線を向こうに持っていくのだった。そんな彼の横顔を見つめユウナギは、ナツヒの耳の下はやっぱり白い、と思った。そういえば彼の母も、色の白い綺麗な人だった。そういったことに思いをめぐらすと、胸がとんとん鐘を打ち始める。


 口先を少し尖らせてみた。そして顔をゆっくり寄せていき、もうあと少しで触れ合う、という時。


 ユウナギはあの感覚を得た。その強い風の冷たさと、速くて熱い胸の鼓動が、彼女の内側でせめぎ合う。


 そんな中で彼女は、彼の袖を右手できゅっと掴んだ。

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