第88話 吸い跡
ユウナギの鼓動はまだ速い。
「……どうしてあなたがここに? まさか私を助けに来てくれたの?」
しかしこんな出来事を、事前に察知できるはずもない。
「いや、俺はただ夜這いしに来ただけだが」
「夜這い? 誰を??」
「お前を」
「ん!?」
「だからそこに潜んでいたら、急にこんなことが起こるんだからな」
彼はあっけらかんと話す。
「……なんで他人の屋敷に、そんなあっさり忍び込めるの!?」
「俺に不可能の文字はない」
ユウナギは呆気に取られた。しかし自分の元にある死体をちらりと目にし、おずおずと声を発する。
「殺してしまったの……?」
「殺さなきゃお前が殺られてたぞ。それにこいつが連続娘殺しの下手人のようじゃないか」
「そうだけど……彼の言い分を聞いてから罰しても、良かったんじゃ……」
ユウナギのその言葉に、彼は鼻で笑った。
「他人に任せたら追及にどれほど時間がかかる? 本当に適性な裁きは下るのか? 他者を私欲で殺めた人間に生きる道理などない。むしろこんな楽に死ぬ権もないんだが。無為に殺された者の、無念以上の苦しみを与えられた後、悔いて死ぬべきだ」
人を斬った直後に、そうためらいなく語る彼を、ユウナギはこの上なく恐ろしく思う。しかしまったく理にかなっているとも感じる。猟奇的な人殺しにどんな言い分があるというのか。また、そんな悪人に更生の機など与えたところで、という話だ。口にはとてもできないが、犠牲者の無念などきっと際限はないのだから、「無念以上の苦しみを」、まさしくその通りだ――。
この男とは意思を共有している感覚がある。
「騒ぎになる前にここを出るぞ」
それでもユウナギは彼と共に行くことに物怖じした。
「俺が怖いか?」
すぐには答えられなかったが、それはないと思い及ぶ。これがナツヒであっても、ためらいなく殺しただろう。
「……いいえ。私、まだ動けなくて、連れていってもらえると助かるのだけど……」
その言葉を聞いたら彼は、すぐさま彼女を抱き上げ館を出た。
夜も大分更けていて、外に人はいない。彼は小屋で馬を調達し、ユウナギを乗せ森の中に入って行った。
「どうして森へ?」
草深い中でユウナギは不安になる。
「温泉に浸かりたい」
「明けてからでいいじゃない」
「やっぱり怖いのか?」
「夜の森を怖がらない人はいないわ」
「大丈夫だ。路も完璧に覚えてるし、ここはけものも出てこない」
彼が大丈夫と言うならそうなのだろう。今は彼の腕の中、否応なく身を任せるだけだった。
「ねぇ、本当はあいつが犯人だと分かってたから、潜んでたんでしょう?」
「いや、本当に夜這いなり朝這いなりを遂行しに」
「なにそれ……。まるで子どもを相手にするような態度だったのに。本当に女なら誰でもいいの?」
「まぁ女は淑やかな方が好みだが、お前も悪くない。俺と一緒に来い」
「はぁ??」
ユウナギはどうせまたからかっているのだろうと、無視を決め込んだ。そろそろ眠たくなってきたのもある。それからのふたりは無言を貫き、馬の蹄音だけが路にこだましていた。
彼が温泉の洞窟前に馬を止めた頃、ユウナギはすっかり寝入っていた。
「せっかく温泉に着いたのに入らないのか。まぁそりゃ今日も疲れたよな。舞いも見事だったしな」
なので起こされず、ゆっくり丁寧に降ろされ。
ふたりして大木の根元にもたれかかり、互いにもたれ合い眠ったのだった。
朝ユウナギが目を覚ましたら、そこは男の膝元だった。もちろん大慌てだ。
「ああ、朝か」
おかげで彼も目を覚まし、大きなあくびをする。そこで目の前の彼女が顔を赤くしてるのを、彼が見逃すわけもない。
「温泉入るか? 一緒に」
「またそんなことを!」
「まぁそれは冗談でもいいが、昨夜言ったことは本気だ」
「え?」
「俺のところに来いよ。家族、いないんだろ?」
意外にも、彼の目は情のこもったようである。それはユウナギにも伝わった。
「どうして、そんなこと……」
「やはり勘なんだが、お前は俺に近しいものを感じる、というくらいか」
彼女も実はそんな気がしないでもないと感じている。
「そ、そんな気まぐれで言われても、受ける気にはなれないわ。それに、私に家族はいないけど、待ってる人たちがいるの、私の帰りを……」
そこで言いながら立ち上がった彼女を追うように彼も腰を上げ、即座に彼女の手首を掴んだ。
そして一瞬にして引っ張られたユウナギは、その背を大木に押し付けられた。
「なにっ……」
「俺の
「っ…………」
彼女はその凄みを利かせた視線に声を失った。幾度かあったはずだが、この時初めて、彼を心の底から恐いと思った。その意志の強い目は、他者を縛り付けるには十分だ。何を盛られたわけでもないのに、動けなくなってしまっている。
そんな焦りを察したか、彼はそこでおもむろに、彼女の細い首筋に吸いついた。
「!!?」
ユウナギは何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
今まで感じたことのない、おかしな心地がする。唇で触れられている。舐められているのではなく、吸われているのだと感付く。妙な気分になるが、なぜだか悪くない。
「――――様! 探しましたよ」
ユウナギがそれをされるがまま、しばし呆けていたら、主を追って男がひとりやってきた。彼は木の陰に隠れたユウナギにそこで気付く。女性と一緒にいるのかと少々ためらったようだ。
声ではっとしたユウナギはその男を視界に入れた。それは初老だろうか、白髪交じりの長い髪の、落ち着いた外見の者だった。
「……あなたは……どこかで……」
その男の顔を僅かの間だが、しかと目に入れた時。ユウナギは感じた。あの、帰る予兆を。
彼女は掴まれている腕を全力で振り払い、急いですぐそこの洞窟へと走る。それをその場に残ったふたりは追ったのだが、彼らがそこに入った時、中にはもう何者も存在しなかった。
ユウナギが気付いたらそこは、同じ洞窟の手前だった。
知った処に戻ってまず安心する。時間はどれほど経過しているのだろう。
「ユウナギ!?」
「ナツヒ!!」
彼の声も姿も、心の底から嬉しくて、ユウナギはそそくさと彼に駆け寄った。ずっと心細かったのだ。
「無事か、良かった」
ナツヒもユウナギが無事で安堵した。しかし彼女の衣服がひどく破れている。彼は何があったのか聞きたかった。
「私、どれくらい行ってた? みんなに迷惑は……」
「問題ない。もうすぐ日が暮れる」
「日は跨いでないのね」
その時ナツヒは、ほっとしているユウナギの首筋に、赤いアザがあるのに気付く。
「お前、首のそれ……」
「えっ?」
ユウナギは一瞬目を丸くして、そして思い出し、そこを慌てて手で押さえた。更には急速に顔を真っ赤にするのだ。
「……どうしたんだ、そこ? 虫にくわれたのか?」
「え? あ、うん。そう。虫に……」
彼女は分かりやすく目を逸らした。
「なわけないだろ!? 何があったんだ!?」
「それは……。これは、別に……」
ナツヒは彼女が押さえて隠す手の、手首を強く掴んだ。
「いたっ……ナツヒ……なに」
彼のいつもとはまったく違う様相に、ユウナギは怯えだす。
「行った先でお前、何やってたんだよ……」
彼がまるで知らない人のようで、空恐ろしく感じる。こんな状況で何を答えられるわけもない。
「何やってたんだよ!!?」
ナツヒはその瞬間、我を忘れて叫んだことを自覚し、その場から足早に立ち去った。
「ナツヒ……?」
その後、代わりの兵が、ただ立ち尽くしていたユウナギを迎えにきた。
彼らは後日また移動の日を費やしたが、中央までの残り短いその間、まともに口を聞くことはなかったという。
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